学習通信031024
◎「朝まで生テレビ」にたびたび顔を出す「つくる会」の歴史観とは……。
 
■━━━━━
 
 一歴史を学ぶとは−
 
 歴史を学ぶのは,過去の事実を知ることだと考えている人がおそらく多いだろう。しかし,必ずしもそうではない。歴史を学ぶのは,過去の事実について,過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。
 
 今の中学生にとって,中学校に通うことは空気を吸うように当たり前のことであり,義務であるが,ほんの半世紀前までの日本人の中には,中学校に行きたくても行けない人がたくさんいた。それより前の時代には,小学校にも行けず,7,8歳で大きな商店の丁稚や豊かな家庭の使用人として働く子どもが少なくなかった。
 
どんなに勉強がよくできる子どもであっても,教育は権利だと法律に書かれていても,国の生産が低く富が限られていた時代に,公平は単なる理想にとどまっていた。今の中学生のお祖父さんやお祖母さんの世代がよく知っていた現実である。
 
 そのような不公平が実際にまかりとおっていた社会に不快を覚え,ときにひそかにいきどおりを感じて,なぜもっと社会的公正が早くから行われなかったかという疑問や同情をいだく人もおそらくいるだろう。しかし歴史を知るとは,そういうこととは少し別のことなのである。
 
 当時の若い人は,今の中学生よりひょっとすると快活に生きていたかも知れないではないか。条件が変われば,人間の価値観も変わる。
 王の巨大墳墓の建設に,多数の人間が強制的にかり出された古代の事実に,現代の善悪の尺度を当てはめることは,歴史を考える立場からはあまり大きな意味がない。
 
 歴史を学ぶとは,今の時代の基準からみて,過去の不正や不公平を裁いたり,告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には,それぞれの時代に特有の善悪があり,特有の幸福があった。
 
 歴史を学ぶのは,過去の事実を知ることでは必ずしもないと言ったが,過去の事実を厳密に,そして正確に知ることは可能ではないからでもある。何年何月何日にかくかくの事件がおこったとか,誰が死亡したとかいう事実はたしかに証明できる。
 
それは地球上のどこにおいても妥当する客観的な事実として確定できる。けれども,そういう事実をいくら正確に知って並べても,それは年代記といって,いまだ歴史ではない。いったいかくかくの事件はなぜおこったか,誰が死亡したためにどういう影響が生じたかを考えるようになって,初めて歴史の心が動き出すのだといっていい。
 
 しかしそうなると,人によって,民族によって,時代によって,考え方や感じ方がそれぞれまったく異なっているので,これが事実だと簡単に一つの事実をくっきりえがき出すことは難しいということに気がつくであろう。
 
 ジョージ・ワシントンは,アメリカがイギリスから独立戦争(1775〜1783)で独立を勝ちえたときの総司令官であり,合衆国の初代大統領であった。アメリカにとっては建国の偉人である。
 
しかし戦争に敗れてアメリカという植民地を失ったイギリスにとっては,必ずしも偉人ではない。イギリスの歴史教科書には,今でもワシントンの名前が書かれていないものや,独立軍が反乱軍として扱われているものもある。
 
 歴史は民族によって,それぞれ異なって当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても,少しも不思議ではないのかもしれない。個人によっても,時代によっても,歴史は動き,一定ではない。しかしそうなると,気持ちが落ち着かず,不安になるであろう。だが,だからこそ歴史を学ぶのだともいえる。
 
 歴史を固定的に,動かないもののように考えるのをやめよう。歴史に善悪を当てはめ,現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。歴史を自由な,とらわれのない目で眺め,数多くの見方を重ねて,じっくり事実を確かめるようにしよう。
 
 そうすれば,おのずと歴史の面白さが心に伝わってくるようになるだろう。
(「新しい歴史教科書」芙蓉社 p6-7)
 
■━━━━━
 
一歴史を学んで一
 
 日本の歴史を今,学習し終えたみなさんは,日本人が外国の文化から学ぶことにいかに熱心で,謙虚な民族であるかということに気がついたであろう。外国の進んだ文化を理解するために,どんな努力もしてきた民族であった。
 
 古くは,遣隋使や遣唐使が小さな木の船で荒波を越える危険をおかして,留学生を送り出した。留学生は中国で20〜30年という人生の大部分を学習についやした。帰国できないで死亡する者,やっと帰路についた途中で嵐にあって遭難してしまう者も少なくなかった。
 
 明治になると,留学生たちはヨーロッパに渡った。日本が西洋文明を一生懸命に取り入れた時代の大部分は,まだ飛行機がなかった。1ヵ月以上もかけて,船で渡ったのである。1955(昭和30)年ごろまで,そのような例が多かった。
 
 しかし日本人は,外国のために外国を学んだのではない。隋や唐で知った漢字漢文は古代の国際語だった。同じように英語やドイツ語やフランス語は,近代の世界を生きるために必要な言語だった。外国を深く学ぶことで自国の独立を失うという,世界の別の国々におこっている危険は,日本にはなかった。
 
日本は,外国の軍隊に国土を荒らされたことがない国だったからだ。日本人は自分の国の歴史によりも,外国の歴史の歩みにむしろ理想を求めさえした。自分の進むべき歴史の模範を,むしろ外国にあおいだ。それでも,自分の国の歴史に自信を失うということが,ずっとおこらない国だった。
 
 日本は永い間,文化的にそういう意味で安全で幸せな国だった。ところが,ここ半世紀は必ずしもそうとはいえない時代になってきた。
 なぜ外国の歴史に理想を求めても自国の歴史に自信を失わないできた日本が,最近そうではなく,ときどき不安なようすをみせるようになったのだろうか。理由はいくつもある。
 
 ヨーロッパやアメリカに,日本より進んだ珍しいものがだんだん少なくなってきた。そういうことに,みなさんも少しは気がついているだろう。日本が進んだからともいえるし,工業先進国はどこの国もみな,平均して似たようなレベルになっているからともいえる。
 
 外国の文明に追いつけ,追い越せとがんばっているときには,目標がはっきりしていて,不安がない。外国の歩みに理想を求め,日本も自国の歩みに自信をもつことができた。ところが今は,どの外国も目標にできない。日本人が自分の歩みにとつぜん不安になってきた理由は,たしかに一つはここにある。
 
 しかし,もう一つ重要な理由が別にある。日本は外国の軍隊に国土を荒らされたことがないので,外国を理想にしても,独立心を失わない幸せな国だったと前に書いたが,大東亜戦争(太平洋戦争)で敗北して以来この点が変わった。
 
全土で70万人もの市民が殺される無差別爆撃を受け,原子爆弾を落とされた。戦後,日本人は,努力して経済復興を成し遂げ世界有数の地位を築いたが,どこか自信をもてないでいる。
 
 本当は今は,理想や模範にする外国がもうないので,日本人は自分の足でしっかりと立たなくてはいけない時代なのだが,残念ながら戦争に敗北した傷跡がまだ癒えない。
 
 日本人が,これからもなお,外国から謙虚に学ぶことはとても大切だが,今までと違って,深い考えもなしに外国を基準にしたり,モデルに見立てたりすることで,独立心を失った頼りない国民になるおそれが出てきたことには,警戒しなくてはならない。
 
 何よりも大切なことは,自分をもつことである。自分をしっかりもたないと,外国の文化や歴史を学ぶこともじつはできない。「新しい歴史教科書」を学んだみなさんに,編者が最後に送りたいメッセージはこのことである。
(「新しい歴史教科書」芙蓉社 p318-319)
 
■━━━━━
 
 「つくる会」歴史教科書には最初に「歴史を学ぶとは」という序文がありますが、そこで「歴史は科学ではない」と断言しています。そして、「歴史を学ぶのは、過去の事実を知ること」ではなく、「過去の事実について、過去の人がどう考えたかを学ぶこと」である、と主張しています。歴史的事実を知ることよりも、「当時の人の考え・思い」を知ることが歴史学習の目的であるとしたのは、次のような理由によります。
 
例えば、朝鮮半島を植民地にしたことについて、当時の人々(伊藤博文などの為政者)は正当であり、合法的だと考えていたので、植民地支配は何ら問題はなかった、ということを学ぶことになります。
 
また、中国との戦争は、当時の日本政府は横暴な中国を懲らしめるためと考えていたので、侵略ではない。日本のアジアでの戦争については、当時の人は侵略ではなく自存自衛のアジア解放戦争だと考えていたので、侵略戦争ではないということになるのです。
 
南京大虐殺については、当時の人々はその事実を知らされず、南京陥落を提灯行列で祝い、南京から略奪してきたものを東京・日本橋の白木屋デパートで「南京城内戦利品来る」と題して展覧会まで行っています。だから、南京大虐殺はなかった、略奪はなかった、ということになります。
 
後でみるように、まさに、この教科書本文では、植民地支配が正当化され、侵略戦争における虐殺や略奪などの戦争犯罪は一切無視されています。そのような勝手な歴史を書くための伏線がこの「歴史学習論」なのです。これは、歴史を改ざんするためにはまことに都合のよい論法であり、これによって、何らの検証もなしに「歴史」を好きなように書けることになるのです。
 
 さらに、「歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることではない」という理由は、「過去の事実を厳密に、そして正確に知ることはできない」からだと不可知論を展開しています。
 
そして、「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすること」ではない。「過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった」と主張しています。
 
その例として、ジョージ・ワシントンをあげ、ワシントンはアメリカでは「建国の偉人」だが、イギリスでは「反逆者として扱われ」歴史教科書にも載っていない、と書いています。
 
 戦前・戟中の日本は、歴史研究と歴史教育を分離し、歴史教育は皇国史観に基づく国定教科書『国史』による「天皇中心の物語」によって、「日本は神の国」「天皇に忠義を尽くすのが臣民の務め」と国民を「教化」してきました。
 
「つくる会」の教科書はこれと同じ立場であり、歴史の科学性を否定し、「歴史は物語」だという主張によって、歴史研究と歴史教育・教科書を切り離す暴論です。さらに、歴史の「当時」の行為を正当化するための論法でもあります。
 
先のワシントンの例を伊藤博文に当てはめれば、伊藤は日本では偉人、韓国では植民地化の中心人物ということになりますが、それを現在の基準で裁いてはいけない、当時の「善悪」でみれば、正当であるということになるのです。
 
 「歴史は物語」とすることによって、論証抜きに執筆者の心情を語っている場面がたくさん登場しています。例えば、「条約改正は明治の日本人の悲願となった」。ロシアの脅威は「明治の日本人はどんなにか心細かったであろう」。日清戦争の 「日本の勝因の一つには、日本人が自国のために献身する『国民』になっていたことがある」。
 
日清戦争に「もし日本が負けていたら、あるいは、中国と同じ運命をたどったかもしれない」。「軍部の政治的発言権が強まり、国民もしだいに軍部に期待を寄せるようになった」。特攻隊員は「日本のために犠牲になることをあえていとわなかったのである」。
 
戦時下の「困難の中で、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった」。「アメリカ軍と戟わずして敗北することを、当時の日本人は選ばなかったのである」などです。
 
 「物語性」は随所にみられます。それは例えば「アリューシャン列島のアッツ島では、わずか二〇〇〇名の日本軍守備隊が二万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸も米も補給が途絶え、ついに残った三〇〇名ほどの負傷した兵が、ボロボロの服で足を引きずりながら、日本刀をもってゆっくりと米軍に、にじり寄るようにして玉砕していった」といった調子です。これは歴史教科書というより、講談か紙芝居の世界といえます。
 
 もう一つ見逃せない主張があります。それは「歴史は民族によって、それぞれ異なって当然」と述べていることです。ドイツがポーランドやイスラエルと共同研究を進め、共通教科書をつくつたように、二一世紀のアジアとの共生のためにも歴史の共有が求められています。
 
そのためにも、韓国や中国、アジア諸国との共通教科書、づくりのための共同研究が必要であり、例えば、日韓の間では、その努力が民間レベルで粘り強く続けられています。
 
西尾幹二「つくる会」会長は「日韓中で共通の教科書をつくるという話などはあと百年はかかる」と主張していますが、この教科書は、そうした日韓の関係者の努力をあざ笑い、国際化に逆行して一国主義・自国中心主義の歴史物語になっているのです。
 
 この教科書は、このような「歴史学習論」に基づいて、歴史研究のこれまでの成果を無視し、都合のよい事実だけをならべる教科書です。歴史事実を多面的にとりあげて客観性のある記述にするのではなく、一方的な解釈の押しっけなど、みずからの主張を強く押し出した教科書です。
 
そして、巻末の「歴史を学んで」で「今は、理想や模範とする外国はもうないので、日本人は自分の足でしっかりと立たなければいけない時代」になった。そのために、日本人は自国の歴史に誇りを持とうと強調しています。
 
 「つくる会」の歴史教科書は、過去の事実は知ることができないとして、歴史の科学性を否定し、歴史を物語化して、歴史上の当時の価値観(当時の人がどう考えたか)を基準にして、過去の事実・日本の行為を正当化しています。過去のあやまちから教訓を引き出すのではなく、歴史への謙虚な反省を拒否し、歴史の事実を隠蔽(いんぺい)・改ざんして、それによって日本の歴史に誇りを持とうと呼びかけた教科書です。
 その具体的な歴史改ざんの実態を以下に見ていくことにしましょう。
(俵義文著「あぶない教科書」学習の友社 p13-16)
 
■━━━━━
 
 さらにおかしな誤りから、人は子どもに歴史を勉強させる。
 
歴史とは事実を集めたものにすぎないから、それは子どもに十分に理解できるものだ、と人は考えている。しかし、事実ということばはなにを意味するか。歴史的な事実を決定するいろいろな関連はしごく容易にとらえられ、したがってその観念は子どもの精神のうちに容易に形づくられると人は考えているのだろうか。
 
事件をほんとうに知ることが、その原因を知ること、結果を知ることときりはなせると考えているのだろうか。また、歴史的なものは倫理的なものと大した関連をもたず、それらを別々に知ることができると考えているのだろうか。
 
人間の行動のうちに外部的な、そしてたんに物理的な動きだけを見るとしたら、歴史になにを学ぶことになるのか。まったくなに一つ学ぶことにはなるまい。
 
そしてこの学問は、ぜんぜん興味のないものとなり、なんの教訓もあたえないし、なんの楽しみもあたえない。その行動を倫理的な関連において評価しょうとするなら、そういう関連をあなたがたの生徒に理解させようとこころみるがいい。
 
歴史が子どもの年齢にふさわしいものかどうか、そこでわかるだろう。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p168)
 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎歴史の事実を隠蔽する「新しい歴史教科書」。憲法改悪をすすめようとする財界の大悪政戦略の露払いの役割を果たしたのでしょうか。あらためて注目することが大切です。
 
◎1943年10月21日は、「学徒出陣」壮行会が明治神宮外苑で雨中の中で分列行進があってから60年です。
 
 
■学徒出陣60年・「わだつみの像」50年
 戦場にかられるのは、いつも青年だ
    岩井忠熊・立命館大学名誉教授
 
─それら学徒から出た戦死者の総数はいまだに判然としないが、彼らののこした手記、書信等は、『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)はじめさまざまの書物となって伝わっている。それらは過酷な検閲制度の下で書かれているから、行間の秘められた感情を読みとらないと、読者はあやまった理解におちいることに注意せねばならない。
 
強烈な殉国の決意が、しばしば学徒自身の動揺する心情をしずめるために、故意に声高くしるされたこともあったのである。
 
 私は今も若者にこの事の必読をすすめている。一体なぜあの侵略戦争に唯唯諾諾と命をさし出し、敵を殺すことになったのか。学徒兵の心情を手がかりにその間題と戦争の歴史を勉強してほしい。
 
いまドイツ青年の二割近くが兵役拒否者ときく。人間の意識は歴史をかえることができるのだ。
──略──
(しんぶん赤旗031024)