学習通信031020
◎夫婦……「完全主義ではなくて共同の創造をめざして援助しあう態度」
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友だち家族
 
 「友だち家族」という考え方が若い人たちの問に流行している、という。親と子、あるいは夫と妻がそれぞれ友だちの立場でつきあってゆく、ということらしい。
 
 初めてそれをきいたとき、私はちょっととまどった。家族というどこか厳粛な感じのする言葉と、あくまで自由な友だちという関係が私の頭の中で、うまく結びつかなかったからである。世代の違いというものかしら。
 
 「友だち家族」という耳ざわりのいい言葉には、たしかに甘い魅力がある。せち辛い世の中で闘い疲れて帰ってくる親たちと、夢と希望にあふれながらその脛をかじっている子供たちが、いつも友だちとして気ままに話し合えるなんて、素敵なことだと思う。
 
それぞれの世界で育った赤の他人の夫と妻が、互いに相手の自由を縛ることなしに、友だちとして手をつないで暮らせるとしたら、本当に幸福なことに違いない。それこそ、新しい家族のあり方だろう、と微笑ましい。
 
 しかし──そういう関係の家族というものが現実に成り立つものだろうか。
 
 ひとりで生きることの寂しさに耐えられない人間が、相手を求めて巣をつくり、子供を産む。そこに家族が出来上がる。その集まりを維持するためには、互いに責任を持たなければならないし、我慢もしなければならない。
 
「友だち家族」という意味が、気楽で面白い、という意味だけなら、私はやっばり、その考え方に、うさん臭さを感じてしまう。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p169-170)
 
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 いうまでもなく、家庭というのは社会の最小単位です。親子・夫婦という特別の紐帯でむすばれた特殊性ある最小単位の社会、それが家庭というものです。そこで主人と主人でない者がいて「支配」と「服従」の関係が生きている、主人に相談しなければ何事もきまらない、個人としての基本的な人権と自立が失なわれている、こういうことでは、そこにはんとうの連帯も共同も、生まれ育つはずはありません。
 
 社会の最小単位で民主的な連帯、民主的共同が実現しなければ、社会全体の民主的な前進もありえないといってもけっして過言ではありません。
 
 その点では、クルブスカヤのいうような活動家の場合には、やっぱり古い社会からしみついた母斑を背負って生きているのだといえるでしょう。しかし、自分のいちばん身近な部分で古いものに安住していてどうして革新の事業を前進させることができるのか、それは重大な自己矛盾ではないのかと問うてみなければなりません。
 
 私たちの家庭は文字どおり、たたかいの根拠地です。それは温いやすらぎがあって、しかもはげましもある、そういうものであってほしいというのはだれも願うところでしょう。
 
 とはいえ、これはけっしてほおっておいてひとりでにそうなるというものではありません。
 
 それはほんとうに民主的な関係のもとでのお互いの思いやり、お互いの努力によって共同してつくりあげるものなのです。一方が努力して他方がお手伝いするなどというすじあいのものでないことは、はっきりしています。しかし、これはけっしてたやすいことではありません。
 
結婚生活スタートのころは「あばたも笑くぼ」だったのが、だんだん「笑くぼもあばた」となってくる、そしていろんなトラブルもでてくるようになる、これはさけられないことかもしれません。
 
 問題はこれをどうのりこえていくかです。私はそのためにすくなくとも二つのことが大切だと思います。
 
 第一に、主観主義はだめだということです。主観主義というのは、物事の客観的な法則やすじ道とは無関係に自分の狭い経験や意見だけで行動することをいいます。それは、家庭のなかでは、夫婦互いに「こうあるべきだ」とか「こうあってほしい」とか、自分の願望をもとに相手をみる、そうするといろんな幻滅がでてきます。
 
両方からでてきます。現実と願望の取りちがえです。そうではなくて、お互いにいまある現実というか、あるがままの事実、実態をみとめてかかる態度、つまり完全主義ではなくて共同の創造をめざして援助しあう態度が重要なのです。
 
 そういう基本的な前提をおいた上で、なお大事なことといえば、それは相手を一面的に見ないことです。どんな人間でもよい点、よい面もあれば、わるい点、わるい面をもっています。わるい点、わるい面だけの人間なんてあるわけがありません。ですから、できるだけそのよい点よい面を見るようにすることです。
 
そして弱点はこれをあいまいにしろということではなくて、「病いをなおして人を救う」という態度と方針で根気よく批判、援助をおこなっていく、こういうふうにすれば、たとえ一気にはいかなくても、やがてそれをのりこえることができるようになるでしょう。そうして一段高い次元での新しい団結が実現するようになります。
 
 もう一つの大事なこと、それは相手を固定的に見ないことです。何事によらず、ましてどんな人間でもいつまでも同じなどということはありえないことです。人間はかならず変化、発展する、これは弁証法的唯物論の鉄則です。相手の弱点、これを固定的に見ないこと、援助の結果かならず成長・発展するということを確信する、そういう態度でのぞむことがとても大切だと思います。
 
 ここにあげた二つのこと、それは単にいま結婚生活している仲間だけの問題ではありません。お互いに愛しあっている恋人どうしの場合にも当然あてはまることです。
 要するに二人の愛は二人の共同で創造していくものだということ、そこに二人だけにわかる創造のよろこびがあるのではないでしょうか。
 
 それからもう一つ、家庭の建設のなかでの夫たる男性の特別の役割りです。
 現実の社会では、婦人はどうしても育児・家事、その上に職業をもっている場合には、それによる特別の負担など、男性にない困難にたえています。その点でははじめから平等でもなんでもありません。だからレーニンは、婦人の解放というのは、まずそのこまごまとした家事からの解放なんだという意味のことをいったのです。
 
 その社会的重圧、これとたたかうのは婦人だけでということにはなりません。夫たる男性の側からの積極的な援助と共同、これは当然すぎるほど当然のことです。社会的重圧に対しては共同してあたっていく、これなしにはほんとうに民主的な活力のある家庭の建設は不可能といってよいでしょう。
(有田光雄著「わが青春の断章」あゆみ出版社 p233-237)
 
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 同時に家庭内における男女平等、家事分担の平等などの面での立ち遅れにも強い関心を持つ必要があろう。
 
 家事を分担する夫はまだ少数派であり、家事・育児・病人看護、老人介護などの負担が妻に重くのしかかっている現状を改める必要があるのは言うまでもない。この問題についてさまざまな議論がなされているが、いくらかの混乱もあると思われる。
 
 まず第一に、男性の意識の変革が必要であるのは当然だが、男性の意識を変えるにはどうすればよいかが問題である。男性が女性を差別している、男が悪いという構え方ではうまくいかないだろうと思われる。現代の男性の多くは、少なくとも主観的には女性を差別しているとは思っていない。
 
小学校以来、男女共学で育ち、優秀な女性の同級生を知っているから、女性は劣った存在だなどと思っている男性はまずいない。いるとしたらよっぽどの変わり者だといえよう。
 
 しかし女性が劣位に置かれているのは厳然たる事実である。したがって、この不平等を作り出しているのは、男性個々人の意識の問題であるよりは、根本的には社会の構造の問題であることを見抜く必要がありはしないか。
 
 そして第二には、そのような社会構造は偶然に出来たものではなく、歴史的に形成されたもので、歴史的根拠をもったものだという点が重要だと思われる。
 
 かつて平塚らいてふが「原始、女性は太陽であった」と言ったように、原始共同体のなかで女性たちは中心的な役割を果たしていた。それが階級社会にはいって、父系中心の家父長制社会となり、公的仕事は男性が担い、家事・育児などは私的な仕事とみなされて女性のものとされることになった。
 
「女性の世界史的敗北」(エンゲルス)といわれる事態である。こうして女性は劣位に置かれるようになった。男性は「妻子を養わねばならぬ」という義務感と一体化した形で、男性優位の意識を持たされる。
 
 資本主義社会になり、女性も家庭から出て労働者として働くことが多くなり、特に戦後の高度成長期以後は女性が賃労働に従事することは普通のことになった。しかし、それはパートなどの低賃金労働者として期待されているのであり、日本資本主義はこのような男女差別を維持し続けている。同時に男性の労働者は過労死がおこるほどの超過密労働を強いられており、家事を分担しようにも疲れ果てている実情である。
 
 このような社会の構造が男女不平等を生み出し、それを維持し続けている原因だと思われる。そうだとすれば過労死をなくする課題は、職場における女性差別をなくする課題と一つに結びついているし、それだけでなく、家事の平等な分担を実現する課題とも結びついているというべきであろう。
 
まさに女性の解放なしには男性の解放もありえない。女性の解放は男性とたたかうことによってすすむのではなく、すべての搾取と抑圧の根源である社会構造と、男女協力してたたかうことによって実現するというべきであろう。
 
 ただし日本の後進性を体現していて、「どこの女と寝ようとおれの勝手だ」と放言するような男性政治家などとは徹底的にたたかうしかないと思うのだが。
(鰺坂真著「現代哲学の課題」新日本出版社 p26-28)
 
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 私の手もとには、リーズのウッドハウス・ムーアサイドのバロンズ・ビルディングに住んでいるロバート・パウンダーというイギリスの労働者の一過の手紙がある(ブルジョアジーはそこに彼をたずねるとよい。そのために住所を詳しく書いておく)。
 
この手紙はオーストラーあてのものであるが、その素朴さを私は半分ぐらいしか、えがきだすことができない。つづり字法はドイツ語でなんとか真似られるけれども、ヨークシァの方言はまったく真似られない。彼はこの手紙のなかで、自分の知りあいのある労働者が仕事をさがして歩きまわっていたときに、ランカシァのセント・レンズで旧友に出会ったときの様子を説明している。
 
「ところで、おまえさん、やつは昔なじみを見つけたんだ。そして、そいつのバラックへいったんだが、それはどんな風だったと思うかね。とにかくじめじめした下の方の地下室一つなんだ。
 
やつの話じゃ、家具はこんなものさ──古い椅子が二つ、丸い三脚机が一つ、箱が一つ、ベッドはなくて、片隅に古い藁が一山、そのうえに汚いベッドカバーが二、三枚、暖炉のそばに薪(まき)が二本、そしておれの貧しい友だちがはいっていくと、かわいそうなジャックが炉のそばの薪に腰かけて、なにをしてたと思う?
 
 やつは座って、かみさんの靴下をかがり針でつくろっていたんだ。それでやつは自分の昔なじみを戸口のところで見つけると、すぐに靴下を隠そうとしやがった。でもジョーが、これがおれの友だちの名前だ、ジョーがやっぱりそれを見つけて、ジャックにいった、『いったいおまえはなにをやってんだ、かみさんはどこにいるんだ、おまえのやってる仕事はなんなんだ』。
 
あわれなジャックは恥ずかしそうにして、『いやいや、おれだって、これがおれの仕事じゃないことは知ってるさ、でもおれのあわれなかみさんは工場へいっていて、朝五時半から夕方八時まで働かなきゃならないんだ。そして家へ帰ってくると、かみさんはくたびれちまって、なにもできねえんで、おれがやれるだけは、あいつの代わりに全部やってるんだ。だっておれには仕事はねえし、三年以上もねえんだ。一生、仕事なんかにはありつけねえだろう』。
 
そしてジャックはぼろぼろ泣きやがった。『でもジョーよ』とジャックはいった、
 
『このあたりにゃ、女や子どもの仕事はいくらでもあるけど、男にゃねえんだ。仕事を見つけるぐれえなら道ばたで一〇〇ポンド見つけるよ。けど、おれがかみさんの靴下をつくろっているとこを、おめえや、ほかのやつに見つかるとは思わなかった。つまんねえ仕事だもの。でもあいつもよろよろしながら働いていて、病気で倒れちまうじゃねえかと、心配なんだ。そうなりや、おれたちどうなるんか、分かんねえ。なにしろ、かみさんがずっと前からうちの亭主だったんだから。そんで、おれがかみさんさ。こりゃつらい仕事だぜ、ジョー』。
 
そういってジャックはさめざめと泣いて、またいった、『おれだってずっとこうだったわけじゃね、え』。
 
『そうだろう、ジャック』とジョーはいった、『でもずっと仕事がなくて、どうやって暮らしてたんだ』。『うん、ジョーよ、おめえにゃ、なんでもしゃべるけど、まったくひどいもんだ。おれが結婚したころにゃ、仕事はいっぱいあった、おれも怠けもんじゃなかったこたあ、おめえも知ってるんだろ』。『ああ、おめえはそうじゃなかった』。
 
『おれたちも立派な家具つきの家もあったし、メアリだって働くことはなかった。おれが二人分働いたのさ。ところがいまじゃ世の中さかさまだ。メアリが働かなくっちゃなんねえし、おれが家にいて、子どもの世話やら、掃除、洗濯、パン焼き、つくろいもしなきゃなんねえ。かみさんは可哀相に夜家へ帰ってきても、くたびれてへとへとだ。ジョーよ、おめえも分かってるだろうが、これは慣れないものにはつらいことだよ』。
 
『まったくだ』とジョーもいった、そんでジャックはまた泣きだしたのよ。そして『結婚するんじゃなかった、生まれてくるんじゃなかった』といったけど、やつだってメアリと結婚したときにゃ、こうなるとは思ってもいなかったのさ。
 
『おれはこんなことで何度も何度も泣いた』とジャックはいったよ。ところでジョーはこの話をきいて、おれにむかっていった、おれは工場や工場主や政府を、おれが若いころ工場でおぼえたありったけの悪口でのろい、こきおろしてやったよ」。
 
 この手紙のなかに書かれている状態以上に異常な、ばかげた状態が考えられるだろうか? しかし、男を去勢し、女から女らしさを奪っておきながら、男に真の女らしさを与えることも、女に真の男らしさを与えることもできないこの状態、男女双方と彼らの人間性とをもっとも卑劣なやり方で恥ずかしめているこの状態こそが、おおいにほめたたえられているわれわれの文明の究極の結果なのであり、数百世代にわたって自分自身の状態と子孫の状態を改善しようとあらゆる努力をしてきたことの最終的な結果なのだ!
 
 われわれのあらゆる努力と労働の成果そのものが、このように物笑いの種にされているのを見るとき、われわれは人間に、そして人間の意志や実績に、まったく絶望してしまわなければならないか、あるいは、もしそうでなければ、人間の社会がこれまで間違った方向で幸福をもとめてきたということをみとめなければならないであろう。
 
われわれは、男女の地位がこんなにも完全にさかさまになっているのは、男女がはじめからたがいに間違った関係におかれていたためだということを、みとめなければならない。
 
工場制度が必然的にうみだす夫にたいする妻の支配が非人間的であるとするなら、妻にたいする夫の原始いらいの支配も非人間的であるに違いない。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級に状態」新日本出版社 p216-218)
 
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◎さくじつ、甥の結婚式に出席しました。家族の中での男女平等を考えました。