学習通信031012
◎労働者の学習……「先人の業積から学ぶことなしに、社会と個々の人間じしんを発展させることはでき」ない。
 
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労働運動の使命
 
 私は、日本において労働運動が健全にかつ有力に発達することを以て、日本における社会問題の解決上、この上もなく大切な事であると信ずる。私の見る所によれば、社会問題は、今後の世界における、従ってまた今後の日本における、最大問題の一である。
 
この問題が穏便にかつ根本的に解決せらるるという事の上に、世界大多数の人類の、従ってまた日本における大多数の人々の、今後の運命が懸けられてある。しかるにこの社会問題をば穏健にかつ根本的に解決するためには、われわれは是非とも労働者階級の奮起にまたなければならぬのである。
 
それ故私は、日本における労働運動が健全にかつ有力に発達して、行く行くは日本の労働者自身が、この大問題の解決に当らんことを切望しつつある者である。
 
 私の信ずる所によれば、労働運動を力あるものたらしむるために最も大切なることは、これに魂を与うることである。魂を与えなければ生きない。しかも生きたる元気あるものでなければ、何の働きをもなすことは出来ない。人は麺麭(パン)なくして生きるものではない。
 
しかしながら人は麺麭(パン)のみにて生きるものでもない。されば労働者の団体が如何にその会員数を増加しても、また如何にその基金を増加しても、ただ人が殖え金が集ったばかりでは、その労働者の団体に魂が出来、生命が出来る訳のものではない。
 
しからばこれに魂を与え、生命を与うるためには、如何にせば可なるかというに、私の信ずる所によれば、これに大目的を教え、これをしてその大使命を自覚せしむるほかに、何ら選ぶべき途(みち)はない。
 
──略──
 
 物はすべて一定の犠牲を払って得たものでなければ、価値はない。たとえば、注入的の教育は人に何らの力をも与えるものではない。肉となり血となる真の智識は、自発的の勉強努力によって始めて得られる。かの禅宗の師家がいわゆる公案を人に授けて、自ら苦しみて自ら解決するを待つも、またこの趣意にもとづく。
 
彼らは熱心にその得たる所の道を広く衆に及ぼさんと欲しつつあれども、ただ真の得道は人々の刻苦自得にまつのほかなきがために、容易にこれを授けぬのである。授くるを欲せざるにあらず、授くるを得ぬのである。要求なき者にこれを与うるは、猫に小判である。
 
猫は小判を受くることを得ず、たとい受けたればとてこれを利用するを得ぬのである。欲せざるにこれを与うれば、人を野狐禅(やこぜん)に化せしむ。人を成仏(じょうぶつ)せしむべき至道も、みだりにこれを授くれば、人を化して狐となすに至るを免れぬ。
 
 無産者ないし労働者は、今日の社会組織の下において最も不利益なる境遇の下にあるものである。而してかくの如き不合理なる社会の改良は、主として、ただ彼ら自身によってのみ行わるべきものである。彼らは彼ら自身が社会を改良しなければならぬ。
 
資本家によって与えられたる社会の改良では、如何に社会は改良されても、これに適応して行くだけの能力が、彼らの側に生れて来ぬのである。彼らの解放は、上から授かるべきものでなく、下から取るべきものである。上から授かる限り、そは猫に小判である。
 
自ら奮闘してこれを取る限り、その奮闘の間において猫は化して虎となり人となり、小判を得たる時、小判が始めて小判としての用を発揮する。それ故に、日本の労働者は団結しなければならぬ。団結して闘わねばならぬ。学者が説を闘わす如く、政治家が選挙を争う如く、彼らもまた公のために戦わなければならぬ。
 
私のための一切の争いは罪悪であるが、公のための一切の争いは人類向上の洗礼である。私の争いは殺人刀なり、公の争いは活人剣なり。請う労働者をして団結せしめよ、団結して闘う所あらしめよ、而して彼らの闘いを公の闘いたらしむるがために、彼らをしてその使命を自覚する所あらしめよ。
(「河上肇評論集」岩波文庫 p170-179)
 
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現代の労働者にとって学習はなぜ必要か
 
 ……人間は、歴史の中に、すなわち、先人のあげた物質的、文化的、芸術的等々の達成の上に、肩に脚をのせるようにして発展したものです。だから、先人の業積から学ぶことなしに、社会と個々の人間じしんを発展させることはできません。
 
【1】一つの言葉、二つの姿勢
 
 編集部から私にあたえられた課題は「現代の労働者にとって、学習はなぜ必要か」です。それをみなさんといっしょに考えてみようというわけです。
 まずはじめに問題なのは、この標題じしんが何を問いかけているのか、ということです。
 この標題をあたまのなかで何回かくりかえしながら、その意味を考えてみて下さい。いろいろに読めてくるはずです。たとえば──、
 
 現代の労働者とは、多分オレたちのことだろう。それはそれでいいことにしておきます。そのつぎにつづいているコトバが、学習はなぜ必要か、ですが、この必要か、というのは、しなければならない、かという意味に読むことができます。
 
なぜ学習をしなければならないか。はあぁ……そうか。オレたち労働者にはなかなか勉強をするひまがないし、たとえひまがあってもあたまが勉強の方にむいてゆくとはかぎらない。それを知っているものだから、なぜ学習をしなければならないかをしゃにむにのみこませて、いやでも勉強させようというハラだな、(そんなことを言われたって、そううまくゆくもんか……)これは少々ひがみっぽい読み方だけれども、たしかにこういう読み方はできるし、ここでいう、「オレたち」の実感にも、いくらかあっている点がないとはいえません。
 
 しかし、それとは別の次のような受けとり方もありますね。学習は必要、という場合の必要を、いまのようにねばならぬに結びつけて読んでしまうと、ひどく気のりしない、消極的なことになってしまいますが、これを必要をみたすための行動に結びつけて、要求というコトバと同じような意味で読むことにしますか。
 
そうすると、今度は、われわれは、どうして、学習を、われわれ自身の要求としてやるのか、つまり、やりたくてやるのか、となりますから、そんな風になってくれば、われわれの勉強も、おそらく、見こみのあるものになっているはずだ、と考えてよいでしょう。
 
 こうした二つの読み方をくらべてみると、むろん、積極的な読みが、消極的な読みにまさっていることは明白です。
 しかし、また考えてみると、同じひとつのコトバによる表現の内容が、いまみたように別々の意味にとれること、しかも、そのどっちをとってみても、なるほどそうも読めるなぁ、という気のするあたりがくせものなんですよ。
 
 同じコトバのひとかたまりが二つのちがう意味をもつということは、単にコトバがいろいろに解釈できるというだけのことではなく、その前に、われわれの実際生活のなかで、われわれがそういういろいろな感じ方や考え方をしているからこそ、そうなるわけでしょう。
 
だから、どうしてそんな消極的な考え方をするのか、またどうすれば、そういう消極的な考えを捨てて、積極的な考えに変わることができるのか、をあきらかにすることが大事だと思います。そういう方向で、問題を考えてみることにしましょう。
 
【2】現代の労働者
 
 さて、本題に入ることにしますが、われわれにあたえられた問題には、「現代の労働者」というコトバと、「学習」というコトバがあって、その二つのコトバを「なぜ必要か」というもうひとつのコトバでつないだ形になっています。
 
「必要」かについてすでに少しばかり説明しましたね。しかし、かんじんの「現代の労働者」とは何か、「学習」とはどんなことか、がはっきりしていないと(というよりも、それを突っこんで考えてみないと)実は問題の意味もわからないし、答えも出てこないだろうとおもいます。
 
 では、まず、「現代の労働者」とは何か。ひとくちにいえば、むかしの労働者ではない、いまの労働者だ、ということでしょう。それならば、いまとむかしという区別をどうつけるか、ですが、それにはいろいろな見方があります。まずあたまに浮かぶのは、産業革命よりも以前の労働者と以後の労働者というわけ方です。
 
 産業革命以前の労働者というのは、工場制手工業(マミファクチュア)やもっと古い手工業のなかで働いていた職人労働者のことです。彼らは、マニュファクチュアの主人や親方につかわれて、裸一貫で働いていた、という点で、まさにわれわれ現代の労働者の直系の祖先でした。しかし、彼らには、われわれとはハッキリ区別できる特徴がありました。
 
たとえば、彼らは、われわれの多くとちがって、腕に手工業的な技術をもっていましたが、そのかわりたいていは無学文盲(むがくもんもう)でした。(われわれには、彼らがもっていたような手の技術は失われたが、逆に教育はある、というのがひとつの特徴。だから、オレは労働者だからアタマがヨワイのは当り前だ、などと言って威張る権利はないのですよ)。
 
また、彼らは、裸一貫の見習い職人として人生をはじめるわけですが、そのうちに年期があけると、やがて独立の自営業者(親方)の仲間入りをする可能性もありました。この点も、職制にされるのは、停年で元も子もなくなる前兆だ、いうような現代のわれわれとはちがうことですね。
 
 では、彼らと区別される産業革命以後の労働者の特徴はどんなものでしょうか。彼らは機械制大工業の生活のなかから生まれたもので、その特徴は、当の工場労働者はいうまでもなく、それ以外の部類の労働者(たとえば、商業労働者、公務員労働者など)にも、多かれ少かれ共通の傾向として現れています。次にその主なものをいくつかならべてみましょう。
 
 @彼らは、むかしの労働者とはちがって、はるかに大規模で、整然とした機械制の大工場に組織されていますから、そこから、むかしの労働者には見られなかったような、強くて大きい団結力を、規律および行動力をつくりあげる条件が生じます。
 
 A彼らは、物理学や化学の知識を基礎にしてでき上がった機械や装置を運転しなければならないから、無学文盲ではつとまりません。だから、資本家や政府も、渋々ながら、(労働者をあまりかしこくするのは危険だとおもっているのです。彼らは。)知育、徳育、体育などの基礎的な教育を義務化すると共に、その水準を高めてこないわけにはいかなかったのです。
 
 B職場で共通の利害に結ばれた労働者は、その職場の企業主である資本家にたいしてたたかうだけではなくしだいに資本家団体や政府を相手にしてたたかうようにもなります。別の言い方をすれば、労働者は、経済的な反抗を試みるだけではなく、現在の社会制度(資本主義)を批判的にとらえ、それをもっと合理的な制度(社会主義)にとりかえるためにもたたかうものになってゆきます。
 
しかも、それと同時に、そのような過程のなかで、労働者は勝つことによって自信と行動力をつよめるだけでなく、敗北の経験から学ぶことによっても、社会を変革する者にふさわしい、思慮深さを身につけるように運命づけられているといえます。
 
 こうして機械制大工業とともに生まれた工場労働者が、彼らの労働と闘争の中で、しだいにつくりあげてきた社会的性質が、そしてそのもっとも貴重で、本質的なものが、いまあげたような点だといってよいとおもいます。
 
彼らのことを近代的プロレタリアートといいますが、この近代的プロレタリアートのもっている特徴は、彼ら以前のマニュファクチュア労働者や手工業労働者がもっていなかったものであるばかりでなく、同じ現代社会に住む他の勤労者大衆(たとえば、農民、中小企業者、インテリ等々)にも、けっして労働者に期待されるほどには、期待できない性質です。
 
現代の労働者が、このような近代的プロレタリアートの発展線上にあるものだということは、まったくあきらかです。
 
【3】きびしい記憶の積み重ね
 
 ところで、産業革命がおこなわれ、機械株制工業が生まれたのは、十八世紀の最後の三分の一の時期から十九世紀の前半にかけてのことでした(ただし、日本その他のおくれて資本主義化した諸国では、産業革命はそれよりもかなりおくれてやってきました)。
 
このような時期には、多くの国で封建制の勢力が最終的に打倒されるか、あるいは新興ブルジョアジーの勢力と慣れあってしまい、そこに若々しい資本主義の発展が花をひらきはじめていました。
 
だから、初期の近代プロレタリアートは、生まれる早々から、資本の横暴や搾取強化に反対してたたかいながら、その一方では、ごく少数の、当時すでに社会主義的な意識をもった労働者以外は、むしろ資本主義が発展すれば、自分たちの生活もよくなるだろうと、大局的には、資本の方に期待をかけるという状態でした。
 
 (こういう資本への幻想が、資本からにらまれた場合に、飢えにさらされるかもしれないという恐怖にあおられて、大衆の意志をどれほどキビシク制限するか。その例証を、みなさんは、いままでも、いたるところの職場で、見出すことができるでしょう)このような地点から、さきにのべたような、社会変革の中心勢力としての資格をそなえた現実の労働者軍があらわれるまでに一連の歴史的な年月が必要なことは、いうまでもないことです。
 
 そこで、産業革命以後、現在までの百年ないし二百年の問に、近代プロレタリアートがいかにきたえあげられてきたか。そして、どのようなものになったか。それを見ておかなくてはなりません。しかし、ここではくわしくいうわけにはいきませんから、ごく大ざっぱな話でがまんしてもらうことにします。
 
 @この百年ないし二百年の間に、資本主義は発展して、その最高の発展段階だといわれる独占資本主義(独占資本が成立し、それが資本主義全体を支配している時代)になりました。しかし、たとえ資本主義がどこまですすんでも、ますますはっきりしてきたのは、それが、資本の発展のために、いよいよ多くの生きている人間を犠牲にする社会制度だ、ということです。
 
 日ごとに職場で次々に押しっけられる非人間的な搾取方法、国家的な詐欺という言葉がピッタリくるような不換紙幣インフレ。封建領主でさえうらやましがるかもしれないような、組織的な重税。人類を絶滅の危機におとしいれつつあるといわれる公害や労働災害。
 
無計画的な金儲けのための生産から発生した過剰生産によるいわゆる「不況首切り」。そしてさいごに、二度の世界戦争をふくむ資本主義的な帝国主義のみな殺し戦争。等々。
 
 これらの、多くは多かれ少なかれ資本主義のもとでの、百年あるいは二百年もの期間にもわたってくりかえされ、またくりかえされ、しかも後になるほど内容の悪質になったものが大部分です。言葉は少々激しく感じられたかもしれませんが、よく考えてみて下さい。よくよく考えてみると、そこには別に誇張などはなくて、むしろかえって、誇張のないことにおどろくはずですよ。
 
 こうして現代の資本主義は、いまでは、社会の発展をになう資格がなくなったということを、そのさいきんの発展そのものによって示すようになったのです。
 
 それはさておき、現代の労働者はそのような資本の生みだす社会的な諸結果がいよいよひどくなってゆくのを、おじいさんからおやじさんへ、おやじさんから自分の代へと、言いつぎをするように見てきたといえます。きびしい記憶の上に、さらにきびしい記憶が積み重ねられていったわけです。
 
こんなにしておこなわれた実物教育が、現代の労働者を資本主義制度の批判者に、またさらにその打倒を要求する者に、仕立てあげていったとしても、不思議なことはないでしょう。
 
 A百年ないし二百年にわたる資本主義の発展は、資本の生みだす汚いはらわた(社会的諸結果)を、だれにもわかるように、さらけ出してみせただけでなく、それを批判し、非離し、さらにその打倒と社会制度の変革を要求する勢力を大きく発展させました。それはいうまでもなく、現代の労働者階級です。
 
資本主義の発展の結果として、現代の労働者が、百年以前とはくらべものにならないほど、どれほど直接的に現代の社会と現代の歴史を動かす勢力になってきたか。それについてもいくつかの指標となるものをならべておきましょう。
 
 たとえば、住民人口のなかで、労働者と労働者の仲間に数えられる者(事務員、下級公務員、教員等々)の合計が、少なくとも、資本主義の発達した諸国では、60%台から90%台にもおよぶようになっています。あなた方のなかには、そんなことが何になるんだろう、と、首をかしげる人もいるでしょう。
 
しかし、いまはまだそれらの巨大な人口がひとつの集団的な力になりきっていないから「大したこと」に見えないだけのはなしで、そう言ってみただけでも、そのことが、どれだけ大きな将来にむけての可能性をひそめているか、あなた方にも察しがつくはずです。
 
 そこで、さらに同じ問題を突っこんで考えることになりますが、実は、いまみたような現代の労働者の潜在的なエネルギーは、単に潜在的なものにとどまっているのではなく、すでにいたるところにふきだしてくるような程度に達しています。このような現代労働者の社会的エネルギーの蓄積にもとづいてその影響力をひろげている労働者の政党や労働組合の活動ぶりを見れば、それがよくわかります。
 
過去の百年、二百年とつづいたブルジョア的専制の後に、現代の資本主義は、──その本質はいっそう反動化しているにもかかわらず──現実の政治や経済生活の場で、とうとう労働者の階級勢力を日常的に(というのは、革命的な爆発の時期以外でも、の意味)舞台の上にひき入れないわけはいかなくなった、ということです。
 
いや、それどころではない。地球人口の三分の一以上は、いまでは、労働者と労働者に協力する勢力の直接的な指導によって、資本主義や帝国主義のくび木から解放された、自由な生活を発展させているのでしたね。このことを落としては話になりません。
 
 Bさて、さいごに、労働者階級の、こうした社会的勢力の増大と、その社会的影響力の発展は、歴史の歩みにしたがって、段階的にすすんできたという点にも、ちょっとだけふれておきましょう。そのような発展段階をするもの(とくに労働運動の発展という観点からみて)と考えられるのは、1900年前後(帝国主義時代のはじまり)1917年前後(第一次世界戦争とロシア革命)、1945年前後(第二次世界戟争と社会主義世界陣営の出現)などの時期です。
 
ここではそれにふれる余裕がなくて残念ですが、このような危機的な時期を終わるごとに、現代の労働者は飛躍的に強化され、それ以前にくらべていっそう充実した巨大な力量をもつものになって、歴史の舞台にもどってきました。だから現代労働者を、それ以前の労働者(つまり、近代的プロレタリアート一般)から区別するいろいろの境界線を引くことができるわけで、それぞれに、それなりの意味はあると、私などは考えています。
 
【4】学習と大きな望み
 
 だい分長いはなしになってしまいましたが、現代の労働者というのは、このような百年、二百年の歴史の意味を受けついだものであり、その意味によって人類史のこれからの前進をになうものになりつつある、これが、私の言いたかったことです。
 
いまでも、労働者のひとりひとりは、資本の巨大な社会的力にくらべれば、見すぼらしい存在にすぎないかもしれない。しかし、階級的な集団としての、その一員としての労働者は、新しい社会をそれによってつくりだすほど強い、と私はおもうのです。
 
失うものは資本の鉄の鎖だけだが、これから獲得するのは全世界だ、という言葉がありますが、これこそ現代の労働者の立っている歴史的地位にピッタリです。このようなものとしての現代の労働者にとって、学習はなぜ必要か、それがわれわれの問題だ、といいたいのです。
 
 学習というコトバの古い日本語は「まねび」だろうとおもいます。若いときに読んだフランスの詩人の警句にも、「トマトだって人に教わらなくてはつくれない」というのがありました。いずれにしても、人間は、歴史の中にすなわち、先人の上げた物質的、文化的、芸術的等々の達成の上に、肩に脚をのせるようにして発展したものです。
 
だから、先人の業績から学ぶことなしに、社会と個々の人間じしんを前進させることはできません。われわれ労働者がマルクス・レーニン主義(科学的社会主義)の勉強をするのも、それがわれわれ労働者に科学的な行動の指針をあたえてくれるということだけでなく、(それはむろんきわめて重要なことですが)いっそう根本的には、それが、文明のあけぼのに立ってからでもすでに数千年におよんでいる人類すべての、血と汗でつくりあげられた貴重な達成を、批判的に総括し、発展させたものであるからです。
 
全世界をわれわれの住むにあたいするものにかえようという大きなのぞみをもつ現代の労働者はその意味で学習をしなければならないのです。(これは学習をする必要を自覚するという積極的な意味につながるもので、こんな使い方なら、ねばならぬも悪くないのですよ。あはは)
 
 さいごに勉強のむずかしさについて簡単にひとことだけふれておきましょう。たとえば、われわれの多くの仲間は、中学校や高校でずい分長く英語を勉強してきたが、大部分はさっぱり役に立っていませんね。それはなぜでしょうか。頭が勉強に適していないからでしょうか。私は、多分そうではないとおもいます。ゼア・イズア・キャット・イン・マイ・カア、これでは熱が入らないのは当り前です。
 
なぜなら、それは金持ちの奥さんか何かの話題ですから。しかし、労働者の国際的連帯のためだというなら、あるいはまた、一国の文化的遺産を自分たちの生活と闘争に実際に役立てるためであるなら、無味乾燥な外国語の勉強も、砂漠の川みたいに途中で消えてしまうわけはないのです。
 
 マルクスやレーニンを読みこなすのは、まったく容易ではありませんが、学ぼうとする者の側にそれを力にして実現しようとする大きなのぞみがハッキリしているなら、なんとか読めるようになるでしょう。そして、学んだ結果を少しずつでも実際生活の上に役立てることができるようになれば、その時は、学習が習慣になって身についてきたことになるでしょう。
(堀江正規著「現代の労働者にとって学習はなぜ必要か」学習の友・通巻233)
 
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◎河上先生の指摘は1919年。堀江先生の論文は1973年のものです。労働者が科学的社会主義を学ぶ大きな意味が明らかになっていると思います。
 
◎労働学校の開校まであと10日あまりです。労働者の歴史的展望を語って多くの仲間と一緒に労働学校で学び合いましょう。