学習通信031006
◎昔は大物スターがたいてい遅れてきたが、このごろは小物も遅れてくる。
 
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ウソつきほど評価される政治家や官僚の世界──稲盛
 
 それは、誰しも同じです。みんな煩悩から逃れることはできません。だから、哲学がある、ないというよりも、その強弱の問題なのでしょう。
 
 その意味で、何が正しくて、何が間違っているかということも、おそらく心ある人はみんな知っていると思うのです。たとえばテレビで、自民党の幹部が不正問題などに絡んで、新聞記者から問い詰められるシーンを見ることがあります。その様子を見ていると、その人はいま騒がれている問題が、自分の哲学や信念からすると明らかにおかしいとわかっているようなのです。
 
しかし、それを認めたら、自民党がダメージを受けてしまう。だから党の幹部としては、どうしてもそれを認めることができない。その結果、非常に苦渋に満ちた顔をして、しどろもどろでつじつまの合わない非論理的なことをいってしまうのです。彼らの顔には、明らかに「内心は違うのです」と苦いてあります。自分の哲学に照らせば、自分のやっていることが、道に外れたり、恥ずかしいことであると知っているのです。
 
 では、「もう自民党を辞めます」という話になるかというと、そうはなりません。ただひたすらに耐えるのです。良心に恥じることであっても、それに耐えるのが、彼らの処世術なのです。
 
 いまの地位を守るために、たとえ信念とは違っても、また自分の良心に泥を塗ってでも、理不尽なことに耐えていくことで「あの人は立派な人格者だ」と評価してもらえるのです。何がほんとうに正しく、よいことなのかを知っていながら、あえて取り違えているのが、いまの政治家なのです。
 
 同じことは、官僚の国会答弁にも感じます。自分たちに落ち度があって、「それはまことに申し訳ありませんでした」と詫びなければならない局面であっても、ほとんどがとぼけた顔をしてみたり、答えにならない答えをしたりしています。彼らはほとんど日本の一流大学を出た秀才ぞろいで、しかも五十歳を過ぎ、家族を持って立派な大人にもなっている。何が恥であるかは十分に知っているはずです。
 
 そんな彼らのなかに、一人でも「子どもの前でウソをいうことはできない」「私は公人としての立場より、人間としての哲学を大切にする」などという人がいるかというと、誰もいません。みんな自分たちの組織を守るために、自分たちの地位を守るために、しゃあしゃあとウソをいうのです。
 
 みんな、哲学や信念に殉ずるよりも、世の中を器用に生きることのほうが大事だと思っているのです。哲学を知らないのではなく、じつは知っているのです。知っているから表情にも恥じらいみたいなものが表れるのです。知らなければ、「何が悪い」と開き直って、羞恥心のかけらも見せないでしょう。
 
恥を知っていながら、「書生論では生きられない」「それが大人なのだ」と自分を無理にでも納得させ、あえて人間としておかしな行為に走る。その人の周囲も同じ穴のムジナばかりですから、それを責めようともしない。そこに、いまの社会の乱れの根本原因があると思います。
(梅原。稲盛著「新しい哲学を語る」PHP p27-29)
 
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◆「カンケーないよ」
 
 実は、このグループ・インタビューでは、もう一点、彼らの現実を痛感させられたことがあった。
 
 インタビューに応じてくれる若者を募集するため、アルバイト情報誌に募集要項を掲載したところ、けっこうな数の応募者があった。拘束時問は二時間程度で、彼らが日ごろ感じていることや自分の考えを話してもらうだけにしては高額なアルバイト料だったことが、その理由だと思う。応募者にはまず履歴書を提出してもらった。そして、そのなかからこちらが求める属性の若者たちを選択し、アポイントを入れたのだった。
 
 結果を先に言ってしまえば、当日、時間通りに約束の場所に現われたのは、約半数にすぎなかった。
 アポイントを忘れている人もいるだろうと、前日にこちらから確認の電話を入れたのだが、そこでまず、二〜三割が減った。電話に出ないのである。しかし、そこは折り込みずみで、必要な数のほぼ三割増しで募集していた。そして、当日──。約束の場所に現われたのは、前日の電話で「行きます」と確約した人の約半数というありさまであった。
 
 アルバイト情報誌に掲載されていた記事を見て応募してきたのは、彼らである。彼らが自発的に参加することを決めたわけで、当然、彼らは仕事の内容や報酬に高いモチベーションをもっていたはずなのだ。ところが、そういう結果になったのは、いったいどういう理由なのか。そう疑問に思って、来てくれた人に聞いてみると、彼らが約束を守らなかった理由として考えられるのは次の二つだという。
 
一つは、「その朝になって気が変わった」。もう一つは、「突然、イベントが入った」というものだった。イベントというのは、飲み会や合コン、彼氏とのデートといった、彼らにとって非日常的な行事を指すらしい。
 
 「だけど、前日には約束通りに行くと言ったんだから、当日、ドタキヤンしたら相手が困るとは思わない?」
 すると、彼らはこう答えた。
 「そんなのカンケーないよ」
 
◆仲間と石ころ
 
 ところが、である。彼らは、自分が交わした約束のすべてを軽視しているわけではないのだ。
 グループ・インタビューをした若者のなかに、非常に面白い体験や感想を上手に話してくれる女子学生がいたので、後日、あらためて詳細な個人インタビューをしたいと申し込んだ。すると、その場で快諾してくれた。
 
 「あなたはその日の朝になって、急に気が変わることはないの?」
 こう尋ねると、彼女は 「絶対にあり得ない」と言う。
 「だって約束なんだから、守るのが当然でしょ。約束を破るやつは許せない」
 「じゃあ、いまこの場で私と交わした約束と、昨日、電話で確認した約束とでは、何がどう違うの?」
 
 これに対する彼女の答えは、次のようなものだった。
 要は、一度でも会って言葉を交わした相手であれば、彼女たちにとって礼儀やルールを守るべき対象として認識されるというのである。そうした仲間うちでは、いまの若者も約束やマナーが大切なものであると感じることができるのだ。一方、会ったこともなければ直接、話をしたこともない相手なら、それは仲間″ではなく、そうした相手との約束やマナーはまったく意味がない。
 
相手が困るかどうかなど、「カンケーない」のである。そんな相手は、道端に転がっている石ころと同じなのだという。私は、彼女が説明してくれたこの論理に愕然としてしまった。
 
 いまの若者は、目の前にある具体的な存在しか、信義や礼儀、共感や連帯、優しさや思いやりの対象として認識していない。抽象的な存在に対しては、何のイメージも抱かず、リアリティを感じることはないというのである。
(波頭亮著「若者のリアル」日本実業出版社 p30-33)
 
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待つ女
 
 ガランとしたテレビの稽古場に、定刻十五分まえについて、ひとりポッンと待っているのはいかにもしまらない。
 
 これが撮影所なら、誰かウロウしているから、つかまえて間をもたすという手もあるけれど、テレビ局はさすがに秒族の生きるところとみえて、定刻まえにリハーサル室にはいる人は絶対ないし、廊下トンビをしてみても、人みなそれぞれの仕事に目の色が変わっていて、今日、ただいま、いっしょに仕事をする人以外は見向きもされない。そうしてまた、それが当然であるほどめまぐるしい世界なのである。
 
 どういうものか、生まれつきのせっかちが、いくつになってもなおらない私は、いつでもたいてい稽古場にいちばん早くはいる。もちろん私も、ごたぶんにもれず、かけもちも再々だが、A局からB局へいくのに、飛ばさずに車で何十分かかるのか、ということもあらかじめスケジュールにいれて組むし、いまどき「車がこんでいて……」など、言い訳にもならないから、それも計算に入れる。
 
だから思いのほかスンナリつくと、たいてい十分から十五分まえにリハーサル室につくという仕組みになってしまう。
 
 なんだか、ずいぶん私は待っているような気がする。五十年の女優生活のなかで、働いた時間をぐっと煮つめてみると、まあ一年くらいかしら、あとの四十九年は待っていたのかもしれない。「待つ問も月給のうち」と割り切っていたけれど、少し待ちくたびれた。
 
昔は大物スターがたいてい遅れてきたが、このごろは小物も遅れてくる。いい齢をしてあまり待ってばかりいるのも、格好がつかないようだ。よし″ある日突然、私は決心して、いつもなら家をでる時間になっても、じつとがまんして机の前に座っていた。
 
きょうの稽古は、とくに遅れる役者が多いのだ…‥・まだ早い……まだ早い……。右手の壁の時計をときどきチラリとにらみながら、お茶をちびちび飲んだ。きょうにかぎって、時計の針がゆっくりまわるような気がする。ええと、セリフはもう覚えたし、コートもきた。忘れものはないし……ああもうがまんができない。車へ飛び乗ると、運転手さんに「遅刻するわ、飛ばして…‥」とても私は大物にはなれそうもない。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p199-200)
 
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さらに、ここでわたしが二ページで書いた説明は、実行するばあいにはおそらく右の仕事になるだろう、ということがわかる。道徳的な観念をたどるにはできるだけゆっくりと進まなければならないし、一歩ごとにできるだけ確実に足を踏みしめなければならないからだ。若い教師たちよ、わたしはお願いする。
 
この範例をよく考えて、あらゆることにおいてあなたがたの教訓がことばによってではなく、行動によって示されなければならないということを忘れないでいただきたい。子どもは自分が言ったり、人から言われたりしたことほすぐに忘れてしまうものだが、自分がしたり、自分のために人がしてくれたことはなかなか忘れないものだ。
 
──略──
 
 あなたがたの気むずかしい子どもがなんでも手あたりしだいにぶちこわすとしても、腹を立ててはいけない。子どもがこわすおそれのあるものを手の届かないところにおくことだ。子どもが自分のつかっている家具をぶちこわす。すぐに代わりのものをあたえてはいけない。それがなくなったために生じる損害を子どもに感じさせるがいい。
 
子どもが部屋の窓をぶちこわす。昼間でも夜でも風の吹きこむままにしておくがいい。子どもがかぜをひきはしないかと心配しなくてもいい。ばか者になるよりかぜでもひいたほうがましだから。子どもがもたらした困った状態についてけっしてぶつぶつ言ってはいけない。
 
むしろだれよりも子ども自身がその困った状態を感じるようにするがいい。そのあとで、あいかわらずなにも言わないで、ガラスを入れかえさせる。それをまた子どもがこわす。そのときはやりかたを変えるがいい。
 
そっけない調子で、しかし怒ったりしないで、子どもにこう言ってやるといい。この窓ガラスはわたしのものです。わたしが手間をかけて入れたのです。わたしはそれがこわれないようにしたい。
 
そう言って子どもを窓のない暗いところに押し込めるのだ。このまったく思いがけないやりかたに、子どもはどなり、あばれはじめる。しかし、だれもそれに耳を傾ける者はいない。しばらくすると子どもはくたびれてしまって、調子が変わってくる。
 
子どもはうったえたり、うめいたりする。召使いがやってくると、そのあばれん坊はここから出してくれないかとたのむ。出してやらないためになにか口実をもちだすようなことはせず、召使いはこう答える。「わたくしもガラスを割られたくありませんので。」そう言ってかれは行ってしまう。
 
結局、子どもは何時間そうした状態にあって、やりきれなくなり、そういう経験を十分おぼえていられるくらい長いあいだそこにいたあとで、だれかが、先生と仲直りして、もうガラスをこわさないから自由にしてくれと申し出るようにすすめる。それは子どもにとって願ってもないことになる。子どもはあなたに来てくれるようにとたのんでよこすだろう。
 
あなたは子どものところへ行く。子どもが右のようなことを申し出たら、あなたは即座にそれをうけいれて、こう言ってやるがいい。それはけっこうなことです。わたしたちはおたがいに得をすることになるでしょう。なぜあなたはもっとはやくそういういい考えをもたなかったんでしょう、と。
 
それから、子どもに誓約も約束の確認ももとめないで、喜んで子どもを抱擁し、すぐに部屋に連れ帰るがいい。そしてその仲直りを、おごそかな誓いをたてたばあいと同じように、神聖にして侵すべからざるものと考えるのだ。そうしたやりかたによって、誠実な約束とその効用について子どもがどんな考えをもつことになるか、あなたがたにはおわかりだろうか。
 
すでに天性をそこなわれている子どもでなければ、こうしたやりかたをしても手におえない子ども、そしてあとでまた故意にガラスを割ろうとするような子どもが世の中に一人でもいるとしたら、わたしはたしかに思いちがいをしているのだ。
 
こういうことの通すじをよく考えてみるがいい。腕白な子どもはそら豆を植えるために土を掘りかえしながら、かれの知識がやがてそこへかれを閉じこめることになる牢獄を掘っていることなど、ほとんど考えていなかったのだ。
 
(原注62)
 それに、約束を守らなければならないという義務感が、子どもの心のうちに、その効用の重みによって固められないとしても、やがてあらわれてくる内面的な感情が、良心の掟として、それが適用される知識が得られればすぐに発達してくる生得的な原理として、それを子どもに命じることになる。
 
その最初のしるしは、人間の手によってしるされるのではなく、あらゆる正義の創造者によってわたしたちの心に刻みこまれているのだ。約束ごとの本源的な掟とそれが命じている義務とをとりされば、人間の社会におけるすべては幻想的な、むなしいものとなる。
 
自分の利益のために約束を守る者は、なにも約束していないばあいよりもいっそうそれにしばられているわけではない。あるいはせいぜい、球戯者がそのハンディキャップをいっそう有利な条件で利用する時機を待つためにそれを利用することをおくらせているように、その掟を破る可能性をもってしばられているだけだろう。
 
この原理は、このうえなく重要なものであって、深く研究される値打ちがある。ここで人間は自分自身と矛盾することになるからだ。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p146-148)
 
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◎嘘……うそが人をつくる。ブランドの様なものだろうか。
 
◎約束を守らない、はなから破るつもりでいる大物=B政治の舞台でも企業の労使関係でも簡単に反故にされる約束≠フ軽さ。稲盛氏も同じではないでしょうか。若者の行動を非難するばかりではすみません。
 
◎でも、会議への出席時間は労働学校運営委員もギリギリか遅れてくるのが「常識」のようです。再々5〜10分前には参加を……と。