学習通信031004
◎「愛とはもともと、与えることであり、受けることではない」……
 
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恋愛の条件を満たせない男
 
 知り合いの女の子がシリアスな病気になって、いろいろと相談に乗ったり、病院を紹介したりした。とりあえず手術は成功したらしい。手術後しばらくして、病気になったことが理由で離れていった男友だちと、より信頼が探まった男友だちがいます、というメールをもらった。偶然かも知れないけれど、より信頼が深くなったのは経済力のある人ばかりでした、と書いてあった。わたしは偶然ではないような気がした。
 
 わたしの周りにも結婚しない女が多いが、彼女たちと話してみると、恋愛の前提となる条件を満たしていない男が多いことがわかる。条件というのは、身長や容姿や年収だけではない。多いのは、依存し、甘えているのに、そのことに気づかないという男だ。依存というのは、ヒモのように女に頼って生きるということではない。暴力をふるうのも依存だし、三歩下がって黙っておれについてこいというようなことを言うのも依存だ。
 
 一度セックスしたからといって自分の所有物のように扱うのも依存だし、支配しようとするのも依存だ。相手の時間や自由を侵し、相手の時間や自由を奪い、支配することで愛情を確かめようとするのはすべて依存だ。
 
「会社に行かずにおれの傍にいてくれ」
「友人と会うのを止めて、今夜はずっとおれの傍にいろ」
「おれが帰るときは玄関で三つ指をついて迎えてくれ」
「おれが言うことに口答えするな」
「おれの前でおれ以外の男をほめるな」
「会社を辞めて、おれとずっと一緒にいてくれ」
「おれと一緒に死んでくれ」
 
 すべて依存だ。しかし面倒なことに、昔はそれが依存ではなく愛情だと思われていて、今でもその名残が残っている。演歌の歌詞はほとんど依存だし、昔の映画も、いや恐ろしいことに今の映画やテレビのかなりの部分にも依存が愛情とダブって残っている。
 
 要するに、愛情というのは相手のために耐え、我慢すること、相手のために自分を犠牲にすること、という旧来の「物語」がいまだに確固として残っているということだ。愛情というのは相手がぼくのために我慢してくれること、という誤解をした男が案外多い。耐えて我慢をして、必死に尽くす母親に育てられた男は、そういった誤解をしやすい。
 
「わたしがこんなにあなたのことを考えているのに、どうしてあなたはわかってくれないの」
 
 そういう台詞と共に、母親の犠牲的な愛情を受けて育った男は、ぼくのことを好きだという女はぼくのために犠牲的・献身的に尽くしてくれるはずだという誤解をしたまま大人になってしまう。そういう男は、相手の自由や時間を尊重するという概念がない。
(村上龍著「恋愛の格差」p228-230)
 
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 愛は受動的な感情ではなく、活動性である。愛は、《それに参加する》ものであり、《おちこむ》のではない。愛の活動的性格は、もっとも一般的ないい方で表わせば、愛とはもともと、与えることであり、受けることではないと述べることによって描きだせるであろう。
 
 与えることとはいかなることであろうか。この質問への答は簡単なように思われるが、実際には多義的であり、非常に複雑である。もっとも広くひろまっている誤解は、与えることとはなにかを《断念すること》、奪われること、犠牲にすることであると考えることである。与えるという行為をこのような仕方で経験するのは、性格が受容的、搾取的、あるいは貯蔵的な方向づけの段階以上に発達しなかった人なのである。
 
市場型の性格では、与えようとする意志はあるが、それは受けることとの交換としてのみである。彼にとっては、受けることなしに与えることはだまされることなのである。性格が主として非生産的な傾向の人は、与えることを貧しくなることとして感ずる。それゆえ、この種の大部分の人は、与えることを拒むのである。
 
あるものは、与えることは犠牲だとして、それを徳であるとする。彼らは与えることがつらいというまさにその理由から、人は与えなければならぬと感ずるのである。彼等に与えられる徳は犠牲を甘受するというその行為にあるのである。彼らにとって、受けることより与えることのほうがより良いという規範は、喜びを経験することよりも損失を受けることのほうがより良いということを意味しているのである。
 
 生産的な性格の人にとっては、与えることはまったく異なった意味を持っている。与えることは潜在力の最高の表現なのである。与えるというその行為においてこそ、私というものは私の強さ、富、力を経験するのである。
 
この高揚された生命力及び潜在力の経験は私を喜びで満たす。私は自分自身が充満している、消費している、生きている、それゆえに楽しいという経験をするここでは、与えることは、奪われることであるからではなく、与える行為の中で私の生が表現されるために、受けるよりもいっそう楽しいのである。
 
──略──
 
 しかしながら、与えるということのうちでもっとも重要な領域は、物質的なものを与えるという領域にではなく、特にヒューメン(人間的)な領域にある。ここでは、人はなにを他人に与えるのであろうか。彼は自分自身を、自分の持つもっとも貴重なもの、自分の生命を与えるのである。しかし、これは必ずしも、彼が自分自身の生命を他のために犠牲にするということを意味するのではない。
 
──それが意味するのは、彼が自分の中に生きているものを与えるということである。彼が、彼の喜び、彼の興味、彼の理解、彼の知識、彼のユーモア、彼の悲しみ──彼の中に生きているすべてのものの表現と顕現とを相手に与えることを意味しているのである。
 
このように、自分の生命を与えることによって、その人は相手を富ませうるし、そこで自分が生きていることを強く感ずることによって、相手の生の感覚を強めている。彼は受けるためにまず与えるのではない。与えることはそれ自身非常な喜びなのである。与えることにおいて、彼は相手の生命になにものかを必然的にもたらす。
 
そして、自分以外の人の生命にもたらされたこのものは、また彼に戻ってくる。真に与える時、彼は逆に自分に与えられるものを受けざるをえないのである。他の人に与えることは、またその相手を、与える人とし、そしてこの二人の者は、生命にもたらしたものの喜びを共にするようになるということを意味している。
 
与える行為において、なにものかがあらたに生まれ、そして、その中に包まれるふたりは、彼らの間に生まれ出た生命に対して感謝するのである。特に愛に関していえば、愛することは、愛を作り出す力であり、無能力であることは、愛を作る能力が無いことを意味しているのである。この考えは、マルクスによって美しく表現された。彼は言っている。
 
《人間を人間として考え、人間的世界としての世界への自分の関係を、よくよく考えよ、そうすれば、あなたは愛を愛とのみ、信用を信用とのみ交換できるというようになる。もしもあなたが美術を鑑賞したいと思えば、美術的に訓練された人とならなければならない。もしもあなたが他の人に影響を与えようと思うならば、他の人を真に激励し助ける力を持つ人とならなければならない。
 
あなたの人間や自然へのすべての関係は、あなたの意志の対象に対応するあなたの現実の、しかも個人的な生命の一定の表現とならなければならない。もしも、あなたが愛を呼びさまさないような愛しかたをするなら、すなわち、貴方の愛が愛を生じないような愛であるとするならば、もしも、愛する人としての生命の表現において、貴方自身が愛される人となれないならば、貴方の愛は無能な愛であり、不幸なことである》と。
 
しかし、与えることが受けることを意味するのは、愛においてばかりではない。教師はその学生によって教えられ、俳優は観客によって刺激され、精神分析者は彼の患者──もしも、彼らが相互に対象として扱わず、相互に誠実に、そして生産的に関係するならば──によって癒される。
 
 与える行為としての愛の能力が、その人の性格の発達の程度に依存しているという事実を強調する必要はほとんどあるまい。それは特に、性格が生産的な方向に発達していることを前提としている。
 
この方向で、依存性、ナルチシズム的全能、他を搾取する欲望、貯蓄する欲望を克服し、そして彼みずからの人間的な力への信仰を獲得し、彼の目標へ到達することによって自分の力に頼る勇気を獲得することができる。これらの性質が欠けていると、その程度に従って、彼は自分自身を与えることを──したがってまた愛することを──恐れるのである。
(フロム著「愛するということ」紀伊国屋書店 p29-35)
 
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■「しんぶん赤旗 02.06.08」
 
 土曜インタービュー 漫画家 やなせ たかし さん
飢えた人に一切れのパン≠アれが本当の「ヒーロー」
 「アンパンマン」描いて30年
 
 「僕の顔を食べてください」──二十数年前、アンパンマンの紙芝居を初めて見たとき、「こんなやさしい正義の味方がいるのか」と衝撃でした。アンパンマンは、七三年に絵本に登場して以来、三十年。テレビ放映は十四年、絵本の発行部数は三千五百万冊を超えます。力こそ正義″というアメリカ流の手法がまかり通っているとき、異色のヒーローは輝きを失っていません。
 
 仕事場のドアに張られた手のひら大のアンパンマンの絵。通された応接室では、所狭しと飾られたキャラククーたちが迎えてくれます。
 「アンパンマンは、もともと子ども用につくった話ではないんです。ぼくの正義に対する考え方が反映したものです」
 
 登場の第一話で、アンパンマンは、空腹で倒れた人に自分の顔(アンパン)を差し出し助けます。目の前の人を助けるために自分も傷つく、ここに本当のヒーローを見いだしたと話します。
 
 「スーパーマンやウルトラマンなどいろんなヒーローがいるけれど、みんな敵はやっつけても自分は傷つかない。戦争でいうなら、どんな理由があっても、ミサイルを撃ち込んで、相手を殺すことは正義ではないと思います。それより、餓えた人をまず先に助けなければいけない。一切れのパンを渡すことのほうが大事です」
 
☆子どもらを励ます
 
 一九八八年からのテレビ放映で一気に過熱した人気。赤ちゃんからお年寄りまで幅広いファンが。やなせさん作詞の「それいけアンパンマン」のテーマソングは、「なんのために生まれて/なにをして生きるのか/こたえられないなんて/そんなのはいやだ」と生きる意味を問います。
 
歌を聴いて感動し、手紙を寄せた高校生もいます。「子ども向けにやさしく、簡単にではなく、ぼくの思うことをはっきり出すとこうなりました。ファミリーソングですよ」
 
 重い病気にかかった障害をもつ子どもたちもアンパンマンが大好きです。
 「言葉をほとんど話さないという自閉症の小さな女の子がお母さんといっしょにアンパンマンショップにこられました。その子はアニメのなかでアンパンマンにだけ興味を示すそうです。お母さんをみると目に涙をためていて…」
 
 入院中の子どもを見舞うためアンパンマンの着ぐるみを派遣したときには、元気が出たと喜ばれました。
 「でも、そういう子どもたちが亡くなることも多く、家族が『ひつぎに入れてあげたい』と人形を買いにきます。一周忌を迎えたころにも『好きだったから』と。アンパンマンを通して、子どもさんを思い出すのでしょうね」
 
★懐中電灯と太陽
 
 もう一つの代表作「手のひらを太陽に」は一九六一年、作曲家いずみたくさんとつくった歌。その後、NHKのみんなのうたで広く紹介されました。教科書にも登場し、今も歌い継がれています。
 
 「当時、ラジオドラマの構成などいろいろな仕事はしていましたが、漫画家としての仕事は少なく、迷っていた時期でした。ある晩、自分の手のひらの裏から懐中電灯をあて、見つめていると、真っ赤な血が脈々と流れていて。『ああ、おれはこんなに落ち込んでるのに、体は元気じゃないか』と。それを見て自分自身が励まされました。でも懐中電灯じゃなんだから太陽に。ミミズもオケラもみんな友達だという歌詞から、最近は『環境問題の歌』ともいわれています」
 
 漫画家仲間が年一回ひらく「環境マンガ展」への参加、新聞の連載など漫画制作の意欲は旺盛です。まんが甲子園の審査委員長を務めるなど、次の世代を育てるとともに、漫画王国日本≠フいきすぎたポルノや暴力表現には厳しい目を向けます。
 
 「ぼくらが規制するものではないけれど、作家やテレビのスポンサー企業や出版社は良心をもってやってほしい。ぼく自身は、首分の作品の中に毒は入れないということは考えています。良心的なものが描かれ、それが売れるということが大事だと思います。ドラえもんやサザエさんなどいいものは大衆に受け入れられていますから」
 
☆絶望の隣に希望
 
 相手を楽しませようとユーモアいっぱいに話すやなせさんは、八十歳を過ぎてなお、世の中に多くの作品を送りつづけ人々を励まします。元気の源は仕事を続けること。「仕事をしているとつらいことも忘れられる。つらい、つらいと思えばよけいつらくなる。それなら、この次は、きっとよくなると楽天的に考えたほうがいい」と前向きです。
 
 やなせさんの詩のなかに「絶望の隣には希望がいる」という思いをうたった作品があります。
 絶望の隣にそっと腰掛け、寄り添う希望″に困難にぶつかってもあきらめないで、目の前の人を助けようと精いっぱい生きるキャラククーたちの姿を重ねました。(文:中村尚代記者)
 
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こうしてまた貨幣は、個人にたいしても、そしてそれ自身本質であると主張する社会的等々の紐帯(ちゅうたい)にたいしても、こうした転倒(てんとう)をさせる力として現われるのである。それは誠実を不誠実に、愛を憎に、憎を愛に、徳を悪徳に、悪徳を徳に、奴隷を主人に、主人を奴隷に、愚鈍を理知に、理知を愚鈍に変ずる。
 
 実存しつつあり活動しつつある価値の概念としての貨幣は、一切の事物を倒錯させ置換するのであるから、それは一切の事物の全般的な倒錯と置換であり、したがって転倒した世界であり、一切の自然的ならびに人間的な性質の倒錯と置換である。
 
 臆病な者であっても、勇気を買うことのできる者は勇士である。貨幣は、ある特定の性質、ある特定の事物、ある特定の人間的な本質諸力と交換されるのではなく、すべての人間的および自然的な対象的世界と交換されるのであるから、したがって貨幣は──その所有者の立場からみるならば──あらゆる属性を、あらゆる属性や対象と──それと矛盾する属性や対象とさえも交換する。
 
貨幣はできないことごとを兄弟のように親しくさせるものであり、たがいに矛盾しているものを無理やりに接吻させるのである。
 
 人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養をつんだ人間でなければならない。
 
君が他の人問に感化をおよぼしたいと欲するなら、君は実際に他の人間を励まし前進させるような態度で彼らに働きかける人間でなければならない。人間にたいする ──また自然にたいする──君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現でなければならない。
 
もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みたさなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。
(マルクス著「経済学・哲学草稿」岩波文庫 p186-187)
 
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◎愛とはなにか≠たしたちのテーマですね。フロム、やなせ、マルクスと愛について語っています。「経済学・哲学草稿」からの抜粋はフロムの引用箇所です。
 
◎相手に求めること。自分が高まり、成長し、それを与えること≠サれが伝わっていくのですね。
 
◎労働学校を成功させようと力の限り奮闘する私たちも共有できます。
 いまから30年前、当時京都学習協事務局長であった有田光雄さんが、わたしたち運営委員の活動にたいして「報われることを期待しない活動である」と高く評価されたことがあります。いままたそれが再建されているのですね。開校まであと20日です。