学習通信031029
◎事実≠基礎にすること。その3……。
 
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 服従をしいて子どもになにかもとめるべきでないとしたら、かれらは、楽しいことにせよ、役にたつことにせよ、現実の利益を感じていることでなければなに一つ学ぶことができないということになる。ほかにどんな動機がかれらになにか学ばせることができるだろうか。
 
不在の人に語りかけたり、不在の人の話を聞いたりする技術、遠いところにいる人に、仲介者を必要とせずに、わたしたちの感情、意志、欲求をつたえる技術、そういう技術の効用はあらゆる年齢の者にわからせることができる。こういう有益で楽しい技術がどういうふしぎなめぐりあわせで子どもを苦しめるものになっているのか。
 
子どもに強制的にそれを学はせるからだ。子どもになに一つ理解できないことにそれを用いさせるからだ。子どもというものは自分の身を苦しめるような道具を完全なものにすることにそれほど好奇心をもつ者ではない。しかし、その道具が子どもの楽しみに役だつようにするがいい、そうすればやがて子どもは、あなたがたがどうしようと、それに熱中しはじめるだろう。
 
 読むことを学ぶいちばんいい方法を考えだすこと、それは重要な問題になっている。そこでピエロー〔文字を集めて単語をつくれるようになっている箱〕やカードがつくりだされている。子ども部屋は印刷工場みたいになっている。
 
ロックは子どもがさいころで文字を学ぶことにしたらと言っている。うまい思いつきではないか。情けないことよ。そんなことよりもっと確実な手段、しかもいつまでたっても人が気がつかないでいる手段は、学びたいという気持ちだ。子どもにその気持ちを起こさせるがいい、そしてあなたがたのビュローやさいころはほうっておくがいい、どんなことでも子どもに有効な方法になるだろう。
 
 さしせまった利害、これが大きな動機だ、確実に上達させる唯一の動機だ。エミールはときどき、父親、母親、親戚、友だちなどから、昼食会や遠足や舟遊びやお祭り見物などへの招待状をうけとる。そういう手紙の文面は簡単明瞭で、よくわかるように書かれている。だれかエミールのためにそれを読んでくれる人をみつけなければならない。
 
ところが、そのだれかがいつもちょうどいいときにいなかったり、子どもが前の日に気にいらないことをした仕返しにそっけない態度をとったりしたとする。そのために機会は失われ、時刻はすぎてしまう。やっと手紙を読んでもらえたときには、もうおそい。ああ、自分で読むことができたなら! また別の手紙をうけとる。
 
こんなに簡単な手紙! 書いてあることはとてもおもしろそうだ。子どもはなんとか判読しようとする。だれかが助けてくれるときもあれば、拒絶されるときもある。努力したすえ、やっと半分だけ手紙の意味がわかる。あしたクリームを食べにいくというのだが、どこへ、だれと一緒にいくのかわからない。
 
残りの部分を読もうとしてどんなに努力してみることだろう。わたしはエミールにビュローが必要だとは思わない。つぎには書きかたのことを話さなければならないのだろうか。いや、教育論のなかでそんなつまらないことに興ずるのは恥ずかしいことだ。
 
 わたしはただつぎの二言をつけくわえて言っておきたい。これはたいせつな格率の一つとなるものだ。それは、一般に、いそいで獲得しょうとしないものはきわめて確実に、そして速やかに獲得される、ということだ。エミールは十歳になるまでに完全に読み書きできるようになることはほとんど確実だとわたしは思っている。
 
それはまさに、かれは十五歳になるまで読み書きを知らなくてもたいしたことではないとわたしが考えているからだ。しかし読むことを必要とさせるあらゆることを犠牲にして読むことを覚えるくらいなら、むしろエミールがぜんぜん読みかたを知らないでいたほうがましだとわたしは思っている。
 
ものを読むことが徹底的にきらいになってしまったら、読めたとしてもなんの役にたつだろう。「かれがまだ好きになれない学問を嫌悪すべきものと思わせないように、そして、かれがなにも知らないでいた時期をすぎたなら、ひとたびあらわれたそういう嫌悪がかれの心を学問から遠ざけることがないように、とくに気をつけなければなるまい。」
 
 わたしが消極的な方法を強調すればするほど、いよいよ反対の声が高まってくるように感じられる。あなたの生徒はあなたからはなに一つ学ばないとしても、ほかの人から学ぶだろう。真理によって誤謬に対抗しなければ、生徒はうそを学ぶことになるだろう。あなたは偏見をあたえることを恐れているが、生徒はまわりにいるすべてのものからそれを教えられるだろう。
 
偏見はかれのあらゆる感官からはいりこんでくるだろう。それがかれの理性ができあがらないうちにもう理性をだめにすることになる、それとも、かれの精神は長いあいだなにもしないでいたために鈍くなり、物質に吸収されてしまうことになる。子どものころに考える習慣をつけておかないと、その後一生のあいだ考える能力をうばわれることになる。
 
 こういうことにはわけなく答えることができるような気がする。しかし、なぜ答えてばかりいるのか。わたしの方法がそのまま異論に答えることになるなら、それはよい方法なのだ。もし答えることにならないなら、なんの値うちもない方法なのだ。わたしはつづけよう。
 
 わたしが引きはじめた図面どおりに、世間表にみとめられている規則とまったく反対の規則にしたがっていくなら、あなたがたの生徒の心を遠いところにむけさせないで、たえずかれを別の場所、別の風土、別の時代に、大地の果て、さらに天のかなたに、さまよわせるようなことはしないで、いつもかれ自身のうちにとどめ、直接かれの身にふれるものに心をむけさせるように努力するなら、あなたがたはやがて、かれが知覚、記憶、さらに推論の能力さえもそなえているのをみいだすことになる。
 
それが自然の秩序なのだ。感覚する存在が行動する存在になるにつれて、かれはその力に相応した判別力を獲得する。そして自己保存に必要な力をこえた力とともにはじめて、その余分の力を他の用途にもちいさせるために役だつ思索能力がかれのうちに発達してくるのだ。
 
だからあなたがたの生徒の知性を養おうとするなら、その知性が支配する力を養うがいい。たえずかれの体を鍛えさせるがいい。かれを強壮頑健にして、賢明で理性的な人間にするがいい。労働させ、行動させ、走りまわらせ、叫ばせ、いつも運動状態にあるようにさせるがいい。力においては大人にするがいい。そうすればやがて理性においても大人になるだろう。
 
 じつのところ、この方法によっても、たえずさしずをして、たえず、行きなさい、来なさい、じっとしていなさい、これをしなさい、あれをしてはいけません、などと言っていたのでは、子どもを愚図にすることになる。いつもあなたの頭がかれの腕を動かしていたのでは、かれの頭は必要でなくなる。しかし、わたしたちの約束を思い出していただきたい。あなたが衒学者にすぎないなら、わたしの書物を読む必要はないのだ。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p183-187)
 
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 労働者教育の教育条件は以上のような困難につつまれていることはたしかであるが、その克服の方向と可能性を学校教育との関連のなかで、いくつか考察したい。
 
 第一は、労働者はそのおかれている生活と労働の現実が学ぶことを必要としている、学習の要求を本質的にもった存在であるということである。解決しなければならない問題、納得のできない問題……などをいっぱいもっている。ただそれが「学習する」ことと結びついていない。
 
学ぶことが現実の問題の解決力となることを知ったら、自分でどんどん学習をはじめていく……、そんな可能性をもっているのである。
 
 ただそのためには、学校教育で受けた「勉強はおもしろくない」「自分にかんけいない」というイメージをふきとばす講義を準備することである。そのポイントは身近な事実と問題をゆたかに示しながら、それを解決する、もしくは、その本質を示す理論を明確に示すことである。
 
ここで重要なことは、事例のゆたかさ、おもしろさが中心なのではなく、理論の柱がはっきりしていて、論理的・体系的であることによるわかりやすさこそが最大の要件なのだということ。
 
興味をそそるような話をよせ集めて雑談のような話をしても、労働者は聞いて、はくれるだろうが、理解し、納得できるはずはないのである。なにをいいたいのか主張のはっきりしないものがどうして理解できるだろうか。
 
 科学的社会主義の基本的な概念は(もちろん説明を加えながら)、必要に応じて講義のなかにくみこむことが大切である。たとえ、はじめはむつかしい印象をあたえても、そのくりかえしのなかで、労働者に、必ずなじんでもらえるものであり、それなしにはもう思考できないし、物事の本質をつかむことができないものであることを理解してもらえると確信している。
 
 故堀江正規氏はつぎのように述べている。
「──資本主義の矛盾のもとでは、労働者は問題意識を持たざるを得ない。その間題を解決しなければならないと自覚するからこそ、科学的社会主義への接近を自ら考えるのだと思います。
 
 そういう人々が持つ可能性をわれわれは信じなければ話しにならないのです。
 そして労働組合運動の中で、あるいは職場に入ってから学ぼうとする人々の多くは、もともと学校で成績優秀で はなかったでしょう。
 
 むしろ出来なかった人が多いでしょう。ですから社会をカシコク=ズルク″渡っていけない。そういう運命におかれているので、かえって、社会の矛盾に気づくということがいくらでも例としてあげられます。
 
──ただ結果としてできなかったとすれば、そういう人たちが、もう一度、彼らが、潜在する可能性を引き出そうとする努力を惜しませないようにするところに我々の教育の可能性があると思います。
 
──現在の社会は、すでに労働者階級が、大きく成長していて、そしてそういう潜在的な可能性を本当に現実性に変えるために、それらの人々を助ける条件をつくりだしています。その点では、戦前と比べて驚くべき変化が、ここにあります。──
 
 労働者は、自分のおかれている生活や闘争の困難のなかで、その困難を打ち破っていくための知識を要求し、それが明らかになっていくことにこそ、真に人間的な、知識をもつという喜びを感じようとしているのですから、われわれが、労働者の間にこのような科学的知識をうけいれるための充分な条件の成熟があるということを理解し、彼らの経験や理論的知識の発達段階に適応した、いわば的をしぼった科学的に正確な教育上のテーマを提起することができるならば、そしてそのためのさまざまな工夫を試みるならば、労働者は、必ずはっきりした興味を示すものだと思います。
 
──我々は言葉を使わなければ物事をつかむことはできないわけです。──(科学の言葉には)日常語から生まれ日常語とは違った内容がある、しかもそれは大切な内容を含んでいる、こういうものを見分けていくことがどうしても大切なわけです。
 
 そういうことに慣れていかなければ、実際の物事の本質をつかむところまでなかなかいかないわけです」(「労働者教育の現状と問題点」(第一回労働者教育研究集会基調講演「労働者教育協会・会報」30号再録)。
(「労働者教育論集」学習の友社 p75-77)
 
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雑誌『スヴォボーダ』についで
 
 小雑誌『スヴォボーダ』はまったく悪い。その筆者──というのは、この雑誌は、始めから終りまで全部一人の人間が告いたような印象をあたえるので──は、「労働者むきの」大衆的な書き方をしているようなふりをしている。しかし、これは大衆性ではなくて、下品な卑俗性である。一言も単純な言葉はなく、すべてがわざとらしい。
 
……筆者は、気どった言い方をせずには、「民衆的」なたとえや「あいつらの」といったような「民衆的」な単語をつかわずには、一つの句をさえ言わない。そして、この片輪の用語をつかってわざと俗流化された、使い古しの社会主義思想をくどくど説明しているが、新しい資料ももたず、新しい実例もしめさず、新しい展開もしていない。
 
われわれは筆者に言いたい。大衆化ということは、俗流化とか卑俗性とかいうこととは非常にちがう。大衆的な著作家というものは、非常に簡単な、一般によく知られた与件から出発して、こみいっていない推論か、うまくえらんだ実例の助けをかりて、これらの与件から出てくる主要な結論をしめし、ものを考える読者をつぎつぎとそのさきの問題に突きあたらせながら、読者を深い思想へ、深遠な学説へ導いていくのである。
 
大衆的な著作家は、ものを考えない読者、ものを考えようと欲しないかまたは考えることのできない読者を目あてにしてはいない。反対に、彼は、未熟の読者のなかにひそむ、頭を働かせようという真剣な意向を目あてにしており、読者がこの真剣で骨の折れる仕事をはたすのをたすけ、読者が第一歩を踏みだすのをたすけながら、それからさき自主的にすすんでいくようにおしえながら、読者を導くのである。
 
俗流著作家はものを考えない、また考える能力のない読者を目あてにする。彼は読者を真剣な科学の初歩的原理に突きあたらせず、一定の学説のあらゆる結論を片輪に単純化された、冗談や洒落で塩加減した姿で、「お膳だてのできたものとして」、したがって読者のほうではそれを噛みくだく必要さえなく、ただこの雑炊を丸呑みにしさえすればいいようにして、読者に提供するのである。
(レーニン全集D p323-324)
 
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◎「大衆的な著作家というものは、非常に簡単な、一般によく知られた与件から出発して、こみいっていない推論か、うまくえらんだ実例の助けをかりて、これらの与件から出てくる主要な結論をしめし、ものを考える読者をつぎつぎとそのさきの問題に突きあたらせながら、読者を深い思想へ、深遠な学説へ導いていくのである。」と。
 
◎私たちが仲間たちに対話するとき、どのように話したらよいのだろうか、この3日の学習通信≠ゥら学びとりましょう。
 
◎対話を方法論にとどめないで、人間の学びそのものの根本的観点からつかみ取ることができれば、わたしたちの全ての生活で通用する対話を獲得できるでしょう。