学習通信031014
◎恋愛……「長い時間かけて気づいたディテールに、その人の長所が隠されていることがある。それを発見するのもまた、恋愛の醍醐味ってものじゃないでしょうか。」
 
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男の本質は「ここ」にあらわれる
 
 コギャルと思っていたら、結婚して出産して、何事もなかったように復帰しているアムロ。私と同世代の人の中には、
「私ってばここ三年も男募集中″なのに、その間にアムロは売れに売れてさっさと彼氏見つけて結婚して、もう子どもまで産んじゃったのかぁ‥」
 
 と、ため息つきたくなる人もいるじゃないですか。こっちは毎年、「相変わらずです」という年賀状を書きつづけている間に、毎回年賀状の中が変わるのはナゼ? と。
 でも、スパートかけるばかりが人生じゃないですから。一〇年かけて探した恋人、なんていうのもなかなか味わい深いものがあると思いますよ。
 
あなたは彼の「どこ」に惚れたのか
 
じっくり男を探すときのポイントは、何か。
 それはズバリ、ディテール″です。
 一般的には時間をかければかけるはど、その人の大きな本質(真のやさしさとか広い心とか)に到達しなければならない、と思われがちですが、それは間違い。時間をかけても見えないものは見えません。
 
 それよりは、「三年間いつもハンカチがきれい」「いつ見ても靴下のセンスがいいのよね」「カゼひいて体調が悪そうなときも笑顔は忘れない人なんだ」と、長い時間かけて気づいたディテールに、その人の長所が隠されていることがある。それを発見するのもまた、恋愛の醍醐味ってものじゃないでしょうか。
 
「かっこいい」「一流メーカーで出世コース」「なんとなくやさしい」みたいな、だれもがすぐに気づく漠然とした特徴ばかりぼーっと見ていたんじゃ、その人の本質を見逃してしまうことだってあります。
 
 中田といえば、「サッカーの天才、ポルシェ、クールな性格」が芯のところにあるけど、もう少しどうでもいいようなところ、たとえば「野菜はぜんぜん食べられない」とか「あの水泳のゴーグルみたいなメガネ」の方にこそ、「これが中田だ」っていうなにかがある、つて気がしませんか?
 
一見ムダに見える部分こそが「彼の本質」
 
 男性って本質的には「オレは男だしー」みたいなところで安心しているから、仕事とか趣味にはちょっとこだわっても、それ以外のちょっとしたクセとか好ききらいには自分でも無頓着のことがある。「これはオレに関係ないよ」みたいな。
 
 で、女性の方も「男で大切なのは、あくまで芯のところ」と思いがち。「仕事ができて、週末はアウトドア、次男で親と同居は必要なし。よーしっ」って決めちゃったり。
 
 でも、ほら、初夏の味覚・空豆(そらまめ)も、食べるときはサヤをむいて豆だけにするわけだけれど、サヤなしで豆だけビニール袋に詰められて売ってたりすると、なんとなく味気ないでしょ。
 サヤはなんにも使えないはずなんだけど、空豆の味わいにとっては大切な要素になってるんですね。
 
 それと似たようなもので、男というのも一見、ムダに見えるような部分(たとえば仕事でも趣味でもない時間とか)が、その人の本当の良さ(あるいは悪さ)に大きく関係していることが多いんだね。
 だから、その煮ても焼いても食えぬサヤのところもちゃんと見て、そこに「いいな〜」って何かが感じられるなら、その恋愛はけっこういいかも。
 もちろん、中をゆでて食べてみて、「こりややっぱ、失敗だったわ」ってこともあるかもしれないけどね。
(香山リカ著「「好き」の精神分析」大和書房 p86-89)
 
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 ところでその「閉塞した社会」だが、私は最近の恋愛を見ていると「ああ、閉じてるなあ」と思う。たとえばストーカーだ。ストーカーになる人は、決まり切った毎日が繰り返されるひとり暮らしの中で、一度持った執着心とストーカー行為の生活習慣から抜け出せなくなるという。
 
麻薬中毒のようなものだ。ストーカーがそういう自分をやめるためには、第三者がどうしても必要になるとも言われる。それを聞いた時、私はなぜ江戸時代に現代のようなストーカーがいないか理解した。
 
 江戸時代の生活は、ひとりきりになれないのだ。個人の執着心や生活習慣を繰り返すには、何もかもつつぬけで、あまりにも他人が介入し、おせっかいをやき、何かと批評する。恋愛の現場には常に第三者が存在している。いつでも他人の意見を聞くことができるし、聞きたくなくとも、誰かが何か言うのだ。
 
その結果、「恋する私」の中には、「恋する私を見ている私」が形成される。「江戸の私」 の中には、個人としての私と、社会としての私との両方が、いつもいるのである。江戸の恋はそうやって、どこか冷静で、自分をつきはなしていて、冗談ぽい雰囲気を持つことになる。これが「粋」の原点である。恋は閉じてはいけない。そのためにはまず、個人が閉じてはいけない。
 
 そう考えると、閉塞しているのは江戸時代ではなく、現代なのである。
 何だか、近頃の日本という国もそうだ。アメリカの顔だけ見つめ、誉められたい愛されたい一心で、二人だけの世界に閉じこもってしまった。何をやっても、どんな報復戦争をしようが、身を捧げて協力するそうだ。恋には、人間としてそれを乗り越えなければならない時が必ず来るはずだが、もっと広い世界が見えないと、なかなかそうはならない。
 
恋にも政治にも経済にも必要なのは、自分の見ているもの、知っているものの領域(これをふつう「視野」と言う)を、可能な限り広く取ることだろう。
 
 世の中には、自分の知らなかった生き方や、考えてもいなかったような人がいる(いた)のだなぁ──私は江戸時代を知れば知るほど、その時生きていたさまざまな人に出会い、心がゆさぶられる。「視野」は、空間だけでなく時間(歴史)のほうにも広く取ることができる。それが何とも、面白い。
 
 ところで、江戸の恋は「好色」と言ったり「浮気=艶気」と言ったりする。それが江戸の恋の、もう一つのいいところである。浮気とはつまり、地に足がついていない、現実世界からはぐれている、という意味だ。江戸へのさまざまな入り口の中で、「恋」の良さはその「浮気」性にある。私はある文章で次のようなことを書いた。
 
「ナショナリストは日本が好きなはずなのに、絶対に着流しの着物に三味線を持って小唄(ラブソング)なんか歌わない。ナショナリストが好きなのは、どういうわけか着物ではなく軍服と日の丸で、三味線と唄ではなくて軍歌と君が代なのだ。
 
軍服で死んだ三島由紀夫も、ギリシャ文化が好きで江戸文化は嫌いだった」と。それを読んだナショナリストが怒って手紙をよこした。「日本は着流しに三味線どころじゃなかったのだ」と書いてあった。
 
私はその時から、「〜どころじゃない」という発想を、自分の中から追い出すことにした。私たちは「〜どころじゃない」と言いながら、大事なことを次々と切り落としてきたに違いない。
 
 浮気、浮世──浮いているものに自分をゆだねる。ただし、そういう自分をもうひとりの自分がちょっとからかいながら見ている。切ないならばそれもいい。夢が覚めたらそれもまあ、しかたない。固くてひんやりした地面も、なかなかいいものだ。──それが江戸の恋である。
働いている相手をみよう
(田中優子著「江戸の恋」集英社新書 p11-13)
 
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 恋愛中の二人が、二人だけになりたいのは当然です。お互いにもっと知りたい、もっと相手の全部を理解し、愛したい、何よりも自分だけが愛し愛されるよろこびにひたりたいと考えます」しかし、二人でいくら話しあっても相手のすべてはなかなかわかりません。
 
なぜなら二人とも愛し愛される相手には、なるべく自分をよりかしこく、より美しく見せたいのが普通だからです。自分の欠点──本当は欠点でもないのにそう思いこむ人が多い──裾かくそうとします。自分にとって都合のわるいことは言いません。
 
人間相互の愛情は、人を信頼することによって育つのに、恋愛中の二人が「こんなことを知られたら、嫌がられるのではないか……」と考えて、いい面しか出さないとしたら、充分に知りたい同士が、相手の半分しか知ることが出来ない結果になります。
 
 
 恋愛中、大学生は自分の学校をかくし、労働者は自分の会社や仕事の中味をかくします。兄弟のこと、父母のこと、家のこと、なかなか本当の姿を伝えるのは勇気のいることかもしれません。
 
田舎の貧しい家に、年老いてなおも働きつづける両親のことをありのままに話してもらった時、はじめて自分は相手に信頼されているのだな、という満足感を持つことが出来るのです。何時もカッコいいことしか言おうとしない彼や彼女では、二人の間に真の愛情と信頼関係をつくることは出来ないでしょう。
 
 また恋愛中、相手を客観的にみつめることは、大変むつかしく困難なことです。何時の場合にも当事者は自分を冷静に見ることが出来にくいように、とくに愛し、愛される二人の間では、たいていの場合、何ごとも愛する相手の都合良いように解釈されがちです。
 
愛する相手を客観的に知りたいなら、彼や彼女が働いている姿、職場の中の生活を知れば良いわけです。同じ職場なら簡単ですが、異った職場でも、彼の職場の友人と友だちになったり、時には職場へ出かけていったりして、お互いが属している集団を紹介しあいましよう。
 
案外、他の人々と比較することで、愛する相手の別の姿を見ることが出来るはずです。人間は誰しも働いている姿は感動的なものです。どんなによごれた服を着ていても、どんな種類の仕事であっても、真剣に仕事に打ちこむ相手を見れば、すばらしさを再発見します。
 
逆に二人だけの時どんなに良いことばを並べても、職場でみんなから信頼されていない相手は、もしかすると恋愛の対象として考えなおした方が良いかもしれません。こういった意味でも、二人だけみんなから離れてしまわないで、集団の中で共に行動しつつ二人の愛をたしかめ、育てていきたいものだと思うのです。
 
 ある青年は、お互いに愛しはじめた相手に、自分の欠点ばかり並べ立てて、「こんなだらしがないぼくだけどそれでもいいか……」という話しはかりしていました。これは一見、率直に自分をあらわしているみたいですが、本意は相手の女性への自分の押しつけです。
 
それだけ欠点がわかっているなら「自分でもなおすよう努力するから、援助してほしい…」というのであれば判りますが、「欠点だらけの自分に心棒(しんぼう)できるなら、つきあってもよい」というのでは、形を変えた男の横暴といえるのではないでしょうか。
 
 相手を信頼することは、全面的にたよることではありません。それぞれの良い面、悪い面を認めあい、良いところは伸ばし、欠点は克服する努力をすればよいのです。未来にむかって二人で歩むよろこびは、多少欠点が目立つ二人であっても、十分克服できるのではないでしょうか。
 
 愛するもの同士はよく喧嘩するものです。お互いに友人ならば許せることでも恋人となると許せない場合が多いのです。喧嘩をおそれる二人より、喧嘩をやって理解を深める二人の方が、愛情自体も深まります。時には喧嘩は深刻になって、別れ話まで発展することもあるでしょう。
 
しかし若い二人は、お互いに相手を許すことも知らねばならないのです。こうした体験を通じて、それぞれ自分の相手だけではなく、集団やなかまを理解しなかまづくりがすすむようになってきます。
(田中美智子著「恋愛・結婚と生きがい」汐文社 p7-10)
 
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◎恋愛がどのように深化していくのでしょうか。二人だけの世界でなく、多くの人たちが必要なようです。
 
◎「〜どころじゃない」という発想を、自分の中から追い出す=B学習どころでない〜。という声が沢山聞こえます。本質的なものを置き去りにして……。