学習通信031017
◎日本の労働者はどこからきたか……
 
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「サラリーマンは人生をかけるような仕事ではありませんでした」
 
 文明開化で経済が発展した。殖産興業でいろいろな産業が興ったといっても、有利な職業にありつけた人はごく一部でした。昭和の初めまで「サラリーマンは浮き草稼業」といわれ、生涯安定した職業とは思われていなかったのです。
 
当時、一番大きかった民間産業は繊維産業ですが、従業員のほとんどは若い女性、農家の娘さんたちが高等小学校を卒業してから結婚するまでの問だけ、勤める職場だったのです。『ああ野麦峠』『女工哀史」といった作品に出てきますね。
 
 当時の「女工」は十五歳から二十二、三歳くらいまでの七年間か八年間、紡績工場や製糸工場で働くことで農家の生活を助け、幾ばくかを貯金して嫁入り道具を揃えて結婚する、これが幸せで親孝行な女性の姿でした。
 
 工場の労働が長時間で苛酷であったり、そのための寮の環境が劣悪であったことは確かです。しかし、圧倒的多数から見れば、仕事があるだけましだったでしょう。そうでなければ、より惨めな生活、時には生存を脅かされるような貧困に陥った人も、なんとか食べていける仕事にありついたわけですから。が、それは結婚するまでの一時的なもので、決して人生をかけるような職業ではありませんでした。
 
 男性の場合、官営企業、郵便局、鉄道、学校の先生、警官や役場の吏員などの職業に就けば、五十五歳まで勤めて、あとは恩給で暮らすことができましたが、民間の会社は決してそうではありません。農家の次男・三男が高等小学校を出てから三十代の後半ぐらいまでは都市の工場に勤める。その間にも不況が来ればどんどんクビになる。
 
 クビになったら故郷へ帰る。帰れば大家族制の下で、親父か兄貴かが農業をしている。そこで農業の手伝いをしていれば、生活水準は低くても飢え死にすることはない。住居と食料くらいはある。そのうち景気が好くなれば、また都会へ出て商店か工場で働く。そして三、四年、景気のいい間は働いて、ものの三百円でも貯金をしたら故郷へ帰って、田地の一反でも買う。
 
 一反では生活できませんが、親父が耕している一町と合わせて一町一反なら、二家族、生活できないことはない。そしてまた景気がよくなったら都会へ出て、どこかに勤める。そのときは、「俺の買った一反の土地は、年貢のことなど心配せんで、兄貴、あんたが耕してくれたらいい。不況のあいだ世話になったから」というわけです。
 
 兄弟のどちらが得しているか分かりませんが、兄貴も地代を払わなくていい耕地ができるわけですから、収入がいくらか増える。それで家の修繕ぐらいできる。そういうことを繰り返しながら二十年ほど過ごし、四十歳近くなると農村へ帰る。そこで自作兼小作になれたら、人生の成功者だったんですね。
 
 これが大河内一男さんのいう「出稼ぎ型労働慣行」です。こういう生活をしながら、最終的には農村共同体に埋没するのが「健全な人生」と考えられていました。だからサラリーマンというのは、人生をかけるものでなく、ある年代、ある時期だけ、食いつなぐような職業だったのです。
(堺屋太一著「東大講義録 ─文明を解く」講談社 p155-156)
 
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 地主制と女工
 
 日本の近代産業が、このような短期間に発展していった秘密は、一体どこにあったのだろうか。一つには、欧米の最先端の機械と技術を導入したこともあるが、もう一つは、低賃金ときわめて劣悪な労働条件で身を磨り減らしながら働かざるをえない多くの労働者、とくに農村出身の女工たちがいたことによる。
 
 近代工業が発展したとはいえ、日清・日露戦争期の日本は、七十%前後の人びとが農業によって生計を立てる農業国だった。しかし、農村も大きく変わりつつあった。一八八〇年代の松方デフレを通じて多くの農民が土地を失った。
 
彼らは失った土地を地主から借り、小作人となって働いた。地主への土地集中は一八八〇年代から一九〇〇年代にかけていちじるしく進み、この頃には、小作地は四十五%にもたっした。すべての農地を地主から借りている小作農と、一部は自分の所有地で一部は地主から借地している自小作農(じこさくのう)を合わせると、全農家の三分の二にのぼった。
 
地主は小作人から高い小作料(借地料)をとりたてたが、それは収穫量の五、六割で、しかも現物徴収だった。小作農の一年間の汗の結晶は、大半は暮になると俵につめられて地主の蔵に収められてしまうのだった。
 
地主はこれらの小作米を有利に販売して、その利益でさらに土地を買い入れ、山形県や新潟県ではかつての大名よりも多くの土地を所有する巨大地主があらわれた。また地主は、製糸、紡績、銀行、鉄道などに投資し、勃興期の資本主義経済を資本の面からささえた。
 
 小作人は貧しい生活を強いられた。彼らの多くは地主から借りた五反歩(一反は約十アール)前後のわずかな土地を耕作し、地主や農村工業の日雇いとしてのわずかな労賃によって生計を立てなければならなかった。そこで、多くの小作農民の二、三男や女子は、紡績工場や製糸工場に出稼ぎにでた。
 
 女工として働く彼女らは、前借り金で仕度を整え、遠方の紡績工場や比較的近隣の製糸工場の門をくぐった。そこで待っていたものは、一部屋十人前後、一人当たり一畳分にも満たない狭くて非衛生的な寄宿舎であり、朝六時から夕方六時までの一日十二時間の厳しい労働だった。
 
この苛酷な労働条件に耐えられなくて逃げ出す者や、病気や怪我で工場をやめて帰郷する者が多数いた。それでも女工は、あとからあとから重しい小作農の子女によって補給されていった。小作農家にとっては、女工となった娘たちからのわずかな送金が、生活を維持するためにはどうしても必要な一部だったからである。
 
このような女工たちの家計補充のための低賃金労働こそ、日本の資本主義の発達を底辺で支える重要な要因だった。
(由井正臣著「大日本帝国の時代」岩波ジュニア新書 p43-44)
 
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地租改正と山林原野の「かこいこみ」
 
 さて、明治政府は、日本の資本主義の土台をつくるために、計画的に国家権力をつかって一方で資本を、他方で大量の労働者をうみだしました。明治政府が資本主義をつくりだすためにとった主な手段は、つぎの三つでした。
 
 第一の手段は地租の改正(一入七三年、明治六年)と山林原野の「かこいこみ」でした。
 
 徳川時代には米その他の現物で年貢をおさめていた農民は、明治政府になってから現金でおさめることになりました。また、明治政府は地租を地価の三パーセント、ちょうど収穫の二分の一ていどになるようにきめました。そして、この地租を土地所有者からとりたてることにしました。こうして、地主は、地租とじぶんの取り分との合計を小作料として小作農民からとりたてることが国家によって保障されました。
 
 このために農民の生活はますます苦しくなり、ロべらしのため働きにでたり、一家をあげて離村するものがふえました。また、小農や貧農ほお米がとれたとき以外は現金がありませんから、税金をはらえない農民が数十万人もうまれ、政府は税金のカタ(担保)に土地を差し押さえて競売にしましたから、お金のある地主は、ますます、土地を買いあつめ、土地を地主や高利貸にうばわれる農民もふえました。
 
 こうして、土地を競売にされた農民の数は、一八八三年(明治一六年)には三万四〇〇〇人、八四年には七万人、八五年には一〇万人、八六年には六万余人、八七年には三万五〇〇〇人、九〇年には四万人、九一年にほ六万七〇〇〇人というありさまで、一八八四年から八六年の三年間に、農家の数は四三二万八五四三戸から三八〇万九七八三戸へと減りました。
 
 明治政府は、地租改正とあわせて、旧幕府や大名がもっていた広大な山林原野と、持主のはっきりしない土地、山林原野を、いっさい、ただで天皇と国家の手にまきあげました。そして、一九〇〇年(明治三三年)までに、全国の山林面積の七〇パーセントまでを国有林と御料林(ごりょうりん=天皇所有林)にし、とりわけ、木曽の槍、秋田・高知の杉なぜ、いちばんゆたかな美林を天皇家のものにしました。
 
そのため、農民は、いままで、村じゅうや数か村が共同して薪炭材をとったり、下草を刈ったり、材木をきっていた入会地をうばわれ、いっそうくるしくなりました。同時に、この山林の「かこいこみ」は大地主としての天皇の経済的な土台をつくり、日本の農業が近代的に発展したり、牧畜その他に土地が利用されることをさまたげ、農民を猫のひたいほどのせまい田で、米づくり中心の農業にしばりつける役目をはたしました。
 
秩禄(ちつろく)処分と紙幣の発行
 
 第二の手段は、秩禄処分といわれるものです。秩禄処分というのは、大名をはじめ下級武士にいたるまで武士階級がいままで農民から米をとりあげる権利をもっていたのを、明治政府が、これを公債で買いあげたのです。
 
この封建階級を整理するための公債発行は巨額にのぼって、明治政府の財政上の大きな負担になりましたが、一八八四年(明治一七年)には、その八割近くまでが、商人や高利貸の手にあつめられ、これらは国立銀行や鉄道会社などの資本金となって、資本主義を育てるもとになりました。
 
 第三の手段は、紙幣(おさつ)の発行です。政府は地租を担保にして、太政官札という不換紙幣や民部省札(みんぶしょうさつ)、大蔵省兌換証券などをつぎつぎに発行しました。また、一方で三井、小野、島田などの大商人から借金をして財政をまかないました。
 
 こうして、明治政府は、国家の信用を土台に公債や紙幣を発行して、これを資本にかえていったのです。
 
 明治政府は、以上三つの手段、地租と公債、紙幣発行によって、「殖産興業」「富国強兵」のスローガンで、資本主義産業をつくりだすもとでをつくりあげました。
 
そして、一方では、土地をうばわれて無一物になった農民、公債だけではくえなくなった下層の武士階級、そして近代的な機械や技術をつかう工業に太刀うちできなくなった職人のなかから、自分のからだにそなわった労働力を売る以外に生きていけない近代的な労働者をうみだしたのです。
 これが日本の資本主義と労働者の生いたちです。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p20-22)
 
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 農民の賃金労働者化
 
 本来ブルジョア革命の中心課題ともいうべき封建的土地所有の廃棄が不十分にしかなされなかったことは、賃金労働者への転化のしかたをさまざまなかたちで規定し、かつ、創出された賃金労働者に特殊日本的な性格を刻印する原因となった。そこでつぎに、日本の労働者階級がどのようなコースをたどって形成されたかを、順を追ってみてゆくことにしよう。
 
 大きく分ければ、@農民の賃金労働者化、A封建家臣団の解体とその賃金労働者化、B伝統的職人層の没落とその賃金労働者化、C浮浪人・囚人の賃金労働者化の四コースが考えられる。このうち@が基本的なコースであり、他は補完的な位置をしめていた。
(中村政則著「日本の歴史 ─労働者と農民」小学館 p46)
 
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 貨幣も商品もはじめから資本ではないのであって、それは生産手段や生活手段がはじめからそうではないのと同じである。それらのものは資本への転化を必要とする。しかし、この転化そのものは一定の事情のもとでしか行なわれえないのであって、この事情は次のことに帰着する。
 
すなわち、一方には、自分が所有している価値額を他人の労働力の購入によって増殖することが必要な、貨幣、生産手段、および生活手段の所有者と、他方には、自分の労働力の売り手であり、それゆえ労働の売り手である自由な労働者という、二種類の非常に違った商品所有者が向かい合い接触しなければならない、という事情である。
 
自由な労働者とは、奴隷や農奴などのように彼ら自身が直接に生産手段の一部分に属するのでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らに属さず、彼らはむしろ生産手段から自由である、すなわち引き離されてもいるという二重の意味でそうなのである。
 
商品市場のこのような両極分化とともに、資本主義的生産の基本条件は与えられる。資本関係は、労働者と労働実現条件の所有との分離を前提とする。資本主義的生産がひとたび自分の足で立てば、それはこの分離をただ維持するだけでなく、ますます増大する規模で再生産する。
 
したがって、資本関係をつくり出す過程は、労働者を自分の労働諸条件の所有から分離する過程、すなわち一万では社会の生活手段および生産手段を資本に転化し、他方では直接生産者を賃労働者に転化する過程以外のなにものでもありえない。
 
したがって、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならない。それが「本源的なもの」として現われるのは、それが資本の、そしてまた資本に照応する生産様式の前史をなしているためである。
 
 資本主義社会の経済構造は封建社会の経済構造から生まれてきた。後者の解体が前者の諸要素を遊離させたのである。
(マルクス著「資本論C」新日本新書 p1223-1224)
 
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 資本主義的生産様式の「永遠の自然法則」に道を切り開き、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、一方の極では社会的な生産手段および生活手段を資本に転化させ、反対の極では人民大衆を賃労働者に、近代史のこの芸術作品である自由な「労働貧民」に、転化させるには、このような骨折りを必要とした″のである。
 
もしも貨幣が、オジエの言うように、「頬にはじめから血斑をつけてこの世に生まれてくる」のだとすれば、資本は、頭から爪先まで、あらゆる毛穴から、血と汚物とをしたたらせながらこの世に生まれてくる。
(マルクス著「資本論C」新日本新書 p1300-1301)
 
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◎いまでも、このことが再生産されています。農民や中小企業の倒産によってどんどん労働者の人口はふえています。1950年に13,888千人で労働力人口に占める労働者階級は38・2%でしたが、2000年には52,613千人で79・6%までたかまっています。
 
大きく減ったのは農林漁業に従事している人たちです。労働力人口に占める割合が44・6%から4・4%にまでに後退しています。
 
◎労働者として生きることの意味を深く学ぼう。さらにテーマは今後深めていきます。
 
◎それにしても堺屋氏の講義録はいただけない。