学習通信030929
◎お金、ブランド……自分の中核がないという思いにとりつかれていたダイアナ
 
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 もちろん、そうは言ってもダイアナは、王室という権威の中の人間になったからこそ、あれほど贅沢な生活を送ったり、多くの人たちの注目を集めたりすることができたということは、たしかです。もしダイアナが皇太子と結婚することなく、「かなり美しい貴族の三女」のままであったら、一回のチャリティー・パーティで何百万円もの寄付を集めるような存在にはなれなかったでしょう。
 
BBCのインタビューに答えて、彼女は「私は人々のこころの王妃になりたいのです」と語りましたが、これだって一度、本当の皇太子妃になったからこそ、言えるセリフです(ふつうのOLが突然、「これからはみんなのこころの王妃になるからね」などと宣言したら、どう思われるでしょう?)。彼女は何だかんだ言っても、うまく皇太子妃というブランドを利用した〜。そう思う人も少なくないはずです。
 
 また、ダイアナがいわゆるブランドもの″Dきというのも、だれもが認めるところです。ふつう、皇室や王室のメンバーというのは、「いかにも質はよさそうだけど、どこのブランドかわからないもの」を着たり、持ったりしがちです。いくら、「二子山親方の一家って皇室みたい」と言われても、景子さんや美恵子さんの持っているバッグはエルメスであったりグッチであったり、とすぐに同定可能です。
 
ブランドに全然、興味がない人には一〇〇〇円のビニールバッグもプラダも同じに見えてしまうかもしれませんが、逆にちょっと目利きの人なら、「これは何年に出た何というシリーズで値段はいくら」というところまでピタリとあてられます。この「わかる人にだけはちゃんとわかってもらえる」というのが、ブランドの価値だといえます。
 
ブランド好きの女性はよく、「つくりが頑丈で一生モノだから、たまたまヴィトンを持っているだけです」と言いますが、もし本当にそうなら、買い替え″の必要はほとんどないはずです。それなのに彼女たちは、新作モデルが出るたびに雑誌でチェックし、海外旅行先などで真っ先にそれを手に入れようとします。
 
これは、「私の持っているのは最新作」という要素も、ブランドものが発する重要なメッセージのひとつになっているからです。
 
 ところが昔から、「本当にいい家柄の子」とかその頂点にいるロイヤルファミリーは、洋服やバッグのブランドにほとんどこだわらない、と言われます。それよりも彼らが大切にするのは「自分を個人的によく知っている信用のおける職人が作った」ということであったり、「真に良質で長持ちする」ということであったりします。
 
だから、ファッション性や流行感覚はどうしても二の次になり、「あのスーツ、一〇〇万円にも見えるし三万円にも見える……。あの半端なスカート丈はなにをねらっているのかよくわからない……」というともすれば野暮ったいスタイルになってしまうのです。
 
つまり、身につけるものが「私はこの値段のものを買えるほどリッチ」「私はスカート丈をこんなに短くするほど斬新」とメッセージを発したり、見る人に意味を与えたりしては、いけないわけです。もちろん、その裏にはロイヤル″名家″といったこれ以上ないメッセージがあるからなのかもしれませんが、とにかくそれ以外の部分では自分のルックスやファッションから極力、意味性を消していく──。それが、本来の高貴″のあり方であったはずです。
 
 ところが、ダイアナは少し違いました。独身時代や結婚当初こそ、どこの既製品かオーダーメイドかもよく見分けがつかないような、やや時代遅れのチェックや水玉のワンピースなどもよく着ていましたが、そのうちもっとモードつぼい@m服をどんどん着るようになりました。
 
その中には、「これはヴェルサーチのドレスね」「シャネルのバッグだ」と明らかに身元≠フわかるものも少なくありませんでした。洋服や装飾品に限らず、バカンスのすごし方のリッチさやエルトン・ジョンなどの著名人と親友づき合いをするところ、離婚後のボーイフレンドはすべて大富豪、などという点を見でも、彼女はかなりの一流好き∞権威好き≠ナあったことは間違いないでしょう。
 
離婚してある程度、自由になったのだから、本当に行きたかった静かな村などでバカンスをすごすことも可能なはずなのに、彼女はやっばり「クルーザーで地中海へ」というわかりやすいコースを選んでしまうのです。
 
「人からはどう思われようとも、あなた自身が行ってみたいところに出かけてもいいんですよ。たとえば、アフリカで動物を見るとかアジアで仏教遺跡を訪ねるとか。自宅にこもって音楽ばかりきいて過ごしてもいいんです」
 
 もしそう言ったら、ダイアナのような人はきっと混乱してしまうに違いありません。
「本当に私の行きたいところ、したいこと……。地中海の豪華なバカンス以外になにがあるんだろうか……。そんなこときかないで。私、わからない!」
 
 幼い頃から自分の中核がないという思いにとりつかれていたダイアナにとっては、それをなんとか見つけたいというのは一生の課題だったわけですが、とりあえず、そこから目をそらすために、だれもがうらやむブランド、豪華な生活、地位などで身を固めるのは、どうしても必要なことだったはずです。
 
しかし、そうやって自分を外側から作り上げていけばいくほど、よろいはだんだん重くなっていき、しかも「これは自分の意志ではなく、だれかに着せられたよろいなんだ」という思いも強くなっていったのではないでしょうか。
(香山リカ著「結婚幻想」ちくま文庫 p120-124)
 
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 ドーナツな子どもたち
 
 たしかにいつのころからか、ぼくのまわりには不可解な「存在」がときどき顔を見せるようになった。それはぼくとよく似た言葉をしゃべり、おなじような姿をしている。が、なにを考え、なにゆえにそうした行動をとるのか、ほとんど理解することができない。
 
「新人類」という言葉が生まれたのはもうずいぶん昔のことだ。そうよばれた彼らも、すでに中年期にさしかかっている。エイリアンだと椰喩(やゆ)されながらも、いつのまにか社会のなかにしっかりと組みこまれ、そつなく生きているようにみえる。考えてみれば、彼ら新人類もやはり「人間」であり、その「特異性」も旧世代からみた、たんなる世代間のギャップにすぎなかったようだ。
 
 けれどいま、そこここに顔をだす「あの人々」はこれまでのヒトとは別の存在なのかもしれない。ぼくはそういう彼らを目のあたりにすると、いつもドーナツをおもいうかべてしまう。
 
 ぼくが子どものころ、ドーナツはめったに食べられない、珍しいお菓子だった。近所にパン屋のヒロくんという三つほど年上の子がいて、ある日、彼はばくにこういった。
 
 「まんなかの一番おいしいところをあげる」
 ばくはドーナツのまんなかが空洞であるということも忘れて、うれしくて手をだした。ヒロくんは紙袋からとりだしたドーナツを目のまえでバクリパクリと食べていく。いっこうにくれる気配がない。そして、すっかり胃袋に収まったとき、彼はなにもなくなった手のひらをぼくに見せていった。
 
 「ほら、まんなかの一番おいしいところをあげる。いらないの〜 それならあげない」 そういってヒロくんはさっさと姿を消してしまったのだった。
 
 それ以来、ぼくにとってドーナツとは「まんなかの一番おいしいところ」になった。だがそれは空っぽで、けっしてふれることも味わうこともできない、空虚な部分だ。
 
 いまこのドーナツのようなヒトが目につくのだ。若い世代のなかにまぎれこんでいて突然顔をだす。ドーナツ人間のまんなか=核はまったく見えない。
 
 それは電子テクノロジーによる仮想の共同性、網の目の一部になってしまって、自我というものを喪失した、あるいは変質させてしまった人々なのかもしれない。
 
 いまから時計の針をもどし、かつて人々がコンピュータなどにたよらず暮らしていた時代に舞いもどることができるだろうか? 不可能だ。かつてのように便りをしたため、遠い人に思いを伝えるなどという時代にもどることができるだろうか?
 
 秋の夜長、テレビでも、ゲームでも、ケイタイでも、インターネットでもなく、月を眺めのんびりとすごしたり、読書で一日を静かに終えるなどということができるだろうか〜
 
 少なくともいまの子どもたちにそれを期待するのは、一種のファンタジーにすぎない。では、どうすればいいのか〜
(藤原智美著「「子どもが生きる」ということ」講談社 p240-242)
 
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 一人の人間をつくることをあえてくわだてるには、その人自身が人間として完成していなければならない、ということを忘れないでいただきたい。考えていることの実例を自分のうちにみいださなければならない。子どもがまだなにも知識をもっていないあいだは、子どもに近づくすべての者に、最初に子どもが見てもいいものだけを見させるようにすることができる。あなたがたをすべての人から尊敬されるようにすることだ。
 
まず人から愛されてみんながあなたの気に入るようにしようという気にならせることだ。子どものまわりにいるすべての人の先生になれなければ、子どもの先生になることはできない。そして、そういう権威は、美徳にたいする尊敬の念にもとづくのでなければ、けっして十分とはいえない。
 
財布の底をはたいて、金をばらまくことが問題なのではない。金銭が人を愛させることになった例をわたしはこれまで見たことがない。
 
けちんぼだったり、不人情だったりしてはいけない。助けてやれる貧乏人をあわれむだけではいけない。
 
しかし、いくら金庫をひらいてもむだだ。心をひらかなければ相手の心もいつまでも閉ざされている。あなたがたの時間を、心づかいを、愛情を、あなたがた自身を、あたえなければなむない。どんなことをしたところで、あなたがたの金はあなたがた自身ではないことを、人はいつも知っているのだ。
 
どんなものをくれてやるよりももっと効果のある、そして現実的にいっそう有益な関心と好意のあらわしかたがある。どれほど多くの不幸な人や病人は、施し物よりもなぐさめを必要としていることか。金よりも保護を必要としているどれほど多くのしいたげられた人がいることか。
 
けんかしている人を仲直りさせるがいい。訴訟を未然にふせぐがいい。子どもにその務めを行なわせ、父親に寛大な心をもたせるがいい。幸福な結婚をすすめるがいい。人の心を傷つけるようなことはやめさせるがいい。正しい裁きをあたえられず、権力者に苦しめられている弱い者のために、あなたがたの生徒の父母の信用を惜しみなくもちいさせるがいい。
 
自分は不幸な者の味方であると声高く宣言するがいい。正しく、人間的で、情げぶかくあれ。施し物をあたえるだけではなく、人々をいつくしむがいい。慈悲深い行為はお金よりも多くの苦しみをやわらげる。ほかの人たちを愛するがいい。そうすればほかの人たちもあなたがたを愛するだろう。かれらの役にたつことをするがいい。
 
そうすれはかれらもあなたがたの役にたつことをしてくれるだろう。かれらの兄弟になるがいい。そうすれはかれらはあなたがたの子どもになるだろう。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p135-137)
 
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◎「そうやって自分を外側から作り上げていけばいくほど、よろいはだんだん重くなって」いく。
 
「ぼくにとってドーナツとは「まんなかの一番おいしいところ」になった。だがそれは空っぽで、けっしてふれることも味わうこともできない、空虚な部分だ。」……私たちへの問題提起です。無関心な仲間へアタック(対話)することの意味でもあります。
 
◎ルソーが言わんとしていること学びましょう。
 
◎ブランドについても香山氏の説明は的を得ているように思います。私のそばにもロレックスという時計を着けている中年がいます。「つくりが頑丈で一生モノだから、たまたまヴィトンを持っているだけです」と同じような事をいいます。