学習通信030928
◎「生命を維持するための食事も最低限の偏ったものしか口にできず、貯蓄はおろか病院に行くことすらままならない」……
 
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 競争原理の行き着く果て
 
 では、遅くとも3年後には訪れる新「A」と新「B」以下とに二極分化した超階級社会とはいったいどんな社会なのか。
 これを実感としてイメージするにはまず、新「A」と新「B」以下(新「C」を含む)の、それぞれの構成比を大まかに把握しておく必要がある。私の予測では、新「A」と新「B」以下は、最終的には次のような構成比で振り分けられるものと思われる。
 
年収3億円以上の新「A」……………約1%
年収300万円クラスの新「B」……約6割
年収100万円クラスの新「C」……約4割
 
新「A」はとりあえず約1%となっているが、新「B」と新「C」を足して約10割なのだから、新「A」の「約1%」は「一振り」「ごく少数」などと言い換えてもいい。前著『シンプル人生の経済設計』で、「1%のスーパーエリートと99%の一般サラリーマンとに二極分化した中流なき超階級社会が出現する」と言ったのも、まさに右のような実態を比喩的に表現したものだ。
 
 この驚くべき超階級社会については、これを1つの企業、それも小泉改革が手本としている米英型企業に置き換えてみるとさらに分かりやすい。米英型企業にはもともと終身雇用や年功序列などの雇用慣行ほなく、社員の出世や賃金にも徹底した市場原理、競争原理が導入され、生産調整のための解雇も日常的に行われている。
 
 そうした米英型企業には、ごく少数の優秀な社員がいれば、残りは頭数さえそろえばいい、という基本的な考え方がある。そして、前者のごく少数の優秀な社員はせいぜい全体の1%程度にすぎず、彼らはファーストトラック(急行列車。急行列車のようにスイスイと出世する人たち)として、最後は年収3億円以上の超高給を手にする。
 
 その一方で、後者のうちの約6割、すなわち全体の約6割は年収300万円クラスの一般社員、残りの約4割は年収100万円程度のマニュアルワーカーとして、最低限の生活すらままならない超薄給に甘んじているのだ。
 
 イラク戦争で命をかけて戦った米国兵士の年収は180万円程度だと言われる。それでも彼らが兵士を志願したのは、単に愛国心ではなく、低所得という経済的背景がある。年収180万円でも、それまでよりましな生活ができるのだ。
 
 「努力した者が報われる社会」の欺瞞しかも、1%の上流階層とその他おおぜいの一般階層とに二極分化した超階級社会は、いったん出来上がってしまったら最後、その後はきわめて排他的な階層内での再生産が繰り返され、階層の壁を突き破ることはほとんど不可能になってしまうのである。
 
 たとえば、年収300万円クラスの新「B」 以下の家庭では、子供を私立の進学校に入れたり、学校以外の塾や予備校に通わせたりする経済的余裕はなくなる。子供に家庭教師を付けるなどは論外中の論外だ。
 
 その結果、新「B」以下の家庭に生まれた子供は偏差値の高い一流銘柄大学には入学できず、新卒入社の枠がますます狭くなる一流企業にも入社できなくなる。反対に、新「A」の家庭に生まれた子供は小さいころから十分な受験教育を与えられ、一流大学から一流企業へと進み、そこでまた出世を果たしていくのである。
 
 このように、目前に迫りつつある超階級社会は、上流階層はずっと上流階層のまま、一般階層もまたずっと一般階層のままという、99%の一般階層にとってほ悪夢としか言いようのない新たな差別社会である。
 
 そして、小泉改革のゴールもまた、日本をこのような超階級社会につくり変えることにある。「努力した者が報われる社会」「誰にでもチャンスのある社会」などという殺し文句が、いかに欺瞞に満ちたものであるかがお分かりだろう。
 
 ひたひたと迫る超階級社会
 
 にもかかわらず、大多数の日本人はこれまでの日本社会を根底から覆すこの大陰謀に、まったく気づいていない。気づいていないどころか、ハローワークに通うリストラサラリーマンまでが「構造改革は必要だ」「多少の痛みは仕方がない」などと、小泉改革にいまだにエールを送り続けている。
 
 もちろん彼らほ善良なる犠牲者であり、彼らに罪などないのだが、もうそろそろ目を覚ましていただきたいというのが私の偽らざる心境である。
 
 実は、この点に関連して、たいへん興味深いデータがある。
 内閣府広報室が実施している「国民生活に関する世論調査」の2002年の結果によれは、「生活の程度は世間一般から見てどの程度と思うか」との問いに対して、0・7%の国民が「上」、89・8%の国民が「中」、6・5%の国民が「下」(ちなみに、「不明」は3・0%)と答えている。
 
 実はこの調査は昔から行われており、1967年に中流が89・2%とはば9割に達して以来、9割の国民が中流意識を持つという構造は全く変化していないのである。
 
 「失われた10年」を経ていまなお続くデフレ不況、それも政府が自作自演しているとしか思えない政策不況のもとでも、9割もの国民が自分を「中流」だと感じているのには、正直、驚かされる。しかも、おそらくは、こう感じている国民の大半は、今後も自分が「中流」であり続ける、との漠たる希望的観測を抱いているものと思われる。
 
 しかし、すでに指摘したように、近い将来、「中流」は日本の社会からことごとく消滅し、わずか1%の上流階層と99%のその他おおぜいの一般階層とに二極分化した、超階級社会が出現するのである。
 
 先の「国民生活に関する世論調査」で言えば、「上」と答えた0・7%だけが上流として生き残り、「中」と答えた89・8%がはば全滅の形で新「B」以下、つまり年収300万円クラス以下の一般階層に転落することになるのだ。あるいは、「下流」と答えた6・5%からも、現状を下回る生活を余儀なくされる人が出るかもしれない。
──略──
 
 自由気ままなようだが不安定な「C」
 
 しかし、「Bで生きる」ためには、間違っても新「A」になりたいなどと考えてはならないということのほかに、もう一つ、注意しなけれはならない重要なポイントがある。
 それは、いかに高望みはするな、身の丈に合った生活をとは言っても、新「C」にまでは転落してはならないということである。
 
 新「C」は一部の派遣労働を含めたパートやアルバイト、いわゆるフリーターなど非正社員として働く年収100万円以下の人たちである。金持ちの親や配偶者やパトロンなどがいれば話は別だが、実際、新「C」の年収で自立した生活を送ることはきわめて困難と言っていい。年収100万円と言えば月収にしてわずか8万円強だから、たとえば東京で風呂なし、トイレ共同という家賃4万円のアパートで1人暮らしをしたとしても、食費や光熱費などを差し引けば、自由になるカネは月1万円がせいぜいである。
 
 生命を維持するための食事も最低限の偏ったものしか口にできず、貯蓄はおろか病院に行くことすらままならない。ちょっとした生活条件の変化でたちまちホームレスに転落してしまう危険性も高く、たしかに新「B」と比較しても自由で気ままではあるのだが、リスクの大きさを考えれば本質的には不安定かつ不自由きわまりない境遇である。
 
 ましてや新「C」で家族を養い、人間的な生活を送ることなど、はとんど不可能と言っていい。
 実は、この新「C」は、考えられているよりも数は多く、同じ条件にある旧「C」は現在でも労働力の約3分の1を占めている。ただ、いまのところ、彼らが若年層だったり主婦だったりするため、問題が表面化していないだけだ。
 
 今後、シングル化が進み、フリーターが高齢化してくるなかで、うかうかしていると「中流」から新「B」どころか、一気に新「C」にまで転落しかねないのである。
 
 したがって、来たるべき超階級社会においては、新「A」になりたいなどと不毛な高望みをしないとともに、間違っても新「C」には転落しないという心構えが不可欠となる。
 
 そのための哲学と行動については第二章以降で詳述するが、なかでも後者の条件は「Bで生きる」ための要諦(ようてい)となる最重要ポイントなので、くれぐれも肝に銘じておいてもらいたいのである。(p33-35)
(森永卓郎著「「B」で生きる経済学」中公新書ラクレ p23-35)
 
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今日の勤労者・労働者の状態はどんな特徴があるか   小越洋之助
 
 ●生活不安は極限に達しつつある
 
 勤労者という言葉は、労働者はもちろん農業従事者や自営業者も含みますが、その勤労者・労働者が、九〇年代以降、とくに九〇年代の半ば以降の市場原理主義あるいは新自由主義の政策、つまり弱肉強食政策の影響をもろにかぶっています。その結果、ごく少数の勝ち組と大多数の負け組が発生してきて、貧富の格差が膨大に広がっていく社会になっていると思います。
 
 とりわけ最近の特徴は、まじめな中小零細企業の経営者、あるいは自営業者や農業従事者が深刻な経営危機になっている。倒産・廃業・営業不振、あるいは生活の困窮という特徴がさまざまな形であらわれています。市場原理主義者たちはよく「努力する者が報われる社会」と言います。
 
しかし現実を見ますと、「努力しても報われない社会」に変わってきているのではないか。労働者はもちろんのこと、国民諸階層を含め、市場原理主義政策の痛みが広がっていると思います。
 
 何が問題になっているかというと、当面の暮らしをどうしのぐかという問題と将来への不安が二重に顕在化しています。この二つが国民諸階層に共通に降りかかっています。失業・ホームレス、自己破産、自殺、離婚、犯罪の多発などいろいろな社会問題が顕在化していますが、生活破壊や家庭崩壊も含めて日本社会が非常に不安定になってきている、そういう特徴があると思います。
 
 私は昨年、調査で地方をまわってきましたが、どこでも不況が深刻化しており、国民の消費需要の不足から地域住民がたいへんな生活難になっていることをつぶさに感じました。雇用問題では、とくに中高年の雇用不安が顕在化しております。求人があっても、求人の質が悪くなっていて、賃金も低いという状況です。それから自営業者とその家族、農業従事者の経営難と生活難が顕著になっています。地域経済、地域社会の衰退が著しい。
 
 もう一つは、生活の安全保障装置が破壊されてきていることです。税金や社会保険料を通じた大収奪の問題があります。社会保障、教育・福祉への市場原理の導入・民営化が進められ、その水準が切り下げられる一方、年金のたび重なる引き下げなど国家が国民との契約をみずから放棄している。こうして、さまざまな形で生活の安全保障装置が破壊されてきています。そのため、政府への不信が広がり、国民は将来不安から貯蓄に依存するか、貯蓄のできない層は生活費を補うためにサラ金に手をつけるなどの悲劇も生まれているのです。
 
 労働評論家の矢加部勝美氏は、「市場経済中心優先主義、企業繁栄策の行き過ぎによって、働く労働者と国民の生活不安は、いまや極限に達しっつある」(社会経済生産性本部「労働時評」二〇〇三年六月二五日)と書いていますが、まったく同感です。
 
 ●「ニッポン労働破壊」の進行
 
 労働者の状態はどうかといいますと、表現はともかく「ニッポン労働破壊」が進んでいると思います。「ニッポン労働破壊」の指標を申し上げますと、第一は、何といっても雇用の問題です。これは雇用の不安と「雇用の劣化」という特徴があります。
 
 <雇用不安の高まりと 「雇用の劣化」>
 
 財界の雇用政策をフォローしますと、九〇年代の半ば頃に政策転換が行われています。よく引き合いに出される、一九九五年五月に出された日経連の「新時代の『日本的経営』」がその転換を示していますが、その一年前に経済同友会が出した「個人と企業の自立と調和」のなかで、長期安定雇用が転社・転職を不利にさせ、共同体意識が行き過ぎ、「もたれ合いの関係」があるという批判をしています。
 
そして生活のすべてを企業に委ねない「個人の自立」を強調し、雇用の安定は「一企業のなかでの安定でなく、日本社会のなかでの安定を考えること」という表現が出てきます。いわゆる終身雇用維持政策は、雇用の流動化政策に転換して、解雇、退職、転職の奨励という形での雇用の政策転換が行われたのです。
 
 それと軌を一にしたように、九〇年代半ば頃からリストラが激しくなり、九〇年代の終盤からは、さまざまな形の企業組織の再編が展開しています。企業合併、アウトソーシング、持株会社の公認(一九九七年)、産業再生法の成立(一九九九年)、あるいは民事再生法施行(二〇〇〇年)を利用した営業譲渡、会社分割法・労働契約承継法(二〇〇〇年)などと関連して、解雇や転籍が横行しました。
 
希望退職の募集、あるいは早期退職の募集が一般化して、雇用調整、雇用の流動化が露骨な形で進められました。これは、「企業の社会的責任を放棄したリストラの公然化」です。
 
 その結果どうなったか。数字ではっきり出てくるのは失業率です。二〇〇三年五月の完全失業率は五・四%、完全失業者数は三七五万人です。二〇〇二年の年平均失業率は五・四%、完全失業者数は三五九万人。「非労働力人口」のうち、就職の意欲がありながら「適当な仕事がありそうにない」ため求職活動を行っていない人は二〇七万人(二〇〇三年一〜三月平均)ですから、実質的失業率は八%にのぼります。
 
 しかもそのなかで、長期失業者が激増していること(失業期間一年以上は三割を超えている)や、「収入なし」の失業者が多いこと (一七二万人・四九%=総務省調査二〇〇二年)も特徴です。こういう雇用情勢の悪化が顕著になってきているのが特徴です。
 
 とくに私が強調したいことは、「パート・アルバイト一五〇〇万人時代」といわれるように、パート・アルバイトが激増していることです。総務省「労働力調査」〔二〇〇二年一〇月〜二百平均〕によると、非正規労働者は一五一〇万人で雇用労働者に占める割合は三〇・五%になる。内訳はパート七四七万人、アルバイト三六四万人、派遣・契約・嘱託など四〇九万人となっている。
 
 なかでも派遣労働者は、今年六月に労働者派遣法の改定が行われて、派遣期間が一年から三年に延長され、製造業への派遣も公認することになりました。派遣労働者はすでに二〇〇一年で約一七五万人になっていますが、これからますます増えるでしょう。
 
 とくに、従来は、派遣法の綱をくぐって、請負の形をとった「偽装派遣」が広がっていて、大問題になっていました。製造業の七削が業務請負会社からの派遣社員を活用していると言われています(人材派遣協会調査)。生産変動に伴う人員調整の容易さと常用雇用対比で三分の一といわれている容い人件費が、請負会社からの派遣を使う魅力となっていますが、これが公認されることになった。
 
五年から一〇年ぐらい前までは、高卒の労働者は正社員として製造業(現場労働者)に就職できたのですが、いまはそれが、業務請負型の労働者に置き換えられている。高卒の就職先がなくなってもいるのです。
 
 総じていえば、「雇用形態の多様化」は「雇用の劣化」と同義となって進行しているのです。
 
 <賃金引下げと低賃金層の構造的定着>
 
 賃金の問題では、組織労働者にべアを認めないばかりか、定昇廃止の攻撃がかけられています。これは、人事院勧告に反映して公務員労働者の賃金もマイナスになるという事態となっています。そして、成果主義賃金が盛んに導入される。若い労働者に一年契約の年俸制社員が登場する、ということも生まれています。こういう、いわゆる正社員に対する賃金抑制、賃金引き下げ攻撃が激しくなっていることが大きな特徴です。
 
 同時に、非正規労働者において賃金の低い労働者が増大していることも重要な問題です。たとえば派遣労働者全体の平均年収は二三九・五万円(二〇〇一年九月)であり、そのうち「事務機器操作」労働者は二〇四・七万円といわれています。今後、正社員の派遣労働者への代替が加速化すると、この数字の意味が重くなってきます。
 
 また、請負労働者の賃金は、寮費を差し引くと「手取り一〇万円もいかないこともザラ」とか、夜はスナックでアルバイトをしているという状態です。しかも、社会保険の現業スタッフ加入率が低い、「業界平均は三〜四割がいいところ」だと言われています(『週刊東洋経済』二〇〇二年三月二八日号)。
 
 こういうなかで日本の最低賃金の水準はどうかといえば、加重平均では六六四円ですが、東京の七〇八円から沖縄の六〇四円まで、地域的な格差があります (六〇五円は青森、岩手、秋田、山形、佐賀、長崎、宮崎、鹿児島。六〇六円は熊本、大分。最低賃金違反もあります)。
 
 国際比較でみますと、「製造業、フルタイム中位所得、時間額、ボーナス込み」に対して、日本の最賃は三〇・八%で、フランス(五七・四%)、ベルギー(五〇・四%)、オランダ(四九・四%)などには遠く及ばず、カナダ(三九・六%)やアメリカ(三八・一%)よりも低いのです。
 
 このような低い水準でありながら、地場のなかのタクシー運転手などは、不況と過当競争のなかで仕事がなく、この水準よりも低い労働者も出ている状況です。
 こうしていま、正社員でも「年収三〇〇万円時代」といわれるような事態になり、派遣社員、パート、アルバイトなどは年収二〇〇万円時代、あるいは一〇〇万円台の人が生まれるような事態になっています。
 
 これは深刻な社会問題です。つまり日本の低賃金水準が恒常化して、階層構造が固定化していくという状況になっていると、私は考えます。
 
 <労働時間の延長、過労自殺、労働時間概念の解体>
 
 次に労働時間の問題ですが、裁量労働制の規制緩和がさらに進められました(二〇〇三年六月)。裁量労働がホワイトカラーに一般化される状況になってきていますが、この裁量労働制はさまざまな弊害をもたらしていて、過労死、あるいは過労自殺の問題が出ています。
 
 それから業務請負業で、ものすごい過度な労働をした結果、在職中死亡という例もありました。あるいは過労自殺という問題もある。こういう問題が今大変深刻になってきていると言わざるを得ません。
 
 また、「過労死」や「過労自殺」にいたるケースでは、一ヵ月の時間外労働が、一四〇時間を超える(三五歳男性)、一五一時間(三二歳男性)、三カ月にわたる長時間労働(飛び降り自殺の三四歳男性)という、想像を絶する長時間労働がすすんでいるのです(社会経済生産性本部「労働時評」二〇〇三年六月二五日)。
 
 (若者の将来不安をどうするか)
 
 私が強調したいことは、雇用、賃金、労働時間の問題は、いずれも今の若い世代に共通に降りかかっており、この若者の人生をどうするのか、日本の将来をどうするのか、という問題です。
 
 失業率は、青年層がずば抜けて高くなっています。高卒、大卒の就職率が低くなっていますし、フリーターが増えています。二〇〇三年版『国民生活自書』 によると、フリーターは一九九〇年の一八三万人から四一七万人(二〇〇一年)に、二・二八倍に増えています。大卒フリーターの比率は三割をしめ、「正社員を希望しながらフリーターにならざるをえなかった者」は七割となっています。
 
 こういう人たちをいったいどうするのかということです。雇用は不安定であるし賃金も低い、しかも将来の展望もないという、こういう若者たちを日本の支配層は政策的につくつてきた。それが「新時代の『日本的経営』」によって生み出されてきているということを強調しておきたいと思います。
(月刊経済 2003.10月号 p14-18)
 
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 ある個人が他の人の身体を傷つけ、しかもそれが被害者の死にいたるような傷害であるなら、われわれはそれを傷害致死と呼ぶ。
 
もし加害者が、その傷害が致命的となることをあらかじめ知っていたら、われわれはその行為を殺人と呼ぶ。
 
しかし社会が、何百人ものプロレタリアを、あまりにも早い不自然な死に、剣や弾丸によるのと同じような強制的な死に、必然的におちいらざるをえないような状態においているとすれば、
 
またもし社会が何千人もの人から必要な生活条件を奪いとり、彼らを生活できない状態におくとすれば、
 
またもし社会が、法律という強大な腕力によって、彼らを、こういう状態の必然的な結果である死がおとずれるまで、こういう状態に強制的にとどめておくとすれば、
 
さらにもし社会が、これら何千人もの人がこういう状態の犠牲となるに違いないことを知りすぎるほど知っており、
 
しかもこれらの状態を存続させているならばそれは個人の行為と同じように殺人であり、ただ、かくされた陰険な殺人であり、誰も防ぐことができず、殺人のようには見えない殺人である。
 
というのも、殺人犯の姿が見えないからであり、皆が殺人犯でありながら誰も殺人犯ではないからであり、犠牲者の死が自然死のように見えるからであり、そしてこの殺人は作為犯というよりは不作為犯であるからである。しかしそれはやはり殺人である。
 
私はこれから、イギリスでは、イギリスの労働者新聞がまったく正当にも社会的殺人と名づけたことを、社会が毎日、毎時間、犯しているということ、社会は労働者を健康のままではいられず、長くは生きられないような状態においていること、こうして労働者の生命を少しずつ、徐々に削りとり、そして早ばやと墓場へつれていくことを、証明しなければならない。
 
さらに私は、こういう状態が労働者の健康と生命とにどんなに有害であるかを、社会は知っており、しかもこの状態を改善するためになにもしていないということも、証明しなければならない。
 
私が傷害致死の事実の典拠として公式文書や議会や政府の報告を引用することができるなら、社会がみずからの制度の結果を知っており、したがって社会のやり方はたんなる傷害致死ではなく、殺人であるということは、それだけですでに証明されたことになるのである。──
 
 *私は、ここでも、ほかのところでも、社会という言葉を、それ自身の権利と義務をもつ責任ある全体という意味で使うときには、自明のことであるが、社会の権力のことを意味しており、それは現在、政治的社会支配権をもち、それと同時に、この支配にまったく加わっていない人びとの状態にたいして、責任をもつ階級を意味している。
 
この支配階級は、他のすべての文明国と同じように、イギリスではブルジョアジーである。しかし、社会、とくにブルジョアジーには、社会の全成員の少なくとも生命を保護し、たとえば誰一人餓死しないよう配慮する義務があること──この原則はわがドイツの読者にはあらためて証明する必要はない。もしイギリスのブルジョアジーにむかって書くとすれば、当然違ってくるだろう。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-上-」新日本出版社 p149-151)
 
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◎「生命を維持するための食事も最低限の偏ったものしか口にできず、貯蓄はおろか病院に行くことすらままならない」。この日本の現実は、エンゲルスの指摘する「社会的殺人」そのもののように思います。
 
◎小泉首相は3年。森永氏の3年後の日本……。労働学校の対象者あたりが広がっています。社会に無関心な仲間に広がっています。その仲間の未来がこんなにもヒドイ状況になることが予想されていることを私たちは話さなければなりません。「社会的殺人」に加担しないためにも……。