学習通信031101
◎「感官をとおして正しく判断することを学ぶことであり、いわば感じることを学ぶことだ」
 
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 子どもは大人より小さい。子どもは大人の体力も理性ももっていない。しかし、大人と同じように、あるいはほとんど同じように、見たり聞いたりする。子どもはそれほど繊細ではないが、大人と同じようにはっきりした味覚をもち、同じような肉感性を感じないにしても、大人と同じように匂いを嗅ぎわける。
 
わたしたちのうちに最初に形づくられ、完成される能力は感官である。だから、それを最初に育てあげなければならない。ところが、それだけを人は忘れている。あるいは、いちばんおろそかにしている。
 
 感官を訓練することはただそれをもちいることではない。感官をとおして正しく判断することを学ぶことであり、いわば感じることを学ぶことだ。わたしたちは学んだようにしか触れることも見ることも聞くこともできないからだ。
 
 判断力になんの影響もあたえることなしに体を文夫にすることに役だつ、純粋に自然的な、そして機械的な運動がある。泳ぐこと、売ること、飛びはねること、コマをまわすこと、石を投げること、こうしたこともすべてたいへんけっこうなことだ。
 
しかし、わたしたちは腕と足だけをもっているわけではあるまい。目や耳もあるではないか。しかもこれらの器官は腕や足をつかうときに必要のないものではない。だから、力だけを訓練してはいけない。力を指導するすべての感官を訓練するのだ。それぞれの感官をできるだけよく利用するのだ。
 
それから、一つの感官の印象をほかの感官によってしらべるがいい。大きさをはかったり、数をかぞえたり、重さをはかったり、くらべてみたりするがいい。どの程度の抵抗を示すか推定したあとでなければ力をもちいないようにするがいい。結果を推定することがいつも手段をもちいることに先だつようにするがいい。
 
不十分な、あるいはよけいな力をけっしてもちいないように子どもに関心をもたせるがいい。そういうふうに自分が行なうあらゆる運動の結果を予見し、経験によって誤りを正す習慣を子どもにつけさせれば、行動すればするはどますます正確になってくることは明らかではないか。
 
 なにか大きなものを動かすことが問題だとしよう。あまりに長い挺をつかっては、よけいな運動量をついやすことになる。あまりに短い挺をもちいれば力がたりないことになる。経験は正確に必要な棒を選ぶことを子どもに教えるだろう。こうした知恵は、だから、子どもの年齢をこえたものではない。
 
なにか重い荷物を運ぶことが問題になるとしよう。もてる程度の重さのものをもとうとするとき、もちあげられるかどうかじっさいにためしてみたくなければ、子どもは目で見てその重さを推定しなければならなくなるだろう。子どもがすでに同じ物質のちがう大きさのものをくらべることができるなら、こんどは同じ大きさのちがう物質のものから選ばせてみるが
いい。
 
かれはどうしてもそれらの物質の比重を考えてみなければならなくなる。申し分のない教育をうけた若い人が、樫の木の大きな切れはしのいっぱいはいっている桶(おけ)が、同じ桶に水をいっぱいいれたばあいよりも目方が少ないことを、ためしてみなければほんとうにしなかった例をわたしは知っている。
 
 わたしたちはすべての感官を同じようにつかえるわけではない。たとえば触覚のように、目をさましているあいだはけっしてそのはたらきをやめない感官がある。それはわたしたちの体の表面ぜんたいにひろがっていて、体を傷つけるおそれのあるあらゆることをわたしたちに警告する不断の見張りのようなものになっている。
 
それはまた、たえずそれをもちいることによって、いやおうなしにわたしたちがいちばんはやく経験を獲得するものであり、したがって特別に訓練する必要はそれほどない。それにしても、目の見えない人はわたしたちよりもいっそう確実で鋭敏な触覚をもっていることをわたしたちは観察している。
 
かれらは視覚によって導かれることがないので、視覚がわたしたちにあたえる判断を触覚だけからひきだすことを学ばなければならないからだ。そうだとしたら、わたしたちもかれらのように、暗闇(くらやみ)のなかを歩いたり、目に見えない物体を見わけたり、わたしたちをとりまいているいろいろなものを判断したり、一言でいえば、夜、あかりのないところで、目をもたないかれらが昼間していることを、すべてするようになぜ練習させてもらえないのか。
 
太陽が出ているあいだは、わたしたちはめくらにくらべて有利だ。暗闇のなかでは、こんどはめくらがわたしたちの案内者になる。わたしたちは一生の半分は目が見えないのだ。ただ、ほんとうのめくらはいつでも歩くことができるが、わたしたちは真夜中には一歩も踏みだすことができないというちがいがある。
 
あかりがあるではないか、と人は言うだろう。いつも道具をもちだすとは困ったことだ。必要に応じてどこででも、道具があなたがたの用をたしてくれるとだれが保証しているのか。わたしとしては、エミールが指の先に日をもっているほうが、それをろうそく屋から仕入れてくるよりましだと思っている。
 
 夜、どこかの建物のなかに閉じこめられたとしたら、手をたたいてみるがいい。その場所の反響によって、それが広いところか、狭いところか、まんなかにいるのか、隅のほうにいるのかわかるだろう。壁から半歩はなれたところでは空気はそれほど濃くはなく、抵抗が少ないので、ほかとはちがった感覚を顔にあたえることになる。
 
ひとつところに立ちどまって、つぎつぎにあらゆる方向にむいてみるがいい。どこかに扉があいていれば、軽い空気の流れがそれを示してくれるだろう。船に乗っているときには、風がどんなぐあいに顔にあたるかによって、どの方向へ進んでいるかということだけではなく、川の流れがおそいかはやいかもわかる。
 
こういうことは、そのほかに多くの同じょうなことも、夜でなければよく観察されない。昼間では、どんなに注意していようとしても、わたしたちは視覚に助けられるか、注意をそらされて、そういうことは見すごされてしまう。しかもこのばあいには、まだ手も棒ももちいてはいないのだ。視覚による知識のどれほど多くが触覚によって、しかも全然なにものにも触れることなくして、獲得されることか。
 
 夜の遊びごとをたくさんやらせること。この忠告は見かけ以上に重要なことだ。夜は当然のことながら人をおびえさせる。ときには動物たちをもおびえさせる。理性、知識、精神、勇気も、人々にこういう性分をなくさせることはほとんどできない。
 
理論家、自由思想家、哲学者、昼間は勇敢な軍人が、夜、女みたいに、木の葉の音を聞いてふるえあがったのをわたしは見たことがある。そういう恐怖は、乳母から聞かされたおとぎ話のせいにされている。それはちがう。それには自然の原因がある。その原因とはなにか。つんぼを疑いぶかくし、民衆に迷信を教えるのと同じ原因、つまり、わたしたちの周囲にあるもの、わたしたちのまわりで起こることにたいする無知だ。
 
遠くからものをみとめ、その印象をあらかじめ見ぬくことになれている者は、自分の周囲にあるものがなにも見えないとき、そこにさまざまな存在、さまざまな運動を想定して、それらは自分に害をおよぼすかもしれない、しかもそれから自分の身をまもることは不可能なのだ、というようなことをどうして考えずにいられよう。
 
わたしがいる場所は、安全なのだとわかっていたところでむだだ。その場所を現実に見ているときと同じようにはけっしてそれがわかっていないのだ。だから、昼間は見られない恐怖の的がいつも潜在することになる。もっとも、外部にある物体がわたしの体にはたらきかけるときには、たいていなにかの昔によってそれがわかるということは、わたしも知っている。だから、たえずわたしはどんなに耳をそばだてていることか。
 
原因がわからない音がすこしでもすると、たちまち自分をまもろうとする関心が、なにをおいても身を警戒するようにとうながすあらゆることを予想させる。したがってこのうえなくわたしをおびえさせるあらゆることを考えさせる。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p218-222)
 
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真理とは何か
 
 私たちが自由を獲得したいとすれば、現実を正確に認識していなければならないと先に述べました。ここでその認識について考えてみましょう。哲学者たちは認識についてあれこれとさまざまな角度から論じてきました。
 認識について考えるにあたって、まず「真理を認識する」といういい方があるように、この真理とは何のことかということから考えてみましょう。
 
 「真理の認識」「真理の探求」「真理は汝を自由にする」「真理はかならず勝利する」などといわれます。そのように私たちは真理という言葉をよく知っていて、日常的にもよく使います。真理とは真実のこと、本当のことであって、わかりきっている、哲学者がごたごたいわなくてもいいという声も聞こえてきそうです。
 
 しかし真理ということを自明のことだといって済ましていていいでしょうか。たとえば近年、世間を騒がしているオウム真理教という集団があって、まともな宗教とはとてもいえないような集団ですが、彼らなりの真理を語り一定の人びとを信者としてひきつけています。彼らのいう真理は健全な常識をもった人ならばとうてい信じられるようなものではありません。真理といっても人の考え方でいろいろありそうです。
 
 現代のように複雑で階級に分裂している社会では、人びとの利害関係や立ち場がいろいろ食い違い、考え方も当然分裂していますので、真理といってもみんなが一致するのはなかなか困難だといわねばなりません。この点をむやみに誇張すると真理というのは存在しない、人びとは自分に都合のいいように主張し、それを真理だといっているのだということになりかねません。
 
これでは人類が何万年もかかって築いてきた科学や文化や文明をすべて否定することになりかねません。「地球が太陽の周りを回っている」とか、「生物は進化する」などということは誰もが認める真理といえそうです。
 
 このように真理はやはりあると認められそうに思われますが、しかし真理があるとはどういう意味でいわれるのか考える必要があります。そこで読者のみなさんに質問してみたいと思います。「あなたは真理というものそれ自体を見たことがありますか。」「真理というものは、どこにどんな形でありましたか。」
 
 このような質問に答えるのは実は無理です。このような質問の出し方が無理で、意地悪い質問だといわねばなりません。「真理というものそれ自体」などというものは実はどこかにころがっていたりするものではないからです。「真理というもの」といいましたが、実は真理は「もの」として「存在」するわけではないのです。
「もの」として存在するのは、事実とか現実とか客観的実在とかいわれる何らかの物質的なものです。
 
 存在するのは、事実・現実・客観的実在などです。この客観的実在を私たち人間が感覚的器官を通して認識します。この私たちの認識内容が客観的実在と一致することが何らかの形で検証されると、この一致を真理というわけです。つまり真理とは事実と一致した認識内容のことです。
 
 したがって、先に述べた「真理を認識する」というのは、「客観的現実を認識することにより真理を把握する」という内容を締めていっているのであり、「真理は汝を自由にする」というのも、詳しくは「客観的現実を認識して真理を把握することによって、あなたは自由を獲得できる」ということになります。
 
「真理はかならず勝利する」というのも、「客観的現実を正確に認識し真理を把握して実践するならば、その実践はかならず成功する」ということを表現しているわけです。このような詳細で厳密な表現をしていると長たらしくて、力強さに欠ける傾きがあります。
 
実際には締めて、「真理は汝を自由にする」とか「真理はかならず勝利する」というわけですが、力強くていい表現ですね。
 
事実とは何か
 
 真理とは事実と一致した認識内容のことだというこの見解は、ごく普通の健全な意味での常識の考え方であり、自然科学や社会科学の通常の考え方です。ところがこのような真理観に反対する哲学者たちがいます。
 
この人びとは「真理とは事実と一致した認識内容のことだ」といっても、そもそもそこでいう「事実」というのは何のことか、そしてその「事実」をわれわれはどのようにして知りうるのかと疑問を出すのです。
 
 私たちはこれまですでに事実とか現実とか客観的実在とかいってきましたが、これはどんなものを想定していたのでしょうか。これも健全な常識の範囲で考えればよいと思います。つまり事実とか現実とかいうのは、私たちの周囲の草であり木であり、大地であり、山や川であり、家や街であり、地球や太陽あるいは宇宙のことですね。
 
あるいは街や村の人びとがつくっている社会も現実ですね。これらをすべてひっくるめて私たちは事実とか現実とか客観的実在とかいっているわけですね。
 
 そして私たちがこの事実・現実の世界を認識するのは、私たちの感覚器官(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の五官)によっています。この感覚器官を通して得られたデータを思考力(理性や悟性)で整理して私たちの認識はつくられていきますが、ともかく認識の窓口であり、基礎になっているのは感覚器官の働きです(理性や悟性の働きについては後に改めて考えます)。
 
不可知論の問題
 
 ところが「私たちは事実を認識できるのか」と疑問を提出する人びとは、人間のこの感覚の働きを信用せず、感覚から得たデータは不確かであり、信頼できないと考えています。さらにこの人びとは、私たちの感覚から得たデータがどの程度正確なのか検証できないともいいます。
 
それは私たちが感覚から得たデータが正しいかどうかを検証するための手段として、私たちは感覚しかもっていないからで、正確かどうか不明の感覚を確かめるのが、その感覚しかないのだから、つまり確かめようがないというわけです。
 
 そうするとこの立場の人たちは真理をどう考えるのかというと、二つの流派があります。
 
 一つは人間は真理を認識できない、つまり真理というものはない、ただ私の目にはこう見えているとか、私の耳にはこう聞こえているとかいえるだけで、真理として主張できるようなものを人間は知りえないと考える流派です。これは一七世紀イギリスのヒユームやバークレイなど、あるいは一九世紀以後の新カント派のなかから出てくるマッハ主義とか経験批判論とかよばれる哲学者たちですが、これらの流派をまとめて不可知論とよびます。
 
 二つ目のものは、人間の感覚は不確かであって、感覚にたよって外界のなかに事実や現実をとらえようとしても、真理に到達
することは不可能であるから、真理はある命題(文章)が論理の法則に矛盾しないという点にあるという考え方です。つまり真理は外界の事実や現実などと一致した認識内容のことではなくて、単に頭のなかの論理法則のことだというのです。この立場もまた人間の感覚や知覚についての不信が強すぎるといわねばならぬでしょう。
 
 たしかに人間の感覚や知覚は不確かなところがあります。見まちがえたり、聞きちがえたり、錯覚したりします。また人間の目や耳や鼻などの感覚は野性の動物たちにくらべると一般にとても劣っているといわれています。だから私たちは感覚がつねに絶対に正確だとはいえないのはもちろんです。
 
 しかし人間が認識を発展させてきた歴史(科学史といってもいいでしょう)を考えてみると明らかだと思いますが、人間はその感覚を最大限に使って、繰り返し、繰り返し、ものごとを感覚し、認識を発展させてきました。人間には感覚だけではなく考える力(思考力あるいは理性)があります。この考える力も使って、目で見ただけでおかしいと思えば、触ってみるとか、縦からも横からも何度も見てみるとか、さまざま確かめることができます。
 
 感覚はちょっと見ただけとか一回聞いただけでは、不確かなことが多いのはいうまでもありません。しかし右に述べたように、私たちは何回も繰り返し感覚を確かめ直すことができますし、また視覚だけでなくその他の聴覚・触覚・喚覚・味覚も総動員することができます。そしてこれらの感覚からえた多くのデータを整理し、分析し、総合して秩序づけるのが人間の思考力です。これらの諸能力をフルに使って人間はものごとを認識し、その知識を使って生産労働をしてきました。
 
 先にも述べたように、人類はこの生産労働のなかで、さらにものごとを認識する力(感覚する能力や考える力)を発展させてきました。つまり人類は認識した知識を使って生産労働をすすめ、その労働のなかでさらに認識能力を発達させ、そのいっそう発達した能力でさらに生産労働を発展させるということを繰り返してきました。
 
 このような何十万年の経過を考えてみますと、最初はもちろん認識する力も弱く、貧弱な知識で労働能力も幼稚な原始時代から、じよじよに知識と能力を高め、現代文明と科学技術をすすめてきた人間の能力は、相当なものだといえると思います。
 
その認識能力の中心にあるのが感覚ですが、この感覚は三の一回きりの働きでみると不確かで間違えることの多い働きではありますが、人類の何十万年の歴史を築いてきたこの能力はなかなかのものだといえるのではないでしょうか。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p60-67)
 
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◎「一つの感官の印象をほかの感官によってしらべるがいい。大きさをはかったり、数をかぞえたり、重さをはかったり、くらべてみたりするがいい。」感覚器官フルに活用してとらえるのです。
 
◎真理ってもの≠ナはないのです。こと≠ネんです。