学習通信031008
◎労働者の状態……「しかし偽善的な、かくされた隷属状態は、少なくとも外見上は自由の権利をみとめる。」
 
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30代中心に急増する精神疾患と過労自殺
 
 30代を中心にした若い世代の過労死、過労自殺が急増しています。大阪過労死問題連絡会事務局長の岩城棟弁護士は、過労で倒れる若い人たちの特徴をこうみます。
 
 「20代、30代の若い世代は、40代、50代が大量にリストラされて職場を追われるなか、以前にも増してノルマが過重になっている。とくに30代の場合、家庭生活でも責任が重くなってくる世代でもあり、仕事がきつくても辞められない。そうした重圧が過労死や過労自殺の増加につながっているのではないかと思います」。
 
 30代を中心にした若い世代の過労死・過労自殺の増加はさまざまなデータからもうかがえます。2001年度の「過労自殺」と認定された件数は31件(未遂も含む)。このうち30代が前年の3件から11件と最多となり、3人に1人が30代となりました。ついで40代の9件。20代が前年の1件から5件に増え、3番目に多くなっています。
 
 過労がもとでうつ病などの精神疾患(自殺も含む)にかかり労災認定されたケースでみると、20代、30代が圧倒的に多く、全体の63%を占めています。計70件のうち20代が24件、30代が20件です。
 
将来展望も見えず
 
 こうした若い世代の心の健康状態の悪化は、労働時間の長さにもあらわれています。
 総務省の2001年の労働力調査によると、過労死ラインといわれる週60時間 (年間約3120時間)以上働いている男性労働者(非農林業)の全世代平均は17・4%ですが、30代は22・7%と最も多くなっています。
 
 注目されるのは、男性30代は平均でも週50時間に達しており、法定労働時間(週40時間)をはるかに超えていることです。ちなみに男性全世代の平均でも週47時間に及んでいます。
 社会経済生産性本部メンタルヘルス研究所が2003年3月に実施した282社対象のアンケート調査結果によると、「心の病」の最も多い年齢層として、118社(41・8%)が「30代」と回答しています。
 
 また同研究所が昨年、約50社、5万4千人を対象にアンケート調査し、心の健康状態(メンタルヘルス度)を偏差値化したところ、ここでも30代を中心にした若い世代に悪化の傾向がみられました。
 「仕事への負担感のなさ」「好調感」「将来への希望」などの偏差値が他の世代に比べて軒並み低く、不安や負担を感じる状況に置かれていることがわかりました。
 
 同研究所課長の飯田進一郎さんは 「中高年層のストレスはこれまでいわれてきました。しかし、現在はむしろ、若い世代の方がメンタルヘルスがよくない結果が出ています。30代は職場、家庭の両方での質的な変化に加えて、リストラによる人員削減で仕事の負荷が高まり、将来展望も見えないという状況を反映しているのではないか」といっています。(p52-54)
 
インタビュー
 
「強制された自発性」の悲劇──甲南大学教授・熊沢誠さんに聞く
 
 ある日本企業のドイツ工場を視察したことがあります。ドイツの労働者はなぜそんなに働かないのかと質問したところ、日本人の工場長はこういいました。「同一労働同一賃金と社会保障が充実しているからだ」と。
 
日本の場合の大きなワナ
 
 ドイツでは業種によって賃金が決まっており、がんばって業績を上げても直ちに賃金が上がるわけではない。また、教育や福祉が保障されているのでそんなにあくせく働く必要もない。その工場長はそんなことをいっていました。これは考えさせられる話です。
 
 日本の場合はどうかというと、50代ぐらいになると、同じ企業内でも、年収で三百万円くらいの差がつくのはザラです。社会保障も不十分なので個人でまかなう必要がある。子どもを私立大学に進学させられるか、老後を安心して送れるか、会社でのがんばりがそうした生活にもろにはね返ってきます。
 
 ようするに日本の場合、会社でがんばることが生活を大事にすることにつながるんだということですが、そこに大きなワナがあります。家族のために働いているのに、長時間労働で家族とのコミュニケーションを失い、自分の健康もそこねてしまう。そこがまことに悲劇的なところです。
 
 実際に職場はどうなっているかというと、定時に退勤し、休暇をちゃんと消化すると、こなしきれないほど仕事量が増えています。また、良い査定をされないと、中流″の生活を維持するのが困難になるような「能力主義的選別」のシステムが浸透し、労働者はいや応なしに過酷なノルマに駆り立てられています。
 
成果主義と裁t労働制で
 
 私はこうした労働者の置かれている状況を「強制された自発性」と呼んでいます。
 現在、これにリストラが追い打ちをかけています。ワークシェアリング(仕事の分かち合い)の方向ではなく、去る者は去れ、残る者はさらにがんばれというムードがつくられています。くわえて成果主義と裁量労働制の導入でサービス残業が目に見えない形で増えており、労働時間に対する意識が著しく希薄になってきています。
 
 若者の過労死が増えているのも、こうしたリストラや能力主義的管理の進展と関係があります。昔は35五歳くらいまでじっくり育てる土壌がありましたが、今は即戦力という考え方です。2、3年もすれば最前線で重責を担わされているのが現状です。
 
 今日の特徴は、リストラと過労死の共有関係に端的に表れています。リストラの時代になぜ過労死が増えているのか。この視点から問題に接近することが大切です。
 現在、過労死してもおかしくない週60時間以上(年間3千時間以上)働いている男性労働者は、労働力調査でも17%います。これは実に1840年代当時の貴初の工場法のもとにおける労働時間に該当します。
 
 労働組合はこうした現状を直視し、サービス残業の是正や年次有給休暇の取得などについて、貴重点課題として取り組む必要があります。
(くまざわ まこと・経済学博士、労使関係論、社会政策論)(p192-194)
(しんぶん赤旗国民運動部「仕事が終わらない」新日本出版社)
 
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 さて、工場制度のもう一つ別な側面へ、目をむけてみよう。この側面は、工場制度から生ずる病気よりも法律の規定であらためることの難しいものである。われわれはすでに労働のあり方については一般的に論じたし、また、与えられた事実からもっとつっこんだ結論をひきだすのに十分なほど詳しくのべてきた。
 
機械を監視し、切れた糸をつぐことは、労働者の思考を必要とするような仕事ではないが、他方では、労働者がみ精神をほかのことに使うのを妨げるような種類のものである。同時に、このような労働は筋肉にたいしても、肉体的活動にたいしても、まったく活動の余地を与えないものであるということも、われわれは見た。
 
このように、これは本来なんら労働といえるようなものではなく、まったく退屈なもの、この世でもっとも人を押しつぶし、疲労させるものである一工場労働者はこういう退屈さのなかでその肉体的精神的な力を完全に衰えさせていく運命にあり、彼は八歳のときから一日中退屈していることが職業なのである。
 
さらに彼は一刻も仕事からはなれられない−蒸気機関は一日中動いているし、車輪やベルトや紡錘は絶え間なく耳もとでブンブンうなり、ガチャガチャ鳴っている。そして彼がすこしでも休息しようとすると、すぐに監督が罰金帳をもってうしろにやってくる。
 
このように工場に生き埋めにされ、疲れを知らない機械に絶えず注意していなければならないという青書をうけたことは、労働者にとってはきわめてきびしい拷問のように感じられる。しかしそれはさらに、労働者の肉体と同じように、精神をも極端に鈍らせるという作用をする。実際に、人間を愚鈍にするには工場労働ほど良い方法はない。
 
それにもかかわらず、工場労働者がその知性を腐らせないだけでなく、ほかの人以上に知性をみがきあげ、とぎすましているとすれば、それはやはり、みずからの運命とブルジョアジーとに反逆することによってのみ、可能となったのである──この反逆だけが、労働者が働きながら考え、感ずることのできた唯ーのものであった。
 
そしてもし、ブルジョアジーにたいするこういう怒りが労働者の支配的な感情にならないときには、その必然的な結果は飲酒であり、また一際にふつう退廃と呼ばれているすべてのものである。
 
肉体的疲労や、工場制度のために一般化した病気だけでも、公式の委員であるホーキンズにとっては、必然的にそこから退廃が生ずると十分に考えられることであった──これにさらに精神的疲労が加わり、またどんな労働者をも退廃させてしまうような先にのべた事情が、ここでも影響をおよぼしてくるなら、退廃の必然性はどんなに多〈なることであろうか!
 
したがって、とくに工場都市において飲酒癖と乱れた性関係が、すでにのべたように、ひどい状態になっていることは、まったくおどろくべきことではないのである。
 
 さらにつづけよう。ブルジョアジーがプロレタリアートをしばりつけている奴隷制度が、工場制ほどはっきりと表にあらわれているところはない。ここでは自由はすべて、法律的にも事実上もなくなっている。労働者は朝五時半には工場にいなければならない──二、三分でも遅刻すると罰せられ、一〇分遅れると朝食が終わるまで工場にまったくいれてもらえず、賃金の四分の一を失う(一二時間のうち働かなかったのは二時間半だけだったのに)。
 
彼は命令どおりに食べたり、飲んだり、眠ったりしなければならない。彼はもっともさしせまった生理的要求をみたすのにも、それに必要な最低の時間しか与えられていない。彼の住居が工場から半時間、あるいはたっぶり一時間かかるほど遠く離れていても、工場主は気にしない。時計のベルが暴君のように彼をベッドから呼びだし、朝食や昼食から呼びだす。
 
──略──
 
しかし、このように恥ずべき専制がなければ存在しえないような社会秩序とは、いったいなんなのか? 目的が手段を神聖化するのか、それとも、手段が不当なら目的も不当であるという結論が完全にみとめられるのか、いずれかである。軍隊の経験のあるものは、たとえ短期間であっても軍隊の規律のもとにいるというのは、どんなものであるかを知っている。
 
しかし、これらの労働者は、九歳から死ぬまで、精神的肉体的な鞭のもとで生きていくよう、運命づけられているのだ。彼らはアメリカの黒人よりもひどい奴隷でみる。
 
なぜなら彼らは黒人以上にきびしく監督されているからである──それでいでなお、彼らは人間らしく生き、人間らしく考え、感じるべきだと要求されているのである! たしかに彼らは、彼らをこのような状態におとしいれ、機械と同じようにあつかっている抑圧者と制度にたいして、燃えるような憎悪の念をもつときだけは、人間らしい感情をもう一度もつことができるであろう! 
 
──略──
 
 しかし、そのほかの点でも労働者は雇主の奴隷である。労働者の妻や娘が金持の主人の気にいると──主人はただ命令さえすれば、ただ目くぼせさえすればよい。そうすると彼女たちはその魅力を主人にささげなければならない。
 
工場主がブルジョアジーの利益を守るための請願書を署名でいっぱいにしようと思うときには──それを自分の工場へ送りさえすればよい。議会の選挙で当選したいと思うときには──彼は選挙権をもつ自分の労働者を、列をつくって投票所へ送りこめばよい。
 
そうすると労働者は、いやおうなしにブルジョアに投票しなければならない。公開の集会で多数を占めたいときには──彼はふだんより三〇分早く労働者を解放し、自分でしっかりと監視できる演壇のすぐそばに、彼らの席をとるのである。
 
 しかしさらに、労働者が工場主の支配下にはいるよう強制するのに、とくに役立っている二つの制度がある──すなわち、現物給与制度と小屋制度である。現物給与とは、労働者の場合、賃金を品物で支払うことであり、こういう支払い方法は以前はイギリスできわめて一般的であった。
 
──略──
 
 これが工場制度である。私はそれを紙面のゆるす限り詳しくのべた。また、身を守る力のない労働者にたいするブルジョアジーの英雄的行為を、なるべく公平にのべた。この行為について無関心でいることは不可能であり、無関心でいることは犯罪的なことなのだ。
 
だがもう一度、一八四五年の自由なイギリス人の状態を、ノルマンの貴族の鞭のもとにあった二四五年のサクソン人農奴の状態とをくらべてみよう。農奴は土地にしばりつけられていた。。自由な労働者もそうである──小屋制度によって。農奴は領主に初夜権をささげる──自由な労働者は初夜だけでなく、すべての夜の権利をささげる。
 
農奴は財産をもつことができず、彼が稼いだものはすべて領主がとりあげることができた──自由な労働者も同じように財産をもっていないし、競争の圧力によって財産を手にいれることができない。そしてノルマン人さえやらなかったことを工場主はやる。
 
つまり工場主は現物給与制によって労働者の直接的な生計手段を毎日管理しているのである。農奴と領主の関係は法律によって規制されていたが、この法律は慣習に一致していたために守られており、そして慣習自体によってもこの関係は規制されていた。
 
自由な労働者とその主人との関係は法律によって規制されているが、この法律は守られていない。というのは、それは慣習にも一致せず、主人の利益にも一致していないからである。
 
領主は農奴を土地からひきはなすことはできなかったし、土地からひきはなして農奴を売ることはできなかった。そしてほとんどすべてのものが長子相続財産で、資本はどこにもなかったので、そもそも農奴を売ることはできなかった。
 
近代のブルジョアジーは労働者にたいして自分自身を売ることを強制する。農奴は計分が生まれた土地め奴隷であった。労働者は必要不可欠な生活必需品と、それを買わなければならないお金との奴隷である──両者とも物の奴隷である。
 
農奴は封建的社会秩序のなかにおのおのの場所をもっており、それによって里村を保護されていた。自由な労働者はまったく保障をもっていない。なぜなら彼はブルジョアジーが彼を必要とするときにのみ、社会のなかに場所をもつからである──それ以外のときは彼は無視され、まったく存在しないものと見なされている。
 
農奴は戦争のときには主人に身をささげる──工場労働者は平和のときに身をささげる。農奴の主人は野蛮人で、自分の隷属民を一頭の家畜と見なしていた。労働者の主人は文明人で、労働者を機械と見なしている。ようするに両者はあらゆる点でほとんど同じなのだが、どちらかの側に不利な点があるとすれば、それは自由な労働者の側である。
 
両者ともに奴隷であるが、ただ、一方の隷属が偽善的ではなく、公然として、あからさまであるのに、他方の隷属は偽善的で、自分自身からも他人からむ陰険にかくされていて、昔のものよりもむつとひどい神学的農奴制である。人道主義的なトーリ派の人びとが工場労働者に白人奴隷という名称を与えたのは正しかった。
 
しかし偽善的な、かくされた隷属状態は、少なくとも外見上は自由の権利をみとめる。それは自由を愛する世論に屈服しており、少なくとも自由の原理がつらぬかれているところに、昔の奴隷制にたいする歴史的進歩がある──そして抑圧された人びとはもちろん、この原理が実現されるよう、つとめるであろう。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-上-」新日本出版社 p256-269)
 
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◎「仕事がきつくても辞められない。そうした重圧が過労死や過労自殺の増加につながっている」「労働者の置かれている状況を「強制された自発性」と呼んでいます」……と現代の労働者階級の状態です。
 
◎「近代のブルジョアジーは労働者にたいして自分自身を売ることを強制する」……と。1845年のエンゲルスの指摘です。ここから私たちは何を学ぶことができるのか。
 
◎資本主義のしくみを深く学ぶ労働学校へ。多くの仲間へ声をかけてください。開校式まであと17日です。