学習通信031002
◎「若年者失業は……人間形成上の重要性をもっている。」
 
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 ドイツの職業学校でみた専門教育
 
 そう考えているときに、ドイツの職業学校を取材する機会がありました。
 ドイツの職業学校といえば、マイスター制度に代表される、いわば手工業分野での教育制度だと思い込んでいました。徒弟制度の中で手に技をつけ、磨き、そしてマイスター(親方)の称号を得ていく。日本での理解ほ、おおかたこの程度でした。ところが、ホワイトカラーといわれる事務部門においても専門教育が行なわれ専門資格が得られるようになっていました。
 
 週の3日は職業学校で理論を学び、残りの2日は会社で実務を学ぶ、デュアル・システム(二元教育)です。たとえば、将来は銀行でセールスの仕事に就きたいとすると、学校で会計学、経済学、国際貿易などの専門分野を体系的に学んでいく。いっぽう、銀行で専門の教育指導者について、銀行業務の実務と顧客サービスの方法を実践で身につけていきます。
 
 ひとつの職業について専門的な理論と実務の両方を獲得する、この基礎づくりこそが将来への投資になるのだということでした。
 取材の最後のほうで、私は次のような質問を投げかけてみました。
「基礎づくりをいくらやっても、時代の変化は早く習得した専門知識や技術がすぐに陳腐化しないとも限りません。時間をかけて身につけたものが、時代に先を越されてしまったらどうするのですか〜」と。
 
 すると、職業学校の校長先生からは、こんな答えが返ってきました。
「技術がどんなに進んでも、時代がどんなに変化しても、社会が必要とするものは変わりません。それは、ひとつひとつの専門知識や技術そのものではなく、自律性、協調性、創造性、そしてその根底にあるつねに何かを獲得できるような基礎的な力なのです。私たちの教育の特徴は、ひとことでいうとiearn&iearn。つまり、ある専門性を身につけようとすることを通して、その力を獲得することなのです」
 
 とらえにくかった専門性が、これでひとつ解けたと思いました。
 それは、私の場合はたんに専門性を身につけたくて専門の道を踏み出したに過ぎません。ところが、専門の道をたどっていくうちに、思いがけず能力という水脈にぶつかったのです。そのことを自分ではたまたまのことだと思っていました。(p156-157)
 
 また、ワーカー側にとって、メンターの存在なくしては働く意味がなくなってきている事実も見逃せない。
 これまでの組織長は、がんばれば課長にする給料をあげると言ってればよかった。つまり、出世のメカニズムにのっとって、ニンジンを鼻先に掲げていればよかったのである。
 
 ところが、いまやポストはない。原資もすくない。そうなると、誰がいったい組織長についていくというのだろうか。これまでなら、人間として尊敬できなくてもニンジンさえあれば、人はまだついてきてくれたものだ。だが、もうそれは期待できない。
 
 だとしたら、人は何のために働くのだろうか。出世だけでもない。お金だけでもないとしたら、それは、自分の能力が開発される喜びを得たいためである。
 
 これまで、日本人は自分を犠牲にしても組織のために働き続けてきた。日本人の勤勉性は誰も疑おうとしない。たしかに、海外に行って買い物しょうにも日曜日でしまっていたりすると、日曜日に開店すればどれだけ売上げをあげられるだろうと私など思ってしまう。「売上げがたとえ5割あがったとしても、わたしたちは日曜日に家族とともに過ごすことを選択するのですよ」
 
 という欧米人に会うと、日本人のどこかにエコノミック・アニマルと化してしまう遺伝子が組み込まれているのだろうか、と感じるものだ。
 しかし、たしかに、そういう遺伝子は多少あるにしても、これまで身を粉にして働いてきたのは、そうするだけのメリットを手にできたからである。
 それなのに、「近頃の若いもんは日本人の勤勉性を忘れてきている」と真顔で嘆いている人は、そのあたりの時代の動きや環境の変化をとらえていないことになる。
 つまり、日本人の勤勉性がいま薄れてきているのではない。いまの日本企業のなかでは、勤勉の先が見えなくなってきているのだ。そして、それを個々に示してあげて、個人の力の結集を組織の力につなげてあげるのが、良き指導者メンターなのである。
(松永真理著「なぜ仕事するの」角川文庫 p171-172)
 
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働くということは生きるということである
 
 逃げようもないその場所に身を置いた時、初めて会社とはなにか、仕事とはいかなるものか、が少しずつわかりかけて来たような気がした。見ようとしていた時には少しも見えなかったものが、見ることを忘れて生きているうちにようやく見えはじめて来たのだといえる。
 
 さらにいえば、人の生きる場所としての会社の実態のみならず、自らの日々の仕事を通して、労働という営みが人間に対して持つ抜きさしならぬ意義までをも、自然に考えざるを得ぬ地点にぼくは近づいていた。
 
 これは予想外のことでもあった。学生時代のぼくは、労働とは労働者の営みだとごく単純に受取っていたからである。従って、企業の中で労働の実現するのは工場の作業現場だけだと思っていた。この素朴な見解は、一面では正当なものでもある。なぜなら、労働の本質は人間と物との関係の中にあるのだから。
 
 しかし、労働をより広く「働くこと」と受けとめた時、デスクワークに従事する者も当然労働の世界に生きていることになる。企業の中での労働とは、観察の対象でも研究の課題でもなく、我が日常そのものに他ならなかった。
 
 与えられた業務を成し遂げていくうちに、こんなふうに働けたらどれほど嬉しいだろうとか、かくも馬鹿らしいことが起るのはなぜだろうとか、喘ぐようにして考えを追いつつ、ぼくは自分のデスクワークを、「労働」というものの上に重ねはじめていたらしかった。そして「労働」として自らの業務を捉えると、時にはやり切れない思いを強いられ、時には忘我の瞬間をも味う仕事と自分との関わりが、前とは違った形で掴めるような気がしたのだ。
 
 間接的で抽象的な机の上の仕事を、物を作る現場の労働に置きかえて考察すると、意外に理解しやすいという事実も発見した。その頃に読んだ幾冊かの書物は、乾いた土に水が滲(し)み込むようにぼくの内にはいりこみ、ぼくの考えを一層押しひろげ、より広い展望へとこちらを導いてくれた。
 
頭の中に概念として漂っていた「労働」は、一つの調査報告書をまとめる作業、一本のテレビコマーシャルフィルムを製作する行為となって生々しくぼくの前に立ち現われた。むしろ、日常の片々たる業務こそが、「労働」と呼ばれる、人間にとって根深く豊かな拡がりをもつ営為へとつながるものであることを実感するに至ったのだ、という方が正確であるかもしれない。
 
 社会的な展望のむとに眺めれば、一人の人間がどんなに腕いてみても、所詮彼の「労働」は売れる商品を生産する行為でしかなく、しかも個人はその生産のほんの一部にしか参加し得ず、作られたものはどこの誰に使ってもらえるのかもわからない、という空しさを否定出来ない。
 
 けれど同時に他方では、自分の関っているのがそんな無意味な行為であってたまるか、との口惜しさ、たとえなにがどうなっていようともこの仕事だけは自分の手がけたものとして納得出来る形に仕上げたい、といった熱望が渦巻いてしまうのも事実なのである。
 
 としたら、現代の「労働」を「自己疎外」などという便利な言葉であまり簡単に処理してはならない。もしも今日の「労働」の中には「自己疎外」しかないのだとしたら、これこそが「疎外」された俺だ、といえるギリギリの地点にまで自分を追い込んでみる必要がある。「労働」に全身の重みをかけて対決する姿勢がなけれは、果して「疎外」の事実があるか否かも確かめられないではないか──。
 
 そんなことを考えつつ、「労働」の視点から人間を見つめると、現代に生きている人々の姿が次第に強い輪郭で浮かび上ってくるように思われた。そして企業という場所が、「労働」という実質を獲得して、ぼくの眼に一つの世界の像をむすぶ結果となった。つまり、そこで人々の働く企業が、現代社会の本質を表現する場として認識されたわけである。
 
 こうしていつの間にか、「労働」はぼくにとっての文学の主題となり、小説の出発点となった。あまりにも漠として捉え難い現代を掴むための貴重な辛がかりを、そこに見出したのだともいえるだろう。
 
 結局は二十代の前半から三十代の後半にかけての十五年間をぼくは企業の中で生活したのだが、いま振り返ってみてそれが必ずしも長過ぎたとは思わない。人間の社会的成長の最も激しい時期、思想的成熟の強く期待される季節を企業で過したからこそ、ここまで述べて来たような考えを曲りなりにも自分のものとすることが出来たのではなかったか。
 
そしてそれだけの内容を特定の教師も教科書もなしに現実生活を素材として学ぶには、小学校から大学までの十六年間にほぼ匹敵する時間が当然必要だったのである。
 
 働くということは生きるということであり、生きるとは、結局、人間とはなにかを考え続けることに他ならない。
(黒井千治著「働くということ」講談社現代新書 p176-180)
 
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 若年者失業の問題
 
 かつては気楽な存在として「フリーター」が捉えられていたが、事態は徐々に深刻化している。フリーターの将来ほきびしい。すでにみたように、若年者の雇用が悪化している。若年者失業の問題が今やわが国でも深刻化しつつある。
 
 若年者失業はヨーロッパでは相当以前から深刻な問題である。学校という社会を出たのち、そのまま失業者となってしまう。それが長期化すればどうなるだろうか。従来から学校を卒業しても正社員の仕事につかない若者がかなりいたが、近年は不況のために、正社員の仕事につけない若者が増えている。
 
彼らはこれからの長い職業人生をどのように送るのであろうか。狭い意味での職業能力だけでなく、職業倫理や職業意識をしっかりと身につけることができるのであろうか。仕事はおもしろいのが一番だが、雇用労働である以上、いろいろな制約や単調な仕事、キャリアの展望のない仕事は多い。
 
しかし、たとえあまりキャリアの展望のない場合であっても、職業倫理や職業意識をもって仕事に従事することは、人格形成にとって決定的な意味をもつ。職業能力は何も知識や手先の器用さだけではない。職業人としての責任感や誇り、耐久力などは、仕事につくことによってはじめて体得できるものである。学校卒業後、職業経験もなく数年間にわたって失業した場合、本格的なキャリア形成はきわめてむつかしい。
 
西ヨーロッパ諸国がこの間経験してきた若年者失業の問題は、単なる生活問題ではない。最初から生活保護や失業扶助に頼り、職業倫理や職業意識をしっか輿と身につけなかった若者が果たして、いるの時点でこうした能力を身につけることができるのであろうか。それは教育訓練施設での教育だけでは可能ではない。人材の陶冶は実に職業生活を通じておこなわれる。
 
 職業生活による能力開発は学校教育による能力開発と異なる。後者は、教育内容の一般性、包括性においてすぐれているが、それだけに学生にとってはその有用性は明らかではない。生活の必要、切実さにおいても劣る。それに対して、前者は教育訓練内容の有用性や具体性がはるかに高い。
 
そのため、学習意欲も高い。仕事に直接必要な知識や技能は身につけなければ自分の職業人生にじかにひびく。その効率はきわめて高い。こうした経験を若者から奪うことは、日本経済を支えてきた人的資源の枯渇をもたらしかねない。
 
中高年とくに五〇代以上の失業問題は主として経済問題であるが、若年者失業はそれにとどまらない人間形成上の重要性をもっている。さらにいえば、若年者失業が急増すれば将来的に日本の最大の資産である人的資源の枯渇(こかつ)にもつながりかねないのである。
(久本憲夫著「正社員ルネサンス」中公新書 p198-200)
 
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仕 事
 
 大学のある講義のレポートで、「見る人に好ましくない心理的影響葺えると思われる作品は」という課題を出したところ、全体の二割ほどの学生が自分がプレイしたテレビゲームをあげて論じていた。ほとんどは、「このゲームにはこういう残虐なシーンがあるので、見ている人は不快感を覚える」といった内容。
 
しかし、よく読むとどの学生も、結局はそのゲームをプレイし続けて、最後までクリアしているようなのだ。中にはそのシリーズをぜんぶやっているにもかかわらず、「こんな作品が許されてよいとは思えない」などと述べているゲームを作りたいという若者にも、同じような傾向が見られることがある。ある若者は、ホラー系のゲームばかり作っているにもかかわらず、一方でゲームの残虐性を批判するような発言をしていた。
 
その真意がわからずによく聞くと、「ホラーゲームで遊んだり、それを作ったりするのは好きだけれど、それがよいものかと聞かれると違うと思う」と言うのだ。「好き、面白い」と「よい」が、彼の中で完全に分離しているのだ。レポートに「ゲームはよくない」と書いてきたゲーム好きの学生たちにしても、同じことだろう。
 
 それでは彼らは、自分が遊んでいたり作っていたりするものは「よくないもの」という自覚のもと、自嘲的になりながら日々を送っているのだろうか。もし本当に「よくない」と思っているなら、どうして「よい」と思える趣味や仕事に移らないのだろうか。
 
 おそらく彼らは、たとえ自分がやっていることが「よいとは言えないもの」だとしても、それを面白いと思って一生懸命に取り組むことで、「よい」「悪い」といった尺度とは違う何か≠得ているのだ。もちろんその何か≠ヘお金ということもあるだろうが、もっと目に見えないものの場合もありそうだ。
 
 たとえば、アダルトビデオを作っているある若者は、「好きなことをやっている自分が好き」と言っていた。彼は、自分の仕事の内容を両親にも隠している。親がその仕事を「よいもの」とは思わないことを、よく知っているからだ。しかし、親にも言えない仕事をしているからといって、彼は決して卑屈に過ごしているわけではない。自分の中だけにある、自分にしかわからない自信や誇りが、彼の仕事ライフを支えているようだった。
 
 このように、社会的な評価やお金に直接つながらなくても、自分の好きなことを仕事にしたい、という若者はとても多い。失業率の上昇が社会問題になって久しいが、その中にも「本当に好きな仕事が見つかるまでは、たとえお金に困っても働きたくない」と、自ら進んで離職する若者も案外多く含まれるという。
 
 おそらく彼らは直感的に、他人や世間に対してではなく、自分で満足を覚え、自分に対して誇りを感じられるような仕事こそ、生きていく上でのいちばん大切な差さえになることを知っているのだ。たとえそれが、客観的には「よいとは言えない仕事」であったとしても、よい仕事≠しつつ自分に誇りを感じられないよりは、ずっといいのではないか。そう思っているのだろう。
 
 こういうような、ごく内面的な基準でのみ行なわれる職業選択は、大人にはなかなか理解しがたいものだ。「自分でもよいと思っていないような仕事にどうしてつくんだ」「なぜ、こんなよい仕事を自分からやめてしまうんだ」と疑問に思う場面も多いはずだ。しかし彼らは、「自分で自分を誇ることができる」という、ほかのだれにもわからない基準で仕事を選ぶことが最も大切だ、と思っている。
 
 逆に考えれは、いくら評価や賃金が高くても、自分で好きだと思い込めない仕事についている若者は、「自分は不幸だ」と感じていることだろう。そういう若者に「キミの仕事は立派なんだから、もっと誇りを持って、積極的に働きなさい」と言う前に、大人は「私は本当に今の仕事に誇りを感じているか」と自問すべきだ。
 
そこで「その通り」という答えが出た場合は、その個人的な気持ちを若者に伝えれはよいと思う。しかし、もし「違う」という答えが出た場合はどうすればよいか。大人はすぐにそこで仕事をやめるわけにはいかないだろうが、そこではじめて若者と同じ目線の高さで語れる大人になれることは確かだ。
 
 ただもちろん、すべての人が「好き」だけで職業を決めていくと、社会はアンバランスなものになってしまう。「本当にやりたいこと」しかやりたくない、という彼らの純粋な思いを大人もわかってやった上で、次の段階ではより広く社会全体を見わたせる力を育てる必要もあるのだが。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p200-203)
 
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 結社や政治的原則のなかにあらわれているイギリスの労働者の公的性格については、のちにもっと詳しくのべなければならないであろう──ここでは、われわれは、いままでのべてきた諸原因の結果を、それが労働者の個人的な性格に影響しているかぎりにおいて、のべることにしよう。
 
──労働者は日常生活においてブルジョアジーよりもはるかに人間的である。すでにのべたように、乞食はたいてい労働者にだけ声をかけるものだし、貧民の扶養のためには、一般的にいって、ブルジョアジー側よりも労働者の側の方が、多くのことをしている。
 
こういう事実──これはそれ以外でも毎日見られるとおり確認されるのだが──とくにマンチェスターの聖堂参事会員であるパーキンソン氏によって確認されている。「貧民は、金持が貧民に与えるより以上に、おたがいに与えあっている。こういう私の主張は、わが最長老で、もっとも熟練した、もっとも観察力のある、そしてもっとも人間的な医師の一人であるバーズリ博士の証言によって裏づけられる。彼はしばしば、貧民が年々与えあう総額は、同じ期間に金持が寄付する額をこえていると、公言している」。
 
──そのほかでも労働者の人間性は、うれしいことに、いたるところであらわれている。彼らは自分がきびしい運命を経験してきており、したがって、不偶な人びとにたいして同情することができる。彼らにとってはどんな人でも人間であるが、ブルジョアにとっては労働者は人間以下である。したがって彼らはブルジョアよりもつきあいやすく、親切であり、有産階級以上にお金を必要としているにもかかわらず、有産階級ほどお金に執着しない。
 
なぜなら彼らにとっては、お金はそれで買えるものの価値しかないからである。これにたいしブルジョアにとっては、それは特別な内在的な価値、神のような価値をもち、ブルジョアをいやしい、汚い「守銭奴」とするものなのだ。労働者はお金を崇拝する感情を知らず、ブルジョアほど貪欲ではない。ブルジョアはすべてのことを金もうけのためにおこない、自分の人生の目的を金の袋をつみあげることにおいているのである。
 
したがって労働者はブルジョアよりもはるかに偏見にとらわれておらず、事実をはっきりと見るひらかれた目をもち、万事を私欲の眼鏡をとおして見るということはない。彼らの教育が不完全であるために、彼は宗教的偏見におちいらないですんでいる。彼は宗教的偏見のことは理解しておらず、それに悩むこともない。
 
彼はブルジョアジーが夢中になっている熱狂的な主義のことを知らず、彼がいくらかでも宗教心をもっているとしても、それは名前だけのことで、けっして理論的ではない──彼は実際はこの世のためだけに生活し、この世の市民になろうとしているのである。
 
ブルジョアジーの著述家はすべて一致して、労働者が信仰をもたず、教会に通わないといっている。せいぜい、アイルランド人や、若干の老人たち、それに半ブルジョア、つまり監督、職工長などがその例外である。
 
しかし大衆のあいだでは、ほとんどどこにおいても、宗教にたいするまったくの無関心が見られ、信仰心があるとしても、きわめて幼稚な、わずかばかりの理神論で、空文句をとなえるだけの役にしか立たず、あるいは不信心者(infidel)とか無神論者というような言葉で呼ばれることをなんとなく恐ろしがっているためにほかならない。
 
どの教派の聖職者も、労働者にたいする影響力をつい最近失ったばかりなのに、労働者のあいだではきわめて評判が悪い。いまでは「あいつは牧師だ(he is a parson)」という呼び声だけで、しばしば、公開の集会の壇上から聖職者が追いだされるほどなのである。
 
そして生活状態一般と同じように、宗教教育その他の教育が不足していることもまた、ブルジョアにくらべて、労働者を偏見から解放し、伝統的な固定的な原理や先入観から自由にするのに役立っているのである。ブルジョアはその階級的偏見のなかに、若いときからつぎこまれてきた原理のなかに、耳の上まですっかりはまりこんでいる。
 
彼はどうしようもない。彼は、たとえ自由主義的な格好をしていても、本質的に保守的であり、その利益は既存のものと結びついていて、あらゆる運動に興味を失っている。、彼は歴史的発展の先頭からしりぞき、労働者がはじめは正当な要求として、つづいては実際にも、ブルジョアにとって代わるのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-上-」新日本出版社 p189-192)
 
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◎「それは、ひとつひとつの専門知識や技術そのものではなく、自律性、協調性、創造性、そしてその根底にあるつねに何かを獲得できるような基礎的な力」「労働という営みが人間に対して持つ抜きさしならぬ意義」……人が働く、労働者として生きることの意味を学び取ろう。
 
◎「彼は、たとえ自由主義的な格好をしていても、本質的に保守的であり、その利益は既存のものと結びついていて、……労働者がはじめは正当な要求として、つづいては実際にも、ブルジョアにとって代わるのである。」……とエンゲルスが言っています。わくわくしますね。