学習通信031031
◎「かれは自分の胃袋の意見をきかないで、あなたの意見をきくようになる。」
 
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 表現するものを持つということ
 
 千浪 プロになる場合はもちろん、プロ、アマチュアを問わず、いつでも教えるほうも習うほうも、親御さんの忍耐が絶村必要なのです。危険な言い方ですが、技術を完璧にマスターするのは、だれだってやろうと思えばできる。たとえば学校も行かずに朝から晩まで、食事と寝る以外練習すれば、そこまでにはなる。
 
 しかし、多くの知識だけを教え込まれて、先生の言ったとおり、お母さんの言ったとおりやってできていたわけです。「それが違うよ」、とか「そうなんだよ」とか、言われていることだけしか詰め込まれてないから、自分で考えるということができない。初めて自分の足で社会に出たときに、自分自身で考えることができないからそこでつぶれてしまう。父はそういうものには絶対させたくないと言っていました。
 
 上野 それについては私もレッスンのときいろいろお話を聴いたんですが、あるとき、どういういきさつだったか前後は忘れてしまったのですが、たとえば江藤俊哉先生や黒沼ユリ子先生は自分にないものをもっている、技術の問題ではないのだ、とポッンとおっしゃったことがありました。
 
 たとえば日本の弦楽器の教育がすごく進んでいると言うときに、日本はテクニックの教育はすごく進んでいると誤解されているけれども、東海先生はそうではなくて、テクニックはあくまでも自分のもっているものを表現するための手段であって、ほんとうの音楽はテクニックだけではないのだということをしきりに強調されていたと思うのです。
 
 千浪 テクニックは教えられても、音楽的な表現を教えるのは難しい。表現力というのは、ある程度自分の感情のあらわれだと思います。まず人間をつくらなければいけないとよく父は言っていました。そこで音楽を表現するときに、曲をひとつとっても、時代とか、曲風とか、作風を教えて、「その歌い方は変だよ」などと言うことはあっても、あくまでその曲をどう感じるか、それをまずその子から引き出す。
 
それがすごく難しいと言っていました。それを表現するための手段がテクニックなのだけれども、テクニックはどれだけ訓練して量をこなしたかによって決まるのだということを言っていました。
 
──略──
 
 自分の頭で考える、表現する
 
 上野 もうひとつは、他人の演奏を聴いていても、下手だというのは簡単だけれども、そうじゃなくて、どこをどう直したらよくなるかを考えなければだめだということをよく言われましたね。
 
 千浪 私も教えるようになってから言われたのですが、音程が悪いとかいうのは、誰でも言える。下手だとか、違うというのは言えるけれども、それが何で違うのか、違うことをどのようにすれば改善されるかまで言わないとだめだと。それを毎回言うのではなくて、いまそれを言うべきかどうか。
 
違っていても、いまは黙って本人がいつ気づくかを待たなければいけないときもあるし、これは自分で気づくのを待つよりもこの場で言っておかないと悪い方向にいってしまうとなれば、いま言わなければいけない。その時期を見極める力が指導者には要求されると言っていましたね。
 
 まちがえて止まってしまう、それですぐに「もう一回弾いてごらん」という場合もあります。またまちがえてしまう。そうすると、緊張したからたまたまそこでまちがえたのか、何かそこに原因があるからまちがえたのか、教える側としてそれを考えなければいけない。
 
上野さんの場合、まちがえてやめたときに最後まで弾くようにと言われたのは、最後まで弾き通す力をいまつけたほうがいいと考えたからではないかと思います。
 
 止めたときにすぐ注意をしても、そこに注意が届かない場合もあるから、もう一度やってごらんという。また止まる。生徒はそこで、「先生、何か言って」と期待しているのですが、そこであえて言わない。それで、生徒はどうしよう、でも先生は何も言わない、でもこの曲最後まで弾かなければいけない、そういったことを考える時間を与えるということです。
 
 もうひとつは失敗を恐れるなということ。まちがってもいいから弾いてごらん、一回まちがってごらん、とか、いまから弾く曲に五回まちがうように弾いてごらん、と言ったら、だれもまちがわないのです。
 
 上野 なるほどね。
 
 千浪 われわれもそうですが、まちがうことを恐れて、どうしようと思いながら弾いていたら、いい音楽はできない。
 
 よく父は、日本人は学校英語の知識はものすごくあるし、単語力もすごいのに、外国人とコミュニケーションをとる会話となるとできないのはおかしいという話をしていました。日本語でもそうなのでしょうが、コミュニケーションのところで会話が成り立たないというのがひとつあるのではないか。会話というのは自分を表現することであって、そういうことがないからできないのだろう。それは音楽表現も一緒だと言っていました。
 
 合宿などでみていても、小さい子からみたら、大人にとってもそうですが、東海先生は怖い存在です。馴れ馴れしい子だとちょっと違うのですが、向こうのほうから「東海先生」と話しかけるようになって会話がそこで成り立つようになってきたら、その子も自然と弾けるようになるというのです。
 
上野 僕たち日本人は、自分の感情を表現することは、たとえ日本語であっても下手くそだと思います。イギリスに行っていたときに、友人の子どもがピアノを弾いているのを聴いていたら、テクニックは同じ年の子の日本人のほうがはるかにうまいと思うのですが、すごく自分の感情が出てくる。この曲、自分はこう表現したいという気持ちが、ほんとうに小さいころから出ている。それをみて日本での弦楽器の教育は大変じゃないかなと思いますね。
 
千浪 先ほども少しお話ししましたが、技術的には日本はトップレベルだと言われています。いろいろ詰め込まれて、いろいろ教え込まれて。でも音楽表現となったときに、自分を表現することが苦手で、結局は音楽の表現もできない。
 
 表現というよりも、その人その人の音楽の独自のスタイルが足りないような気もします。外国へ行って、私でも「こうしたら」と言いたいような持ち方なのに、出てくる音がすばらしかったりということがあるんです。父も言っていましたけど、技術を最初にたたき込んでしまったら、そういう形にしなければいけないと思って、そこで硬さが出てしまう。
 
いい昔というのは、力を抜いたり、持ち方とか、いろいろ要素がそろい、その上で自分がどういう音を出したいかという感情がわかないとできませんし、表現もできないと思います。父は「今は技術をたたきこむ時期だ」とか言って、最初は自由に曲や合奏ばかり弾かせて、時期を見計らって練習曲などを取り入れたりした場合もありましたね。まず、自分の音を聴く、まわりの音を聴くといった「聴く耳」を作ることを大事にしていました。
 「聴く耳」というのも、「耳で見て目で聴く」という言い方をしていました。携帯電話とか、ヘッドホンステレオなんかが若い人たちに浸透していますね。ヘッドホンステレオなどは一人の世界でずうっと聴いていますから、全体の雰囲気のなかで聴いていない、とにかく自分がよければというふうになってしまいますから。何か聴かなければというときには、ちゃんとしたもので聴かないと、まわりとの関係が断たれてしまってよくない、とも言っていました。
(大野・上野著「学力があぶない」岩波新書 p19-28)
 
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学習とは文武両道である
 
─略─
 学習とは文武両道である。両道とは二股を掛けているというこ圭でそれぞれべつべつにという意味ではない。脳でいうなら、知覚と運動である。知覚から情報が入り、運動として出て行く。出て行くが、運動の結果は状況を変える。その状況の変化が知覚を通して脳に再入力される。こうして知覚から運動へ、運動から知覚へという、ループが回転する。そうしたループをさまざまに用意しモデル化すること、これが学習である。
 
 たとえば散歩をする。一歩歩くごとに視界が変化する。その変化に合わせて、次の一歩を踏み出す。幼児はこうして自己の動きと知覚の変化、その関連を学習する。成人はこうした変化をあまりにも当然と思っているために、それをまだ学んでいない状態、あるいはそれができない状態を想像することがない。
 
 自分で位置移動がはとんどできない障害児の場合、どのように学習を進めるか。自分で移動ができるように、まずハイハイからはじめる。それができなければ、寄ってたかって、手足を動かすようにさせる。その結果、多少とも「自分で」動けるようになれば、前述の単純なループができる。それがまさに、なにかを「身につける」ことなのである。
 
 いったんそうしたループができてくれば、それはモデル化されるから、ゆえに応用が利く。つまり脳内に連動制御のモデルが発生するのである。現実にほ身体運動は複雑であり、きわめて多くのモデルを用意する必要がある。しかし、なにごともまずはじめなければ、話にならない。赤ん坊はそれをほとんど白紙の状態からはじめるのである。
 
 右のような意味で、言語は典型的なループである。複雑な筋運動で構成された発声が、つぎに自分の聴覚で捉えられる。その間こえ方によって、ふたたび筋運動を調整する。その意味では言語であれ歩行であれ、脳における大ざっぱな原理は同じである。
 
 これが「学習」だということは、強調されなくてはならない。なぜなら現代では、たとえば乳幼児教育用のビデオすら存在するからである。また寝たままの乳幼児に、ビデオを見せておくという。これが入出力のループになっていないことは、ただちに理解されるであろう。身体とは無関係に、勝手に視界のなかの事物が動く。それを私は学習とは呼ばない。これはある種の経験ではあるが、学習ではない。
 
 乳幼児が自分の手をしげしげと眺めている。そうした光景は、人によっては見覚えがあろう。その手を乳幼児はいろいろに動かす。その動きと、動きの感覚が、視覚に起こっている変化と連合する。こうして乳幼児は身体と視覚の関係を理解していく。最終的にはそれが自己の認識につながっていくとしても、私は不思議とは思わない。
(養老孟司著「まとまな人」中公新書 p5-11)
 
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 博識な教師よ、わたしたちの生徒のどちらが未開人に似ているか、どちらが農民に似ているか、考えてみようではないか。たえずなにか教えようとする権威に全面的に従っているあなたの生徒は、なにか言われなければなにもしない。
 
腹がへっても食べることができず、愉快になっても笑うことができず、悲しくなっても涙を流すこともできないし、一方の手のかわりに他方の手をさしだすこともできず、いいつけられたとおりにしか足を動かすことができない。そのうちには、あなたの規則どおりにしか呼吸することができなくなるだろう。
 
かれにかわって万事に気をくばっているあなたは、かれになにを考えよというのか。さきのことはあなたが考えてくれると安心しているかれは、さきのことを考える必要はないではないか。かれの身をまもったり、身のまわりの世話をやいたりすることをあなたがひきうけていることを知っているかれは、自分はそういう心配から解放されているものと感じている。
 
かれの判断力はあなたの判断力に寄りかかっている。あなたが禁止しないことはなんでも、かれはなんの考えもなしにする。しても危険がないものとよくこころえているからだ。雨が降りはしないかと用心することを学ぶ必要がどこにあるか。
 
自分のかわりにあなたが空を見ていてくれることをかれは知っているのだ。自分で散歩の時間をかげんする必要がどこにあるのか。昼飯の時刻がすぎるまであなたがかれを散歩させておくような心配はないのだ。食べることをあなたがやめさせないかぎり、かれは食べる。あなたがやめろといえば、もう食べない。かれは自分の胃袋の意見をきかないで、あなたの意見をきくようになる。
 
なにもさせないでかれの体を柔弱にしたところで、かれの悟性がいっそうしなやかになるわけではない。まったくはんたいに、かれがもっているすこしばかりの理性をこのうえなく無益にみえることにもちいさせることによって、かれの心に理性というものにたいする信頼をすべて失わせてしまうことになる。
 
理性がなんの役にたつか全然わからないかれはやがてそれをなんにも役にたたないものと考えるようになる。推論をあやまることから生じる最悪のことは、かれにとっては、せいぜいとがめられることだ、ということになるのだろうが、かれはしじゆうとがめられているので、そんなことはほとんど気にかけていない。そんなありふれた危険はもうかれをおびえさせはしない。
 
 しかしあなたはかれのうちに才気をみいだす。わたしがすでに語ったような調子で女性とおしゃべりをする気のきいた才能をかれはもっているのだ。ところが、自分でなにかしなければならないばあいにたちいたると、なにか困難なことにであって自分で態度をきめなければならなくなると、このうえなく粗野な百姓のせがれより百倍も愚鈍な人間であることがわかるだろう。
 
 わたしの生徒、というより自然の生徒はどうかといえば、できるだけ自分の用は自分でたすようにはやくから訓練されているから、たえず他人に助けをもとめるような習慣はもたないし、他人に自分の博学ぶりをひけらかすような習慣はなおさらもたない。
 
そんなことはしないが、直接自分に関係のあるあらゆることにおいて、かれは判断し、予見し、推論する。おしゃべりはしないで、行動する。世間で行なわれていることについては一語も知らないが、自分にふさわしいことをすることは十分にこころえている。たえず動きまわっているから、かならず多くのことを観察し、多くの結果を知ることになる。
 
はやくから豊かな経験を獲得する。人間からではなく、自然から教訓を学びとる。教えてやろうなどという者はどこにもみあたらないので、ますますよく自分で学ぶことになる。こうして肉体と精神が同時に鍛えられる。いつも自分の考えで行動し、他人の考えで行動することはないから、かれはたえず二つの操作を一つにむすびつけている。
 
強く頑健になればなるはど、分別があって正確な人間になる。それは、両立しないと考えられているもの、しかもあらゆる偉人がたいていあわせもっているもの、つまり肉体の力と魂の力、賢者の理性と闘技者の活力を将来もつための方法だ。
 
 若き教育者よ、わたしは一つのむずかしい技術をあなたに教えよう。それは訓戒をあたえずに指導すること、そして、なに一つしないですべてをなしとげることだ。もっとも、こういう技術はあなたの年齢にはふさわしくない。それはあなたの輝かしい才能をすぐに示すことにはならないし、父親たちにあなたを高く評価させることにもならない。
 
しかしこれこそ成功に導く唯一の技術なのだ。あなたはまず腕白小僧を育てあげなければ、かしこい人間を育てあげることにけっして成功しないだろう。それがスパルタ人の教育法だった。書物にしばりつけておくようなことはしないで、スパルタ人はまず食物を盗みとることを教えた。そのためにかれらは大きくなって粗野な人間になったろうか。
 
かれらの活発で気のきいた話しかたを知らない者があろうか。いつも勝利者となるように生まれついていたかれらは、あらゆる戦争において敵を粉砕したが、おしゃべり好きのアテナイ人はスパルタ人の攻撃と同様にその弁舌を恐れていたのだった。
 
 このうえなく気をつかっている教育においては、先生は自分が命令しさしずしているつもりでいるが、そのじつ、さしずしているのは子どもなのだ。生徒はあなたがもとめることを私用して自分の好きなものを手に入れようとする。
 
そしてかれはいつも、一時間じっとしていることによって一週間勝手なことをさせてもらうことをこころえているのだ。たえまなしにかれと契約を結ばなければならない。そういう契約を、あなたはあなた流の考えで申しでるのだが、かれはかれ流に考えて実行するので、かならずかれの気まぐれに役だつことになる。
 
とくに、交換条件として課せられることを実行しょうがしまいが確実に手にはいることがわかっているものをかれの利益になる条件とするようなまずいことをするばあいにはそうだ。子どもは一般に、先生が子どもの心を読みとるよりもはるかによく先生の考えを読みとるものだ。
 
それもそのはずだ。自分の身をまもる手段を自分で講じなければならなくなったばあい子どもが発揮するあらゆる明敏さを、子どもは自然の自由を圧制者の束縛から回復するためにもちいるのだが、こちらは、相手の心を読みとることにそれほどさしせまった関心をもたず、ときには子どもの怠慢や虚栄心をそのままにしておいたほうがぐあいがいいと思うからだ。
 
 あなたの生徒にたいして反対の道をとるがいい。生徒がいつも自分は主人だと思っていながら、いつもあなたが主人であるようにするがいい。見かけはあくまで自由に見える隷属状態ほど完全な隷属状態はない。こうすれば意志そのものさえとりこにすることができる。
 
なんにも知らず、なんにもできず、なんにも見わけられないあわれな子どもは、あなたの意のままになるのではないか。かれにたいしては、その身のまわりにあるものをすべて自由にすることができるのではないか。あなたの好きなようにかれの心を動かすことができるのではないか。仕事も遊びも楽しみも苦しみも、すべてあなたの手に握られていながら、かれはそれに気がつかないでいるのではないか。
 
もちろん、かれは自分が望むことしかしないだろう。しかし、あなたがさせたいと思っていることしか望まないだろう。あなたがまえもって考えていたことのほかにはかれは一歩も踏みだすことはないだろう。なにを言おうとしているかあなたが知らないでいてかれが口をひらくことはないだろう。
 
 そうしてこそかれは、その年齢が必要とする肉体の訓練に熱中しても精神をにぶくすることにならないだろう。やっかいな束縛をまぬがれようと悪知恵をみがくようなことはしないで、身のまわりにあるすべてのものから現実の快適な生活のためにいちばん有利なものをひきだそうとひたすら心がけるだろう。
 
そのときこそあなたは、かれの手の届くところにあるすべてのものを摂取するために、そして他人の意見に助けられずにほんとうに事物を楽しむために、かれがもちいる微妙な発明の才に驚かされるだろう。
 
 このようにかれの意志のままにふるまわせることによって、気まぐれを助長させることにはならないだろう。自分に適当なことのほかにはなにもしないでいるうちに、かれはしなければならないことだけをするようになるだろう。
 
そして、かれの体はたえざる動きのうちにあるとしても、はっきりとわかる現在の利害にかんするかぎり、かれがもちうるだけの理性は、たんに理論的な勉強によるよりもはるかによく、またはるかにかれにふさわしいように、のびていくことがわかるだろう。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p188-192)
 
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◎講師の頭で理解しようとする労働学校受講生がいます。「やることを言って……そしたらやるよ」という若者もいます。
 
◎労働者の学習・教育に携わっていて、ルソーの教育観点はうなずけます。労働学校運営委員の観点でもあります。労働学校で学び体験することが職場や地域で、生活のあらゆる面で発揮できるように……支援するのです。それこそすぐれた運営委員≠ナす。