学習通信031025
◎学ぶ力としての「学力」の大幅な低下を問題として……。
 
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四 学力とは何か
 
 学んだ成果を示す「学力」と学ぶ力としての「学力」
 
 いままで、盛んに「学力」という言葉を使ってきたが、「学力」とは何であろうか。私たちが身近に使っている「学力」という言葉は、驚くなかれ、外国語に翻訳できないのである。それは、学習してどこまで到達したかという、学んだ成果を示す「学力」のほかに、学ぶ力という意味での「学力」があり、この両者が一体となって、わが国では「学力」という言葉をかたちづくつてきたからである。
 
したがって、ひとくちに「学力低下」というときに、どちらの学力が低下しているのかをきちんとしておかないと、誤解が生じることになる。大学関係者の多くが指摘する「学力低下」は、単なる知識の量が足りないという学んだ成果を示す「学力」の低下ではない。どうして学んだらよいか分からない、マニュアル通りにしかできない、という学ぶ力としての「学力」の大幅な低下を問題として、現状を憂えているのである。
 
 しかしながら、文部省と一部の教育関係者はテストの点数のみを問題として、学力は低下していないと主張している。ところがすでにこれまで述べてきたように、テストの成績に関しても、緩やかではあるが学んだ成果を示す学力の低下が見られる。
 
各都道府県で行われている公立高校への入学試験問題の答案を詳細に検討すれば、このことは間違いなく裏付けられよう。そして大学生に求められているのは、当然ながらこのような学んだ成果としての学力ばかりでなく、小学校から高枚までに蓄積した知識を総合的に活用して、新しい事実の解明に立ち向かうことのできる学ぶ力としての学力である。
 
 これは、私の同僚が京都大学理学部の一年生の「情報処理演習」の時間に体験したことである。「分数を小数に直し、小数点以下100桁まで正確な数値が出るようなプログラムを作れ」という問題を出したところ、誰もできなかった。やむを得ず「わり算はどうするのか」とヒントを出したところ、全員正しい答えを出すことができた。これは分数を大学一年生が正しく促えていなかったことを示している。
 
 分数の計算は小学校で習う。しかしこれまでは、多くの人が大人になってもその計算法に何かしら腑に落ちないものを感じていた。したがって、分数の計算に出会うたびに考えるところがあった。ところが、最近は「ゆとり教育」のおかげで、腑に落ちないと悩む子どもたちは切り捨てられ、何の疑問も持たずに計算を行う子どもだけがテストでよい成績を取って生き残ってきた。その結果、大学に進むのは分数とは何であるかを一度も考えたことがない学生ばかりとなってしまい、大学に来て分数とは何かと問われても答えることができなかったのである。これは、小学校で学んだ知識を、中学、高校と拡げていくことのできなかった例である。こうしたことが「学力低下」に結びついている。
 
──略──
 
 学ぶ意欲、学ぶ力を持続させるためには蓄積された知識が必要
 
 「新しい学力観」はともすれば知識は必要ないという誤解を広めている。理解したいと思うから意欲が生じ、理解できたからさらに学びたいと思うのが私たちの姿である。疑問を持っても、その疑問を解決するための基礎知識がなければ、解答を知っている人に答えを開くだけで終わってしまう。そこから、さらに疑問や興味は湧いてこない。
 
 現在の学校数育で本当に問題なのは、知識を知識として実生活で生かせる形で取り込むことができなくなっていることである。『分数ができない大学生』『小数ができない大学生』(岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄編、東洋経済新報社)が示すように分数や小数の計算方法を大学生になって忘れてしまっているのは、もちろんそれを高校時代に使うことがほとんどなかったからである。
 
本当は、私たちの身近で分数や小数の計算は、割合や利子の計算のさいにいつでも登場しているのだけれども、計算が面倒だからとやめてしまうことが多い。それは、分数や小数の持っている意味に疑問を感じることなく、ただ計算方法を小学校時代に暗記しただけだからである。
 
 分数の計算は、一見何でもないことのようであるが、工夫をすることによって計算が簡単になることが多い。こうした工夫が考えることの大切さを実感させてくれるのである。工夫をせずにただ計算をしても意味がない。ところが現在、工夫をしない無駄な計算練習が盛んに行われている。
 
「ゆとり教育」の結果、授業時間が減ってしまった小学校の教育現場では、こうした工夫の大切さを説明する暇もなくなってしまっているのである。これからの社会は、割合がどれくらいであるのかなど、分数や小数の計算を必要とする機会がますます大きくなっていく。わが国の教育が、こうした社会の流れに逆行する方向に進んでいることは、次章で詳しく述べることにする。
(大野・上野著「学力があぶない」岩波新書 p78-84)
 
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 一次元的な考え、一次元的な関係
 
 今まで述べてきたように、子どもの人間的な発達は、決して子どもが自分一人でできるものではなく、人やものと関わる中で獲得していくものです。
 
 子どもはもともと知りたがり、やりたがりで、周囲と「関わる意欲」は旺盛です。しかも「柔らかさ」と「いろいろに結びつける力」というすばらしい人間としての素質をもっているので、周囲といろいろなしかたで積極的に関わり学習していきます。
 
子どもたちは、歌を覚えるのも新しいリズムを身につけるのも早いし、テレビの中の話や言葉使い、流行などは、あっという間に子どもたちの間に広がります。
 
 ところが現代は、周囲に暴力や殺人、不倫、ポルノ、人間蔑視など、反人間的を」とを売り物にするようなテレビやマンガ、ゲーム、雑誌などが溢れています。また、強い者が勝って当たり前という競争中心の社会の流れに影響されて、社会も学校も、家庭までもがイライラした人間関係が強くなっています。
 
体罰や虐待が深刻になる根底のひとつにもこのことがあるように思われます。当然の結果として、子どもたちの中にも人を軽蔑した言い方が広がったり、いじめが多くなったり、「キレル」ことが特別なことではないという考え方が生まれてきたりします。
 
 子どもたちの「非行」と言われるものや「はみ出し行動」について考える場合に限らず、「子どもたちの人と関わる力が弱くなっている」とか、「ていねいに考えることが苦手になっている」ということが一般的によく言われるまでになりました。
 
人間としての発達という点から見ると、現代の多くの子どもたちは「幼い」というか、発達が不十分な状況になっているという指摘です。たいへんなことだと思います。子どもは本来「意欲」を持ち「力」を持っているのに、こんなことになっているのです。私たちは、このことを「ていねいに」考えてみる必要があります。
 
 今まで述べてきたことと結びつけて考えてみますと、イライラした状態では、人間としてだいじな「柔らかさ」が失われています。また、強弱など上下の人間関係は「一次元的」な関係です。競争というと二次元的のように見えますが、勝敗だけが強調される競争の中では、「強い者」と「弱い者」の関係はバラバラで、一次元的な、それも「否声を強調する対立です。
 
「手をつなぐ」、「いっしょにする」、「協力」というような二次元的な統合ができず、どちらが上という上下関係、単純な一次元的な関係になってしまいます。ですから大ざっぱに言えば、現代社会の強い流れは、子どもたちが二次元的な力をつけ二次元的な活動をしようとしてもそれができず、一次元的な世界に子どもを閉じ込める働きをしているということができます。
 
 小さい子どもが、こうと言い出したら他のことは聞く耳を持たず、意地をはったり、泣き出してしまうので因ってしまうことがあります。他の人に自分の思いを主張するばかりという一方向、一次元の「△△だ」という力ばかりが活発に働いて、その上のレベルの「否定もできる力」や「二次元の力」が働いていません。
 
このようなことは、大きくなった子どもにも、大人にだって起こります。意固地になっているなどというのは、まさにそういう場面です。自分の思うようにならないからキレルとか、暴力をふるう、虐待する、体罰に走るといった行為が起きる時の心理状態なども、この延長線上にあるということができます。
 
 一つのことしか考えないという一次元的な段階に留まっていては、いろいろな人たちや物と関わりをもち、自由に豊かに活動することはできません。一面的な固い考え方や行動のしかたでは、学習でも新しいことを学んだり、問題を解いたりする上で困難を抱えることになります。
(棚橋啓一著「子どもの人間的発達」新樹社 p78-80)
 
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 ことばだけの学問はないとしたら、子どもにふさわしい勉強もないわけだ。子どもはほんとうの観念をもたないとしたら、かれらにはほんとうの記憶もないのだ。感覚的なものだけを覚えている記憶をわたしは記憶とは呼はないからだ。子どもにとってなにもあらわしていない記号の表をかれらの頭につめこんでもなんの役にたとう。
 
事物む学ぶときにかれらは記号も学ぶのではないか。なぜ二度学ばせるようなむだ骨折りをさせるのか。しかも人は、子どもにとってなんの意味もないことばを、それが学問であるかのように考えさせることによって、はかりしれない有害な偏見をかれらの頭に植えつけようとしているのではないか。
 
子どもがことばだけで満足することになると、自分ではそれが役にたつかどうかも知らずに、他人のことばを信用して事物を学ぶことになると、たちまち子どもの判断力は失われる。その子は長いあいだばか者どもの目にすばらしい光彩を放つことになるだろうが、その後にいたってようやく、そうした損失のつぐないをすることになる。
 
 そうだ、自然はあらゆる種類の印象をうけとれるような柔軟性を子どもの頭脳にあたえているが、それは、陰気で不毛な少年時代を悩ましている、国王たちの名まえや日付けや、紋章学、天球、地理などの術語、要するに子どもにとってなんの意味もないことば、あらゆる年齢の人にとってなんの役にもたたないことばを覚えこませるためではない。
 
かれが理解することのできる、そしてかれの役にたつあらゆる観念、かれの幸福に結びつき、やがてかれの義務を明らかにしてくれるあらゆる観念が、はやくから消すことのできない文字をもって頭脳にしるされ、一生のあいだかれがその存在と能力にふさわしいようにふるまうことに役だたせるためなのだ。
 
 書物で勉強しなくても、子どもがもつことができるような記憶力は、だからといってなんにもすることがなくなるわけではない。見るもののすべて、聞くもののすべてが子どもを刺激し、かれはそれを覚えている。かれは人々の行為、話を心のうちにとどめておく。
 
そしてかれをとりまくすべてのものは書物となり、それによって子どもは、意識せずに、たえず記憶の内容を豊かにし、やがては判断力がそれを有効にもちいることができるようになる。その対象を選択すること、子どもが知ることのできるものをいつも見させ、知らないでいなければならないものをかくしておくこと、こういうことにこそ子どものこの根本的な能力を養うほんとうの技術が存在する。
 
そして、こういうことで、若いうちは教育の助けとなり、あらゆる時期に行動の助けとなる知識の宝庫をつくってやるように努力しなければならない。この方法は、正直のところ、こましゃくれた天才をつくりあげることにほならないし、養育係や教師に花々しい名声をあたえることにもならない。
 
しかしそれは、分別のある頑丈な人間、肉体も悟性も健全な人間、若いときにはほめそやされることはないが、成人すれば人に尊敬される人間をつくりあげる。
 
 エミールはなに一つ、寓話さえも、暗記するようなことはしないだろう。ラ・フォンテーヌの寓話がどんなに素朴で魅力的だろうと、それさえも暗詞するようなことはしないだろう。歴史のことばは歴史ではないが、それ以上に寓話のことばは寓話ではないからだ。
 
どうして人は、寓話は子どもの倫理学だ、などと言えるほどめくらになることができるのだろう。寓話が子どもを楽しませながらまちがったことを教えていること、うそにだまされて子どもは真実を見そこなっていること、そして、子どもにとって教訓を楽しいものにしようとすることは、子どもがそこから利益をひきだすのをさまたげていること、こういうことを人は考えていないのだ。
 
寓話は大人を教えることはできるが、子どもにはなまの真実を語ちなければならない。真実に雇いをかぶせると、子どもはもう骨折ってそれをとりのけようとはしない。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p171-173)
 
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◎「しかも人は、子どもにとってなんの意味もないことばを、それが学問であるかのように考えさせることによって、はかりしれない有害な偏見をかれらの頭に植えつけようとしている」と。
 
◎労働学校で学ぶ場合も警戒しなければなりません。すぐさま用語・言葉覚え≠ェ始まるからです。それですべての思ってしまうのです。なぜそうなのか、なぜそうなるのか、などへのこだわりが弱まってしまいます。