学習通信031030
◎学習と身体 「経験を下敷きにして憶える」
 
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 「身体」を忘れた日本人
 
 私たちをとりまく壁、いつの間にか作ってしまった壁については、既にいくつか述べました。現代人は当たり前と思っているが、実際のところと「あべこべ現象」が起きているというのは、情報についての認識だけではありません。「あべこべ現象」と密接に関係しているのが「無意識」「身体」「共同体」の問題です。「意識と無意識」は脳の中の問題、「身体と脳」は個体の問題、そして「共同体」は、社会の問題です。
 
 現代の日本では、それぞれにおいてよく似た現象が起きています。その現象を意識しない、または忘れてしまっていること自体が、日本人の抱えている問題ではないか、と考えられるのです。
 
 戦後、我々が考えなくなったことの一つが「身体」の問題です。「身体」を忘れて脳だけで動くようになってしまった。といっても、「そんなわけはない。頭痛もすれば肩こりもする」「休重が増えて階段を上るのがキッイことを自覚している」と仰しゃるかもしれません。ここでいう身体の問題とは、そういうことではありません。
 
 オウム真理教の身体
 
 これについては、まずは犯罪史としてのみならず、戦後思想史上の大事件と考えられるオウム真理教事件を題材にとってみましょう。
 
 オウム真理教は、言うまでもなくあらゆる意味で大きな問題でした。が、私はそれをどう考えるべきか、なかなか整理がつかなかった。私が教えていた東大生も、ずいぶん引っかかった。どうして、あんな見るからにインチキな教祖に学生たちが惹かれていくのかがわからなかったのです。
 
 しかし、竹岡俊樹氏の『「オウム真理教事件」完全解読』(勉誠出版)を読んでようやく納得出来た。竹岡氏は考古学を専攻している方で、この本ではその考古学の手法でオウム真理教を分析して見せます。
 
考古学の手法というのは、ここでは、教団の出版物やオウムについての本、新聞、雑誌の記事だけをもとに対象を分析していく、というやり方です。考古学は、後世に残された物証だけをもとに再構成するという学問ですから、オウム真理教について分析をする場合には、そういう手法になる。
 
 彼は、信者や元信者らの修行や「イニシエーション」についての体験談を丹念に読み込みました。その結果、「彼ら(信者)の確信は、麻原が教義として述べている神秘体験を彼らがそのままに追体験できることから来ている」と述べています。
 
つまり、麻原は、ヨガの修行だけをある程度きちんとやって来た、だからこそ修行によって弟子たちの身体に起こる現象について「予言」も出来たし、ある種の「神秘体験」を追体験させることが出来たのだ、と結論付けています。自らの身体と向かい合ったことのない若者にとって、麻原の「予言」は驚異だったことでしょう。
 
 これを読んで、「何であんな男にあれだけ多くの人がついていったのか」という疑問がようやく解けた気がしました。
 
 軍隊と身体
 
 ここでのキーワードは「身体」だったのです。かねてから、「身体問題」が戦後、日本が抱えていた共通の弱さというか、文化にとっての問題点だ、と私は考えていましたが、それが証明された、という感があります。戦時中まで、身体を担っていたのは軍隊という存在でした。が、それが終戦で綺麗(きれい)に消えてしまいました。
 
以降、実は自分にとって一番身近な身体の扱い方を個人がわからなくなってしまった状態のままなのです。
 
 日本の場合、三代、四代遡れば殆ど皆、百姓です。つまり都市の人間ではない。そういう人たちが、近代になって突然、あちこちで自然が都市化したのに伴っていきなり都会人になってしまった。
 
 ここでいう「都市」とは、前章でも述べた脳化社会のことです。すなわち、人間が脳の中で図面を引いて作った世界が具現化している社会のことを指します。およそ都市というのは、まず人間が頑で考えたものを実際にそこに作る、という作業から出来ています。
 
 日本では、この都市化に伴って、近代になって急に身体問題が発生してしまっている。恐らくは古くから都市化の歴史を持っている社会、中国やユダヤ人の文化というのは古くから都市化をしていったために、こういう問題はすでに済んでしまったのだと思います。
 
 それでも、日本においても、ある時期までは軍隊という形で強制的に、都市生活をしている男性においても身体を規定していった。軍隊というのは、どういう組織かといえば、とにかく考えずに身体の運動を統一させる組織です。戦場で下手にものを考えていたらその間に殺されるのですから、反射的に動くことを徹底的に訓練で叩き込む。上官が右、というのに、いちいち「ハテ本当に右を向いてよいものか」などと考えていては話になりません。
 
 身体との付き合い方
 
 誤解の無きように申し添えれば、私は決して「徴兵制を復活せよ」といったことを主張したいわけではない。軍隊がいいとか悪いとかいうことではなく、それが存在していた時に、そこに所属していた者たちは、身体について考える必要が無かった、ということです。
 
 考える前の段階で、訓練によって身体を強制的に動かされる。いわば、身体依存の生活を送らざるをえなくなります。そこでは否応無く身体を意識することになります。
 
 では、軍隊が消失した現在において、身体とどう付き合っていくのか。その問題への答えを、ある種の若者たちに提示したのがオウム真理教、麻原彰晃だったのではないか、それこそがオウム問題の重要な点だったのではないか、と思うのです。身体の取り扱いがわからなかった若者に、麻原がヨガから自己流で作ったノウハウをもとに教え〃を説く。それまで悩んでいた身体について、何かの答えを得たと思うものはついていった、ということでしょう。
 
 オウムに限らず、身体を用いた修行というものはどこか危険を学んでいます。古来より、仏教の荒行等の修行が人里離れて行われる、というのは、昔の人間の知恵だったのかもしれません。
 
 身体と学習
 
 身体を動かすことと学習とは密接な関係があります。脳の中では入力と出力がセットになっていて、入刀した情報から出力をすることが次の出力の変化につながっています。
 
 身近な例でいえば、歩けない赤ん坊が何度も転ぶうちに歩き方を憶える。出力の結果、つまりここでは転ぶという経験を経て、次の出力が変化する、ということを繰り返す。そのうちに転ばずに歩けるようになってくる。
 
 脳のモデルとして現在有効であると考えられている「ニューラル・ネット」というものがあります。これについては第六章で解説しますが、大雑把にいえば、このモデルを応用して、自ら間違いを訂正して学習をしていくプログラムを作ることが可能です。出力の結果によって次の出力を変えていくプログラム、と言ってもいい。これは人間の学習と同じ過程です。
 
 例えばコンピュータに文字を識別させるプログラムを作る場合、こういう自ら学習するプログラムと、細かいところまで全て予め設定して識別するプログラムとでは、前者の方がはるかに効率が良く、簡単なプログラムで済むことがわかっています。
 
 文武両道
 
 ここで言えるのは、基本的に人間は学習するロボットだ、ということ。それも外部出力を伴う学習である、ということです。
 
 「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがありますが、そうではない。出力を伴ってこそ学習になる。それは必ずしも身休そのものを動かさなくて、脳の中で入出力を繰り返してもよい。数学の問題を考えるというのは、こういう脳内での入出力の繰り返しになる。
 
 ところが、往々にして入力ばかりを意識して出力を忘れやすい。身体を忘れている、というのはそういうことです。
 
 江戸時代は、脳中心の都市社会という点で非常に現在に似ています。江戸時代には、朱子学の後、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一(ちこうごういつ)」。すなわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。
 
 しかしこれは、「知ったことが出力されないと意味が無い」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がグルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。
 
 赤ん坊でいえば、ハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。ハイハイをして動くと視覚入力が変わってくる。それによって自分の反応=出力も変わる。
 
 ハイハイで机の脚にぶつかりそうになり、避けることを憶える。または動くと視界が広がることがわかる。これを繰り返していくことが学習です。
 この人出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第にその人出力を脳の中でのみ回すことも出来るようになる。脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。
(養老孟司著「バカの壁」新潮新書 p87-95)
 
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生きることに慣れてはいけない
 
池谷 「最近、もの忘れがひどいんです」 という話しよく聞きます。「もうこの年齢だから、今さら脳を鍛えるといってもかぎりがありますよ」という声もよく聞きます。
 
 だけど、ほんとうはそんなことはないんです。その誤解を解くだけでも、ずいぶん違うのではないかなぁと思っています。
 
糸井 「もの忘れがひどいというのは誤解だ」というのはいい情報ですね。池谷さんご本人は、記憶力があるほうですか?
 
池谷 ぼくは、まわりの人があきれてしまうぐらいに、もの忘れをしてしまいます。
 
 たとえば、ばくが学生に「こういう実験をしてみたらどう?」と言ったはずなのに、一週間後にその実験をしている姿を見て「なんでそういう実験をやっているの?」 と訊いたりする。挙句の果てに「その実験はあまり意味がない」みたいなことさえも言ってしまう。もの忘れがひどいのは昔からなのです。だけどぼくは、忘れっぽくても「もっと憶えたいなぁ」「年を取ったから忘れっぽくて……」というようには、あまり思いません。
 
 というのも、痴呆のような病気をのぞけば、「年を取ったからもの忘れをする」というのは、科学的には間違いなんです。痴呆の症状としてのもの忘れは、ふつうに言われる「忘れっぽい」ということとは、明らかに一線を画すものですし。
 
 もの忘れやド忘れが増えると思えてしまう理由は、いくつかあります。子どもの頃に比べて大人はたくさんの知識を頭の中に詰めているから、そのたくさんの中から知識を選び出すのに時間がかかる。「大人が一万個の知識の中からひとつを選ぶようなものとしたら、子どもは十個の記憶の中からひとつ選び出すだけだからすぐにできる」というような比喩ができます。
 
 生きてきた上でたくさんの知識を蓄えたわけだから、これはもう仕方のないことと言っていいと思います。ド忘れをしていても、その内容を誰かに言ってもらうと「ああ、それそれ! それを言いたかった」とわかりますよね。つまり、ド忘れしている最中でも、その一方で脳は、正解が何かもまた、ちゃんと知っているわけです。つまり、忘れてしまった情報が消えてしまったわけではない。
 
 それともうひとつ、実は子どももたくさんド忘れをするんです。、ほくも小さい頃からあちこちにものを置き忘れて困った記憶があるのですが、ただ、重要なことは、子どもはそのド忘れを気にしていない。それが健全な姿だと思います。
 
 大人と子どもとでは、記憶の種類が変わるだけなんですよ。かつて、ある企業の企画で、さまざまな年齢の人を対象にして、次の図(図1)を憶えてもらう実験をしたことがあるんです。この図を暗記した一時間後に、もう一度思い出してもらうという実験です。この図は実際にアルツハイマー型痴呆症の検査で使われています。だから、もし実際に、病院に行って「この図を描いてください」って言われたら……。
 
糸井 (笑)もうすでに、アルツハイマー型痴呆症を疑われてるんだ?
 
池谷 ええ、そう思っていいですね(笑)。
 ここでは、見て憶える場合と、描いて憶える場合の、二通りの実験をしました。そうしたら、一六歳ぐらいまでの若いグループは、見て憶えようが描いて憶えようがほとんど結果に変わりがないのですが、大人は、描いて憶えると飛躍的に成績がよくなりました。
 
 見て憶えるだけだと、大人と子どものあいだの成績にはとんど差はありません。だけど、大人が描いて憶えると成績は百点に近くなるのです。大人のほうがよくできた。
 
 この結果は、大人になっても記憶力が低下しないということばかりでなく、大人に
なってから手を動かすことが、いかに重要かも示しています。絵に描くということは、つまり「一度得た情報をそのまま丸暗記せず、自分の手で描く」という自発的な経験になる。そうすると、受け手ではなく送り手の立場に立つことになり、ただ単に見た図も、自分の経験した記憶になります。
 
糸井 自分の手というフィルターを通しているからですか。
 
池谷 ええ。描きながら自分の知っているかたちに結びつけたり連想を膨らませたりしているので、描いてみるとわかりますが、案外大人はすぐにこの図を憶えられるものなんです。子どもは脳の機能から言って、まだ「経験を下敷きにして憶える」ということをおこないにくいので、描いて憶えたとしても見て憶えた時とおなじ結果しか残すことができません。
 
 つまり、「経験してわかる」ことに関しては、大人になってからのほうが発達しているのです。三〇歳以上の人のほうが経験した内容を縦横に駆使できますし、年を重ねるほどに脳のほたらきをうまく利用できるという現象も起こります。
 
 あとで理由を詳しく述べますが、少なくとも脳の大切な機能のうちのいくつかは、三〇歳を超えてからのほうが活発になることがわかっています。
 
糸井 年を重ねるほどに脳をうまく利用できる? 三〇歳を超えたほうが脳が活発になる?……って、それは一般常識で言われている「脳はどんどん細胞が壊れていって、頭は悪くなっていく」ということの逆に聞こえますよね。それはぜひとも詳しく伺いたいです。
 
 「手を実際に動かしてみることで、自分の経験になる」のですね。手を動かすことって重要だなぁ。実験科学者の方って、よく「実際に手を動かして実験をすることが、いかにアイデアを生むことにつながっているか」を力説しますよね。
 
池谷 ええ。手を動かすことは脳にとってとても大切ですし、実際に科学者は実験の現場を離れると、もうアイデアが浮かばなくなっちゃうんです。
 つまり、「手を動かすことが、いかにたくさん脳を使うことにつながっているか」ということなのです。大脳全体と手の細胞とは非常にリンクしています。こういう、ホムンクルスという人形(写真1)があるんですけど……。
 
 これは、身体のそれぞれの部分を支配している「神経細胞の量」の割合をカラダの面積で示した図なんです。つまり、手や舌に関係した神経細胞が非常に多いということがわかります。
 
 指をたくさん使えば使うほど、指先の豊富な神経細胞と脳とが連動して、脳の神経細胞もたくさんはたらかせる結果になる。指や舌を動かしながら何かをやるはうが、考えが進んだり憶えやすくなったり、ということです。英単語を憶える時でも、目で見るよりも書いたりしやべったりしたはうが、よく憶えられるということほ、誰もが経験のあることでしょう。
 
糸井 手や口を動かすと脳も動くんですね。脳に発火させるための導火線みたい。
 
池谷 大人と子どもとの違いとして、もっとも大きな点は、「子どもはまわりの世界に白紙のまま接するから、世界が輝いて見えている。何に対しても慣れていないので、まわりの世界に対して興味を示すし、世界を知りたがる。だけど、大人になるとマンネリ化したような気になって、これは前に見たものだなと整理してしまう」ということになるのだと思います。
 
 大人はマンネリ化した気になってモノを見ているから、驚きや刺激が減ってしまう。刺激が減るから、印象に残らずに記憶力が落ちるような主観を抱くようになる……。
 
 ですから、脳の機能が低下しているかどうかということよりも、まわりの世界を新鮮に見ていられるかどうかということのほうを、ずっと気にしたほうがいいでしょう。
 
 生きることに慣れてはいけないんです。慣れた瞬間から、まわりの世界はつまらないものに見えてしまう。慣れていない子どものような視点で世界を見ていれば、大人の脳は想像以上に潜在能力を発揮するんですよ。
 
糸井 あらためて大人でよかったぁ、と思いました(笑)。
(池谷・糸井著「海馬」朝日出版社 p14-21)
 
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◎事実を基礎にすること。経験を通じて学ぶこと。……共通していますね。「だいたい○○したら○○になる……」という経験だけに狭まった生活、「慣れた瞬間から、まわりの世界はつまらないものに見えてしまう」のですから……さらに成長しようなどとは、思わないわけです。通用していると錯覚がおこってくるのです。こんな人には「海馬」がお勧めです。