学習通信031019
◎「方法として枯れ葉のようになって助かりたいと願い、その意識がDNAの変異を起こさせた」……稲盛氏とデューリング。
 
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 現在のサイエンティストたちは、植物や動物の進化について、「突然変異によって発生する個体のなかで、環境にもっとも適応したものが生き残っていく」というダーウィンの進化論が正しいと考えています。私は専門家ではありませんが、この考え方に異論を唱えたいと思います。
 
 先日、京都大学の原子物理学や宇宙物理学の先生方とお話ししていたところ、彼らもやはりダーウィンの進化論を主張しました。そのとき私は、昆虫の擬態を例に取って意見を申しあげました。
 
 「昆虫のなかに枯れ葉や枝そつくりに見える姿をしたものがある。突然変異でいろいろなものが生まれ、そのなかで環境に適応した種が生き残ったというが、何も枯れ葉に似なくてもいいはずだし、またそうだとしても、あれほど枯れ葉そつくりの姿になるものだろうか」
 
 すると、先生方は、「想像を絶する長い時間と広い空間のなかでは起こりうるのだ」と確率論で結論を出そうとします。これに対して、私は再び反論しました。
 
 「生命の危機にさらされているなかで、なんとか天敵から逃れたい、身を守りたいと昆虫は強く思ったのではないか。そして、その方法として枯れ葉のようになって助かりたいと願い、その意識がDNAの変異を起こさせたのではないか」
 
 科学の進歩にしても、先ほども述べたように、先駆者の「こうしたい、ああしたい」という意識が働いた結果、実現したのです。このように、科学も意識の産物なら、生物の進化も意識の産物ではないかと思うのです。
 
 DNAは利己的──つまり、自分の種を残したいという一心で生きている──と語る分子生物学者がいます。しかし、何かの衝撃によって突然遺伝子の組み替えが起こるという偶然性だけで進化を物語っていいものかどうか。DNAの配列が何か偶然に少し変わったためにガンになるケースがあるといわれますが、意識によってDNAの配列が変わってしまい、それによって発ガンすることだってありうるわけです。
 
 私は、DNAは外部の要因だけで突然変異するのではなく、意識体、意識というものも内側から影響を及ぼしているのだと思います。
 たとえば、象の鼻が長いのは「たまたま長くなった鼻をもった象が環境に適応して生き残った」とするのが進化論の考え方です。では、その地域に住む動物がみんな鼻が長いかといえば、象だけが長いのです。
 
 しかも、象が鼻で草をつかんで口に運んでいるのを見ていると、不自由そうに見えます。どうも環境に適応したとはいいがたい動きで、鼻が長くなる必要があまり感じられません。やはり私は、象は鼻が長くなりたいと思ったのではないかと考えたくなります。
 
 キリンにしてもそうでしょう。高いところにあるエサを食べるのに長い首が適したというのであれば、その地域の動物がすべてキリンのように首が長くなってもいいはずです。しかし、アフリカのサバンナで首が長い動物はキリンだけです。
 
 人間の世界でも、われわれは「こうしたい」「ああしたい」と意識しているから「向上」という変化が生まれます。また、「職業顔」というものもあります。刑事は刑事の目つきになり、泥棒は泥棒のような目つきになる。職業意識が風貌を変えているのです。それどころか、私が子供のころには、「顔に心が出る」といって、心をきれいにしないと顔つきまでおかしくなると注意されていました。
 
 その心というものを私は意識体と表現したわけですが、意識というものでDNAまで変わるというのが私の考え方です。
 それには、短時間にDNAを変えていく場合も、長時間かかって変えていく場合もあるでしょう。昆虫の擬態や象の長い鼻、キリンの長い首は、かなりの時間をかけて、意識が姿を変えさせたのではないでしょうか。
 
 この考え方は進化論に真っ向から挑戦するものであり、「非科学的」という烙印(らくいん)を押されるかもしれません。しかし私は、必ずしも進化論が正しいとはいえないだろうし、さらに現在の科学であらゆることが説明できるとも考えていません。
 
 また、現代社会では、物事を科学的に解釈することばかりに重きを置き、「よき人間、よき世の中をつくつていくためには、どういう考え方をし、いかなる哲学を樹立したらよいか」というところが忘れられているのではないかと思います。
 
 科学的かどうかという枠組みを第一義にするのではなく、「どういう考え方が人間にとつて、あるいは宇宙にとつて必要か」という視点で考えるべきではないでしょうか。現在は、この視点での議論がないに等しく、たとえそのような視点をもち出して議論しょうとしても、「科学的でない」というひと言ですませられてしまいます。しかし、現在の科学が絶対的な真実を導くとはいえないのです。
 
 たとえば、最小の物質として最初に原子が見出されました。ところが、素粒子が発見されると、原子は最小物質ではなくなりました。その後も研究が進み、いまは素粒子の一種であるクォークがもっとも小さい物質といわれています。
 
 これは「正しい」と科学的に証明されたことでも、その後の科学の発展で否定されることもあるという一例です。結局、科学は「現在においてわかっている範囲での事実」を示すのであって、それですべてが正しく説明できたり、それが真実というわけではありません。
 
 麻酔の専門家で博士号をもっている青山重秀さんが、麻酔の仕組みは科学的に解明されていないと書いていました。ある薬を使うと、そのメカニズムは解明できないが、意識が止まってしまう。これは厳然たる事実であって医療行為として認められている。しかし、その理由は理論的にはまだ解明されていないと述べているのです。
 
 麻酔はいちばんシンプルな感覚である痛みを感じなくさせるのですから、意識の基本的なレベルで機能していると考えられます。しかし、そのことが科学ではまだ説明がつかないのです。
 
 精神療法で抗鬱剤(こうつざい)と同じ効果を出すことも可能だと聞きます。また、ある実験では風邪薬の代わりに小麦粉を渡したら三分の一の人が治ったとも聞きます。これは薬を飲めば治るものだという意識が病気を治したのだと思えます。
 
 このような意識の働きを、現在の科学で捉えることは不可能です。科学の側が現在の段階で意識の働きなどを証明する方法論をもてないだけかもしれないのに、それを非科学的といって切り捨てるのはおかしいのではないでしょうか。
 
 また、科学的と称して、小さな事実を確認し、議論して積み上げていったとしても、それで全体がわかるとはかざりません。小さな部品はきちんとつくつた。それを集めて組み立て、機械をつくつた。では、その機械が動くかといったら、動かない場合もあります。機械をつくるには機械全体を考えないといけないのです。
 
 そういう観点から考えると、人間や宇宙の全体を考えるためには、創造主の視点から見ることが必要になります。
 
 細かいことをいじくり回していては、決して全体の正しい姿は理解できません。いまの科学、あるいはいまの学者たちの議論には、部分を論じて全体を見失っている面があるように感じます。全体を見回して、世の中がよくなるためにはどういう考え方をしたらよいかという「創造主の視点」が、なおさら現代の社会では必要になっているのだと思います。
(稲盛和夫著「稲盛和夫の哲学」PHP p66-73)
 
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 さて、このダーウィン理論に反対して、デューリング氏は言う、──生存闘争という観念の起原は、ダーウィン自身が認めたように、国民経済学者である人口理論家マルサスの見解を一般化したところに探さなければならず、したがって、それには、人口過密状態にかんする祭司ふうマルサスふうの見解に固有な欠陥がすべてつきまとっている、と。
 
──さて、(生存闘争という観念の起原はマルサスのもとに探さなければならない)と言うなどということは、ダーウィンのまったく思いもよらないところである。彼はただ、自分の生存闘争の理論はマルサスの理論を動植物の世界全体に適用したものである、と言っているだけである。
 
素朴にもマルサスの説をまったく調べないで受け入れたことがダーウィンのどれほど大きなしくじりであったにせよ、それでも、つぎのことは、だれにでも一目でわかるのである。
 
それは、自然のなかに生存闘争を見てとるのには、──つまり、自然が惜しげもなくたっぷり生み出す胚の数が無数であるのに、ともかくも成熟に達することのできる胚の数はわずかだという矛盾を、実際に大部分は──ときにはきわめて残忍な──生存聞争を通じて解決される矛盾を、見てとるのには、マルサスの眼鏡など必要でない、ということである。
 
そして、リカードウが賃金法則の支えとして用いたマルサスの論拠がとうの昔に忘れさられたあとでも賃金法則がその有効性を保っているのと同じように、マルサスふうの解釈などなにもなくても、自然における生存闘争はやはり起こりえるのである。それはそうと、自然の諸生物にも同様にその個体群法則〔人口法則〕がある。
 
これはまったく研究されていないも〔初版では「これは現在までまったく研究されていないも」〕同然であるが、それを確定することは、種の進化についての理論にとって決定的に重要なことになろう。そして、この方面でも決定的に重要な刺激を与えたのは、だれか? ほかならぬダーウィンその人なのである。
 
 デューリング氏は、十分に用心して、問題のこういう実証的な側面には立ち入らない。その代わりに、生存闘争が、氏がくりかえし浴びせる非難にたいして持ちこたえなければならない。
 
意識のない植物のあいだでの・のんびりした草食動物のあいだでの生存闘争などというものは、はじめから問題になりえない、と、氏はつぎのように言う、──「ところで、正確に規定された意味では、生存闘争は、身を養うことが獲物を捕らえ喰うというやりかたで行なわれる限りで野獣の世界の内部で現われている」。
 
そして、生存闘争という概念をこういう狭い限界に押し込めてしまったあとでは、氏には、自分で野獣の世界に局限したこの概念の野獣性について、思う存分に道徳的憤激をほとばしらせることができるわけである。
 
けれども、この道徳的憤激は、ただデューリング氏自身にぶちあたるだけである。実際、氏こそこういう局限された生存闘争の唯一の創作者であり、だからまた、氏ひとりにその責任があるのだから。
 
こういうわけで、「すべての自然活動の法則と理解とを野獣の領域に探している」のはダーウィンではなく──なにしろダーウィンはまさに全生物界をそっくりこの闘争に含めたのだから──、デューリング氏自身がつくりあげた空想のお化けなのである。
 
それはそうと、(生存闘争)という名前は、よろこんでデューリング氏の気高い道徳的憤怒のいけにえにしてもよい。
 
〔しかし、〕そういう事柄が植物のあいだにも存在しているということは、どの草地・どの穀物畑・どの森も氏に証明できるのであって、問題は、これを「生存闘争」と名づけたらよいのか、それとも「生存諸条件の欠如と力学的諸作用と」と名づけたらよいのか、ということにあるのではなくて、この事実が種の保存または変化にどのように影響するか、ということにある。
 
この点にかんしては、デューリング氏は、かたくなに自己同一的な沈黙を守っている。だから、たぶん、自然選択については当面これまでどおりでよいことになるのであろう。
 
 しかし、ダーウィン学説は「それの説く変化と差異とを無から生み出す」のだそうである。なるほどダーウィンは、自然選択を論じるさいに、個々の個体に変化を引き起こした諸原因を度外視して、さしあたり、そのような個体的な偏差がしだいしだいに或る品種や変種や種の目じるしになっていく、その仕方を論じてはいる。
 
ダーウィンがさしあたって問題にしているのは、こうした原因──これまでのところ、一部はまったく不明であり、一部はごく一般的にしか言えない──を見いだすことよりも、むしろそういう原因の諸結果がどう固定して持続的な意義を得るようになるのか、その合理的な形式を見いだすことのほうなのである。
 
ダーウィンがそのさい自分の発見に過大な有効範囲を認め、この発見を種の変化を引き起こす唯一無二の挺子(てこ)にしてしまい、個体的変化が一般化していく形式に気をとられて、そういう個体的変化をくりかえし生じきせる原因をゆるがせにしたことは、一つの誤りである。〔が、〕これは、彼に限らず或る真の進歩をなしとげるたいていの人びとに共通するものなのである。
 
そのうえ、もしダーウィンが自分の言う個体的変化を無から生み出し、そのさいもっぱら「育種者の知恵」を応用しているだけであるのなら、育種者が観念のうえでだけでなく現実にもたらす動植物形態の変化も、その育種者がやはり無から生み出さなければならないことになる。
 
しかし、こうした変化と差異とが〔そのように無からではなく〕そもそもいったいどこから生まれたのか、これを研究するきっかけを与えた人は、これまたほかならぬダーウィンなのである。
 
 最近では、とくにヘッケルが、<自然選択>という観念を拡張して、種の変化を適応と遺伝との交互作用の結果であるとつかんでおり、そのさい、つぎに、適応がこの過程において変化をもたらす側面であり、遺伝はその保存する側面である、と説明している。このこともデューリング氏には気に入らない。
 
「自然が与えたり奪ったりする生活諸条件に本当に適応するには、観念どおりに規定される衝動と活動とが前提される。そうでないなら、適応といってもただ見せかけにすぎず、その場合に作用する因果性は、物理学的なもの・化学的なもの・植物生理学的なものという下級の諸段階を越えはしない」。
 
ここでもまた名前がデューリング氏の癪の種(しゃくのたね)なのである。氏がしかしこの出来事をどう名づけようと、ここでの問題は、そのような出来事のおかげで生物の種に変化が引き起こされるのか引き起こされないのか、ということである。そして、デューリング氏は、またしても返事をくれない。
 
 「或る植物が生長していくさいに光をいちばん多く受けるような道を取る場合、刺激のこうした結果は、物理学上の諸力と化学上の諸動因との組み合わせにほかならないのであって、もしここで比喩的にではなく本当の意味で適応ということを言おうと思うのであれば、それはどうしてももろもろの概念のなかへ心霊論的混乱を持ち込むことになってしまう」。
 
だれの意志によって自然があれこれのことをするのかをまったく正確に知っており、自然の精緻(せいち)さということを、それどころか自然の意志ということを言いさえする。そのご当人が、他人にたいしてはこれほどにも厳格なのである! まったくの話、心霊論的混乱には違いない。──しかし、その混乱はどこにあるのか、へッケルのもとにか、デューリング氏のもとにか?
 
 それに、これは心霊論的混乱であるばかりか論理的混乱でもある。すでに見たとおり、デューリング氏は、自然においても目的概念を通用させるよう、しやにむに主張している、──「手段と目的との関係は、けっして意識的な意図を前提してはいない」、と。ところで、しかし、氏が躍起になって反対している(意識的な意図をもたず観念に仲だちされることのない適応)というのは、そのような無意識的な目的活動でなくてなんであろうか?
 
 だから、アマガエルと菜を喰う昆虫とが緑色をしており、砂漠の動物が砂黄色をしており、極地の動物がおもに雪白色をしているのは、この生き物たちが意図して、またはなにか或る観念に従って、そういう色を獲得した、というものではもちろんない。
 
反対に、こうした色は、もっぱら(物理学上の諸力と化学上の諸動因)とをもとに説明できるのである。それにもかかわらず、この動物たちがそういう色のおかげで自分の生活環境に合目的的に適応していること、しかもそのおかげで自分の敵たちの目にずっとつきにくくなっても、この活動に適応しており、しかも合目的的にさえ適応しているのである。
 
さて、デューリング氏が、適応は観念を仲だちとして引き起こされたものでなければならない、と主張するのは、こういう目的活動もやり観念に仲だちされた意識的な意図的なものであるはずだ、ということを、別のことばで言っているにすぎない。
 
こうして、われわれは、現実哲学ではいつものことながら、もう一度、目的活動的な造物主すなわち神に到達したのである。「以前はこのような逃げ道は(理神論)と名づけられ、あまり重んじられなかった(とデューリング氏は言う)。しかし、いまではみなこの点でも退歩したように見える」。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 p101-105)
 
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◎──「社会奉仕から政界御意見まで 稲盛和夫京セラ名誉会長のますます生臭い「名誉欲」 民・由合併で影響力を見せつけ資材で福祉財団を作る華やかさだが哀しい自己演出」──THEMIS 2003.10 に掲載された一文の見出しです。
 
◎「地方コンプレックスを引きずり、挫折しながらつかんだ都会での大成功。その原動力は、強烈な自己顕示欲と徹底的な現実主義だろう。飯田が見抜いたとおり、稲盛の本質は「大いなる俗人」である。」と一文≠ノある。この稲盛氏が新民主党の大スポンサーなのだそうです。