学習通信031010
◎小泉政治 …… 国内の敵を攻撃したり、あいまいなスローガンで問題の本質を覆い隠したりすることで人気を得る
 
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書評
日本型ポピュリズム 大嶽秀夫著
 
 「ポピュラー」という言葉は肯定的な意味合いを持つが、「ポピュリズム」となるととたんに否定的なニュアンスを帯びる。日本政治では「統治責任を放棄し、大衆に『甘い』政策を訴える『大衆迎合主義』と同義に使われてきた」と政治学者の著者は指摘する。
 
 しかし、小泉首相に代表される人気政治家は、頻繁にニュースやワイドショーに登場することで、簡明な主張が広く国民に認知され、支持されてきたことは否めない。そればかりか、そのことを「ワイドショー政治」などとやゆしながら、実はマスコミも国民もそれほど深刻な問題と見なしていないのも事実である。
 
 テレビ画面などを通じて国民の情緒に訴え、「政治家らしからぬ政治家だから」という不思議な理由で大衆を引きつけた小泉首相や田中真紀子氏人気の陰に、著者は日本的な.「ネガティヴ・ポピュリズム」を見て取る。
 
 つまり、強いスローガンや政策で国民に自信を与える米国型の「ポジティヴ・ポピュリズム」とは異なり、国内の敵を攻撃したり、あいまいなスローガンで問題の本質を覆い隠したりすることで人気を得るのである。
 また、マスコミ側も読者や視聴者からの批判を恐れるあまり「アイドル政治家」の独走を批判しようとはしなくなる。
 
マスコミが態度を変えることがあるとすれば、政治家にスキャンダルが生まれたときだ。そのときは「悪玉か善玉か」というポピュリズムの二元論に従い、国民とともに手のひらを返したかのような批判に転じる。
 
 本書からは、日本型のポピュリズムを生み出す国民やそれを利用しようとする政治家にも責任はあるが、最大の問題はポピュリズムの解毒装置とならなければならないマスコミがその機能を果たしていない問題点が浮かび上がってくる。
 
 現状では、たったひとつの解毒剤は「(飽きさ替る)時間」だけ、と著者はペシミスティックな結論を述べる。テレビのコメンテーターとして報道現場も知る著者のメッセージを、マスコミ人や受け手である国民はどう受け止めるだろうか。(中公新書・九二〇円)
 香山リ力・精神科医(京都新聞 030914)
 
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 小泉の政治指導は、マスコミの論評などで、しばしばポピュリズムと評される。その大衆動員、大衆的支持調達に懸念をもって、ファシズムと近い意味で用いられることも少なくはない。とくに、石原慎太郎を念頭において、その人気を警告する含意をもってである。
 
ところが反対に、こうした扇情的スローガンによる積極的動員ではなく、大衆の意見に同調した機会主義、ご都合主義、大衆迎合主義という批判的含意をもって使われることも少なくない。最近の傾向では、この意味合いで使われることの方が多いようである。
 
言い換えると、「ポピュリズム」という表現は、日本政治においては、主として、統治責任を放棄し、大衆に「甘い」政策を訴える「大衆迎合主義」と同義に(すなわち、エリート主義的な左翼批判の含意をもつという意味でタカ派的立場から)使われてきた。
 
たとえば、小沢一郎による小泉内閣批判に使われるときの「ポピュリズム」はその意味である。また、加藤紘一は、二〇〇〇年の「加藤の乱」を振り返って、自らが自民党の(とくに財政規律の喪失を念頭において)「ポピュリズムの政治」を批判したものであったと述べている。
 
 小泉の場合は、批判者それぞれの立場を反映して、扇情的大衆動員および大衆への迎合、いずれの意味でも用いられるところに特徴がある。ここでは、ポピュリズムが政治「学」上、いかなる概念として用いられてきたか、そして現代日本政治の理解のためには、どう定義するのが望ましいかを検討したい。
 
──略──
 
 小泉のネガティヴなポピュリズム第一に指摘できることは、小泉の場合もレーガンと同様、ネオ・リベラルな政策志向とネオ・リベラルのもつ政府批判・政治批判を、主張の中核にもつという点である。小泉自身、「小さい政府を目指す」、「民間にできることは民間に任せる」というフレーズを繰り返している。
 
しかも、それまで政府によって無視されてきた新中間層を主たるターゲットとした支持調達を行っていることもレーガンに共通する。そのため、義憤や反感を基礎としているとはいえ、極右政党のような極めて扇情的、排外主義的なスローガンは、回避されている。ネオ・リベラル型ポピュリズムは、穏健なタイプのポピュリズムであるといってよい。
 
 ただ、日米のネオ・リベラリズムの違いを反映して、小泉のポピュリズムには次のような二つの特徴がみられる。
 
(1)日本の場合は、ネオ・リベラリズムが(論壇以外の場では、すなわち政治家や世論のレベルでは)必ずしも体系的な理念として登場しなかった。それ以上に、九〇年代には政治腐敗が「改革」の主要ターゲットとなったこともあって、ネオ・リベラリズムの体系的思想とのつながりが弱く、素朴な「効率」、「無駄・浪費(贅肉)の排除」がポピュリズムの中心課題となった感がある。
 
──略──
 
 その結果、小泉の場合、批判の根幹は、何よりも官僚・公務員の既得権擁護の姿勢に置かれている。周知のように、小泉の持論たる「郵政事業の民営化」は、財政投融資によって生き延びている特殊法人とそのポストへの天下りがもたらす巨大な財政の無駄をなくすことを目的としたものである。
 
彼が、日本政治の最大の問題は行財政改革にあり、日本の政治の最大の無駄こそ、郵政事業に板をもつ、と明言したのは、この認識を根拠としている。小泉は、これを唯一の争点として、最初の(橋本との)総裁選挙を戦った。彼のネオ・リベラリズムは、新自由主義的思想体系の所産ではなく、官僚批判と現実の財政危機の認識とから生まれているのであって、具体的な処方箋のレベルをほとんど離れていない。
 
(2)小泉のポピュリズムは、扇情的側面がレーガン以上に少ない。一層、穏健なのである。レーガンの場合、ポピュリズムと分かちがたく結びつく、アメリカ史に独特の二つの要素があった。
 
一つは、アメリカが神によって選ばれた国であるという「市民宗教」(ナショナル・プライド)であり、もう一つは、外部の敵の脅威、すなわち安全保障の強調である(その際、敵国もまた、ファシズムや共産主義などイデオロギーや国家制度ではなく、リーダーに人格化されてイメージされる)。
 
この両者は、アメリカだけに固有のものではない。そのことは、サッチャーがフォークランド戦争でみせたナショナリズムの喚起を想起すれば充分である。ところが、小泉には、この要素が全くといってよいほど欠けているのである。
 
 このことは、他面からいえば、小泉には、レーガンのように国民に自信を与えるポジティヴなポピュリズムよりは、(国内的)敵を攻撃するネガティヴなポピュリズムの色彩が強い。というより、小泉には、前者の要素はほとんどみられない。
 
 テレビを通じた大衆へのアピール
 
 そして第二に、ネオ・リベラル型ポピュリズムとして、レーガンに共通する点に、劇場型政治として、テレビを通じた大衆へのアピールが効果的に使われたことが挙げられる。しかしここでも、日米の政治およびメディアの違いを反映して、いくつかの相違を指摘できる。
 
(1)まず、小泉とそのチームはレーガンのような徹底した「科学的手法」を採用していない。小泉は、突如、思いがけず大衆的人気を博したのであり、いわば労せずして大衆の支持を獲得した。そのための苦労や、工夫についての積み上げがないのである。それどころか、「大衆迎合」ではないというイメージが人気の一つの源泉となっており、それが小泉自身の信条ともなっている。
 
レーガンがハリウッドの映画スターとして、また全国を行脚する「講演」の経験をつみ、大衆を引きつける技術を蓄積してきた経験をもつのとは、対照的である(さらに、アメリカ政治においてほ、マーケテイングの世界で積み上げられてきた世論測定とその上に立った大衆宣伝の技術を政治キャンペーンに応用する伝統が広がっていた。レーガソ・チームは、これを最大限に活用した。
 
政策秘書の飯島勲がマスコミ対策で工夫をこらしているとされるが、レーガン・チームのプロフェショナリズムと較べれば、小泉は素人の域を出ない。したがって、小泉人気が下降線をたどりはじめても、専門家の助けを借りて、これに対処する方法をもたない。
 
(2)レーガンは雄弁で、アネクドート(小話)を巧みに使い、「女性的」なイメージをもつリーダーであった。それと対照的に、小泉は寡黙で、侍という日本に伝統的な「男性的」イメージでアピールしている。
 
テレビにおいて、雄弁型政治家が人気を博すか、それとも、寡黙で訥々(とつとつ)とした印象を与え、かつ発言の際には短い「ビリッとした」表現をする、「ワン・フレーズ」スタイルの方が適しているかは、両国の政治文化、ないしはテレビ報道のスタイルの違いを反映する。
 
しかし、一時的有効性がどうであれ、同じ内容を繰り返す場合にでも、レーガンのように(それぞれの状況にふさわしい小話を巧みに使った)談話や演説の方が、小泉のようにワン・フレーズで同じことを繰り返すことに較べて、長期にわたって飽きさせない点では、遥かに有利である。
 
小泉が人気を巻き起こすに当たってほ、レーガンと匹敵する効果を上げたにもかかわらず、それを維持することが、レーガンと較べて難しいのは、ここにも一因がある。
 
 以上が、レーガンと小泉とを比較政治学的にみた場合の、本質的な共通点と、それにもかかわらず存在する相違点である。
 
 制度上の速い
 
 ところが実は、ポピュリズムが機能する上で、日米の間にはさらに重大な制度上の違いが存在する。それは、任期が一定期間保障されている大統領、知事などと違って、日本の首相は、絶えず「引きずり降ろされる」脅威にさらされ、また、国民の支持だけで再選を得られるわけでもなく、権力の維持のためには、国会議員の支持が遥かに重大な意味をもつという点である。
 
イギリスのように、大衆政党によって党機構が中央集権化し、党首脳が強い権限をもつ場合は、議院内閣制であってもこの限りではない。小沢の「政治改革」はその実現をはかったものであるが、現在の日本の政党政治はこうした性格をもつに至っていない。
 
 この不安定性から、議員の抵抗を排して、思い切った改革を行うには限界がある。大統領以上に、任期、再選を確保する必要が優先されがちとなるのである。小泉の提起した改革実現のためには、長く首相をやる必要があるからなおさらである。二年目に入ってから小泉改革が失速しているのは、ここに最大の原因があるといえよう。
 
 こうした弱点を克服して、小泉はレーガンのように、支持層の利益に反する政策を追求しつつ、そして「敵」とされるエスタブリッシュメソトの利益を増進しつつ、最後まで高い支持率を維持し続けるような離れ業に成功できるだろうか。
(大獄秀夫著「日本型ポピュリズム」中公新書 p110-128)
 
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「古い体質」を隠す「新し手法」
 
 最近のイタリア総選挙で、与党の中道左派連合が敗北し、右派達合が勝利した。一昨年にはオーストリアで極右政党の自由党が三〇%近くの得票率で第二党に進出し、政権入りを果たした。こうしたヨーロッパにおける極右の台頭とか活発化の背景には、政治・社会の現状に対するさまざまな不満のうっ積がある。
 
極右勢力は、この不満を「現状打破」にむけて方向付けることによって、不満の大衆的受け皿として勢力を拡大している。そこには戦前日本の右翼とは異なったタイプの右翼が登場している。
 
日本に類似現象
 
 ヨーロッパにおけるこうした動向は、日本にも類似の現象として現れている。「新しい歴史教科書をつくる会」などが地方自治体に対して行った請願運動がそれであり、さらには「小泉現象」であり、その前には「石原現象」もある。彼らの言動の「危険性」に関しては、つとに指摘されている。
 
それは、彼らの巧みなレトリックにもかかわらず、保守的ないし右翼的な傾向が、つまり「古い本質」が顔をのぞかせているといった指摘である。この点に関しては、私も同様な意見であるのでくり返しはやめよう。むしろ改めて私がここで注目したいのは、彼らの政治思想の本質ではなく、彼らの手法、「手法における新しい現象」についてである。
 
 たとえば、石原都知事が銀行に対する新税を導入した時、都民はもとより、京都でも革新を願っている人びとも驚いた。庶民が倒産やリストラにさらされているのに、大銀行は公的資金で救済されている。こうした事態に対もて、やり場のない怒りと銀行への憎しみが広がっていた。石原は共産党が主張していたことさえ採用して、こうした怒りと憎しみの「大衆動員」を試みたのである。
 
 「石原現象」や「小泉現象」に対し革新的な人びとの中にも、確かに「とまどい」が生じた。なぜ、そうなったのだろうか。それは、左翼と右翼、あるいは革新と保守という座標軸はもっていても、大衆を動員したり、現状を変革したりすることは、左翼の「専売特許」であり、右翼がやるはずはないと思いこんでいるからである。右翼でも大衆動員はやるし、現状の変革(「石」からの変革)をやることもある。
 
「政治を見る目」
 
 こうした手法は、ナチスやヒトラーを引き合いに出すまでもなく、一般にはポピュリズムといわれているものである。私はこれに「民衆主義」という訳語をあたえているが、この民衆主義は左翼とも右翼とも接合しうるものである。
 
右翼がこれと接合する場合、しばしば見受けられる手法は、「現状の変革」の旗を高く掲げつつ、実際は非本質的な争点──体制の根本的変革にはならない──に劇的に激しく挑んでいくことである。それは、時として「保守」のある集団や官僚などと激しく対立する局面さえ生じる。
 
 このような右翼と民衆主義の接合という現象は、ヨーロッパでは少なくない事例があっても、日本における政治経験としては、「新しい現象」といってよいであろう。
 
 私たちは、思想や政策の「古い本質」を見抜く力量だけでなく、「手法における新しい現象」に的確に対応できる「政治を見る目」も養わねばならない。同時に、その事法の「からくり」──非本質的争点における劇的な激しさによって大衆的支持を獲得する──を明らかにする基本的方法として、本質的な問題──安保、基地、政官財の癒着、失業など──の解決を迫る大衆運動が強められねばならない。
 
 ちなみに日本の右翼が、ヴェルサイユ体制打倒を呼号したナチスとは異なって、基本的に安保体制護持の見地に立っている点で、彼らがナショナリズムをわが手に握るうえでの最大の弱点となっている。
( 望田幸男・同志社大学教授 しんぶん赤旗 010606)
 
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『戦争プロパガンダ10の法則』を読む
 
 現在の世界を見ていると、誰でもいったいどうなっているのかと思うような疑わしいことにあふれている。しかしメディアはそれに答えるどころか、むしろ大国の戦略どおりに動き、われわれはなにもよく分からないままに、いつのまにか始まっている戦争を見ることになる。
 
一九九一年の湾岸戦争がまずそうだった。イラクがクウェートを占領するとたちまち小国を救うためと称して多国籍軍が戦争を始めた。日本は莫大(ばくだい)な戦費を負担し、テレビで戦争の中継を見せられる。正気の人間はこの戦争の本当の目的はなんだ、と問いかけたくなる。
 
押し寄せる戦争
 
 一九九九年にNATO軍がユーゴスラビアの空爆を始めたとき、大義名分はコソボにおけるアルバニア系住民の迫害を止めさせ、民主主義を確立するためだといわれた。だがヨーロッパのどこかの国が攻撃を受けたのでないのにどうしてNATO軍なのか、という疑問を抱かない方が不思議である。だがこのときヨーロッパの知識人は空爆を支持した。
 
そしてあげくの果てに昨年九月十一日のワールド・トレード・センターの事件である。ブッシュはほどなく戦争を開始した。日本は後方支援と称して艦隊をインド洋に派遣した。兵端(へいたん)線を担ったのである。これはもう戦争に加担したことである。
 
こうしていつのまにかひたひたと世界化した戦争が身の回りに押し寄せてきているとき、われわれにとってもきわめて重要な示唆にとむ、アンヌ・モレリの『戦争プロパガンダ灯の法則』(草思社)が出た。
 
 一言で言うとモレリは、本書を通じて普通の人間に「まず疑うことを知れ」と、勧告しているのである。政治家の発言は言うまでもないが、メディアの報道、知識人の発言もそのまま鵜呑(うの)みにしては大変な間違いをしでかすかもしれない、露骨な武力戦だけでなく、あいまいな敵対関係にあるときも、この法則は巧みにつかわれている、と。はじめに述べたような情勢(日本のことは除き)はモレリが扱っているもので、そこで語られる言葉は疑うに価する。
 
 真実を隠す嘘
 
 彼女はアーサー・ボンソンピー(一八七一〜一九四六)なるイギリスの平和主義者が、第一次大戦のさいにいかに「嘘(うそ)」が作り出され、兵士を集め、愛国心をあおったかを研究し、戦争プロパガンダの基本的なメカニズムを十項目にまとめたことに注目する。
 
本書はこのポンソンビーの十項目をひとつひとつたどりつつ、それをポンソンビーが対象にした第一次大戦どころか、今でも紛争のたびに繰り返されていることを示そうとしたものである。
 
 ポンソンビーの十項目とは、戦争を始め、遂行するものはつねに、「われわれは戦争をしたくない」が「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」からやむをえず戦っているのだ、ということからはじまり、「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」のだし、「われわれの大義は神聖なものであ」リ、「この正義に疑問を投げかける者は裏切り看である」と進んでいく。
 
 ポンソンピーがまとめた法則は一見、単純そうに見える。それが実際に使われているときにはこの単純な嘘がみぬけないのがこのメカニズムの特徴である。しかし法則化できるということば、これを操るエキスパートが存在しうることでもある。その手によってプロパガンダは作られているのかもしれない。
 
重要なことはこれが戦争を構成している複雑なメカニズムのひとつであることである。プロパガンダは肝心なことを隠し、感情を唆(そそのか)すものだけをもちだす。モレリは「プロパガンダ」を解き明かすことで戦争のメカニズムのすべてが説き明かせると主張しているのではない。だがプロパガンダの研究は、戦争が戦争の真実を隠すことによって成り立っていることを明らかにする。
 
 湾岸戦争の真実は何だったのか。あるいはコソボでいまいかなる多民族の共存が実現しているか、それらは戦争した当事者によっては決して語られないのである。だから真実は突き止めなければならない。
 
そのためにこそ、戦争が起こっているとき、まず言われており、伝えられていることを疑ってみなければならない。それは普通の人間が能動的に世界に取り組む行為である。モレリが示唆したのは、ひとりひとりの人間が受動的であることをやめようということなのである。「疑うのがわれわれの役目だ」と。
(多木浩二・評論家 しんぶん赤旗 020521)
 
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◎小泉首相は「3年間は消費税をあげない」といい、奥田日本経団連会長は消費税引き上げをもとめ……民主党も値上げするという。これはまさにポピュリズムそのものでないのか。日本独占資本が旗をふる消費税率値上げ運動≠ナはないのか。それにおされて……と。
 
◎「日本型ポピュリズム」と「プロパガンダ」しっかりと学ばなければなりません。