学習通信031016
◎工場法……「資本家は手をこまねいてなにもしなかったわけではない。」 労働学校はたらく権利コース≠ヨ
 
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 工場法とは社会政策の一つであって、資本主義的労働関係の展開を基底として創出される労働者保護法のことをいう。標準労働日確定のための資本家と労働者との長期にわたる闘争をへて、1802年、はじめてイギリスで制定され、明治44年(1911)、約一世紀おくれて日本にもつくられた。
 
もっとも、その施行はさらにおくれて、大正5年(1916)をまたなければならなかった。それも完全実施とはいえず、紡績女工の深夜業撤廃は昭和4年(1929)までひきのばされたのであって、立法と施行のあいだが日本ほどに長い例はほかにない。
 
 この工場法の歴史的必然性とその本質をどうみるかについては、社会政策学界でも大きな論争のあったところである。参考までに、その代表的な学説を要約してかかげてみよう。
 
@大河内一男説──労働力保全論と称されている見解。『社会政策(総論)新訂』によれば、「所謂労働者保護なるものは、その本質上、生産資本の一分岐としての労働力の生産政策であり、それの『順当な』保全策として考へらるべきものであつて、農業に於ける濫耕(らんこう)、林業に於ける濫伐(らんばつ)が合理的生産政策でないと同様、また機械に対する平準的な掃除・注油を怠ることが合理的でないと同様、労働力の虐使・濫用(らんよう)は資本主義的に合理的な政策ではあり得ない」とし、「資本の拡大再生産は当然に労働力の保全を要求する。しかしてこれが社会政策である」と規定した。
 
A風早八十二(やそじ)説──@を批判したもの。『日本社会政策史』によれば、社会政策を「分配政策と生産政策を楯の両面とする政策」と規定し、「社会政策は、労資関係そのものの創出と共に、さらに労働者側がある程度まで成長し、一の階級として多かれ少なかれ、一定の独自の意思と要求を持ち、自己階級の共同の利益のために進んで一定の運動を起し、この運動をそのまま放置すれば、社会的矛盾が公然と露呈され、政治支配の上に支障をもたらすおそれあるにいたって、始めて絶対的に必要とされる」とする。そして、労働者階級にこのような成長がみられないばあいには、「慈恵(じけい)」政策と警察的取締りとで事足りるとした。
 
B岸本英太郎説──Aを発展させたもの。『社会政策の根本問題』によれば、「資本制的蓄積の一般法則=労働者階級の窮乏化法則」は、産業予備軍をたえず生みだし、労働力の濫用をつねに可能にしている以上、これに抵抗する労働者階級の闘争は不可避であり、社会政策はこの労働者階級の抗争を不可欠の根拠として必然化し、実現するという。
 
 ここは右の諸説の当否を論ずる場ではないが、のちにあきらかにするとおり、後進資本主義国日本でのエ場法の制定・立法・施行の過程は、どれか単一の論理では割りきれないほどに、複雑かつ転倒的なプロセスをたどった。その特徴のいくつかをあらかじめ指摘しておけば、つぎの二点ほどがあげられよう。
 
 第一に、日本では労働者の階級的成長がたちおくれていたため、労働者階級の闘争の産物として工場法が闘いとられたのではない。また、資本家は資本家で労働者を機械のように使いつぶすことを当然視し、工場法を極力、骨ぬきにし、かつ、骨ぬきされた工場法すらその施行をできるかぎり遅延させようと必死の抵抗をこころみた。
 
したがって、工場法制定の構想は、ヨーロッパ先進国の経験に学んだ国家官僚の手によって先取り的に導入される、という経過をたどった。
 
 第二に、立法から施行までのあいだ、資本家は手をこまねいてなにもしなかったわけではない。かれらは低賃金・長時間労働・寄宿舎制などによって女工を支配、抑圧するとともに、他方では日本的労務管理方式ともいうべきいわゆる経営家族主義によって、労働者の権利意識を巧妙にねむりこませた。
 
それによって工場法施行の欠落を埋めるという、それなりの努力をしていたのである。ここでは、資本・労働関係を権利・義務関係の確定をふくむ法律で律することを極端にきらう日本の資本家の特質が遺憾なく発揮されており、それがまた、日本の労働者意識を大きく制約する歴史的原因となったと思われるのである。
 
以上のことを前提に、工場法の制定から実施にいたる経過をたどってみることにしよう。
 
──略──
 
 工場法の制定意図は、実際の施行がひじょうにおくれたのとは逆に、むしろ早期から官僚の側に存在していた。まず明治一五年(一八八二)、農商務省工務局内に調査課がもうけられ、労役法および工場条例にかんする資料があつめられた。
 
これがその端緒である。翌年に政府は労役法・師弟契約法工場規則の立案に着手し、この年に設立された東京商工会にあつまる実業家の意見を徴するなどして、明治20年6月、職工条例・職工徒弟条例をいちおう脱稿するまでにいたった。
 
この職工条例は、「年令一四才未満ノ者ハ一日六時間、十七才未満ノ者ハ一日十時間以上使役スルコトヲ得ザルコト」、あるいは「婦女十四才未満ノ職エヲ夜間使用スルコトヲ得ザルコト」など、かなり思いきった職工保護規定をふくんでおり、後年の成立工場法をうわまわる内容をもっていた。
 
そのため渋沢栄一・大倉喜八郎・益田孝などの資本家は、これでは古来の醇風(じゅんぷう)美俗にもとづく雇用関係、すなわち封建的労使関係がくずれてしまう、として反対にまわった。そういうこともてつだって、けっきょく各局の意見一致をみることなく廃案となってしまったのである。
 
 そののち、明治24年、26年、27年と、政府はひきつづき各地の商業会議所に諮問したり、工場内労働者の実情調査などをおこなって、職工条例制定の意欲をすてない。ところが、翻訳法案にすぎない、という渋沢ら実業家の反対にあって、日清戦争前には、いずれも日の目をみずに終わってしまう。
 
 日清戦争後になると、ようやく新しい事態が到来することになる。そのもっとも大きな変化は労働争議の発生であり、それにともなう社会問題の発生であった。『時事新報』『東洋経済新報』あるいは『社会雑誌』などの新聞や雑誌は、矢つぎぼやに「同盟罷工」(ストライキ)を報道した。
 
日清戦争前にはあまりみられなかった「富者と貧者との戦争」、「資本家と労働者との戦争」が、新しい社会問題として世人の関心をあつめるようになった。横山源之助の『日本の下層社会』は、そのような変化をいちはやくとらえ、下層社会に沈殿する職工たちの奮起をうながした画期的名著であった。
 
 そのころ、明治政府はいわゆる日清「戦後経営」を展開して、あらたな軍備拡充と殖産興業政策をおしすすめつつあった。「戦後経営」とは、きたるべき対ロシア戦にそなえての日本社会の帝国主義的編成替えの総体をさす。これによって日本資本主義は確立し、さらに帝国主義への軌道が強力に敷設されることになった。
 
「戦後経営」は、具体的には軍備拡張・殖産興業・教育振興・植民地領有の4本を基本的な柱とし、そのなかでも軍備拡張と殖産興業がもっとも重要な支柱であった。この「戦後経営」で山県有朋らの軍部は、日本が「東亜の盟主」としての地位につくためには攻撃的軍事力を備えなければならない、として軍拡一本槍の主張を展開した。
 
松方正義・阪谷芳郎・添田寿一らの大蔵官僚と金子堅太郎ら農商務官僚は、軍備拡張それ自体に反対はしないが、それを可能にするための経済力を培養しなければならない、として、産業の育成を「戦後経営」のもう一つの重要な柱として設定した。
 
 こうして明治29年(1896)10月、農商務省の諮問機関である農商工高等会議がひらかれた。この会議は日清戦争後の農商工業にかんする最高基本方針を決定し、隈板内閣の農商務大臣大石正巳のことばを借りれば、「実業界ノ参謀本部」ともいわれたものであった。
 
これには大蔵・農商務・外務・逓信各省の中堅官僚と、東京商業会議所会頭渋沢栄一・横浜正金銀行頭取園田孝吉・三井銀行頭取中上川彦次郎・東京海上保険支配人益田克徳・三井物産専務理事益田孝・日本郵船社長近藤廉平など、当時の財界のトップクラスがまねかれていた。
 
そして、この点商工高等会議の第1回と第3回会議で「職工の保護及取締に関する件」がとりあげられたことにより、工場法はふたたび審議の日程にのぼってきたのである。
 
農商工高等会議
 
 速記録にそって、この審議の内容をみてみよう。政府側委員添田寿一は、五つの見地から工場法の必要を力説して、大略つぎのように述べた。
 
@国家的見地からみて、国家はその自衛上、健全なる国民の発育をはからなければならない。A経済的見地からみて、労働時間の制限は損失のようにみえるが、労働力を摩滅させてしまっては元も子もなくなるので、労働時間の制限はかえって有利となるはずである。
 
B衛生的見地からみて、工場が注意をおこたれば疾病その他の弊害が生じ、国民の発達を妨害するだけでなく、工場にとってもマイナスとなる。C道徳的見地からみて、「例へバ男工・女工ノ区別ヲ密ニシナケレバナラヌトカ、其他、多少ノ注意ガ必要デアル」。D社会主義化防止の見地からみて、雇い主と雇人とのあいだに、多少とも国家が干与して雇人の利益を保全しなければ、社会上の「擾乱(じょうらん)・紛争ヲ喚起スルコトガ屡々(しばしば)ア」る。
 
 添田は以上の理由をあげて、労働者に適当の保護をあたえることは国家の義務であり、そのために資本家が多少の一時的犠牲をこうむってもやむをえない、と主張したのである。これにたいして渋沢栄一・大倉喜八郎ら実業家は、一見、同意の姿勢をしめしつつ、工場法制定にはあくまでもつよく反対した。たとえば渋沢は、労働時間についてつぎのような意見を述べている。
 
(職工の)働ク時間ガ長イト云フコトハゴザリマセウ。左リナガラ大抵、其(その)職工ガ堪(た)へラル、時間卜申シテ宜(よろし)イ。又、夜業ハユカヌト云フコトハ、(中略)学問上カラ云フトサウデゴザリマセウガ、併(しか)シ、一方カラ云フト、成ルベク間断ナク機械ヲ使ツテ行ク方ガ得(とく)デアル。之ヲ間断ナク使フト云フニハ、夜業上ト云フコトガ経済的ニ適(かな)ソテ居ル。
 
(中略)夜間ノ仕事ヲスル方ガ、算盤(そろばん)ノ上デ利益デアルカラヤツテ居ル。為(た)メニ衛生ノ上カラ云フト、害ガアツテ職エガ段々衰弱シタト云フ事実ハ、能(よ)ク調査ハ致シマセヌガ、マダ私共(ども)見出サヌノデゴザリマス。
 
 いかにも資本家らしい本質を吐露(とろ)しつつ、最後に、法律それ自体の制定には反対しないが、「欧羅巴(ヨーロッパ)ノ丸写シノヤウナモノヲ設ケラル、云フコトハ、絶対的ニ反対申上ゲタイ」とむすんだ。大倉喜八郎も渋沢の意見にほぼ同意見で、
 
 欧羅巴ノ文物デ善(よ)イモノモ沢山這入(たくさんはい)ツテ来マシタ。其中ノ「すとらいき」杯(など)ハ余り善イモノデハナイ。昨日二一番(添田寿一の議員番号)ハ「すとらいき」ガ始マルダラウ云ハレマシタガ、ソレハ疾(と)ウニ始マッタノデ、我々共ハ年中苦シメラレテ居リマス。中々職人ノ虐待ドコロデハナイ、雇主ガ虐待サレテ居ル(くらいだ)。
 
とまでいって、職工保護法は時期尚早と結論づけたのであった。日清戦争後の女工の労働状態をすでにみてきているわれわれにとって、右の渋沢・大倉の発言は、なんとそらぞらしく響くことであろうか。
 
 これにたいし添田寿一は、この法律はけっして資本家を害するものではなく、むしろ資本家の利益を長期的に保障するものである、もしこの間題を放置するなら、わが国にも労働争議が続出してひじょうに困ったことになる、そうならないまえに相当の手を打っておくことが資本家・労働者双方の利益になる、として、もっぱら社会主義化・労働運動激化にたいする予防策として工場法の効用を説いた。しかし、第1回農商工高等会議では、けっきょく「職工の保護及取締に関する件」は継続審議となってしまった。(中村政則著「日本の歴史──労働者と農民」 p174-181)
 
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労働者の状態
 
 資本主義の急速な発展とともに、10人以上使用の工場労働者数も、官営・民営あわせて日清戦争前の1892年から戦後の97年までに、30万人から46万人にふえた。しかし、官営軍事工場や金属機械工場などの熟練労働者は、その一別にもみたせず、その六割は、紡績・製糸の女子労働者であった。
 
 彼女らのおおくは、貧農の娘がわずかな前借金で身売り同様にして工場につれてこられたものであった。15歳から20歳くらいまでの娘たちは、1日平均15〜6銭(このころ米1升11銭から28銭くらい)の日給で、12時間から14時間もはたらき、糸切れや不良品をだすと、そのわずかな賃金から、罰金をとられた。
 
資本家は、労働者がにげだすのをふせぐために寄宿舎にいれた。それでもにげようとしてみつかれば、みせしめのため、はだかにしてなぐられた。1899年、ある紡績工場で寄宿舎が火事になった。31人の紡績女工たちは、会社が外から戸にかぎをかけておいたため、にげられず、窓からとびおりたものはかたわになるか死亡し、その他は全員焼け死んだ。
 
1901年、鐘紡では、女子労働者のあいだに結核や脚気になるものがあいついで社会問題となり、警視庁も、「女工の待遇は監獄の囚人以下だ」といわざるをえなかった。翰出産菜の花形といわれたマッチ工場では、6〜7歳の幼児にマッチの軸をならべさせるところもあった。
 
 さらに寄生地主制の発展とともに、まずしい農民はますます土地をうしない、一家をあげて農村をはなれたり、主人までも出かせぎにいかなければならなくなった。炭坑夫・土方・車夫のおおくは、こうしてむりやりに土地からひきはなされたプロレタリアートなのである。ここでも労働者は、どれいのように搾取された。
 
炭鉱では、この時期になっても、労働者は、親方の支配のもとで飯場にしばりつけられ、貸金のびんはねまでされた。近代的な大工場として成立した官営八幡製鉄所でさえ、熟練工以外は、製鉄所公認の人夫供給業者がいて労働者をあつめ、専属の「下宿屋」にとじこめて、確実に工場におくりこむという方法をとっていた。
 
1899年の6月、九州の豊国炭鉱で出火のさい、207名の坑夫が生きうめになったが、会社は炭鉱施設をすくうために放置し、ついに坑夫たちは焼け死んだ。新聞記者をしていた横山源之助は、1899年『日本之下層社会』という本を書き、日本の労働者・貧民の惨状をするどくばくろした。
 
 日本商品が海外市場で他国をおしのけ、資本主義を急速に発展させたのは、このような労働者の低賃金と重労働によって、きさえられていたからである。
 
労働組合期成会
 
 1897年(明治30)、日清戦争後はじめての恐慌がおそった。凶作も深刻であった。恐慌状態は98年までつづき、小紡績工場はつぎつぎにつぶれて大資本に吸収され、おおくの失業者がうまれた。資本家の搾取にたいし、団結してたたかう必要を自覚しっつあった労働者階級は、この恐慌のなかでストライキにたちあがった。
 
 この年は、1月の横浜の日本絹糸紡績職工、2月の院内鉱山、4月の東京船大工組合、5月の東京製本工と日本郵船人夫などのストライキがつづいた。
 
 6月から10月にかけては、横浜ドック・横須賀造船所・新町綿糸紡績・新橋鉄道工場・印刷局・山陽鉄道など、あらゆる産業部門で大小さまざまなストがおこり、そのほとんどが、物価値上がりにたいし賃金の増加を要求したストライキであった。船大工・石切工・友禅染工・木挽(こびき)工などの職人も、ストをおこした。この年のストライキ件数は、警察の統計によっても32件、参加人員は3517人をかぞえている。
 
 これらのストライキは、自然発生的で、たがいに連絡もなかったが、このたたかいをつうじて、労働組合を結成しようとするうごきがつよまった。アメリカから帰国した城常太郎と高野房太郎は、97年4月、日本で「職工義勇会」をつくり、「職工諸君に寄す」という、うったえを印刷して労働組合の結成をよびかけた。それは、労資協調主義の影響をうけたものではあったが、労働者のあいだで大きな反響をよんだ。
 
4月6日には、神田でわが国最初の「労働演説会」がひらかれた。高野は、片山潜らとともに、7月5日「労働組合期成会」を結成した。片山潜が編集した機関誌『労働世界』は、12月の創刊号で「労働は神聖なり、組合は勢力なり」と宣言した。
 
 労働組合期成会は、創立の年の12月に、はやくも東京の鉄工148人を「鉄工組合」に組織した。これは、企業別の組合ではなく、小石川砲兵工廠・赤羽海軍工廠・新橋鉄道工場・石川島造船所・横須賀造船所・日本鉄道大宮工場・芝浦製作所などの労働者が、企業のワクをこえてつくった組合で、最盛期の1900年はじめには、42支部と5400人の組合員をもった。鉄工組合は、98年1月にはイギリス機関工組合のストを支持するアピールをおくって、労働者の国際連帯の精神をしめした。
 
 都市貧民や農民のたたかいも、さかんになった。凶作があきらかになった97年の8月から9月にかけて、米騒動が全国的におこった。石川・富山からはじまったこの年の米騒動は、新潟や北陸地方一円にひろがり、豊橋・高松・佐賀・山形にもおよんだ。
 
長野県飯田地方では、数千人の貧民が蜂起して精米所や警察署をおそった。山形では、1000人の窮民が蜂起して多額納税議員の家をおそった。栃木県足利町の小作人は、97年12月に「貧民共党組合」という小作人組合をつくった。
 
古河財閥が経営する足尾銅山の鉱毒にくるしむ渡良瀬(わたらせ)川沿岸の農民は、代議士田中正造を先頭にたてて、97年3月から1900年にかけて、四たび上京し、鉱毒の防止と被害民の救済を政府に要求した。政府は、鉱害の防止をなにひとつおこなわず、憲兵・警官に農民を鎮圧させた。
 
 この97年には、普通選挙権獲得の運動もはじまった。中村太八郎・木下尚江らは、信州松本で普通選挙同盟会をつくり、選挙資格の制限をもうけない普通選挙を請願するビラを付近数ヵ町村にくばり、署名をあつめた。これは、日本で最初の普選運動である。
(「日本の歴史-中-」新日本出版社 p174-177)
 
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 これには、古い、選挙法改正以前の、寡頭制的トーリ的議会が公布した一つの法律が役立った。この法律は、のちに選挙法改正によってブルジョアジーとプロレタリアートとの対立が法的にもみとめられ、ブルジョアジーを支配階級へおしあげたあとであれば、けっして下院を通過することはなかったであろう。
 
この法律は1984年に通過し、労働者のための労働者間の結社を禁止していたすべての法律を廃止した。労働者は、これまで貴族とブルジョアジーのみがもっていた結社の自由の権利を手にいれたのである。たしかにそれ以前にも、労働者のあいだに秘密結社はつねに存在していたが、それが大きな成果をあげることはなかった。
 
スコットランドでは、サイモンズがのべているように(『技芸と職人』、137ページ以下)、すでに1812年にグラスゴウの織布工のあいだでゼネストがおこなわれているが、これは秘密結社の力によるものであった。ゼネストは1822年にもくりかえされたが、このときは、組合に加入しようとしなかった2人の労働者が、そのために組合からは階級的裏切り者と見なされ、顔に硫酸をかけられて視力を失ってしまった。
 
同じように1818年には、スコットランドの鉱山労働者の組合はゼネストを貫徹できるほど強力であった。これらの組合は組合員に忠誠と秘密厳守の誓約をおこなわせ、きちんとした名簿、金庫、帳簿と地方支部をもっていた。しかし、すべてのことを秘密におこなっていたために、発展が妨げられた。
 
これにたいして労働者は1824年に結社の自由の権利を獲得したので、こういう組合がたちまちのうちにイギリス全体にひろがり、強力になった。すべての労働部門において、労働者一人ひとりをブルジョアジーの専制と無視とから守るという明白な意図をもってこういう組合(trades'-uniOnS)が、結成された。
 
その目的は、賃金をさだめること、集団で、力をもって雇主と交渉すること、雇主が利益をあげれば、それに応じて賃金を調整すること、景気がよくなれば賃金をあけること、一つの職業における賃金をどこにおいても同じ高さにたもつことであった。
 
そこで組合は、一般的とみとめられる賃金水準について資本家と交渉し、この水準に加わることを拒否した資本家一人ひとりにたいして、労働を拒否することを通告した。
 
さらに、徒弟の採用を制限することによって労働者にたいする需要をつねに活性化し、それによって賃金を高い水準に維持し、資本家が新しい機械や道具などを導入しで陰険なやり方で賃金を切り下げようとするのを、できるかぎり阻止し、そして最後に、失業した労働者を資金で援助することが、組合の目的であった。
 
この援助は組合の金庫から直接におこなうか、あるいは必要な身分証明を記載したカードによっておこなわれた。このカードにもとづいて労働者はあるところからほかのところへと遍歴し、同業者から援助をうけ、仕事にいちばんありつけそうなところを教えてもらうのである。こういう遍歴は労働者のあいだでは渡り歩き(tramp)と呼ばれ、このように遍歴する人は渡り職人(tramper)と呼ばれる。
 
これらの目的を達成するために、有給の組合長と書記が──なぜならこういう人たちを雇う工場主がいるとは思えないので──任命され、また委員会が任命されて毎週組合費をあつめ、それが組合の目的に沿って使われるよう監視する。可能なときには、そしてそれが有利であると分かれば、個々の地域の同職仲間は結集して連合組織をつくり、定期的に代議員会をひらく。
 
ある場合には、一つの同職の仲間をイギリス全体にわたって一つの大組合に組織しようとしたこともあり、そして何回も──最初は1830年に──各同職組合は独自の組織をもちつつ、全国的な一般労働組合を結成しようとしたこともあった。
 
これらの組織はすべて長つづきせず、ごく短期間成立したものさえほとんどなかった。というのは、とくに全般的に好況なときしか、こういう組織は結成されず、活動もできなかったからである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-下-」 p45-47)
 
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◎「@国家的見地からみて、国家はその自衛上、健全なる国民の発育をはからなければならない。A経済的見地からみて、労働時間の制限は損失のようにみえるが、労働力を摩滅させてしまっては元も子もなくなるので、労働時間の制限はかえって有利となるはずである。」と。
 
日本も世界と同じです。資本主義の本質は貫徹されていくのです。
 
◎「その目的は、賃金をさだめること、集団で、力をもって雇主と交渉すること、雇主が利益をあげれば、それに応じて賃金を調整すること、景気がよくなれば賃金をあけること、一つの職業における賃金をどこにおいても同じ高さにたもつことであった。」と、最初の労働組合の目的です。
 
◎「『権利の上に眠るものは権利を失う』という法律上の諺がありますが、労働者が手を拱いていれば、それらの権利はどこかに消えて行ってしまいます」「無知のために権利を手放すことのないように、一緒に学習しましょう。」はたらく権利コース∽ン井先生のコース紹介です。