学習通信031103
◎私用で京都学習会館に来れず欠配となりました。1日遅れて配信します。
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 それではほかになにかいい手があったかというと、とにかく経済の実力もなし、政府としての権力も弱いというときだったから、結局なるようにしかならなかったのかもしれない。しかし、そのときはとくに労働攻勢が激しかったせいもあったが、なんとかして国民が勤勉に、まじめに働きうるような経済の環境をつくりだすのでなければ、共産党などの過激分子の術中に陥ってしまって、日本はとんでもない混乱に陥りそうだという気持ちだった。
 
だから国民生活のいちおうの安定を確保するのに、はたしていかなる手を打つべきかというのが、当時の政府としての主要な課題で、今日、当時を顧みて、みずからなにをしたととくに記するに足るような記憶はあまり残っていないほどである。
 
まして、有年の大計などはおろか、先々のことを考えて対策を建てるなどという生やさしい事態ではなかった。極端にいえば、その日暮らしの窮境にあった。そして、政府と同じように国民もまた、その日の生活に追われて、生きるために奮闘しなくてはならなかったのである。
 
改革者を受け入れたもの
 
 しかし、辛か不幸か、われわれはその日の生活のことだけでなく、日本の将来に関することも考えなくてはならなかった。占領軍が徹底的な改革を指令したからである。実際、第一次世界大戦後に日本を訪れた占領軍は、歴史にその例をみないものであった。
 
すなわち、アメリカ軍はただたんに勝者としてではなく、改革者として、日本を「非軍事化」するために日本に進駐してきたのであった。戦争の原田を日本やドイツの軍国主義にみた彼らは、日本の軍国主義を生み出した社会構造を変革し、日本を軍事的に無能力化することこそ、平和な世界を建設するために最も基本的なことであると考えていた。
 
彼らはそのための計画を日本に進駐する前からつくっており、そして日本に進駐してくるやいなや、その計画どおりに日本の非軍事化と民主化をおしすすめていった。
 
 八月末に日本に進駐してきた占領軍は、九月十一日に東条元首相などの戦争犯罪人を逮捕したのをはじめとして、日本軍隊の完全な武装解除と軍事機構の廃止、国家主義団体の解散などの非軍事化のための措置(一九四六年一月)、好ましからざる人物の公職追放、思想警察、政治警察の廃止(一九四五年十月)、婦人参政権の賦与(一九四五年十二月)、労働組合の結成(一九四五年十二月)などの民主化のための措置を矢つぎばやにとった。そして、教育改革、土地改革、財閥解体、新憲法制定などの措置も、だいたい一、二年のうちに行なわれたのである。それは文句なしに、「無血革命」と呼べるような大変化であった。
 
 とくに、このためにアメリカ本国で組織され、準備をすすめて日本にきた人びとは日本を改革するという情熱に燃えていた。彼らは典型的なアメリカ人として、精力にあふれ、楽天主義に満ちた人びとであり、その本質的な善意のために日本人の尊敬と協力を得るのに成功した。しかしまた、彼らはいささか尊大であり、かつ苛酷でもあった。
 
彼らは日本の経済復興の必要を認めていなかった。昭和二十年十一月、アメリカ本国からマッカーサー総司令部に与えられた指令は「貴官は、日本経済の復興または強化に関し、なんらの責任を負うことなし」と書いている。また、彼らは、古い政治構造を破壊し、徹底的な社会改革を行なうことが日本人の生活にどんな影響を与えるかについても単純に楽観的であった。
 
 彼らのなかでニュー・ディーラーはその典型であり、計画や理念を重んじ、その実行に努力を集中して、それが日本の実情に合致して、よい結果をあげうるかどうかは、あまり意にかいしないようであった。のみならず、日本政府側の担当責任者が改革実施上にいろいろ進言忠告を試みることは、たとえ計画推進を円滑もしくは有利にしようとするものでも、しばしば占領行政に対する抵抗として受け取られ、ときには妨害と解された場合さえあった。
 
どうもアメリカ人は理想に走り、相手方の感情を軽視しがちである。机上で理想的なプランをたて、それがよいと決まると、しやにむにこれを相手に押しつける。相手がそれをこばんだり、よろこばなかったりすると怒る。善意ではあるが、同時に相手の気持ちとか歴史、伝統などというものをとかく無視してしまう。この熱心な改革者との交渉は、日本人にとってユニークな交渉であった。
 
もっとも、すべてのアメリカ人がこのような人びとだけではなかったのであり、マッカーサー元帥といっしょに戦ってきた軍人たちは、ともかく占領を成功させることを考えていたようであって、一部の改革者たちの行き過ぎを多少制約する働きをした。
 
 そして、結果的にはアメリカの占領改革はかなりの成功を収めた。まず、これらの理想主義的な改革は、戦後の混乱と絶望の状態にあった日本人に、将来への希望を与えた。少なくとも、それは日本人の生活を、たんなるその日暮らしには終わらせなかった。おそらく、日本人はアメリカ人の楽天主義に共通するものをもっているのかもしれない。
 
しかし、なによりも大切なことは、日本人がアメリカの理想主義的な改革を消化するだけの能力をもっていたことであろう。そして、その意味ではまず失敗に終わった大正の試みが戦後のこの大きな改革の地盤をつくったものとして忘れられてはならない。天皇主権から人民主権への変化を含む根本的な政治制度の改革に、日本人が当惑せず、これを歓迎したということは、明治時代に始まり、大正時代に高まった議会政治の経験なしには、おそらく考ええないことであったように思われる。
 
議会政治に愛着を感じ、それを歓迎した人は少なくなかった。また、議会政治の経験があったことは、選挙制度を導入したときにありがちな混乱と弊害を少なくさせた。さらにそれは、大きな改革にもかかわらず、政治に継続性を与えることになった。選挙民たちは大正時代からある政党の議員に多くの票を投じたからである。
 
それはニュー・ディーラーをはじめとして、根本的な変草を望んでいた人びとを失望させることであったかもしれない。たしかにそれは改革を抑制する方向に作用した。しかし、それだからこそ、日本の社会の混乱は少なかったのである。
 
 今から振り返ってみると、もっと改革がなされるべきであったという気持ちはまったくわかない。逆に、あれだけの大きな改革がよくもたいした波乱なしにできたものだとしみじみ感ずる。まず、主権のありかが天皇から国民へと移され、それによって国会が「最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」であると明確に規定された。
 
権利に関する規定は、旧憲法においては一般的な但し書きによって制約されたものであったが、新憲法においてはあいまいな但し書きがなくなり、権利の侵犯がありえないように、具体的な規定がなされた。権力を制限するという近代憲法の原則は司法権についても適用され、司法権の独立が達成された。
 
戦前の体制においては、行政部が広範な司法権を行使し、全裁判機構は司法省のかなりの影響下にあったのである。さらに、中央官僚の国民に対する実際上の権力の縮小と国民の政治的訓練の機会の増大のために、内務省とその手足ともいうべき中央から統制された警察力が解体されるとともに、地方自治体の議会に相当な権限を与え、地方自治体の首長が住民の選挙によって選ばれることになった。
 
 こうした大きな改革は、だいたいのところ、多くの国民の支持を得た。たとえば新しく発布された憲法は国民によって支持された。しかし、その場合、憲法改正のイニシアティブが占領軍によってとられたことも否定しえない事実である。したがって、それは日本人の発意によってつくられた憲法と同じように容易には日本の社会に根づかなかった。
 
 また、憲法改正のような変革を人びとはその好むように受けとった。戦争を放棄した憲法第九条はその最もよい例で、それが自衛のための武装をも禁止しているのかどうかについて、初めから人びとの意見は定まらなかった。一般の国民は詳しくは考えず、ただ戦前の軍国主義への反動から憲法第九条を支持したように思われる。
 
要するに、法律を変え、政治体制を修正することはやさしいが、それを根づかすのはむずかしいのである。そして、結局戦後の改革で日本に根づいたものは、日本側になんらかの基礎があったものであり、それがなく、かつ、日本の実情にそわなかったものは独立回復後に変更されたように思われる。
 
 たとえば農地改革は、日本に根づく理由があったし、それゆえに成功した。それは非共産主義世界で行なわれた農地改革のなかで、最も徹底したものであり、それによって、それまで四六パーセントもあった小作農が一〇パーセント未満に減ったのであった。しかしこの徹底的な改革が根づいたのは、農地改革がそれまでに日本で準備されてきたからであった。
 
農地問題は米騒動がおこった大正時代から、改革の必要が多くの人びとによって説かれてきた。農村の停滞は工業化の進展とあまりにも大きな対照を構成するようになっていたし、米が自給できなくなり外国から米を輸入せざるをえなくなった以上、日本農業の生産性を高めなければ、農村は成り立っていかないことほ明らかであった。
 
自作農創設維持が説かれたのをはじめとして、農業問題についての研究がいくつかなされていた。たとえば、戦後農林大臣として農地改革を担当した和田博雄氏は、農林省の官僚として戦争前から農業の実態調査を行ない、農地改革についても計画を練っていた。それは本格的な研究で実態もよく調査されていた。こうして、農地改革は、占領軍から指令されるまえに、日本側から提示されることになったのである。
 
 もちろん、これに対しては利害関係者からいろいろ反対意見が出た。それはかなり強いものであったから、占領軍がこれを後押ししなかったならば、農地改革は実現しなかったかもしれない。とくに、農地改革が保有限度平均一町歩という徹底したものとなったのは、占領軍の指令によるものである。つまり、農地改革については日本政府がイニシアティブをとり、それを占領軍が後押しし、さらに占領軍が初めの日本政府の計画を越えて、いっそう徹底した改革を指令したのであった。
 
 しかし、農業の改革を日本人が長い間検討してきたことは、この徹底した農地改革を根づかせるのに役立った。農業の実態調査は、農地改革を実際に即したものとした。また、戦前から存在した農民運動が小作人の解放を求めて運動をつづけてきていたということも重要であった。
 
彼らは農地改革が行なわれるのを知っておおいに喜び、情熱を傾けて農地改革の実施を助けたのである。また下級農村官吏や、農村の吏員などの多くは、農地改革に賛成し、その実施のために力を傾けた。そして、旧地主がその土地を没収される不満をおさえ、政府の決定に従ったことは、あの大改革をなんの流血事件もなしに実施させることになった。
(吉田茂著「日本を決定した百年」日本経済新聞社 p95-107)
 
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 屈折した解放感
 
 一九四五年八月一五目。正午に近所の人々と一緒に昭和天皇の玉音放送を聞いたが、ラジオの調子が悪かったせいか、内容がよく聞き取れず、「戦争を続けるという国民への励まし」と、「いや戦争が終わったらしい」と意見が割れた。午後になって「敗戦」だとわかり、私は前途が閉された絶望感で、離れの二階に駆け上って一人で泣きつづけ、そのまま寝てしまった。
 
 目が覚めたら夜になっていた。前夜まで灯火管制で町は明かりを点けてはいけなかったから真っ暗だったのに、どの家も電気をこうこうと点け、町は明るく、華やいでいるように思えた。率直にいって理屈もなく解放感を覚えた。一九四五年八月以前の少年にとつて人生の選択肢は、陸軍か海軍かを選んで天皇陛下のために戦死するしかなく、私は海軍兵学校に入ろうと決めていた。
 
その未来が消えたわけだが、実はそれ以前、つまり三カ月か六カ月後には本土決戦になり、一億玉砕というかたちで死ぬことを覚悟していたので、夜の華やかさと死が遠ざかったことで、屈折したかたちではあるが、否も応もない解放感が噴き上げたのである。
 
 私たちの卒業と共に終わった「国民学校」時代の記憶、そしてわが思いは現在も生々しく焼きついている。
 
 戦後初代東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)首相が「全国民が総懺悔(ざんげ)しなければならない」と語り、「一億総懺悔」という言葉が「薄く広く拡げて責任は誰も取らない」という皮肉を込めた流行語になったことも大人たちの苦笑とともに覚えているし、八月三〇日に連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が、サングラスにコーンパイプ、そして丸腰で敵地であった日本に降り立ったのを新聞の写真で見てカッコイイと感じた記憶も残っている。
 
 二学期に入ると、歴史や修身の教科書に豊を塗る作業が始まった。そして天皇、皇后の御真影や戦争の指導者たちの写真、あるいは戦意高揚、鬼畜米英の文章やポスターなどを焼く作業を手伝った。作業中なぜか、沈うつではなく、誰もがはしゃいでさえいた。「一億総懺悔」という流行にのっている安心感、いや得意ささえあった。
 
 私の記憶の中では、塁塗り、そして「御真影」焼き作業と、底抜けに明るい「カム カム エブリバディ……」のメロディが重なり合っている。この歌は「証誠寺の狸ばやし」の替え歌で、一九四六年二月からはじまったNHKラジオの英語会話番組のテーマミュージックであった。毎日、夕方になると、どの家からも聞こえてきて街に流れていった。
 
 率直に記そう。敗戦で、子ども心にも私は当然日本人は地獄の苦しみを味わうことになると覚悟していた。戦争中に「鬼畜米英」というイメージを叩き込まれた、その「鬼畜」に占領されたのであるのだから。だが占領されてみると、少なくともわが世代にとつては小学生、そして中学生時代も「地獄」ではなく「天国」が待ち受けていた。
 
 わが町(滋賀県彦根市)にも進駐軍がやって来たが、私たちに対して陽気な笑顔を絶さず、身ぶり手ぶりで懸命に、私たちと友人になりたいと伝え、チョコレートやガムなどをくれたのは、威丈高で、学校の教練の時間に鞭を振りまわしていた日本の軍人とは大違いだった。
 
 マッカーサーは占領体制を撃えるや、言論、結社、思想の自由などを打ち出し、秘密警察や弾圧活動に関係がある官僚たちを罷免すると発表した。男女は同権だとして婦人参政権を認め、共産党員など政治犯の釈放、労働組合の結成の奨励、農地解放など、日本を民主化する政策を次々に打ち出した。私たちにはいずれも大歓迎だった。
 
 四六年一一月三日には新憲法が公布された。
 
 愛国心を強要され、男は坊主頭で足にはゲートルを巻き、女はパーマネントをやめてモンペを穿かないと非国民のレッテルを張られた。窮屈で重苦しい生活を強いられていた私たちには、有難ずくめの憲法であった。第九条の戦争放棄の条文は戦争、兵役からの解放と受け取れて異存などあるはずもなかった。
 
 新憲法は、実は占領軍がつくり、原文は英文だということを、中学生になったときはすでに知っていたが、私たちはそのことに反発などは覚えず、占領軍の押しっけだからこそ、主権在民や基本的人権、言論、思想、結社の自由や婦人参政権、そして何よりも、日本を破滅に追い込んだ軍隊を解体出来たわけで、占領軍の「押しつけ」がなければ、日本の民主化ははるかに遅れていたにちがいないと受け止めていた。天皇の存在も「現人神」から抜け出せてはいなかったはずだ。
 
 一九五〇年六月、朝鮮戦争が勃発した。新聞やラジオは北朝鮮侵略軍が韓国に乱入したのだと報じたが、私たちは教師や先輩たちから「占領軍の命令で、新聞やNHKは、北朝鮮が侵攻したと報じているが、実は韓国と米軍が挑発して北朝鮮に攻撃させ、世界の世論を利用して北朝鮮壊滅を図ろうとした」と聞かされていた。つまりはアメリカの謀略だというのである。
 
 こう書くと、私が左翼のマインドコントロールにかかった特殊な存在と思われるかもしれないが、たとえば高校の歴史の教科書が「北朝鮮が韓国に侵攻した」と書きはじめたのは、何と一九九四年からで(山川出版社『詳説日本史』の場全、それ以前はきわめて曖昧に「突如として三八度線で火を噴いた」という書き方をしていた。なぜ四〇年以上も「事実」が書けなかったのかは後に詳しく点検しよう。
(田原総一郎著「日本の戦後」p20-23)
 
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日本国憲法
 
前文
 
日本のわたしたちは、
正しい方法でえらばれた国会議員をつうじ、
わたしたちと子孫のために、
かたく心に決めました。
すべての国ぐにと平和に力をあわせ、
その成果を手にいれよう、
自由の恵みを、この国にくまなくいきわたらせよう、
政府がひきおこす恐ろしい戦争に
二度とさらされないようにしよう、と。
わたしたちは、
主権は人びとのものだと高らかに宣言し、
この憲法をさだめます。
 
国政とは、その国の人びとの信頼を
なによりも重くうけとめてなされるものです。
その権威のみなもとは、人びとです。
その権限をふるうのは、人びとの代表です。
そこから利益をうけるのは、人びとです。
 
これは、人類に共通するおおもとの考え方で、
この憲法は、この考え方をふまえています。
わたしたちは、
この考え方とはあいいれないいっさいの
憲法や、法令や、詔勅(しょうちょく)をうけいれません。
そういうものにしたがう義務はありません。
 
日本のわたしたちは、
平和がいつまでもつづくことを強く望みます。
人と人との関係にはたらくべき気高い理想を
深く心にきざみます。
わたしたちは、
世界の、平和を愛する人びとは、
公正で誠実だと信頼することにします。
そして、そうすることにより、
わたしたちの安全と命をまもろうと決意しました。
 
わたしたちは、
平和をまもろうとつとめる国際社会、
この世界から、圧政や隷属、抑圧や不寛容を
永久になくそうとつとめる国際社会で、
尊敬されるわたしたちになりたいと思います。
(池田香代子訳「やさしいことばで日本国憲法」マガジンハウス p6-14)
 
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◎あらためて公布の原点にたちかえって……。