学習通信031005
◎集団は不揃いがいいんだ。不揃いの人がたくさんいないとだめなんだ。
 
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父親が不在のホームドラマ
 
 だからそういうお父さんは、家では、妻や子どもたちが会社における社員のような存在でいるべきだと思っている。会社に面倒を見てもらっている自分と同じように、家族はお父さんに面倒を見てもらっているのだから、忠誠を尽くすのが当たり前だと思っているお父さんが多い。
 
 企業は銀行に面倒を見てもらい、銀行は大蔵省(当時)などの官庁に面倒を見てもらっていた。人生のレースは、普通の会社に入れるかどうかでほぼ決まった。普通の会社に入れればそれだけで安泰が保証され、それほど目立った仕事をしなくても確実に収入は増えていった。
 
そういう社会では、普通の会社に入るための競争が極端に激しくなり、入社が済めば基本的に競争はない。出世競争はあるが、昇進してもそれほど給料に差はない。
 
 普通の会杜に就職すること、それが日本社会の人生のスタンダードだった。国民的な漫画だった『サザエさん』も『ドラえもん』もお父さんは会社員だが仕事の内容も職種も明らかにされない。
 
会社員、というだけで日本人ほとんど全員がどういう人生かを理解できていたのだ。かつては、普通の会社に普通に勤める、というはっきりした共通理解があった。
 
 それが揺らぎ始め、崩れ始めているということは社会的に大変なことだと思う。人生のスタンダードというものが日本社会から消えようとしているのだ。近代化を終えた国家では当然のことなのかも知れないが、問題はそのことが社会的に自覚されていないということだろう。
 
すでに人生のスタンダードが揺らぎ、消えようとしているのに、そのことをメディアを含め多くの人が理解していない。
 
 社会が「標準モデル」のないことの重大さを理解していない。たとえば民放の連ドラは社会状況を反映しているとよく言われる。昔のホームドラマでは人生のスタンダードが描かれた。
 
しかしこの二十年ほどは「普通の会社で普通に働く」お父さんのいる家庭は連ドラにほとんど登場しない。
 
 スタンダードが失われた社会は混乱して当然だが、果たして解決策はあるのだろうか。もう一度スタンダードを設定することはできるのだろうか。典型的で一般的な日本人のスタンダードをどういう風に設定すればいいのだろう。
 
 結論から言えば、人生の標準を社会的に設定するのは無理だろう。この先、大不況や大恐慌、それに続く内乱や戦争でもなければ日本は求心力を取り戻すことができないと思うし、無理をして求心力を取り戻す必要はない。
 
つまり「みんな一緒」になる必要はなく、当然のことながらスタンダードも必要がないということになる。
 
 「普通」はもうないのだ。「普通」がないのだから、「普通の恋愛」や「普通の結婚」があるわけがない。普通に結婚したい、という女性は少なくないが、彼女たちはいったいどういうイメージで「普通」を考えているのだろうか。
(村上龍著「恋愛の格差」青春出版社 p98-100)
 
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 集団はやはり不揃いがいい
 
 学校は先生と生徒というふうに役目がはっきりしていて、教える人と教わりに来ている人というふうに思っているから、ああなるんだな。だから、そこに大きな無理があるわけだ。
 
 俺のところにくる人は初めは教わりに来ているかもしれないな。しかし、俺は教えるつもりで呼んでいるわけではない。俺は金を払っているんだから働けやと、それでいいんだ。
 
 うちから出ていっただれかが、小川にはなんにも教わってないといったら、そのとおりだよ。教えてはいないんだ。だけど、たくさん教わった、おかげで一人前になりましたっていうのもいるんだよ。そういうのは教わったんだろうな。それもこれも向こうしだいだ。
 
 そういう意味でいうと、俺ンとこは見ず知らずの何もできないようなやつに、宿泊させて、お金を払って、仕事を与えて、十年たったら、できるようになってよかったな、じゃ頑張れよ、つて送り出すわけだから、不思議なところだよ。
 
 しかし、それでもいいわ。別に恩返しをしてもらいたいとも思っていないし、損したとも思ってないよ。金を払うのも、そのほうがいいからだ。その分だけ働いてもらえばいいわけだ。
 
それ以上働いてくれればありがたいし、それ以下でもしかたがないし。それでもこれだけ大勢さまざまなやつがいれば鵤(いかるが)工舎はやっていけるし、十分食わせていけるよ。
 
 巣立っていった人だって、ここで世話になって、ここで育ったという誇りがあるといってもらわなくてもいいんだ。俺のことや鵤工舎が気にくわなければ、ここで教わったともいわないだろう、それぐらいのものだよ。
 
 ほかでやっているように、昔の親方みたいに三年が年季で二年のお礼奉公で上がるとか、期限を決めているのは、ある意味では学校と一緒や。そうすると、下手でも、自分でまだ満足にできなくても、五年になったから帰りますといえば、出すしかないやろ。
 
 しかし、ここだと十年と長いし、自分がうまいか下手か、どこが悪いかぐらいはみんなといるとわかる。自分のレベルがわかる。それも集団でいるからだよ。わからないようなやつだったら何年いたってだめなんだ。
 
 長い時間一緒にいるんだから、自分のことを隠してなんかおけないよ。最初、いいふりをしたり、知ったかぶりをしてもすぐにばれる。毎日、おたがいを見せていれば、あれがどういうやつかはわかってくるわけだよ。だから、ほかは何もいわなくてもいいわけだ。
 
 やはりこういう大きな仕事をやっていくのには、心をつくらなくてはならないからな。それには集団で生活することや。そして同じレベルのものを集めないことや。
 
集団は不揃いがいいんだ。不揃いの人がたくさんいないとだめなんだ。同じょうな人ばかりでは、心も何も育たない。バラバラな人が寄せ集まっていてこそ、みんなして協力しあうことで力を合わせようと思うし、相手をそういうやつだって認めてやっていけるんだ。
 
 相手がどんなやつか、どれぐらいできるかは、隣で仕事をやっていればわかるやろ。俺たちの仕事はいいか悪いか、口でどんなうまいことをいったってだめなんだから。できるかできないか、それだけなんだから。簡単なんだよ。
 
 それでも、うちは仲がいいというのは違うぞ。仲なんかよくなくてもいいし、助け合わなくてもいいんだ。助けてもらって、自分の修業が終わるわけではないからな。満足のいくまで自分ができなきゃなんにもならないんだから。
 
 だから、俺は鵤工舎の子にはいうんだ、絶対、徒党を組むなって。修業は自分のものなんだからな。
(小川三夫著「不揃いの木を組む」草思社 p92-95)
 
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 多様な職業を喪失する社会
 
 多様な個性による能力競争では、優劣の上下差はできない、と言う人がいる。しかし、それは、社会が異なる価値を認め、多様な才能を認めて、やれぞれに生きる場を与える社会であったときに、はじめて一般にそう言えることだ。
 
利益一辺倒の効率社会では、利益に適合するか、否かの基準でしか能力を評価しない。
(暉峻淑子著「豊かさの条件」岩波文庫 p119)
 
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◎「社会が異なる価値を認め、多様な才能を認めて、やれぞれに生きる場を与える社会」……。「つまり「みんな一緒」になる必要」はない。……「バラバラな人が寄せ集まっていてこそ、みんなして協力しあうことで力を合わせようと思うし、相手をそういうやつだって認めてやっていける」……日本共産党への「反共攻撃」ってこれと全く逆なんですね。