学習通信031018
◎子ども早期教育 国語というもの「その用語さえ知れば知ってるようにみえる学問……」
 
■━━━━━
 
 極端な育児観をもつ親が増えている。赤ちゃんが集中しているからと一日七時間もテレビを見せる、手当たりしだいに育児教室に通わせる、赤ちやんが思いどおりにならないからと自信喪失する。これらの行き過ぎた現象の背景には、二〇世紀的な右肩上がりの成長、発達観があるのではない和「子どもの成功」にこだわりすぎることで、子どもからの自然な成長のメッセージを無視しているのではないか。
 
 本書では、脳科学発達行動学を専門とする小児科医和親を駆りたてる早期教育、臨界期等の科学的根拠≠もう一度科学的に検証しなおすことで、「普通の育児」こそが今まさに重要であると説く。新しい「赤ちやん学」の誕生である。
(小西行郎著「赤ちゃんと脳科学」)
 
■━━━━━
 
 育てにくい子供
 
 タブーが多いとはいえ、脳と教育の関係については今後徹底的に調べなくてはいけないと思います。現在、二つのプロジェクトが進行しています。ひとつは文部科学省の「教育と脳」に関するプロジェクトで、もうひとつがNHKの「子供によいメディア」をテーマにしたもの。両方とも、子供の発育と脳、というテーマです。
 
 子供の脳を調べるにあたって注意すべきは、その手法です。従来の調査では、小学校五年生を皆調べて、同時に小学校一年生も調べる、というやり方でした。これは横断的なやり方といいます。この場合、個性に類すること、そういう違いが消えてしまう。
 
 例えば、身長、体重を調査するとしても、ひとりひとりその発育、伸び方は違うけれども、そういうところは把握出来ない。ただ、五年生と一年生の平均の違いがわかるだけです。
 
 しかし、これが同じ人間をずっと追うという手法をとった場合はどうかといえば、何か起こった時に、それが起こる以前にあった現象と、統計的に相関関係が取れるようになる。これは同じ個体を追いつづけないと、意味が無いのです。
 
 こうした手法で、実際に厚生省で調べた結果として、高校生になって非行に走った子供について遡って調べると、ひとつの傾向が統計的に見られました。同じ人、家族に継続してアンケートを取る、という手法でしたが、ここで見られたのは、大きくなって非行に走った子供は三歳までに母親が、「この子は育てにくい子だ」と書いていた率が高い、ということでした。すると、こうした子には親子の人間関係にその頃から問題があった、ということがわかるわけです。
 
 もちろん、これだけでは、本当にその子が育てにくい子だったのか、それとも親子関係や母親に問題があったのかはわかりません。それを調べるには、さらに細かい質問をしておいて、それとの相関関係を調べなくてはいけない、ということになる。
 
この調査の難しいところは、開始の時点で予め、測ることをきちんと細かく決めておかないといけないというところです。当然、大変な手間がかかります。
 
 赤ん坊の脳調査
 
 ですから、こうした調査は数千人単位、すなわち国家規模で行わなくては意味が無い。実は教育の問題というのはこうした科学的な調査をきちんと行わなくてはいけないのに、殆どそれがなされていない。そして科学的調査抜きで考えるから常に素人談義のレベルを抜け出ない。文部科学省の役人に払う給料があったら、省を潰してこちらの方に回したほうが、よほど役に立つはずです。
 
 むろん、この研究も突き詰めて考えると、さらなる問題に突き当たります。その個人の背景となる時代というのは一回しかない。昭和二十年生まれの人の二十年間と、四十年生まれの人の二十年というのは、当然変わってくる。こういう研究でわかった結果そのものも、その時代の子供にしか当てはまらない、という可能性もあるのです。それでも、調べていくべきだと思っています。
 
 さらに最近では、アンケートという原始的な手法に頼らなくても、現代では技術の進歩のお陰で、科学的に測定することも可能になった。日立が開発した「光トポグラフィー」という技術があります。頑にオウム真理教が使っていたヘッドギアみたいなものをかぶせて、赤外線によって脳のどこに血液が集まっているかを調べることが出来る。
 
この装置ならば、かぶせるだけで何の痛みもないから、子供の脳の測定も非常にやり易い。CTとかMRIとかそういう装置の場合、子供におとなしく受けさせるのは大変な骨なのです。
 
 この装置を赤ん坊につけてみる実験がフランスで行われた(どうも、この種のことをする場合、日本では何だか親などが色々とうるさいようです)。すると、こんなことがわかりました。テレビのニュースで母国語が流れているのを聞くと、赤ん坊でもちゃんと、言語を司る左脳に血液が集まっているというのです。
 
 今度はそのテープを逆回しして聞かせるとどうなるか。そうすると、何と、殆ど血液が集まらない。逆回しにして意味の無い音の連続になったものに対しては、赤ん坊も反応をしない。まだ言葉を覚えないうちから、脳は無意味な音と言葉とを区別して反応しているのです。
(養老孟司著「バカの壁」新潮新書 p171-175)
 
■━━━━━
 
 私は、子どもの脳に刺激を与えて「賢くなった」と喜ぶよりも、自分の子どもを見て、彼らが何を望み、どのようなときに達成感を感じているのかを汲み取り対応することのほうが、よほど楽しく充実した子育てだと思います。
 
 子どもがありのままに幸せであるために
 
 早期教育や超早期教育を支持する母親たちが、生まれて間もない赤ちゃんに、外国語の音声が流れるビデオを見せているという話をよく聞きます。
 
 できるだけ早く、良い環境を作って学ばせようという考えには、あえて反対する者も少なく、世の親にはとても納得しやすいことであるだけに、このような育児・教育グッズがあっという間に家庭に入り込みました。
 
 「脳科学」の流行がそれにさらなる拍車をかけ、「育脳」や「脳にやさしい」などという言葉が、あちらこちらで聞かれるようになりました。
 
 私も、日本赤ちゃん学会を創設し、「育児に脳科学を」と主張した手前、大きな責任を感じています。しかし、真意は、「まだまだ育児や教育に直接的に役立つほどの成果を脳科学の分野は上げておらず、未解明のことばかりであるから、そのことをまず知ってほしい。
 
その上で、赤ちゃんの解明に脳科学を積極的に取り入れていくことが重要であり、脳科学者と教育、あるいは育児の現場との交流をもっと積極的にしたい」ということです。決して「脳科学者の言うことを鵜呑みにせよ」と言っているのではありません。なぜなら現実に、早期教育の有効性を支持するような証拠は、脳科学者からはほとんど示されていないといっても過言ではないからです。
 
 しかしそうはいっても、脳科学は着実に進歩していて、いくつかの新しい知見を提供してくれています。
 
 先に述べたように、「シナプスの過形成と刈り込み」 での刈り込み不足もその一つで、無条件に取り入れられている早期教育に疑問を呈するもののように私には思えました。「無駄なシナプスをバランスよく削りながら成長する脳」というコンセプトは、何でもかんでも刺激すればするほど成長する、という従来の考え方に警鐘を鳴らすように思えたのです。
 
 たとえば障害児の訓練では、科学的な検証が少ない段階から早期訓練が取り入れられてしまったために、やがて早期訓練の見直しが言われるようになり、今ではその効果に疑問が投げかけられています。それだけでなく、障害を受容し、社会の中で共生することの重要性が叫ばれ始めています。
 
 赤ちゃんの早期教育が、何を目的になされているのかを考えたとき、「少しでも他の子どもより賢くなってほしい、すぐれた能力を発揮してほしい」というのではどんなものでしょうか。
 
 そうしたい親の気持ちをまったく理解できないわけではありません。しかし、人よりすぐれてほしい、能力がすぐれているほうが素晴らしいという競争主義的な考えは、「そうでない子はダメ」という、偏見や差別意識につながりかねません。
 
また、障害をもったままでも幸せに暮らせる、あるいは暮らすべきだという、障害児(者)の社会的ノーマライゼーションという観点からみても、それには賛成できかねます。
 
 二〇〇二年、NHKで『奇跡の詩人』という番組が流され、言葉も発せらないほど重度の障害児が素晴らしい詩を書いている、と賛美されました。その後、真偽やその訓練方法の是非について多くの意見がNHKによせられたと言います。
 
 しかし、私が思うには、重度の障害児が詩を書いたからといって、それを「奇跡」だとするその姿勢のほうが問題なのではないでしょうか。障害をもった子どもが訓練の結果で詩を書けた、だから素晴らしい、というのであれば、努力をしても詩も書けず、言葉も発することができない障害児は素晴らしくない、ということにもなりかねないからです。
 
 どんな障害をもった子どもでも、あるいはのんびりした子どもでも、ありのままに人生を幸せに送ることができれば、それこそが素晴らしいことであると私は思うのです。
(小西行郎著「赤ちゃんと脳科学」集英社新書 p124-126)
 
■━━━━━
 
 弟子にあたえる知識を仰々しくならべたてる教師は、これとは別のことを言って金をもらっている。しかし、かれら白身のやりかたをみれば、かれらもわたしとまったく同じように考えていることがわかる。要するにかれらは弟子になにを教えているのか。
 
ことば、つぎにもことば、いつもことばだけだけだ。かれらは弟子にいろいろと学問を教えてやるのだと得意になっているが、弟子にとってほんとうに役にたつものを選択しないようにできるだけ気をつけている。役にたつのは事物についての学問なのだろうが、それにはとてもかれらは成功しそうもないからだ。
 
かれらが選択するのは、その用語さえ知れば知ってるようにみえる学問、たとえば、紋章学、地理学、年代学、語学といったようなもので、こういうものはいずれも、人間にとっては、とくに子どもにとっては、まったく用のない勉強で、そういうもののなにかが一生のうちに一度でも役にたつことがあるとしたらふしぎなくらいだ。
 
 語学の勉強も教育にとって無用なことの一つだと言えば、読者はびっくりするだろう。しかし、ここで語っているのは幼い子どもの勉強についてだけであることを思い出していただきたい。そして、人がなんと言おうと、十二歳ないし十五読までは、天才は別として、どんな子どもでも、ほんとうに二つの国語を学べたためしがあろうとは信じられない。
 
 言語の勉強がことばを学ぶこと、つまり、それをあらわす文字や音を学ぶことにすぎないなら、そういう勉強は子どもにふさわしいかもしれないと、わたしはみとめよう。しかし言語は、記号を変えることによって、同時に、それが表現する観念を変える。
 
頭脳は言語に即して形づくられ、思想は慣用の語法の色合いをおびる。理性だけは共通のものだが、それぞれの国語によって精神は特殊の形態をもつ。その相違はたしかに部分的にさまざまな国民性の原因あるいは結果となりうるものだ。
 
そして、この可能性を確認しているように思えるのは、世界のあらゆる国民において、国語は習俗とともに変遷し、習俗とともに維持され、あるいは頽廃(たいはい)していることだ。
 
 そのいろいろな形態の一つを習慣が子どもにあたえる。そしてこの唯一の形態を子どもは理性の時期にいたるまでもちつづける。二つの形態をもつためには、観念を比較することができなけれはならないが、観念をもつ能力がほとんどない子どもに、どうしてそれを比較することができよう。
 
一つ一つのものは子どもにたいして無数のちがったしるしをもつことができるが、一つ一つの観念はただ一つの形態しかもつことができない。だから子どもは、ただ一つの国語を話すことを学べるにすぎない。それでも子どもはいくつかの国語を学んでいるではないか、と人はわたしに言う。わたしはそういう事実を否定する。
 
わたしは、五、六カ国語を話すことができるつもりでいるいわゆる天才児に会ったことがある。わたしはかれらがつぎつぎに、ドイツ語、ラテン語、フランス語、イタリア語で話すのを聞いた。
 
なるほど、かれらは五種類か六種類の辞書をつかっていたが、いつもドイツ語でしか話していなかったのだ。一言でいえば、子どもにあなたがたの好きなだけたくさんの同義語を教えるがいい。単語は変わるだろうが、国語は変わらないだろう。子どもはただ一つの国語しか知らないだろう。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p165-166)
 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「一つ一つのものは子どもにたいして無数のちがったしるしをもつことができるが、一つ一つの観念はただ一つの形態しかもつことができない。」と。
 
◎子ども育てる……私たちが捉えている「教育」と人間としての最初、子どもを育てるということは違っているのではないか。子ども育てると言うことはもっと全面的なものなのだろう。その点でルソーの言う自然≠ニいうことの重要さがあるのではないか、と思います。
 
◎労働学校で学ぶことは、人間としての成長をつくり出していく学習です。開校まであと6日です。