学習通信031022
◎「教養のない妻」だの「母に相談しても仕方がない」などと家人からも、うとまれる不幸な人が意外に……
 
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雛祭りには女のやさしさを、端午の節句には男の勇気を教えよう
 
 私は不明にして、日本の雛祭りや端午の節句のように、外国にも女の子、男の子の祝日があるかどうかは知りませんが、いずれにしても女の子のために雛人形を飾って祝う雛祭りは、日本人の民族のひとつの優雅な性情を語る伝統的でじつにユニークな催しだと思います。
 
 私には女の姉妹がなく、また自分も男の子ばかりの子持ちのせいか、子供のころ他家の女の姉妹の雛祭りに招かれていった時の、男の子というより、ひとりの男としての面映(おもは)ゆさ、と同時にもてなされる男の、客としての満足の入り混じった感慨を忘れることができません。
 
 その時、日ごろ泥まみれになってやんちゃな遊びをしている女の子が、着飾り、まるで成長したひとりの女を見せるようなしぐさで、私たちをもてなすありさまをながめながら、私は大人の世界における男と女の違いをかいま見たような気がし、成長した自分が、成長した女性にこのようにかしずかれ、もてなされることを想像し、さらにその先の男女の交際について予感し期待までしたのを覚えています。
 
そこで初めて、改めて男と女の性情的な、画然たる違いというものを直裁に教えられたような気がしました。そしてそれ以後、相手の女の子に対する、なんと言おうか、一種の騎士的な思いやりなり配慮をするようにもなりました。
 
 女の子たちに向かって親たちが、雛祭りが彼女たちにとって、どのような意味を持つかということをどう教えるかは知らないが、それはある意味で、女の子にとってはある分野における男に対する女の優位を教える意義深い祝日に違いない。
 
 いずれにしても、その日に男の子、女の子が知らなくてはならないことは、女性の特質が優雅さ、雅さ、やさしさについてあり、それがあるからこそ、男性の特質である猛々しさ、勇敢さといったものと均衡のとれた世界があり得るということです。
 
 いずれにしろ、男の兄弟しかなかった私には、呼ばれていった女の姉妹だけの家庭での雛祭りの印象は、男の自分に対する女の世界がある、ということ、もっと端的に男の自分にとって女がそこにいるということの認識への最初のステップにもなったと思う。
 
 私をそこへともなっていった母が帰り道に、私の遊び友だちだった何々ちゃんが、いかにかわいくきれいだったかを念を押すように私に問いかけ、私は、まだその印象の束縛から逃れられぬまま多分に気圧された気持ちで、深くうなずき返したのを覚えています。
 
 それはある意味で、子供心に感じた異性に対する憧憬(どうけい)の始まりでした。女性に対する男性としての敬意の底に、そうした憧憬がなくては男は決して女の人格を敬うことはできないと思う。
 
 雛祭りが女の本質的な男との違い、やさしさについての表象の祝日であるように、端午の節句は女と違った男の特質、つまりその勇敢さ、猛々しさによってものごとに挑む、その挑戦こそをたたえる日でなくてはならない。そうでなければ、この祝日の意味はまったくありません。
 
 たんに子供に贈りものをするだけでなく、親はむしろ、そうした日に、男の子の男としての自覚を持たせるために、その年齢に応じて過去のすぐれた男たちの男らしさを証すエピソードを年にひとりずつ贈りものとして、男の子に語ってやるべきだと思う。
 
 大西洋横断飛行に必要なガソリンを積み込むため、パラシュートもラジオも載せず、地図も必要なところだけ切り抜いて、極力荷物を減らしてこの冒険に飛び立っていったリンドバーグの勇気。そうしたエピソードは、男の世界に事欠きません。
 
 じつはそうした勇気ある挑戦こそが、よどんでいる文明と社会を甦(よみがえ)らせ、新しい発見と希望を人類にもたらすのです。そしてそれは人間全体にとって必要な試みであり、なかんずく男こそが、そうした試みを女に先んじて行なわなくてはならず、それこそが、男としての使命と義務であることを重ねて教えるべきです。
 
 端午の節句に飾られる兜や鍾馗(しょうき)様や、あるいは鯉のぼりが、男の特性を暗示し表象するものであるということも、たんなる装飾品としてだけではなしに、なんらかのエピソードを結び合わせて語ることで、彼らに男の特質について教えることができます。
 
子供たちはそれら男らしい男たちの人生を自分の身になぞらえて勇気ある挑戦を夢想し、そのために準備することができるはずです。
(石原慎太郎著「いま魂の教育」光文社 p201-204)
 
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一、男性への幻想はこうして作られる
 
 結婚のはなしをするのに、離婚のはなしからはじめるのはおかしなはなしですが、最近、離婚がふえる傾向にあるので、まず、それから考えてみたいと思います。
 
 最近の離婚の特徴は、一年未満に別れる夫婦が非常に多いことです。同棲という事実婚を加えれば、もっと多くなるでしょう。アメリカは四組に一つ、日本は九組に一つのカブルが離婚するといわれています。アメリカは世界第一の離婚国ですが、一年未満となると日本の方が多いのです。
 
家庭裁判所の調停傾向をみますと、女性側の申出が圧倒的に多いようです。現状では、離婚すれば、おおむね女性が損をするにもかかわらず、要が家庭を捨てようとするのは、どうしてなのでしょうか。
 
 夫婦の幸福度測定の調査表──アメリカのターマン博士の方式を牛島義友氏が日本に適用したもの──をみますと、アメリカでは、妻の幸福度が下るときは夫も下り、妻が上るときは天も上る。多少のでこぼこやすれちがいがあっても、この表の線グラフは一応同じような波をうって、上下しながら流れています。
 
 日本の夫婦は、結婚当初は妻の幸福度は非常に高いのに、まもなく下りはじめます。夫の幸福度はその反対に、結婚後上っていきます。線グラフであらわされたこの調査表の曲線は結婚二年目ごろに、妻と夫の幸福度の線が交差してしまいます。夫は上り妻は下るわけです。
 
 夫は「結婚って、いいものだなー」とぬくぬくと悦にいっているかたわらで、要は結婚生活に失望し「結婚は人生の墓場なり」と暗い気持におちこんでいるのです。これでは、結婚一年前後の離婚が多くなるのも想像がつきます。
 
 では、どうしてこうも、日本の若い夫と要の心はすれちがうのでしょうか。それは男女の育ち方のちがいから出発しているようです。
 
 男性は生れおちるとすぐから、人間としてではなく、「男」としての教育がはじめられます。男の子は強いもの、泣くんじゃないよ、心を大きくもって、小さなことにくよくよするな、「男のくせに、男のくせに」とはげまされたり、脅迫されたり、「作られた男」になることを強制されます。
 
 こうして育てられた男性は、悲しいときに泣くこともできず、苦しいときにつらいともいえない。小心よくよくとしながらも、いつも肩ひじ張って、いわゆる「男らしく」生きようとします。そういうポーズをとらないと「男らしく」ないといわれるからです。だから男性は「顔で笑って心で泣いて」という生き方をせざるをえないわけです。
 
 女性もまた、生れたときから人間としてではなく、「女」としての教育をされます。素直でやさしく忍耐強いことが、女性にとって何よりの美徳です。なまじっか勉強ができて、かしこかったりすると、生意気で男に従わず、夫を批判するようになっては、けっきょく、女の不幸、「男は度胸、女は愛きょう」といわれるように、男女は、ともに人間としてではなく、「作られた男」は指導者で、「作られた女」はそれについていくものとして育てられていきます。
 
 社会でも、家庭でも指導者であるべき男性というものは、あくまでも「すぐれたもの」でなければならないと、男性自身も女性も教えこまれます。その結果、女性は男性に大きな幻想と期待をもつようになります。
 
 男性は視野が広く、決断力があり、実行力、実践力にとみ、指導力あり、抱よう力あり、理解力あり、そのうえ力もちで心はやさしい、まるで桃太郎が、そのままおとなになったような男性がいる、と女性は幼いときから夢をもたされます。
 
だから恋人や婚約者ができると、きまったように、「私のえらんだ人をみて下さい。この人に、だまってついていけば、わたしはしあわせ」とばかりに、眼前にあらわれ現実の男性を、夢にみた理想の男性と錯覚するわけです。
 
 男性は、といえば、女性をだますつもりではなく、小さいときから身についた「男らしく」あらねばならないという、この生き方を貫きとおそうとします。「男らしく、男らしく」と力んでいるうちに、女性から「ついていきます」「ひっぱって下さい」といわれたりすればまんざらではないだけでなく、まことにその力がおのれにあるかのように男性自身も錯覚します。
 
 このお互の錯覚が、結婚してから、裸の人間同志としての生活がはじまると、錯覚でなくなるところに、誤解が生じ、トラブルがおこるのです。
(田中美智子著「恋愛・結婚と生きがい」汐文社 p73-76)
 
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女の座
 
 雑用に追われて新聞さえ読むひまのない妻のために、朝、先に眼を通した良人が、ぜひ読むべき記事には赤い鉛筆、なるべく読むほうがいいものには青い鉛筆で線をひいて、妻にモノを読む習慣を与えたという投書を読んだことがある。
 
五十をすぎて生活もある程度安定し、子供の手もはなれてから、社会的な仕事に活躍し始めた婦人も私の縁辺にいる。この人の場合も、進んでご不浄や風呂場、庭先などの清掃を主人が肩代わりしてくれるのだということであった。
 
 楽しかるべき夕げのあとの雑談のひとときに、とかく、女親はひとりとり残されたように話題からはみ出しがちになるようである。そしてやがて「教養のない妻」だの「母に相談しても仕方がない」などと家人からも、うとまれる不幸な人が意外に多い。
 
こうした例は、逆にその家庭の主人や子供たちの無理解、または妻や母の立場に対する愛情の欠如に原因があると思う。家庭の雑事をとかく、女まかせにして顧みない男性の封建性の名残りがそこにある。
 
そして、そうした家庭内の精神的な断層のようなものが、結局、主人自身の生活を空疎にし、家庭を味気ないものにするのではないだろうか。
 
 良人の理解と援助によって社会的な仕事に乗り出した婦人の場合はともかく、せめてその日の新聞の政治面や社会面の動きについて一家が話し合えるような、ひとときの団らん時間を持つように心がけたいものである。(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p59-60)
 
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◎男らしさ、女らしさ…… 私たちの将来を大きく左右する事柄です。「雄々しく、女々しく」とも。らしさ≠ノ惑わされてはいけないのです。