学習通信031026
◎生命とは……「そこには目的論的なものはない」
 
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●死への誘い
 
田沼──生物は、遺伝子も含めて、基本的には何になるかわからずに変化していく。そこには目的論的なものはないと私は思います。それに意味を与えようとすれば、何種類も説はあると思いますけれど……。
 
養老──生物は目的論的でないというほうが、本来の科学的な考え方だと思います。ところが、現代社会では、我々は完全に目的論的に生きていますね。何をするにも計画を立て、予測に基づいて制御しながら物事を成し遂げる。だから、目的論的な説明のほうが受け入れやすいんです。自然選択説は結果論ですが、実は、ランダムな行動の中から合目的的な行動が出てくるのをうまく説明してくれるんです。
 
 たとえば、あるアメーバが、危険な酸性の環境に寄っていき、餌であるアミノ酸から逃げるようなゲノムをもっていたら、そのアメーバは死ぬでしょう。反対に、酸性の環境から逃げ、アミノ酸のあるほうへ行くようなゲノムをもったものは残る。つまり、残ったアメーバは合目的的な行動をするということになるわけです。
 
田沼──アポトーシスやアポビオーシスの場合も、細胞が環境の変化に応じて内部にある「死の機構」を働かせ、死という目的を達するようにも見えます。たとえば指の形成のとき、指の軟骨はホルモンに似たある物質の濃度の濃いところで伸びていきます。このとき、指の問の細胞は、軟骨がうまく伸びなかったら横から補給してやるという働きをしています。
(養老孟司著「ガクモンの壁」日経ビジネス文庫 p187-188)
 
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 生命の論理
 
 「宇宙には、私たち以外の生命はあるのでしょうか、それは私たちと同じ生命体なのでしょぅか。」そんな質問をよくされるのですが、私は、「たぶん、宇宙にはたくさんの生命があると思います。惑星の誕生は、ごく普通の物理過程と考えられるからです。はたして、地球と同じ生命体であるのかどうかはわかりません。
 
まだ、どのようにして生命が生まれたかが明らかになっていないからです」と答えています。そして、「だから、もし本当にUFOに乗って宇宙人が来ているなら、生物学的にも文化的にも大問題で、ノーベル賞を五つくらいもらえるほど重要な情報を与えてくれるでしょう。そんな話が三もないことからも、UFO宇宙人説は嘘なのです」と付け加えています。
 
 生命が、他の無機的な物質と異なるのは、外界と独立した生命の維持活動を行う(代謝)、属性が複製され子孫に伝わる(遺伝)、単純な形態から複雑な形態へ変化する(進化)、の三点です。この三つのしくみを担っているのが「細胞」で、顕微鏡が発明されてまもない一六六五年に、ロバート・フックによって発見されています。
 
細胞中のどの部分が、これらのしくみの主役となっているかを追究した結果、細胞質と呼ばれる液体が代謝を行い、核の中のDNA(デオキシリボ核酸)が遺伝と進化に関与していることが明らかになりました。そして、DNAは塩基の橋がかかった二重らせんとなっており、塩基の並び方が遺伝情報となっていることが、1953年、ワトソンとクリックによって発表されました。現在の、DNAを軸とする生物学の基礎が確立したのです。
 
 物理学の方法でDNAの構造を分析する
 
 この、DNAの構造に行き着くまでの研究過程は、原子論や量子論が確立する過程とよく似ています。
 
 まず、染色体のなかにあるタンパク質と核酸のいずれが遺伝の担い手であるかが論争されました。実験の結果、炭化水素を別のものに転換させる能力をもつ物質としてDNA(核酸)に軍配が上がりました。地球上のすべての生物が、DNAに書かれた情報をもとに、体を作り、生命活動を続けていることがわかったのです。生物の進化は、DNAの情報が変化することに対応するわけです。
 
 さらにDNAを塩基にまで分解して分離し、二組の塩基(グアニンとシトシン、アデニンとチミン)が同じ数だけあるという経験則が発見されました(シャルガフの法則)。どのような発見過程でも、この経験則(例えば、原子論での定比例の法則、量子論での光放射のスペクトル分布など)が重要な役割を果たすものです。さらに、DNAに]線を当ててらせん構造を推測し、最終的に二組の塩基が対となって橋をかけているモデルに到達したのです。
 
 では、どのようにして、塩基対からアミノ酸を作り、アミノ酸を組み合わせてタンパク質を合成する暗号が善かれているのでしょうか。これを明らかにしたのが、ビッグバン宇宙の提唱者のガモフです。塩基対が三組で一つのアミノ酸が作られることを証明しました。
 
ガモフは、素粒子の研究、核反応の研究、宇宙進化の研究、そして遺伝情報の研究と、実に多彩な研究業績をもつ人ですが、基本的な論理や法則を押さえておけば、その考え方はどのような対象にも適用できることを体現しているようですね。いずれにしても、生命現象にも、その原理をより根源の物質の構造や性質に求める、物理学の方法が成功したのです。
 
 遺伝情報の解読と生命の起源
 
 現在、DNAに善かれた遺伝情報を解読するという研究が、世界中で競って進められています。遺伝子のどの部分に、どのような遺伝情報が書かれているかを読み取ろうというわけです。人間のDNAには、およそ三〇億の塩基村がありますから、それをすべて解読するのには相当の時間がかかりそうです。
 
解読できれば、どのような情報をもとにして生物体が作られているかがわかるでしょう。また、さまざまな生物の遺伝情報を比べることにより、どのように生物が進化してきたかもわかるようになると思います。
 
 遺伝情報から実際の生物体が形成される過程、さまざまな生体を防御する機構(例えば、異物を排除する「免疫」作用)、スムーズに体を機能させるしくみ(例えば、酵素やホルモンの作用)、生物の進化(例えば、魚類から両せい類・は虫類・晴乳類・サルからヒトへの進化)など、生命の多様な側面が、DNAレベル、アミノ酸レベル、タンパク質レベル、細胞レベルと、それぞれの問題に応じた分子レベルで研究されています。
 
 しかし、どのように生命が誕生したかについては、まだ解明されていません。原始地球はどのような状態にあったか、そこでどのような化学反応が起こったか、DNAによる遺伝方式は偶然なのか必然なのかなど、未知の要素が多くあるからです。
 
高熱の温泉に生きる生物、強いアルカリ性の水中に生きる生物、磁気に強く反応する生物など、極端な条件で生きている生物がヒントを与えてくれるかもしれません。生命の起源については、まだまだ時間がかかるかもしれませんが、その分だけ、チャレンジングな分野だと思います。
 
 生命三五億年の歴史と三千万種の生物の研究は、今後ますます盛んになるに違いありません。むろん、後に述べるように、「遺伝子操作」という重大な問題をかかえており、し
っかりと将来の方向を考えねばなりませんが。
(池内了著「科学の考え方・学び方」岩波ジュニア新書 p132-136)
 
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 <有機的な物質代謝が生命の最も一般的なまた最も特徴的な現象である>とは、ここ三〇年来、生理学的化学者と化学的生理学者とが数えきれないほどたびたび言ってきたことであって、それをここでデューリング氏が氏自身の上品で明確なことばに翻訳しただけのことである。
 
しかし、生命を有機的な物質代謝と定義することは、生命を定義して、<それは──生命である>、と言うことである。
 
と言うのも、<有機的な物質代謝>または<可塑的にかたちづくる図式化による物質代謝>という表現こそ、まさにそれ自身、さらに生命による説明を、有機的なものと無機的なものとの違いつまり生きているものと生きていないものとの違いによる説明を、必要とする表現だからである。
 
だから、われわれは、こういう説明では一歩も前進しないのである。
 
 物質代謝そのものは、生命がなくても起こる。化学には、原料が十分に供給されればそれ自身の諸条件を絶えずくりかえし生み出し、しかもそのさいに或る特定の物質が過程の担い手になっている、そのような過密がたくさんある。
 
たとえば、硫黄をもやして硫酸を製造する場合がそれである。そのさい、亜硫酸ガスSO2が発生する。これに水蒸気と硝酸とを供給すると、亜硫酸ガスは、水素と酸素とを受け取って硫酸H2SO4に変わる。硝酸は、そのさい酸素を放出して酸化窒素に還元される。
 
この酸化窒素は、ただちにまた空気中から新しい酸素を受け取って、もっと高次の窒素酸化物に変わるが、その結果は、この酸素をただちにまた亜硫酸ガスに与えて、あらためて同じ過程をたどるだけのことである。
 
こうして、理論上は、ごく微量の硝酸がありさえすれば、無限量の亜硫酸ガス・酸素・水を硫酸に変、芸ことができるはずである。──物質代謝はさらに、液体が死んだ有機的薄膜を透過するさいにも、さらには無機的薄膜を透過するさいにさえ、起こるし、また、トラウベの人工細胞の場合にも起こる。
 
ここでまた、(物質代謝)ということでは一歩も前進できないことが明らかになる。と言うのも、生命を説明することになっている独特の物質代謝が、それ自体また生命による説明を必要としているからである。だから、われわれは、これとは別なやりかたをしてみなければならないわけである。
 
 生命とは、蛋白体の存在の仕方である。そして、この存在の仕方で本質的に重要なところは、この蛋白体の化学成分が絶えず自己更新を行なっている、ということである。
 
 蛋白体とは、ここでは現代化学上の意味に解している。そして、現代化学は、この名前のもとに、普通の卵白に似た組成をもったすべての物賀──別名で<プロテイン物質> とも言われている──を総括しているのである。これはまずい名前である。
 
それは、普通の卵白が、卵黄と並んで、発育していく胚のための栄養物にすぎない、という点で、同類のすべての物質のうちで最も活気のない最も受動的な役割を演じるものだからである。とは言っても、蛋白体の化学的組成がまだほとんど知られていないあいだは、この名前は、ほかのどの名前よりも一般的であるだけに、まだしもましである。
 
 生命が見いだされるところではどこでも、それが或る蛋白体にしっかり結びつけられていることが見いだされ、また、分解過程にはいっていない蛋白体が見いだされるところではどこでも、例外なく生命現象も見いだされる。
 
こうした生命現象の特殊な分化を引き起こすためには、生体のなかに他の化合物も存在していることが必要である、ということは、疑いを容れない。しかし、ただ生きるということだけのためには、そういう化合物は、栄養物として吸収され蛋白質に変えられる場合を除いて、必要ではない。
 
われわれが識っている最下等の生物は、まさに単純な蛋白質小塊にほかならないのであって、すべての本質的に重要な生命現象をもう示している。
 
 しかし、どこにでも・すべての生物に一様に・存在しているこうした生命現象とは、どういうことか?なによりもまず、蛋白体がその環境から他の適当な物質を自分のうちに取り入れて同化し、他方、この蛋白体の別の古い部分が分解して排泄される、ということである。
 
生きていない他の物体も、やはり自然の事物の推移につれて変化し、分解したり結合したりする。しかし、その場合には、もとのものではなくなってしまう。風化した岩はもう岩ではなく、酸化した金属は錆に変わる。しかし、死んだ物体の場合には没落の原因であるもの、これが蛋白質では生存の根本条件なのである。
 
蛋白体の成分のこの絶え間ない置換が、栄養と排泄とのこの絶え間ない交代が、やむ瞬間、この瞬間から、各自休そのむのが終わりとなり、分解してしまい、つまり、死ぬ。生命とは、蛋白体の存在の仕方とは、だから、なによりもまず、蛋白体がどの瞬間にも自分自身であって同時に他のものである、ということである。
 
しかも、これは、死んだ物体の場合にも起こりえるような、外部からそれに加えられる一過程の結果としてそうなる、ということではない。そうではなくて、生命は、栄養と排泄とによって起こる物質代謝は、その担い手である蛋白質に内属する・生まれつきの・自律的に行なわれる一過程であって、これなしには蛋白質はありえないのである。
 
そして、このことから、<いつか化学が蛋白質を人工的につくりだすことに成功するようなことがあれば、この蛋白質は、どれほど弱いものにせよ生命現象を示すに違いない〉、という結論が出てくる。もちろん、はたして科学が同時にまたこの蛋白質に適した喰い物を発見するかどうかは、問題である。
 
 つぎに、蛋白質の本質的に重要な機能である──栄養と排泄とに仲だちされる──物質代謝から、また、蛋白質に固有の可塑性から、生命の残りすべての最も単純な諸要因が導き出される。
 
すなわち、刺激反応性──これは、蛋白質とその栄養物とのあいだの交互作用のうちにもう含まれているし、収縮性──これは、もう非常に下等な段階で喰い物が平らげられるさいに現われるし、成長可能性は、最も下等な段階では分裂による繁殖を含んでいるし、内部運動は、これがなければ栄養物の平らげも同化も不可能なものである。
 
 ねれわれの<生命>の定義は、すべての生命現象を含むどころか、むしろ最も一般的で最も単純な生命現象だけに限られなければならない、という点で、もちろん、非常に不十分であか。すべて定義というものは、科学的には価値が乏しい。
 
生命とはなにかを本当に知りつくすためには、最も下等なものから最も高等なものまで、生命のすべての現象形態を残らず調べなければならないであろう。けれども、日常の用途にとっては、こうした定義は非常に好都合なもので、場合によってはなくては困る。それのまぬかれえない欠陥を忘れさえしなければ、定義も害を及ぼさずにすむ。
(エンゲルス著「反デューリング論」新日本出版社 p117-120)
 
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◎生命とはなにか……。学習通信031019 と合わせて学んで下さい。
「生命とは、蛋白体の存在の仕方とは、だから、なによりもまず、蛋白体がどの瞬間にも自分自身であって同時に他のものである、ということである。」と。