学習通信031007
◎結婚は、この世で出会った男と女が、一緒に生きることの同意に至った、一応の通過点でしかない。
 
■━━━━━
 
結婚
 
 現在、世界を支配しつつある、この厳格な一夫一婦の結婚制度は、ローマ時代、初期キリスト教の布教着たちが発明したものだが、果たしてこれが人間の自然に叶ったものであるのかどうかは疑わしい。しかし、僕たちはもうその中に取り込まれている。だから、人を愛したら結婚したいと思ってしまう。ほとんど無意識に。
 
<結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如>サラクルー。
 明石家さんまさんが記者会見で引用してからというもの、この言葉はすっかりお馴染みになってしまった。
 
 カミュの『異邦人』(窪田啓作・佐藤朔共訳)の中での、主人公ムルソーとマリィという女の会話。
 
 女 「私と結婚したいか」
 男 「君が望むなら、してもいい」
 女 「あなたは私を愛しているか」
 男 「おそらく愛していない」
 女 「じやあ、なぜ私と結婚するの?」
 男 「そんなことはなんの重要性もない。君が望むから私はよろこんで健婚するるのだ」
 
 ムルソーの言葉の中に、男ないしは人間の不条理があり不可解があり、ひょつとして結婚する時、心の中にあるものが愛なのかどうか、本当に分かっている人間なんているのだろうか。何か分からない、もつと別な衝動で「この人と結婚する」と結論をくだしているような気がする。それを、判断力の欠如と呼ぶのなら、正しくそうかもしれない。
 
 僕も、判断力の欠如によって、結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如で、その結果はどうか、いや正確には途中経過だが、不思議と二十六年ももっている。僕ばかりでなく、相手も忍耐力があるのだろう。今のところ順調にいっている。当分このまま続くであろう。今現在言えることはそこまでだ。
 
〈結婚──いかなる羅針盤もかつて航路を発見したことがない荒海〉というハイネの言葉があるが、僕も目下荒海を、航海しているのだ。
 
 結婚について語ることは、死について語るのと似ている。死の世界についての正しい情報が皆無であるように、結婚についての正しい情報もゼロに等しい。死の世界に天国と地獄があるように、結婚生活にも幸福と不幸がある。幸福な人の自慢話を聞いても不幸な結婚は見えてこないし、不幸な人の愚痴を聞いても幸福な結婚は想像つかない。
 
 結婚生活かあるいは独身生活か、どちらがより幸福なのか不幸なのか、誰にも分からない。結婚については、どんな哲学者が何を言おうと、結局、幸福側か不幸側かどちらかからの側面的な報告でしかない。ゆえに結婚はたぶん不滅であろう。
 
 人間は結婚する。自分は天国に行けると信じて死にゆくように、人はみな幸福になれると確信して結婚する。
 
 結婚は恋のハッピーエンドであり帰着点である、とよくいわれる。『恋の手ほどき』という映画の冒頭で、モーリス・シュバリエは、結婚相手をつかまえた女を「恋の勝利者」と呼び、まだ一人ものの女を「恋の敗北者」と呼ぶ。が、決してそんな甘いものではない。
 
結婚は、この世で出会った男と女が、一緒に生きることの同意に至った、一応の通過点でしかない。いわば芝居の第一幕が終わったということであって、幸福になるためには第二幕も第三幕も見事に演じきらなくてはならない。ハッピーエンドの先にはまだまだ怖いストーリーが待っているのである。恋の勝利者が結婚の敗北者にならない保証はどこにもない。
 
 嫁ぎゆく娘に贈る父の言葉。
 
「結婚していきなり幸せになれると思う考え方がむしろ間違っているんだよ。幸せは、(略)やっぱり自分たちで創り出すものなんだよ。結婚することが幸せなんじゃない。──新しい夫婦が、新しい一つの人生を創り上げてゆくことに幸せがあるんだよ」(『晩春』小津安二郎監督)
 では、幸福とはどんなものなのか。
 
*二人の関係を社会に認知させる。
*二人一緒にいることが自然の状態になる。
*二人はお互いに独占し束縛しあう。
*二人はお互いに影響しあう。
*二人は長所も短所も見せあう。
*二人は同じ姓を名乗る。
*二人は同じ宗教を信じる。
*二人は家庭をもつ。
*二人は子供を作り育てる。
*二人は家族を作り、ともに暮らす。
*二人は善悪を超えて一心同体になる。
*二人は長い年月をともに生きる。
*二人は力を合わせて人生を創造する。
*伴侶の死をみとる。
*伴侶にみとられて死ぬ。
*二人は同じ墓に入る。
 
 これが、幸福というものの、おぼろげなデッサンであろう。しかし、この幸福の絵を完成させるためには、計り知れぬ努力と忍耐が要る。大いなる忍耐の向こうに、平凡でちっぽけな幸福の可能性がほの見えている。
 
その平凡でちっぽけな幸福ができかかってくると、それが実はものすごく価値あるもので、世界を敵にまわしても、祖国に見捨てられても守り抜きたい、命にも変えがたい小宇宙であることに人は気がついてくるのだ。
 
<きみに子供が十人できて、きみの姿を十倍に殖やすなら、きみは今より十倍も幸福になる。そうなれば、この世を去るときがきても、死にはなにもできますまい。でも人に忘れられる生き方がいいのなら、ひとりで死になさい。それなら、その面ざしも一緒に死にたえます>
(シェイクスピア『ソネット集』 高松雄一訳)
 
<人がある好きな男とか女とかを実際上持っていない時、自分はどういう人間かと考えるのはまったく意味をなさない事ではないのか>
(小林秀雄『]への手紙』)
 
 好きとはどういうことか、それはその人のために死ねるということ。だから何度も言っている、恋の結末は別れか心中しかないと。心中をもいとわない二人が生きる決心をしてこそ力強い結婚になる。その人のために死ねるほどの愛をもって、その人とともに生きること、それが結婚というものだろう。死んだ気になって恋をしたものだけが、幸福になる資格をもつ。まずは命がけで人を愛することだ。
 
『恋愛100の法則』というこのエッセーは、いかに人を愛するかのおしゃべりであった。その基本テーマと精神は次の言葉だ。
 
<ただ人の世には一つだけ神聖な、崇高なものがある。それはあんなにも不完全な、あんなにも醜怪(しゅうかい)な二つのものの結びあいなのだ。人は恋愛ではいくたびとなく欺かれ、いくたびとなく傷つけられ、いくたびとなく不幸になる。しかし人は愛するのだ>
  (ミュツセ『戯れに恋はすまじ』進藤誠一訳)
 
 あなたに素晴らしい恋と、幸福な結婚のあらんことを!
(なかにし礼著「恋愛100の法則」新潮文庫 p578-592)
 
■━━━━━
 
 「愛情の関係」ではなく「経済の問係」
 
 そして、「結婚を愛情関係ではなく、経済関係とみなしている」というのは、日本に10年住む女性研究者です。
 残業とは仕方なくやるもので1分でも早く家に帰りたいものだと思っていたら、日本ではそうでもないということが最初はよくわからなかったそうです。
 
 ところが、主婦から夫の早い帰宅を望まない理由をきくうちに、彼女はようやく理解できるようになりました。
「残業カットで家計が苦しいから、もっと残業してきて欲しい」
「接待で食べてきてくれるほうが、手間も食費もかからなくてありがたい」
 
 そもそも結婚とは愛情で結ばれるものだと思っていたら、この国では経済関係でなりたっていることに気づいたことで、いくつかの疑問が解けてきたというのです。
 
 たとえば、専業主婦が夫の転勤についていかないのは、なぜなのか。
 日本では夫の健康管理よりも、子供の教育環境づくりのほうが優先されるからです。夫は愛情を育む相手というより家計を支える人です。かつては、給料運搬人といわれていましたが、いまでは銀行振込みになって運ぶ必要もありません。
 
 仕事する女性が夫の転勤についていかないと、自分勝手だと親戚から非難の的になったりします。ところが、専業主婦で母の役割をつとめていれば誰からも文句を言われないようになっています。
 
 たとえば、長期にわたって夫が単身赴任を続けられるのは、なぜなのか。
 欧米では、長期の別居は離婚の原因となっています。ところが、この国ではかえって夫婦の危機を救っているとさえいわれるのも、そもそも愛情を結婚のベースにおいていないからです。生活時間帯のズレからくる煩わしさから解放され、たまに会うときぐらいはやさしくできるからです。
 
夫が定年を迎えて生活をともにするようになると離婚が増えるというのも、いかに愛情よりも経済によって関係が保たれてきたかを表わしています。(松永真理著「なぜ仕事するの」角川文庫 p89-90)
 
■━━━━━
 以上が、古代のもっとも文明的でもっとも高度の発達をとげた民族のもとでたどりうるかぎりでの、一夫一婦婚の起源であった。
 
一夫一婦婚は、決して個人的異性愛の果実ではなく、それとは絶対に無関係であった。というのは婚姻はあいかわらず打算婚だったからである。それは、自然的条件ではなく経済的条件をもとにした、つまり本源的な自然発生的な共同所有にたいする私的所有の勝利をもとにした、最初の家族形態であった。
 
家族内での男子の支配と、自分の子であることにまちがいなく、自分の富の相続人となることになっている子どもたちを生ませること──このことだけが、ギリシア人があけすけに公言した個別婚の唯一の目的であった。
 
それ以外の点では、個別婚は彼らにとって一つの重荷であり、神々と国家と自分たちの祖先にたいして、それだけは果たさなければならない一つの義務であった。アテナイでは、結婚ばかりでなく、夫の側におけるいわゆる婚姻上の義務の最小限度の履行をも、法律が強制していた。
 
 このように、個別婚が歴史に立ち現われるのは、男女の和合としてでは決してなく、ましてやこの和合の最高形態としてなどではない。その反対である。
 
それが登場するのは、一方の性による他方の性の隷属化としてであり、先史の全期間にこれまで知られることのなかった両性間の抗争の宣告としてである。
 
一八四六年にマルクスと私が書いた古い未刊の草稿には、「最初の分業は、子どもを生むための男女の分筆である」(ドイツイデオロギー)と書いてある。そして今日、私はこれにこうつけくわえることができる。歴史に登場する最初の階級対立は、個別婚のもとでの男女の敵対の発展と一致し、また最初の階級抑圧は、男性による女性の抑圧と一致する、と。
 
個別婚は一大歴史的進歩であったが、しかしそれは同時に、奴隷制と私有の富とともに、今日までつづいているあの時期を、つまりそこではあらゆる進歩が同時に相対的な退歩──一方の幸福と発展が他方の不幸と押し戻しをとおして達成される相対的な退歩──であるあの時期をきり開いている。
 
個別婚は文明社会の細胞形態であって、われわれはすでにこの形態によって、文明社会で完全に展開する諸対立と諸矛盾との本性を研究することができる。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p90-91)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎結婚とはなにか……。
 
◎「個別婚が歴史に立ち現われるのは、男女の和合としてでは決してなく、ましてやこの和合の最高形態としてなどではない。その反対である。」っと。 学習通信031004 と合わせて学習しましょう。