学習通信031001
◎いまどきの若者……「社会化されていない個人とは、その社会にとっては、その社会自体を崩壊させてしまう不良品≠ネのである。」
 
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 いまどきの若者は、さっぱりわからない。
 
 こんなことばを、これまで耳にしたことがない人はいないはずだ。それだけではなくて自ら「いまどきの若者は……」と、ついロにしている人も少なくないだろう。
 
 ものの本によると、これと似たことばは古代ビラミッドの中にも記されているらしい。「だから、なにもわかりにくいのは現代の若者だけではない。大人から見れば、いつの時代も若者は理解しがたい存在に見えるのだ」と言う人もいる。しかも、大人はかつて自分も若かったときには礼儀知らずで自己中心的だったことも忘れて、若者批判をしてしまいがちだ。
 では、結局のところ、若者は今も昔も変わっておらず、大人が勝手に「いまどきの若者はわからない」と言っているだけなのだろうか?
 私自身は、そうもまた言い切れないと考えている。
 
 高度成長からバブルの時代を通過し、出口の見えない不況が続きながらも、生活じたいは全体に平和で豊かな今の日本。携帯電話やインターネットの普及で、コミュニケーションの手段は画期的な変化を遂げた。そういう社会で暮らす若者は、やはりこれまでとはかなり違った価値観や行動様式を身につけていると言える。
 
 問題は、そういう若者たちに対して大人が「若者は堕落した」「若者はコワイ」と決めつけ、それ以上、理解しようとも近寄ろうともしないことだ。フェミニズム研究者の小倉千加子さんは、「いまどきの学生たちは変質してます。……これはなんですか!」とイライラして怒っている大学教員を見ると、「アホちゃうか。君ら訓練が足りんよ」と思う、とその著作の中で述べていた。
 
 しかし、そう言われてもどうやって訓練してよいかわからない。そう思う大人も、少なくないはずだ。訓練するにもまず、いまどきの若者の言動の基本にあるパターンがわからなけれはどうしようもない。
 
 「基本パターンなんてあるものか、彼らは好き勝手に動いているだけだ」という声もあるが、本当にそうだろうか。彼らの話にちょっと耳を傾け、その行動に目をとめてみると、そこには彼らなりの考え方や主張があることがわかってくる。それを「若者の法則」としてまとめてみたのが、この本だ。
 
 私はもちろん、これを読んで若者にすり寄り、ごきげんをうかがってほしい、と大人たちに望んでいるわけではない。ただ、その「若者の法則」を知ると、若者たちが彼らなりのやり方で、大人や社会全体に向かって言おうとしている何かが、おばろげながら見えてくるはずだ。
 
 そして「いまどきの若者」 について考えることは、だれにとっても自分についてもう一度、考えなおすことにもなるはず。元・若者の私は、そう思うのである。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書)
 
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 父親の姿
 
 不登枚の子をもったある父親は商社に勤め、自分の仕事が好きで、会社でも認められたエリートだった。
 
 だから息子の不登校が始まったとき、体の調子が悪いか、わがままだと思ったと言う。力ずくで子どもを学校につれていき、家に鍵をかけて入れないようにしたり、妻の家庭教育が悪いと責めたりした。あるとき、深夜に帰宅して、食が細くなり眠れずにいる不登校の息子に文句を言ったところ、やせほそった小学校四年の子どもは、エネルギーをふりしぼるようにして、涙ながらにこう言ったのだ。
 
 「お父さんは朝出れば夜中まで帰ってこない。話といえば、怒鳴るか説教するだけじゃないか。そんなお父さんなんかいないほうがいい」
 夜遅くまで家族のために働いていると思っていた父親にとって、この言葉は愕然とするものだった。ショックであったけれども返す言葉がなかったと、後年、父瓢は次のように記している。
 
 「現在の学校を知るにつけ、会社と非常に体質が似ていると思った。会社では、会社の方針に忠実で、上司の言うことをよく聞き、売り上げ額や利益額が多い社員が良い社員であり、会社の方針や上司に批判的だったり、売り上げ額や利益額の少ない社員は良い社員ではない。この場合、会社の方針の中身や上司の人間性などは一切問題とされないのである。……学校ではどうか。
 
 学校の方針の通りになり、教師の言うことをよく聞き、言われるままに行動し、テストの点数や偏差値の高い生徒が良い生徒であり、学校の方針や教師の言うことに自分の考えを持ったり批判的に見る能力のある生徒は良い生徒ではない。……会社も、学枚も、いつも競争させられている。そしてその結果、ランクづけされる。競争社会そのものである。
 
……他人の決めた事柄や内容を、無批判に消化していくことを要求される。そして、いつもいつもどれだけ消化したかを、文字通りテストされ、ランキングされ、尻をたたかれる。子どもたちにとって学校とは何だろう。もしかしたら学校は、子どもたちにとって飼育場ではないだろうか」
 
 また別の親も次のように言う。
 一息子の不登校と付き合っていく中で気づかされたことは、今の学校は他人の痛みを痛みとして共感しあえるような思いやりや命の尊さを重んじる教育の場とは、程遠い存在になりつつあるのではないか」(東京シューレ父母会編『父親が語る登校拒否』現代企画室)
(暉峻淑子著「豊かさの条件」岩波新書 p106-107)
 
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◆若者が壊す日本の未来
 
 「社会性」、「アイデンティティ」、「能力」の三つを失った若者の現実がどのようなものなのか、もはや説明するまでもないだろう。彼らは、対峠しないことによって、社会化されることなく、単なる放縦なエゴの塊になってしまったのである。
 
 だが、そのことは彼らだけの問題ではない。彼らはそうした大切な要素を身につけることもないままに、ある年齢に達すると自動的に現実社会へと送り込まれてきている。彼らを受け入れねばならない日本という社会は、いったいどうなってしまうのか。
 
 社会化されない人間が何らかの社会に帰属するとき、その社会がもっていた従来の秩序は崩壊し、その社会は弱体化する。社会化とは、人間が帰属する社会や集団に共有されているルールや作法、価値観を学習し、それを自らのものにしていくプロセスである。そして、価値観や規範を共有化した個人だからこそ、その帰属集団で一人前の存在たり得るのだし、その社会は存続し得るのである。
 
また、社会の構成員は価値を創造し、自分が帰属する社会に対して貢献することと、その社会が与えてくれるメリットとのバーターによって生きることができ、社会は維持される。このように、一人前になった社会人たちによって、規範の共有と価値の創造の両面から支えられて、社会は成立し得ているのだ。
 
したがって、ある社会集団が、価値観と規範を共有化せず、貢献の能力の欠如した個人を取り込んでいくようになると、その集団がもっていた本来の機能が損なわれ、集団としての力は弱体化していく。その意味において、社会化されていない個人とは、その社会にとっては、その社会自体を崩壊させてしまう不良品≠ネのである。
 
 社会学の世界では、この社会化のプロセスを二段階に分類して考える。 その一つは、「第一次社会化」と呼ばれるもので、これは人間として生まれて成長していく過程で言語や生活習慣、またマナーや社会規範なども含む、その社会全体に共通して最も基本的なものを学習する段階をいう。これを担うのは、家族や学校、地域社会といった共同体である。
 
もう一つは「第二次社会化」といい、これはある集団に固有の規範や価値観、行動パターンを学習することを指す。その担い手の典型は、企業である。
 
 さて、以上のような点を踏まえたうえで不良品〃を抱え込んでしまった日本の現実を振り返ってみると、社会化されない彼らの姿と、日本の危機的状況が浮かび上がる。
 
 すなわち、六〇年代までの日本人が信じて疑わなかったモダニズムが高度経済成長の終焉とともに限界に達し、家族や学校、地域社会といった共同体が崩壊すると、若者に社会の規範や価値観の強制的刷り込みを行なってきた第一次社会化機能が失われてしまった。
 
そして、さらにやっかいなことに、第一次社会化を経ていない若者たちが社会に参加する年齢に達したことで、日本の経済と社会の原動力となってきていた「企業」が弱体化してしまった。その典型的な存在が、空前の売り手市場であったバブル期入社の、いわゆる「バブル社員」たちなのである。
(波頭亮著「若者のリアル」日本実業出版社 p91-93)
 
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(2)阪神大震災と子どもたち
 
 私は、兵庫県の西宮市で子ども時代を過ごし、完九五年有一七日の阪神大震災では、幼い頃に親しんだ家屋や街並みが崩壊してしまい、「原風景」を失う体験をした。同時に、年老いて被災した両親を何回か見舞う過程で、さまざまな理由でギクシャクしていた両親と私との関係が少しほぐれて、「和解」とでも言えるようなことがおきた。阪神大震災は、直接の被災者ではない私にとっても、「喪失」と新たな「出会い」の両方を含んだ、大きな出来事であった。
 
 そうした体験もあって、私は、阪神大震災に遭遇した子どもや親や教師たちが、何を失い何を得て生きているかということに関心を持って、彼らの発言を直接に聞いたり、発言の記録に目を通したりしてきた。私が話を聞いてきた教師の一人に、西宮市の公立中学校に勤める小川嘉憲がいる。小川は震災発生時には中学二年生を担任していて、彼が後にまとめて出版した実践記録には、当時の学級の生徒たちを中心とする中学生たちの声が数多く記録されている。ここでは、その中から、何人かの中学生の声を紹介してみょう。
 
 @生命を考える
 
 Aさんは、震災当日の夜の避難所でのできごとをふりかえって、次のように語っている。
 
 「……父が言うには、みっちゃんは柱の下敷きになっていて、すでに虫の息だったそうです。痛院でおばあちゃんに、『私が身代わりになるから孫の命を助けて』と言われて、とてもつらかったそうです。……夜、小学校に避難して泊まりました。おにぎりを食べていてみっちゃんのことを思い出し、『みっちゃんとおばあちゃんがいれかわったらよかったのに』と母につぶやきました。すると、母は、こわい顔で私をにらんで、『何いうとんねん! この世に亡くなっていい命なんてあらへん。……』と目に涙を浮かべて言いました。」
 
 震災直後には、多くの生命が一挙に失われて、人々は自分が死んでいても不思議ではなかったと感じる状態にあった。おそらく、身近な人々が亡くなった悲しみと自分が生き残ってよかったという安堵とが入り混じった複雑な感情にとらわれていたのであろう。
 
そのなかで、Aさんは、仲が良かった友だちのみっちゃんの代わりにおばあちゃんが亡くなってくれていた方がよかったのにと、つぶやいてしまった。
 
そのとき、この子は、母親に、「亡くなっていい命なんてあらへん」と強くたしなめられて、我に返って、そのことを心のなかで反芻(はんすう)しているのである。
 
A人々の生命を助け、家族の生活を守って
 
 また、B君は、次のように語っている。
 「地震がおさまったあと、僕は父と協力して、何人もの人を助けました。ぺしゃんこにつぶれた家から声がしたら、もう何かしなければという気になりました。はじめは父の言うなりに動いていたが、いつの間にか別行動をしていました。気がついたら近所の人が拍手をしてくれていました。母が、『あんた、すごいね。人の命を助けたんやで』とほめてくれました。親にほめられたのはひさしぶりだった。自分に自信を持ちました。」
 
 C君も、こう語っている。
 「……何回も往復して汲んだ水が、半日もたつともうなくなってしまう。……父がポリタンクを買ってきてくれた。『……これで何回も水くみをせんでもいい』と喜んだ。次の日、浄水場に自転車でポリタンクを持っていった。欲張って二つに水を入れた。さあ行こうと動いたらこけてしまった。……あとで母にポリタンク一つで一八キロから二〇キロもするって聞いて、四〇キロ近くの水を一度に運ぼうとしたことがわかった。父が馬鹿にすると思ったら、『よくやった。おまえは家族の役に立っているぞ』と言われ、なんだか嬉しくなった。」
 
 二人の言葉からうかがえるように、震災直後に人々が行なったのは、まず、倒壊した家屋の下敷きになっている人々を助け出すことであった。それからの数日は、生きるために直接に必要な衣食住を確保することであった。子どもたちも、近隣の人々の生命を助け、家族の生活を守るために重要な役割を果たした。そして、多くの子どもたちが、生きるか死ぬかという極限状態の下で、人々の役に立てたこと、それを親やおとなに評価されたことが、「嬉しかった」と率直に語っているのである。
 
──略──
 
 「震災と子ども」というと、震災によって心身ともに傷ついた子どもたちのことを思い浮かべ、そのケアをどうするかを考えるのが普通であろう。それは直視しなければならない事実であり、ケアを必要とする子どもたちがいたし、今もいることは明らかである。そして、阪神大震災をきっかけに、PTSDという言葉が広がり、新しい医療や心理臨床の実践と研究の模索が広がったことは、大きな前進であり進歩であったということができる。
 
 しかし、それだけではなく、以上に紹介したように、多くの生命が一挙に奪われるという状況の下で、生き残ることができた自分の生命の重みをしみじみと感じた子どもたち、人々の生命を大切にする地域や学校のあり方に思いをはせた子どもたち、この厳しい体験を生かして生き方を考えた子どもたち──そういう子どもたちが存在したということも事実である。
 阪神大震災は、人々と子どもたちに多くの不幸をひきおこしたが、生命と生き方を深く考えようとする多くの子どもたちをも生み出したのである。
(3)薬害エイズ訴訟と子どもたち
 
 子どもたちが生命と生き方について考えようとしていると感じさせられた第二の出来事は、同じ年に起こった、薬害エイズ訴訟に関わる若者たちの動きであった。
 
 一九九五年の三月に、薬害エイズ訴訟の原告として、当時一九歳だった川田龍平という一人の青年が名のり出たこと、同時に、彼のそれまでの人生の歩みを記録した写真集『龍平の未来』が出版されたことは、日本の子ども・青年たちへの大きな刺激となった。川田は、その年の四月に、私が当時勤めていた東京経済大学に入学した。
 
そして、彼は教師になりたいと考えて、教育学を担当している私の講義を受講した。こうして私は、北海道大学に移るまでの三ヵ月の期間ではあったが、彼と、学生と教師という関係を持った。そして私は、彼と周囲の学生・青年たちから、多くのことを教えられたのである。
 
 @川田龍平との出会い
 
 その年の六月に、川田が生まれ育った東京の小平市の萩山団地で、幼い頃から彼をよく知っている地域の人々が中心になって、彼を励ます集いが開かれた。その場で川田は次のようなことを話した。
 
 「人間本位の医療が行われていれば避けることができたはずの薬害で、私は生命を脅かされている。その意味では私は不幸である。しかし、生命ある限り生きたい、生きる限り充実した人生を送りたい、そして私が生きることが二度とこうした問題を起こさない社会にしていくための一つの力になるような生き方をしたい。
 
そう決心して裁判の原告として名のり出たら、わずかの期間に、それ以前には考えられなかったような人々との結びつきを持つことができた。これは幸福としかいいようがない。今、不幸だけれども幸福という、不思議な気持ちだ。」
 
 私は、実に味わい深いことを語る青年だと感じて、彼の言葉をその場で聞いた。そして、彼が大きな不幸を背負いながら、ただそれを嘆くだけでなく、「不幸にして幸福」という言葉を語り得るようになったのは何故だろうかと考えた。そして、それはやはり、彼が、自分にふりかかってきた不幸を避けずに考え抜いたからであろう、だから「不幸にして幸福」と言える人生を自分のものにすることができたのだろうと思った。
 
 今、私は、「不幸を避けずに考え抜いたから」と簡単に言ったが、そこに至るプロセスは、並大抵のことではなかったはずである。川田自身が、「中学のときには、どうせ自分の生命は限られているのだと思って、投げやりになって、荒れていた」と語っている。
 
また、彼をどう支えるかということをめぐつて、彼の両親の意見が分かれるということもあったという。これらのことを頭に置くだけでも、川田の生存と成長の過程には極めて厳しい問題がはらまれていたことがわかる。それでも、川田は、自分の生命を大事にしたい、その生命を充実したものにしたい、自分のために生きることが他人のためになるような生き方をしたい、そう考えたから、「不幸だけれども幸福」と言える人生をたぐりよせることができた。彼の言葉を聞いて、私はそう感じたのである。
 
 川田については、その後の彼の行動と発言によって、多くの人々によく知られるようになっているので、これ以上述べる必要はなかろう。私が、ここで記そうと思うのは、川田のことを知って、心を揺さぶられ、感じ考え、発言し行動した子ども・青年たちについてである。
 
 A学生たちの声
 
 同じ一九九五年の六月の末に、東京経済大学の学生たちが、川田が入学してきたので、彼の話を聞き問題を共に考えようという趣旨でへ 集会を開いたことがあった。そこには、誰も予想しなかった八〇〇人もの人々が集まった。しかも、その大多数が、中学生や高校生や学生などの青年だったのである。
 
 当時の私のゼミナールのメンバーでその集会に参加した学生が何人かいたので、私は、そのなかの一人の女子学生Eさんに、「どうしてこの集会に参加したの?」と尋ねてみた。そのとき、Eさんはこう答えた。
 
 「川田君はカツコいい、真剣に生きようとしているのがすごいし、それがほかの人を励ますことになっているのがすごい。彼の場合は、身にふりかかってきた薬害エイズのことを考えて、そうした生き方に踏み出した。私だったら、どんな問題を考えたら、あんなふうに生きられるのか。薬害エイズのことも考えなければならないと思うけれども、私にはそれが一番問題で、そのことを考えたいと思って参加してみました。」
 
 私は、このEさんの言葉を聞いて、懐かしいものにふれたような気がした。というのは、一九六〇年代の半ばに青年であった私自身が、「自分のために生きることが、同時に他人のために生きることになる生き方」というような言葉で、生き方を探っていたことがあったからである。
 
それとともに、長い間、日本の青年たちは、「無気力」「無関心」「無感動」などと言われ続け、「だめ」になっていると決めつけられ続けてきたが、様子が少し違ってきたのかもしれないという直感をもった。これは、川田龍平というすぐれた青年が一人登場したというだけのことではなさそうだと感じたのである。
──略──
 
 C生命と生き方への問い
 
 このように、薬害エイズ訴訟にかかわって、感じ考えた青年・学生・高校生・中学生たちが、少なからずいた。
 彼らは、薬害エイズという問題を知り、人の生命を脅かす日本の社会と医療の現実を知って、驚き、怒り、悲しみ、その現実を何とかできないかと考えている。同時に、あるいはそれ以上に、生命を脅かされながら、懸命に生きようとしている川田龍平という青年の存在を知って、心を動かされている。
 
自分のために生きることが人のために生きることになるような生き方をたぐりよせた川田を知って、自分もそのように生きられないかと思いをめぐらしている。人間が生きるとはどういうことか、平等な人間として生きるとはどういうことかといった根本問題を、多くの子どもが考えているわけである。
(田中孝彦著「生き方を問う子どもたち」岩波書店 p5-15)
 
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◎「社会化されていない個人とは、その社会にとっては、その社会自体を崩壊させてしまう不良品≠ネのである。」自分の価値観を押しつける波頭氏といえないだろうか。若者をありのままに捉える科学の目≠ェないのだと思う。彼の苛立ち以外のなにものでもないのでは……。
 
◎「自分のために生きることが、同時に他人のために生きることになる生き方」。このような生き方を毎日していますか。「いまどきの若い者」の本当は、生き方を模索し働けかけあう仲間をもとめているのではないだろうか。もっとももっと労働学校を広げよう。