学習通信031015
◎労働者の学習……「学習させられているのではなく、自分から学習しているのであって」
 
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無知は一つの魔物である
 
 「知は力」といいます。学習とは、知の力を身につけることです。
 では、無知は? 知が力であるとするならば、「無知は無力」 ということになるでしょうか?
 ちがう、と私は思います。無知もまた一つの力──危険な力だ、と思うのです。
 
 冬山がどういうものであるかを知らず、冬山登山に必要な装備・心得を欠いたまま冬山にいどめば、どうなるでしょうか。無知は、冬山にいどむ人を遭難にみちびく危険な力です。フグが卵巣や肝臓に猛毒をもっていることを知らず、フグ料理に必要な心得を欠いたままフグを食べたら、どうなるでしょうか。無知は、フグにいどむ人を死にみちびく恐るべき力です。
 
 マルクスが二十四歳のとき(一八四二年) 『ライン新聞』に書いたある文章(「『ケルン新聞』第一七九号の社説」)を読んでいたら、次のようなことばにぶつかりました──
 「無知は一つの魔物である。われわれは、それが今後も少なからぬ悲劇を上演するのではないかと気づかっている」
 無知は危険な力、ということにマルクスも「異議なし、賛成」といってくれるみたいです。
 
 この文章を書いた頃のマルクスは、革命的民主主義の立場に立っていましたが、まだ共産主義者ではありませんでした。でも、共産主義=科学的社会主義の立場に立ってからのマルクスも、必要とあれば何度でも、同じことばをくりかえしただろうと思います。そもそもこのことばに示されたような姿勢こそがマルクスを、科学的社会主義の立場にみちびいていったのです。
 
 「無知は一つの魔物である」と青年マルクスが書いた、その四年後(一入四六年)のあるエピソードをご紹介しましょう。
 マルクスはすでに共産主義者として、革命運動のただなかに身をおいていました。その一入四六年の三月三〇目、ベルギーのブリュッセルで開かれた共産主義通信委員会の席上でのことです。エンゲルスの司会のもとで、マルクスとヴァイトリングとの間に激論が交わされたのです。
 
 ヴァイトリングというのは、ドイツ労働運動の発生期における活動家で、労働者階級出身のドイツで最初の著作家でした。マルクスは、自分より十歳年長のこの労働者出身の革命家を高く評価していました。
 
彼の著作はドイツ・プロレタリアートの理論的能力を示すものであり、どんなに幼稚な点をふくんでいようと、それはいわば「巨大な子供靴」であって、「ドイツ・ブルジョアジーのはきふるされた政治靴のちっぽけさ」とはくらべものにならぬ、とさえ書いていた(「……批判的論評」一入四四年)ほどです。
 
 しかし、ブリュッセルにやってきたときのヴァイトリングは、もう理論的前進をやめてしまっていました。「地上に天国を実現するためのできあがった処方箋をポケットにもち、みながそれを彼から盗みとろうとねらっていると妄想する、国から国へと追いたてられている予言者」になってしまっていた、と後年エンゲルスは回想しています(「共産主義者同盟の歴史によせて」一八八五年)。
 
 そのヴァイトリングにむかってマルクスがいったことは──「科学的理論のうらづけもなく、確かなプログラムもなしに、ただ民衆を扇動するのは一種の詐偽ではないか。それは民衆を救うどころか、破滅させるものだ」
 およそ、こんなことであったようです。
 
 ヴァイトリングはくどくどと抗弁し、そのあげく、「私には大衆の支持がある。書斎派に何ができるか」と口走ったようです。
 するとマルクスは、力まかせにテーブルをたたいて「無知がものの役に立ったためしがあるか」と叫び、それでその日の討論はおわった、とその場にいあわせたあるロシア人(アンネンコフ)は回想しています。
 
  知の力と労働者階級
 
 もっとも、どのような場合にも「無知は危険な力」ということになるのかといえば、そうではない、と思います。
 無知ゆえの大胆さが思いもかけぬ効果をもたらす場合がある、という話ではありません。そういう場合があるのは事実ですし、それはそれで大切な問題をふくんでいると思いますが、このさいは話が別です。
 
 冬山についての無知が危険な力であるのは、冬山に人がいどもうとするかぎりでのことだ──ということにここでは注意したいのです。
 
 冬山にいどむことをしないかぎり、冬山についての無知は何ら危険な力ではありません。知の力も無知の力も、すすんで何事かをしようとする人にとってはじめて、現実の問題となることです。何もしないでいるかぎりは、無知も知も似たようなもので、マイナスの力でもなくブラスの力でもない──力としてはゼロに等しいわけです。
 
マルクスがヴァイトリングを前にして拳(こぶし)でテーブルをたたいたのも、ヴァイトリングが何もしない人間ではなく、革命家であったればこそのことで、これはヴァイトリングの名誉のためにもいっておかねばなりません。
 
 でも、冬山の方から私たちにいどみかかってくる場合には、どうでしょうか。
 「冬山の方からいどみかかってくる」というのは、もののたとえです。資本主義社会と労働者との基本的な関係のことを、いま私は考えています。
 
 「労働者のたたかいはその存在とともにはじまる」といわれます。これはしかし、労働者が「生来たたかい好き」ということではありません。労働者は好きこのんでたたかいに立ち上がるのではなく、生きるためにはたたかうことをよぎなくされるのです。
 
つまり、社会の方から労働者にいどみかかってくるのです。そのかぎり、社会についての無知は労働者にとって、つねにマイナスの方向にはたらく現実の力とならずにはいません。
 
これはたんに過去の話ではなく、現在の問題としてもそうであり、また労働者階級にとってだけのことでもありません。たとえば、いわゆる新型間接税、政党法、国家機密法、等々は、政府・自民党・独占資本の国民にたいする挑戦であり、それらについての無知は私たち国民にとって、みずからを破滅にみちびく危険な力そのものです。
 
 話をもとにもどしますが、労働者階級はそもそものはじめから、生きるためにはたたかわざるをえない立場におかれていたのであり、そのたたかいのために知の力を求めざるをえない、そういう立場におかれていたのであって──そしてヴァイトリングは、そのような立場におかれた労働者階級の知的・実践的先駆者として登場したのです。
 
そのヴァイトリングが知的前進をやめ、しかもたたかいの指導者でありつづけようとしたとき──そのとき、マルクスは拳をかためて机をたたいたのでした。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p18-24)
 
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 「学習する機械」とよばれているUCLMUは、厳格な教育機械の手によって学習させられたのであって、決して、機械が自分で学習することほできない。
 
ネズミやネコなどは、さきに述べたようないろいろな行動を学習するが、環境のなかで、「うまく」生きてゆく適応行動を身につけるために学習せざるをえない境地に追いこまれて学習したのであって、いうなれは消極的学習である。
 
サルなどの霊長類になると、条件をうまく設定して調べてみると、意欲的に新しい行動を身につけて「よく」生きてゆこうとする積極的学習の芽ばえがあるようだ。
 
 ところで、私たち人間は、三歳ころまでは動物とほとんど変らないが、四歳ころからは、「うまく」生きてゆこうとする学習はもちろんのこと、「よく」生きてゆこうとする学習を、意欲的、積極的に推進しているのである。
 
学習させられているのではなく、自分から学習しているのであって、ここに、「学習する機械」や動物との本質的な違いがある。そして、この学習は、いのちある限り続けねはならない。より「よく」生きてゆくために──。
(時実利彦著「人間であること」岩波文庫 p111)
 
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 たとえ私がこれほどたびたび、一つひとつの場合について指摘しなかったとしても、イギリスの労働者がこういう状態で幸せだと感じているはずはないということ、また彼らの状態は、一人の人間としても、あるいは人びとの一つの階級全体としても、とても人間らしく考え、感じ、生きることができるような状態ではないということは、誰でもみとめてくれるであろう。
 
したがって労働者は、人間を動物のようにしてしまうこういう状態から脱けだし、もっとましな、人間的な地位をつくりだそうと努力するに違いない。そしてそのためには、まさに労働者を搾取することそのもののうちにあるブルジョアジーの利益とたたかう以外にない。
 
しかしブルジョアジーは、その財産を使って、また彼らの思いどおりになる国家権力を使って全力をあげて自分の利益を守る。労働者が現在の状態から脱けだそうとするやいなや、ブルジョアは労働者の公然たる敵となる。
 しかし労働者は、それだけでなく、ブルジョアジーが彼らをまるで物のようにあつかい、彼らの所有物のようにあつかっていることに、いつも気づいている。そしてそのためだけでも労働者はブルジョアジーの敵としてあらわれる。
 
私は先に、現在のような状態のもとでは、労働者はブルジョアジーにたいする憎悪と抵抗なしにはみずからの人間性を救うことはできないということを、100もの事例でしめしたし、さらに100の事例をあげることもできよう。
 
そして彼らが有産者の専制にたいしてはげしい情熱をもって抗議することができるのは、彼らの教育、あるいはむしろ無教育と、イギリスの労働者階級のなかへ流れこんだアイルランド人のゆたかな熱い血のおかげである。──イギリスの労働者は、もはやイギリス人ではない。
 
彼のとなりにいる有産者のような計算高い守銭奴ではない。彼は十分に発達した感情をもち、彼に生まれつきそなわっていた北欧的な冷たさは、彼の情熱が自由に育ち、彼が思いのままに行動するようになったことによって、失われていった。
 
イギリスのブルジョアの利己的な素質をいちじるしく発展させ、利己心を彼の支配的な情熱とし、感情の力を金銭欲という一点にすべて集中させた知的教養は、労働者にはない。そしてその代わりに、労働者の情熱は外国人のように強烈でつよい。イギリス人の国民性は労働者のあいだでは消えうせている。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-下-」新日本出版社 p42-43)
 
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◎「学習させられているのではなく、自分から学習しているのであって、ここに、「学習する機械」や動物との本質的な違いがある。そして、この学習は、いのちある限り続けねはならない。より「よく」生きてゆくために──。」
 
「感情の力を金銭欲という一点にすべて集中させた知的教養は、労働者にはない。そしてその代わりに、労働者の情熱は外国人のように強烈でつよい。イギリス人の国民性は労働者のあいだでは消えうせている。」
 
労働者の学習は自分たちの生活というだけに止まっていないのです。
 
◎高田先生の指摘する「新型間接税、政党法、国家機密法、等々」とは1988年当時です。消費税導入(1989年)をめぐる闘いの真っ直中でした。