学習通信031013
◎小林多喜二 100回目の誕生日 2003年10月13日
 
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 一週間ほど前に組合に入ったばかりの、まだ二十にならない柴田は始めっから一言も、ものをいえず、変にひきつッた顔をしていた。彼は皆がどなる時、それでも、それについて自分でもそうしようと努めた。が、半分乾きかけた粘土のようになっている頬は、ピクピクと動いたきり、いうことをきかなかった。
 
彼は、何時でもこういう事には、これから打ち当る、だから早く慣れきってしまって置かなければならない、そう思っていた。今、しかし始めての柴田には、やっぱりそれはドシンと体当りに当ってきた。彼はひとたまりもなく、投げだされた形だった。彼は寒さからではなしに、身体がふるえ、ふるえ──歯のカタカタするのを、どうしても止められなかった。
 
 皆は灰色の一かたまりにかたまって、街の通りを、通りから通りへ歩いて行った。寒さを防ぐために、お互に身体をすり合わせ、もみ合わせ、足にワザと力を入れて踏んだ。ひつそりしている通りに、二十人の歩く靴音がザック、ザック……と響いて行った。
 
 組合の者たちは妙にグッと押し黙っていた。そうしているうちに、皆にはしかし、不思議に一つの同じ気持が動いて行った。インクに浸された紙のように、みるみるそれが皆の気持の隅から隅まで浸してゆくように思われた。
 
一つの集団が、同じ方向へ、同じように動いて行くとき、そのあらゆる差別を押しつぶし、押しのけて必ず出てくる、たった一つの気持だった。「関羽」の鈴本も、渡も、「ドンキ」の阪西も、斎藤も、石田も、また新米の柴田も、その他のそれぞれの差別を持ち、それ故にまたその各自の存在をもっている四、五人の組合員も、たった一つの集団の意識の中に──同じ方向を持った、同じ色彩の、調子の、強度の意識の中に、グッ、グッと入り込んでしまっていた。
 
「それ」は何時でも、こういう時に起る不思議な──だが、しかしそれこそ無くてはかなわない、「それ」があればこそ、プロレタリアの「鉄」の団結が可能である──気持だった。
 
が、この気持はただ単純に、それぞれの差別を否定するというものではなしに、その差別自身が一定の高度にまで強調された時、必然にアウフヘーベンされる(だから、それに依ってかえって強固になる)──従って、没個人的な、大きな掌でグッと一掴みにされた気持だった。
 
 今、この九人の組合員は、九人という一つ、一つの数ではなしに、それ自身何かたった一つのタンクに変っていた。彼らは互に腕と腕をガッシリ組み合わせ、肩と肩をくつつけ、暗いしかし鋭い眼で前方を見据え、──それはあたかも、彼らのたった一つの目標に向って──「革命」に向って、前進しているかの如く、見えた。
(小林多喜二作「蟹工船 1928・3・15」岩波文庫 p157-158)
 
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 「俺たちには、俺たちしか、味方が無(な)えんだな。始めて分った。」
 「帝国軍艦だなんて、大きな事をいったって大金持の手先でねえか、国民の味方? おかしいや、糞喰えだ!」
 水兵たちは万一を考えて、三日船にいた。その間中、上官連は、毎晩サロンで、監督たちと一緒に酔払っていた。! 「そんなものさ。」
 
 いくら漁夫たちでも、今度という今度こそ、「誰が敵」であるか、そしてそれらが(全く意外にも!)どういう風に、お互が繁り合っているか、ということが身をもって知らされた。
 
 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹缶詰の「献上品」を作ることになっていた。しかし「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴(さいかいもくよく)して作るわけでもなかった。そのたびに、漁夫たちは監督をひどい事をするものだ、と思って来た。──だが、今度は異ってしまっていた。
 
「俺たちの本当の血と肉を搾り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起さねばいいさ。」
 皆そんな気持で作った。
 
 「石ころでも入れておけ! ──かまうもんか!」
 「俺たちには、俺たちしか味方が無えんだ。」
 それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。──「今に見ろ!」
 
 しかし「今に見ろ」を百遍繰りかえして、それが何になるか。──ストライキが惨めに敗れてから、仕事は 「畜生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。それは今までの過酷にもう一つ更に加えられた監督の復仇的(ふつきゅうてき)な過酷さだった。限度というものの一番極端を越えていた。──今ではもう堪え難いところまで行っていた。
 
 「──間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺たちの急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺たち全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺たち全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの。」
 
 「そうだな。」
 「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、俺たち本当に殺されるよ。犠牲者を出さないように全部で、一緒にサボルことだ。この前と同じ手で。吃りがいったでないか、何より力を合わせることだって。それに力を合わせたらどんなことが出来たか、ということも分っているはずだ。」
 
 「それでもし駆逐艦を呼んだら、皆で──この時こそ力を合わせて、天も残らず引渡されよう! その方がかえって助かるんだ。」 「んかも知らない。しかし考えてみれば、そんなことになったら、監督が第一周章(あわ)てるよ、会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅すぎるし、出来高だって問題にならないほど少いし。……うまくやったら、これア案外大丈夫だど。」
 
 「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生!ッて気でいる。」
 「本当のこといえば、そんな先の成算なんて、どうでもいいんだ。──死ぬか、生きるか、だからな。」
 「ん、もう一回だ!」
 そして、彼らは、立ち上がった。──もう一度!
 
(小林多喜二作「蟹工船 1928・3・15」岩波文庫 p131-134)
 
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小林多喜二 没後70年 生誕100年
21世紀に輝く青春と文学
 
 小林多喜二を知っていますか。三年前の「20世紀デザイン切手」に、代表作『蟹工船』の表紙と肖像が図案となった小説作家。一九三三年二月二十日、警察の拷問で虐殺されるという作家としては前代未聞の衝撃的な事件で歴史に深く名を刻まれています。
 
 こんな回想があります。大阪のある高校生が「悪さして停学になって先生から文学の感想文を書け、書かんと学校へもどさんといわれる」。勧められて読んだのが『蟹工船』。泣きながら読んで、「世の中で何が正しいか。正義というもんを教えてもろた」。
 
二十年後の思い出です。語り手は、その後ボクサーから俳優になった赤井英和さん(「しんぶん赤旗」九四年九月二十五日、テレビ・ラジオ欄)。赤井さんはその時「プロレタリア文学というもんがあって、労働者のことを描くもんやということを初めて知りました」とも語っています。
 
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 小林多喜二は昭和初年のプロレタリア文学の代表的な作家。一九〇三年秋田の農村に生まれたが、幼い時一家が北海道小樽に引っ越し、そこで育ちました。貧しい境遇にめげず、親類の援助で働きながら商業学校を出、小樽高等商業学校(現小樽商科大)を卒業、北海道拓殖銀行に勤めます。文学芸術への愛好心は少年時代からで、学生時代にも幾つか習作を残しています。
 
 悩みを知らぬ青春など、いつの時代にもありえない。とりわけ多喜二は悩み多い青春を生きたといえます。人生いかに生きるべきか──。たくましくゆたかに迷い悩みぬいた青春でした。十五年戦争前夜、反戦・生活擁護にむけた労働者農民の運動が高揚し、ひどい弾圧を受けているとき。
 
誰のため何のための文学か──。彼が到達したのは現実の生活と闘いをありのままに描く文学への志向。悩みぬいた末の確固とした信念でした。
 
 折から民衆の闘いの先頭に立つ日本共産党への大弾圧事件。これに取材して「一九二八年三月十五日」を書きあげる。ニ十五歳の銀行員の手になるこの大胆不敵で真に迫る小説で、小林多喜二の名は全国に知れ渡ります。つぎの作品が「蟹工船」。北洋漁業の過酷な労働に抗する漁夫たちのストライキを、軍隊を使っての弾圧まで描き切った小説です。
 
 続いて当時の悲惨な農村生活に筆を向けた「不在地主」を発表したあと、多喜二は銀行を解雇されますが、上京して日本プロレタリア作家同盟の運動に打ち込みます。
 
文化運動への弾圧は日に日に手荒くなり投獄もされます。出獄後さらに活発な筆をふるいながら一九三一年秋「満州事変」勃発(ぼっばつ)の直後、非合法の日本共産党に入党。翌年春には文化運動大弾圧で地下活動を余儀なくされ、そのなかで「党生活者」などの小説執筆にも反戦運動にも精力を注ぎました。
 
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 戦争に突っ走る政府は、反戦の旗を高く掲げる日本共産党に憎悪を募らせ、ついに多喜二を逮捕、拷問でその日のうちに死に至らせた。ときに二十九歳。作品は中国、ドイツ、フランスなど数カ国で翻訳出版され、日本のプロレタリア文学が世界中で注目されていた折から多喜二虐殺には中国の魯迅やフランスのロマン・ロランほか各国の文学者からも激しい抗議が寄せられました。
 
が、官憲はその葬儀さえ乱暴に弾圧しました。戦争はそれに抵抗する人間と運動を恐れ、平和勢力を文字どおり抹殺することによって拡大したのです。
 
 今年は小林多喜二没後七十年、存命ならば百歳。大きな節目です。青春のすべてを平和と民主主義という歴史の本流に投じ、戦争とファシズムという逆流にわずか五年足らずの作家生活を断ち切られた多喜二──。家族思いでユーモアにあふれ、美術や映画・音楽を愛し、恋愛にもひたむきに苦しみながら周りを励まし続けた多喜二、その人間的な青春──。
 
 風雲急な二十一世紀、戦争の歴史をくり返さないためにも記念せずにはいられません。
(しんぶん赤旗 030209 土井 大助 詩人)
 
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◎憲法改悪、消費税増税 21世紀政府・財界の大戦略≠ェ仕掛けられるています。不屈に闘う労働者の姿を学びましょう。「戦前への大転換」をさせないためにも闘いをひろげましょう。