学習通信031027
◎「子どもが寓話を学んでいるのを注意して見ているがいい」
 
■━━━━━
 
子どもが親に「鬼婆」や「鬼」というとき
 
 昔話にはじつに多くの主人公が登場します。人間からはじまって、動物や植物や昆虫、石や山や海、星や雲、雷や風、およそこの世の森羅万象が主人公になっているかとおもえば、天狗や鬼、雪女や魔女といった魑魅魍魎(ちみもうりょう)から、天女や天使にいたるまで、およそ登場する主人公をみただけでも驚くべき多様な世界であるのがわかります。
 
 またひとたび人間の世界に限ってみても、爺さん婆さん、若い男女から子どもにいたるまで、職業をみても樵や農夫、和尚や小僧、商人から乞食まであらゆる職業、年齢、性別と性格の人々が登場しこの世の綾をなしているといえましょう。
 
 子どもの自立に重なる昔話は、子どもが主人公である場合が一般的です。人間の子どもが主人公であることもありますが、子どもが動物の姿をかりて象徴的に登場する場合もはいります。つぎに起こることは、これら幼いものたちの前に困難や恐ろしいものがあらわれて、子どもたちを食べてしまおうとしたりします。
 
具体的には狼や虎といった動物からはじまって、鬼や天狗、魔女や山婆、鬼婆やトロルといったいわゆる魑魅魍魎のたぐいです。この本では、こうした昔話をとりあげて、大人と子どもの自立について考えるとともに、その背景にひそんでいる宇宙像にもふれてみました。
 
 それでは、いったい子どもにとって魑魅魍魎とはなんなのでしょう。
 魑魅魍魎は、たいてい深い深い山や森、人間が容易に立ち入ることのできないような奥深い場所にすんでいます。現実の山や森ではありませんし、不思議な場所への道や入り口は、しばしばどこにあるのかもわかりません。
 
それは、何かのきっかけでふと迷いこんだりさらわれたり、引きずりこまれたりする場所で、深層心理学ではこのような場所のことを無意識の世界とよびました。昔話の世界に出てくる森や山や海は、無意識の世界の象徴なのです。魑魅魍魎ほ、この無意識の世界にすんでいる、どちらかというと否定的な力が形をなしたものでしょう。
 
 深層心理学では、こうした無意識の奥底にうごめく力をこころの領域の問題としてとらえるわけですが、人々がまだ霊や魂を信じていたころには、魑魅魍魎は霊として現実に森や山にいると信じられていました。私はどちらかと言うと、そうした考え方に共鳴するのですが、霊や魂が、森や山からでてきて背後から人間のこころに影響をあたえ、人間はその霊や魂に突き動かされて行動するというのです。
 
霊には、善いのもいるのですが悪いのもいるので、それなりの対応のしかたを知らないと、ときには生命をとられたりといったとんでもないことが起こるのです。
 
 アイヌ文化などを少しでも学んでいますと、昔は、このような霊や魂と人間との関係や、正しい対処のしかたについての知識を伝える手段として、昔話が生きていたようにおもえます。すなわち、魑魅魍魎がでてくる昔話には、悪い霊にたいする対応のしかたが描かれていた面があるのです。昔は、昔話を語ることは、単なるお伽ではなく、もっと差し迫った意味があったとおもわれます。
 
 現代では、霊や魂が森や山にいると信じる人は少なくなりましたが、かわって心理学が人間のこころのなかの無意識の世界に、それら魑魅魍魎に象徴される力がひそんでいることを明らかにしています。大人のこころの奥にある、子どもの自立をさまたげる力などは、典型的な魑魅魍魎の例であるといえましょう。
 
 たとえば大人が、子どもに良かれとしてやっていることが、逆に、子どもにとってはたいへんな重荷であり災いであると感じられることがあります。干渉のしすぎ、過保護や過度の甘やかし、過剰な権威のおしつけなどなど。こうした行為を、親は愛情の表現と信じておこなうのですが、子どもの目には、鬼や鬼婆の出現であるとうつります。親の愛情が鬼や鬼婆に見えるとすれば、これほどこみいってめんどうなすれちがいはありません。
 
 もちろん親や大人ほ、鬼や鬼婆が自分のこころにすんでいるなどということは、意識も自覚もしていません。まして、自分の愛情が、子どもの目から見れば鬼婆であり、子どもの反抗を引き起こし、精神的な障害の原因になったり、暴力の要因になったりするなどということには思いもいたらないのが普通です。
 
 子どもは、自立を妨げる力にたいしてじつに敏感に反応します。無意識に時には意識的に抵抗し戦いをいどみます。親の過剰な愛情が、自立を妨げる大きな力に見えるからです。どのような子どもにも反抗期はあります。なかには、力つき戦いに敗れる子どももおりましょう。
 
 こうしたこころの葛藤や戦いは、とりわけ子どもが精神的な成長の節目に来たときに起こります。反抗期と呼ばれるものは、自立しようとしている子どもが、自立を妨げる力と戦っている姿であるといえましょう。
 
 親は、自分の子どもと接する場合、ふだん意識的に何かをしていると思いながらも、じつは無意識に何かをしてしまっていることのほうがはるかに多いようです。
 
ということは、自分でまったく気がつかないで、子どもの自立を妨げている。すなわち、意識のうえでは子どもの自立を願いながら、無意識にまったく正反対のことをしてしまっていることがしばしばあるわけです。
 
 子どもが、親に向かって「鬼!」とか「鬼婆!」といってくるのは、子どもの目からみれば、親の無意識の態度や言動のなかに、鬼や鬼婆、山婆や魔女、天狗や狼やらが出てきているからです。これは、視点を変えて子どもの立場から見れば「あなたは鬼婆ですよ」と、大人のこころにひそむ魑魅魍魎の正体を教えていることであり、親自身にそのことを自覚してほしいと迫っている姿といってよいでしょう。
 
 しかし、大人の側からすれば、自覚するということは無意識の領域にあるものを意識のなかに上らせることであり、これがなかなか難しい。親のほうもこうなると面子にかけても、自分が鬼や鬼婆であることを認める気持ちになれません。
 
それどころか、意識のなかに、自分でも認めたくない自分の本性が突如浮かび上がってくるものですから、なんとかそれを否定しようとして「鬼婆じゃありません!」と、感情的に叫び返したりもするのです。しかもこれが、子どもにとって善かれと思ってやっていることが否定されたとなればますます腹がたつはずです。
 
ところが、本質的にこうした無意識の問題を解決するためには、大人が自分のなかの本性を、不承不承ながらも自覚するしかないようです。子どもが親に向かってくり返し「鬼婆!」と叫ぶのは、結果的に少しずつ大人に自分自身の本性を納得させるための行為であり、大人にとっては、自分自身の無意識のなかの否定的な力を、意識させられていく過程であるとおもわれます。
 
 それにしても、愛する息子や娘たちに、突然に鬼とか鬼婆などと言われて自分の本性を理解させられることは、親にとっても子にとっても、あまりにも苦渋に満ちた解決の方法です。どうせ苦汁を飲まなければならないとしたならば、事前に苦汁を少しでも飲みやすくするような対策はないものでありましょうか。
 
 考えられるのは、実際に反抗期が起こる以前に、自立の困難を乗り越える知恵や勇気を愛情のなかで伝えてあげることです。すなわち事が起こる前に、子どもも大人もどのように対応したら良いかということを、ともに学んでおくことなのです。
 
 しかし、そうはいっても、自立の悩みは無意識の問題ですから、そんなに簡単に意識の力で解決できる問題ではありません。親が無意識のうちに子どもにしてしまっていることですから、解決策を意識的に教えることもできませんし、学校でも教えてくれません。知識では教えることができないのです。
 
 だからこそ、昔話があったのです。昔から意識的に伝えられないことを伝えるのが、昔話を含むお話の役割でありました。これからくわしくのべていきますが、昔話のなかにはたしかにこころの自立のための知恵や勇気がふくまれています。しかももっとも重要な部分は、それが親の愛情のなかで語られたということです。
 
それゆえにこそ、実際に反抗期に出会ったときに、親子がともに自立するための大きな力になったとおもわれます。世界中の人類をみても、昔話を語らなかった民族はありません。それは、とりもなおさず、昔話が心の成長のために必要だったからでありましょう。昔はどの家庭でも、豊かな昔話体験がありました。そうした昔話の体験が、とりわけ子どもと親の間に横たわる精神的な悩みを解決するための、大きな力になったものとおもわれます。
(松居友著「昔話とこころの自立」洋泉社 p9-14
 
■━━━━━
 
寓話 鳥と狐
 
烏先生、とまっていた、木の枝に、
 
 先生、このことばはそれ自体なにを意味するか。固有名詞のまえにあるときはどういう意味になるか。
 
 烏とはなにか。
 
 「とまっていた、木の枝に」とはなにか。わたしたちは「とまっていた、木の枝に」とは言わない。「木の枝にとまっていた」と言う。だから、詩における倒置法について話さなければならない。散文とはどういうものか、詩とはどういうものか、ということを述べなければならない。
 
チーズを一つ口にくわえて。
 
 どんなチーズだったのか。スイスのチーズか、プリのか、それともオランダのか。子どもがまだ烏を見たことがなかったら、その話をしたところでなにになるだろう。すでに見たことがあるなら、烏が口にチーズをくわえるというようなことを、どう考えるだろう。いつも自然のままの姿を描くことにしよう。
 
狐先生、匂いにいざなわれ、
 
 また、先生。しかしこれは狐にはふさわしい呼びかけだ。狐はその道にかけてはすぐれた腕をもつりっぱな先生だから。狐とはどういうものかを話し、そのほんとうの性質と、寓話であたえられている性格とを区別しなければならない。
 
 「いざなわれ」このことばは日常もちいられない。その意味を説明しなければならない。こんにちではこのことばは詩においてだけ用いられることを話さなけれはならない。子どもは、なぜ詩では散文とはちがった話しかたをするのか、とたずねるだろう。あなたがたはなんと答えるつもりか。
 
 「チーズの匂いにいざなわれ」木にとまっていた烏がくわえていたのが、林のなかか穴のなかにいた狐にまでわかったとは、そのチーズはずいぶんつよい匂いがしたにちがいない。こんなことで、正しい批判精神、正しいと思われることだけになっとくし、他人の話の真実とうそとを区別することができる批判精神をあなたがたの生徒に訓練させることになるのだろうか。
 
烏にむかってこんなことばを述べる。
 
 「こんなことば」では、狐は話をするのか。烏と同じことばを話すのか。賢明な教師よ、気をつけるがいい。返事をするまえによく考えてみるがいい。きみの返事は、きみが考えている以上に重要な意味をもつことになる。
 
やあ、こんにちは、烏殿、
 
 「殿」こういう称号を子どもは、それが敬称であることさえまだ知らないうちから、冷やかしにつかわれていることを知る。ムッシュー・デュ・コルポー(鳥殿)などと言う人は、このデュ(貴族の名まえのしるし)を説明するまえに、ほかにもっと多くのことを説明しなければならないだろう。
 
あなたはなんてきれいなんでしょう。なんて美しく見えることでしょう。
 
 よけいなことは、むだなくりかえし。同じことが別のことばでくりかえされているのを見て、子どもはしまりのない話しかたを学ぶことになる。このくりかえしは、作者の技巧のひとつだ、いろいろなことを言ってほめそやそうとする狐はわざとこういうことを言っているのだ、とあなたがたが説明するとしたら、それはわたしにはけっこうな説明だが、わたしの生徒にはけっこうとは言えない。
 
うそは申しません、もしもあなたの声が
 
 「うそは申しません」では、ときどきうそをついているのか。狐はうそをついているからこそ「うそは申しません」と言っているのだ、と教えたとしたら、子どもはどういうことになるだろう。
 
あなたの羽の美しさにこたえるものなら、
 
 「こたえる」このことばはどういう意味か。声と羽といったようなまるでちがった性質のものをくらべてみることを子どもに教えてみるがいい。どれほどのことが理解できるかよくわかるだろう。
 
あなたはこの森の賓客(まろうど)のなかの鳳凰(フェニックス)でしょう。
 
 「鳳凰」フェニックスとはなにか。ここでわたしたちはとつぜんでたらめな古代世界に投げこまれる。神話の世界に、と言ってもいい。
 
 「この森の賓客」くだらない比喩的なことば。へつらい者はお上品なことばをもちい、一段といかめしい調子をあたえて、いっそう耳ざわりをよくしようとする。こういう繊細な心づかいが子どもに理解できるだろうか。高尚な文体、卑俗な文体ということさえ子どもは知っているのだろうか、知ることができるのだろうか。
 
これを聞いて、烏は喜びにわれを忘れ、
 
 ことわざにもなっているこの表現も、ひじょうに強い感情をすでに経験したことがなければよくわからないだろう。
 
自分の美しい声を聞かせようとして、
 
 この詩句とこの寓話ぜんたいを理解するには、子どもは烏の美しい声とはどういうものか知っていなければならない、ということを忘れてはいけない。
 
あんぐり口をあけ、ばさりとえものを落とす。
 
 この句はすばらしい。語調がそのまま映像をつくりだす。わたしには烏が大きなみにくい嘴(くちばし)をあけるのが見える。枝のあいだからチーズが落ちてくる音が聞こえる。しかし、こういった種類の美しさは子どもにはぜんぜんわからない。
 
狐はそれをつかんで、こう言った。人のいいお殿さま、
 
 だからここでもう、人がいいのはばかだということになる。たしかにこれは、子どもに教えるために時間をむだにしていることにはなるまい。
 
よく覚えていることですな、おせじのうまい者はみんな
 
 一般的な教訓。もうどうにもならない。
 
おせじに耳をかたむける奴の費用で暮らしているのですよ。
 
 十歳の子どもにはけっしてこの句の意味はわかったためしはない。
 
この教訓は、たしかに、チーズ一つぐらいの値うちはありますよ。
 
 これはよくわかるし、たいへんけっこうな考えかただ。それにしても、教訓とチーズの値うちを比較できるような子ども、また、教訓よりもチーズのほうがいいと考えないような子どもはめったにいないだろう。だから、こういうことばはあざけりのことばにすぎないことを子どもにわからせてやる必要があるだろう。子どもにとってあまりにも微妙なことだ。

烏は、面目なく、はじいって、
 
 また同車語の反復だが、このほあいは許しがたい。
 
もうこんなことにはひっかかるまいと誓ったが、ちょっと手おくれ。
 
 「誓った」誓うとはどういうことか、それを子どもに説明してやるような愚かな教師がどこにいるだろう。
 
 こまかいことをくどくどと述べたが、この寓話がふくむあらゆる観念を分析し、さらにそれらの一つ一つを組み立てている単純で基本的な観念に還元するためにはこれでもまだとうてい十分とはいえない。
 
しかし子どもにわかってもらうためにそういう分析が必要だと考えているような人がいるだろうか。わたしたちはだれひとりとして、子どもの状態に自分をおいて考えることができるほどすぐれた哲学者にはなれない。しかしここで道徳的な考察に移ろう。
 
 世間には、うまいことにありつくためにおせじを言ったり、うそをついたりする人間がいることを十歳の子どもに教える必要があるかどうか、わたしはたずねたい。小さな男の子をからかって、ばかげた虚栄心をかげでそっと笑っているようなふざけた人間もいることを教えてやれるのがせいぜいのところだろう。
 
それにしても、チーズがすべてを台なしにする。自分の口からチーズを落とさないようにと教えないで、むしろ、他人の口からチーズを落とさせることを子どもに教えることになる。これがわたしの第二の逆説だが、さきの逆説にくらべてその重要性において劣るものではない。
 
 子どもが寓話を学んでいるのを注意して見ているがいい。それを実生活にあてはめて考えることができるばあい、子どもはほとんどいつも作者の意向とは逆の考えかたをすること、作者が改めさせようとしている、あるいは、もたせないようにしょうとしている欠点について反省することはしないで、子どもは、他人の欠点から自分の利益をひきだすというようなよからぬことを心がけるようになることがわかるだろう。
 
右に引用した寓話では、子どもは、烏を笑うが、みんな狐が好きになる。つぎの寓話では、あなたがたは蝉の例を見て考えさせようとするのだが、そんなことはしないで、子どもは好んで蟻を見ならうことになる。人は他人に頭を下げることを好まない。子どもはいつも輝かしい役割りを演じょうとする。それは自尊心からくる選択で、ごく自然な選択だ。ところで、これは子どもにたいしてなんという恐ろしい教訓だろう。
 
あらゆる怪物のなかでもっともいとわしい怪物は、けちんぼで情けしらずの子ども、他人が自分になにをもとめているかを知りながらそれを拒絶するような子どもだ。蟻はもっとひどいことをする。蟻は拒絶したうえに相手をあざわらうことを子どもに教えているのだ。
 
 ライオンが登場人物の一人として出てくるすべての寓話では、たいていそれがいちばん輝かしい役割りを演じているので、子どもはかならず自分もライオンになる。そしてなにかの分配にたちあうことになると、ライオンの例にみならって、なんとかしてすべてを手にいれようとする。
 
しかし蚋(ぶよ)がライオンを倒すばあいには事情が変わってくる。こんどは、子どもはライオンではなく、蚋になる。かれはいつか正々堂々とたちむかうことができない相手を小さな針で刺し殺すことを学ぶ。
 
 やせた狼と太った犬との寓話では、作者があたえようとしている節制の教訓ではなく、子どもは気ままな生活態度を学ぶ。いつもおとなしくしなさいと教えられていた小さな女の子がこの寓話を読まされて、ひどく悲しんで泣いていたのを見たことがあるが、わたしはそれをけっして忘れないだろう。
 
なぜ泣いているのか、だれにもなかなかわからなかったが、やっとそれがわかった。かわいそうに子どもはたえず束縛されていてやりきれなくなっていたのだ。その子は頸(くび)のあたりが首輪のためにすりきれているような感じがしていたのだ。自分が狼のようになれないのを悲しんでいたのだ。
 
 こういったわけで、右に引用した最初の寓話にふくまれる道徳は子どもにこのうえなく卑しいへつらいを教え、つぎの寓話の道徳は情けしらずになることを教え、三番目のは不正を教え、四番目のはあてこすりを、五番目のは不羈(ふき)独立を教える。この最後の教訓はわたしの生徒にとってはよけいなものだが、そうかといって、あなたがたの生徒にとってもふさわしいものとはいえない。
 
たがいに矛盾する教訓をあたえていたのでは、あなたがたのせっかくの配慮もどんな成果を期待することができよう。しかし、それは別として、わたしにとっては寓話に異議を申したてる論拠となるこうした道徳はすべて、寓話をよしとする理由も提供しているのだろう。
 
社会にあってはことばだけの道徳と実践上の道徳とが必要なのだ。そしてこの二つの道徳はたがいに似ていないのだ。ことばだけの道徳は教理問答のうちにみいだされるが、そこに捨てておかれる。
 
実践上の道徳は、子どものはラ・フォンテーヌの寓話集のうちに、母親のはそのコント集のうちにみいだされる。一人の作者ですべて間に合うというわけだ。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p176-182)
 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「ライオンが登場人物の一人として出てくるすべての寓話では、たいていそれがいちばん輝かしい役割りを演じている」……小泉首相もライオンにたとえら、本人もそれを良し! としているようです。
 
◎読み聞かせる寓話=昔話≠フ子どもに与える影響を考慮なにしに、選択してはいけないのでしょう。大人の世界観が問われています。