学習通信031023
◎稲盛……「もはや現世利益を説くしか、現代人を救うことはできなくなっているのではないか」
 
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「あの世には何もない」「死んだら無だ」と思っている現代人──稲盛
 
 私は、梅原先生が中学校で行なわれた授業をまとめた『梅原猛の授業 仏教』(朝日新聞社)を、朝、目が覚めて布団から出る前のぬくもりのなかで読み終えました。毎日一時間ほど丁寧に読んでいったのですが、時間が経つのを忘れてしまいました。
 
 そのとき気づいたのは、現代人と昔の人との仏教に対する意識の違いです。仏教というのは本来、われわれ悩んでいる人間に何かを教えてくれたり、救ってくれたりする存在です。それが禅宗になると、厳しい修行を通じて悟りを開くことを求めるようになり、一般の人には難しく近寄りがたいものとなってしまいました。
 
一方、比較的近寄りやすいのが浄土真宗で、親鸞の教えに一般の人々はみな親近感をおぼえるわけです。実際に、『歎異抄』などを通じて、親鸞の教えに親しんでいる人はたくさんいます。
 
 親鸞が説いているのは、「念仏を唱えれば、すべてのものが救われる」ということです。苦難に満ちた諸行無常の世の中で、人間は煩悩を持っているがゆえに、波潤万丈の人生を送らなければならない。そんな人生を渡っていく人間を、阿弥陀如来が救ってくれる。しかも、善人だけでなく、悪人はなおさら救われる。そんな逆説めいたことをいう。
 
 ただそれは、現世で救われるのではなく、彼岸、すなわちあの世に行ったときの話です。「念仏を唱えれば阿弥陀如来が救ってくれて、あなたは極楽浄土に行くことができます」というように、来世における救済なのです。
 
 親鸞が生きていたのは、霊魂″が世に跋扈(ばっこ)していた時代です。人間には霊魂があるということを万人が信じていましたし、死んでも霊魂は残るとも考えられていました。
 
ですから、現世における苦労よりも、死んだあと、つまり、当時の人々にとって、来世で霊魂としての自分が地獄に落ちるか極楽に行くかということのほうが、はるかに大きな関心事だったのです。そのため、念仏さえ唱えれば、阿弥陀如来があなたを極楽浄土に往生させてくれるという親鸞の浄土真宗に、みんな引き込まれていったのです。
 
 いま仏教があまり受け入れられない理由もここにあります。近代科学がわれわれに教えてきたのは霊魂の否定で、死んだあとには何もないというものです。その結果、霊魂の存在を信じている人も少なくなり、死後の世界があるなどとは誰も考えていません。
 
 さらに、仏教が説く「空」や「無」の思想を、誤って勝手に解釈する人も出てきました。死んで彼岸まで渡っても、そこには地獄も極楽もなく、ただ「無」である、というわけです。悟りを開いて彼岸に行っても、しよせんは「無」だと解釈する。いま禅宗のお坊さんにさえ、そんな考えの人が多いと聞きます。
 
 その結果、日本ではほとんどの人が、「死んだら何も残らない。肉体が滅び、魂すらもなくなる」と考えています。そんな人たちに「来世で極楽浄土に往生させてあげます」とか、「来世で阿弥陀如来が救ってくれます」などと、来世における救済を説いても、まったく説得力がないのです。
 新聞や雑誌でよく新興宗教に対する批判を目にします。「新興宗教が来世の利益ではなく、現世での利益を説くのは間違っている。そんなことをするから、宗教そのものがおかしくなってしまった」というわけです。
 
 しかし、現代人は来世を信じていないのだから、「来世で往生する」という旧態依然とした教えでは、彼らを救うことはできません。もはや現世利益を説くしか、現代人を救うことはできなくなっているのではないか、そう私は思うのです。そのあたりを先生はどう思われるのか、お聞かせ願えますか。
 
──略──
 
霊魂は、この世とあの世を無限に行ったり来たりする──梅原
 
 たしかに極楽から帰ってきたような人は、現実にいます。そういう人は、生まれたときから妙好人(みょうこうにん)のような菩薩行を、自覚せずに平気でやっているのです。ただ、知識人には少ないです。学校教育を受ければ受けるほど、菩薩行をする人は少なくなるのです。
 
逆にどんな人であれ、女の人は、子どもに対しては十分、菩薩行を行なっています。旦那にはいつもガミガミいって、ときには夜叉になることがあっても、子どもには菩薩になるのです。
 
 日本人は縄文の苦からあの世を信じてきました。弔辞のなかでよく、「しばらく待っていてください」とか、「私もやがてあなたのいるところに行きます」などといいます。いまは言葉だけかもしれませんが、一時代前まで日本人はこのようなあの世を信じていました。あの世は天の一角にあって、すべてがこの世とあべこべです。
 
この世の朝はあの世の夕べ、この世の夏はあの世の冬、すべてあべこべなので、死んだ人に着物をあべこべに着せます。私は子どものとき、着物を左前に着て、母から「タケシ、死人の真似をするな」といって叱られました。死ぬと、ご先祖様たちが待っているあの世に行きます。そしてあの世から、やがて子孫となって、この世に帰ってくるのです。
 
 こうした考え方は、アイヌの伝承にもしっかり残っています。A家とB家とのあいだで子どもができると、そのニュースがあの世に入って、あの世のA家とB家の代表が、誰の霊魂を戻すかを相談するのです。そして誰か一人が選ばれると、その人の霊がこの世へ帰り、妊婦の胎内に入り、やがて新生児となって生まれてくるのです。
 
 そうやって霊魂は、無限にあの世とこの世のあいだの往復の旅を繰り返しているのです。そしてあの世には、極楽も地獄もないのです。ただ現世で悪いことをした人は、あの世に行ったら、なかなかこの世に戻ってこられません。一万年あの世にいたりします。
 
逆にいいことをした人は、短い時間で、あるいは十年足らずで戻ってくることができるのです。期間の違いこそあれ、誰もがあの世とこの世のあいだを行ったり来たりしているわけです。
 
 このように、あの世とこの世のあいだに霊が無限の往還運動をするのは人間に限りません。犬もクマもフクロウも鮭も貝もそのような無限の往還運動をする。アイヌの「イオマンテ」というのは「それを送る」という意味で、クマの霊をあの世に送る祭りです。
 
それはもう一度クマがこの世に帰ってくることを祈っての祭りです。貝塚は、貝の霊をあの世に送り、またこの世に帰ることを祈った、貝の葬儀のあとです。貝塚というより、それは貝の墓です。それを貝のゴミ捨て場と考えた戦後の考古学者は、よくよく唯物論に毒されているのです。
 
 そんな考え方がもともと日本人の根の部分にあり、これが浄土教の考え方と結びついて、いまの日本人の基本的な世界観をつくったのだと思います。浄土教の場合、あの世は極楽ですが、法然や親鸞は念仏をすれば誰でも極楽に行けると説いた。
 
そして「利他」の人間は極楽にとどまっていられず、またこの世に菩薩として帰ってくる。再生の原理が血から法に変わりますが、無限の往還という考えは同じです。
 
 これが日本人が苦から持ちつづけていた世界観なのですが、明治以後、近代科学を取り入れることで、その考え方を否定してしまいました。ところがいま、遺伝子科学という新しい科学が出てきたことで、様子がまた変わってきています。
 
 遺伝子というのは、不死だといわれています。遺伝子の「乗り物」である肉体が滅んでも、遺伝子は子孫に受け継がれて、生きつづけます。霊魂も、生死を無限に繰り返す、いわば不死の存在です。そう考えると、遺伝子と霊魂は、どちらも無限に繰り返す生を生きつづける存在というわけです。
 
 そもそも、いまのわれわれの生命は、永遠といってもよい長い生命の発展の歴史の結果です。その生命発展の歴史を集約しているのが遺伝子ですね。遺伝子には自己を生き永らえさせようとする「自利」の要素と、自分を犠牲にしても子孫を残そうとする「利他」の要素を持っています。鮭が子どもを産んで死ぬために海の彼方から帰ってくるのはなぜか。
 
それは遺伝子のなかに「利他」の精神があるからです。生きとし生けるものは、みな自ずから「利他」の精神を宿しているんですね。つまり、仏教のいう「利他」の精神が遺伝子のなかに含まれているわけです。近代科学によって否定された霊魂の考え方が、現代科学の遺伝子という考え方によって、生き返ってきたといえます。これこそまさに、新しい世界観といえるのではないでしょうか。
(梅原・稲盛著「新しい哲学を語る」PHP p118-129)
 
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岡部博士の「死後の世界」論
 
 文化勲章受章者・岡部金治郎博士の著書『人間は死んだらどうなるか』(共立出版)は、同博士の生真面目さと結果の荒唐無稽さの好対照という点で、非常に興味深い本だ。それはまた、科学と神秘主義の混合物は非科学でしかないことを示す好個の例でもある。
 
 岡部博士は、同書冒頭で、「宗教には奇跡がつきものだが、自然科学と明らかに矛盾するような奇跡はこれを省くべきであって、それができないような宗教は、ほんとうの宗教ではない」とまで断じているのだが、一方では生命活動の基本物質であるDNA(デオキシリボ核酸)には、超物質的な神秘的存在である「遺伝子の本尊」が宿っている、と主張しているのだ。
 
 岡部博士の死後の世界論は、つぎのように構成されている。
 @動物には魂(霊魂)がある。
 A自然界には、五官で感知できない神秘的なものが存在し、魂もその一つである。
 
 B自然界には「不生不滅の法則」があり、「魂の素」も地球創生の境からあった。
 C魂の中心である「魂の核」は「魂の素」から進化したものである。
 
 D一つの動物には一つの魂の核が宿る。魂の核は不滅である。
 E肉体が滅びると、魂の核は「活性状態」から「非活性状態」に移る。
 
 F「非活性状態」の魂の核が「活性状態」の魂の核に移行するには、長い年月を要する。
 G魂の核が活性状態で発揮した精神的機能は、非活性状態でも魂の核の中に潜在する。
 
 H人間の受精卵に宿ることができるのは、進化の程度が非常に高い「魂の核」だけである。
 I魂の核は「活性状態」と「非活性状態」を繰り返している間に、大きな進化を遂げる。
 
 岡部博士の「万物不生不滅の法則」に従えば、宇宙はすでにその始まりにおいて、今後出現するありとあらゆる動物の魂の素──三葉虫の魂の素、肺魚の魂の素、ゴキブリの魂の素、シーラカンスの魂の素、オオアリクイの魂の素……を、必要な数だけ用意していたということになる。
 
 また、「人類が根絶したのでは、せっかく進化してきた人間の魂が非活性状態から活性状態に永遠に移れない」などと書いているので、恐竜のようにこれまでに滅びたおびただしい数の動物種の魂の核も、全部、不活性状態で地球上にウヨウヨと漂っていることになる。
 
 岡部博士の論の根底には「人智の及ばぬ神秘」の導入がある。エミール・デュルケムによれば「宗教的なものの特質は神秘・不可知・不可解の導入である」ということだから、岡部博士の「死後の世界」論は、まさに「宗教」の域にあるというべきであろう。
 
 しかし、文化勲章受章者の影響力はなかなかで、紀三井寺(和歌山県)の岡田孝道管長も、その著書『観音信仰入門』の中で同博士の論を肯定的に紹介している。そして、「人間が死というものによって突然永遠の無に帰するとは私にはとうてい考えられません。
 
たとえ人として肉体は亡びても、霊魂は永く相続されるという仏教の説く輪廻の法を私は信じます」と述べ、「死後の世界」の存否の問題を、「信じるかどうか」という「信仰」の問題にすり替えている。
(安斎育郎著「人はなぜ騙されるのか」朝日文庫 p64-65)
 
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 すべての哲学の、とくに近代の哲学の、大きな根本問題は、思考と存在との関係にかんする問題である。
 
非常に古い時代──そのころ人びとは、まだ自分自身の身体の構造についてまったく無知であり、そして夢のなかにあらわれるものごとから刺激されて、彼らの思考や感覚を彼らの身体の働きではなくて、この身体に住んでいてその死にさいして身体をみすて去っていく、特別な霊魂というものの働きであると考えるようになったのであるが、──こういう古い時代から、人びとは、外部の世界にたいするこの霊魂の関係について、いろいろと考えめぐらさざるをえなかったのである。
 
もしこの霊魂が、人間の死にさいして、その肉体からはなれて生きつづけるとするならば、この霊魂になお特別な死があるなどと考えだすわけはなかった。
 
こうして、霊魂の不死という観念が生まれたのであるが、この霊魂の不死ということは、人間の発展のこの段階では、けっして慰めとは思われなかったのであって、かえってさからいえない運命だと思われ、ギリシア人にみられたように、しばしば積極的な不幸と思われていたのである。
 
どこででも人びとが個人の霊魂の不死ということに退屈な想念をもつようになったのは、宗教的な慰めをもとめたからではなくて、身体の死後に、ひとたびみとめられた霊魂なるものをどう扱ってよいかを、同じくどこにもみられる無知のためにわからず当惑したからである。
 
これとまったく似た道筋で、自然の諸力を擬人化して、そこから最初の神々ができた。
 
これらの神々は、あれこれの宗教がさらにいっそう発達していくうちに、ますます超世界的な姿をとっていき、ついには、人間の精神が発達するにつれておのずから生じてくる抽象の過程、あるいは蒸溜過程と言ってもいい過程によって、多かれ少なかれ制限され、たがいに制限しあっている多くの神々から、一神教の諸宗教にみられる唯一神という観念が、人間の頭脳に生じきたったのである。
(エンゲルス著「フォイエルバッハ論」新日本出版社 p30-31)
 
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◎稲盛氏の哲学……この哲学でもっていま日本の政治を思うように操ろうというのだ。
 
◎「死後の世界」の存否の問題を、「信じるかどうか」という「信仰」の問題にすり替え≠ニ。信ずる者は救われるというわけです。どこに連れて行かれるのでしょうか。競争と戦争の常態にさらされた社会に……。
 
◎夢のなかにあらわれるものごとから刺激されて、彼らの思考や感覚を彼らの身体の働きではなくて、この身体に住んでいてその死にさいして身体をみすて去っていく、特別な霊魂というものの働きであると考えるようになったのである≠ニ。正夢……。