学習通信031106
◎感覚についてA……視覚はそのはたらきを人間の外へひろげる……
 
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  文明が目を拡大
 
 人間が文明をつくってきた。これは自明のことである。逆に、文明が人間をつくつてきた。人間のからだは、文明によって変容され、つくられてきた。こちらのほうはさほど自明ではない。
 
 昭和二十年代にテレビが茶の間に現れてきたとき、テレビが文明をどう変えてゆくのか、だれにも確かなことは分かっていなかった。三十年たった今も事態はさほど明確になったわけではない。しかしコンピューターやワープロのディスプレーとして、テレビ画面が転生しっつあることに、今は驚いている。三十年前、テレビ文明の近未来として、こんなことになろうとはだれにも予測はつかなかった。
 
 ディスプレーは「目」なのである。ちょうどコンピューターのキーが「指」であるように。延長理論でゆけば、ディスプレーは社会の日である。視覚文明のセンサーがこの「目」に現れる。
 
 人間の目がこの社会の目に対応する。いや、対応しなければならない──と、いつの間に、だれが思い出したのか。目のひとみはだんだん大きくなってきた。中原淳一描く美人画は、戦後、ひときわ目が大きくなってきたし、昭和四十年以降の少女マンガの主人公たちは、顔の何分の一かを占めるほどバカでかい日を持ち、ひとみの中には日生さえ輝いているほどだ。
 
 これがおそらく「文明」の帰結なのであろう。人間の集める情報の八〇パーセントまでは目、つまり視覚によって独占されている。人間の感覚には、ほかに聴覚があり、嗅覚があり、味覚があり、触覚がある。しかし、これらはすべて集めても、情報の二〇パーセントしか受けとめていないのだ。
 
 顔の中では、耳と鼻と口とが五官のうちの二官を占める「端末」である。しかし、視覚の端末である目に比べて、これらは何と虐待されていることか。昔はそれでも福耳という良い言葉もあったが、今はピアースをしたりイヤリングをぶら下げるところくらいにしか思っていない人が多い。鼻や口にいたっては、小さければ小さいほどいいと思いこんでいる人もいる。
 
 目が法外に大きくなるにつれ耳、鼻、口は法外に小さくなるほうがいいという偏見、これが「文明」の偏見である。からだのなかでは顔が意味を強占し、頭の中では目が意味を独占している、独占しつつある。今に、顔の半分ほどを目が占めるマンガが現れるかも。こんなことで、人間のからだの未来はいいものだろうか。
 
 ヒトが森を出て直立歩行したとき、目はからだの上部にあり、遠くまで見通せるようになった。これがヒトの武器だった。中世の鐙(あぶみ)の大進歩(これを科学史家のパークは原爆の発明に比している)によって、馬上高く「目」を据え、敵を上から突くことを覚えた。以来、千年、人間は「目」を拡大して、今日に至った。
 極限に至った今、痛切な反省期を私たちは迎えている。
(多田道太郎著「からだの日本文化」潮出版社 p25-27)
 
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 それにしても、目が見えないというのは、いったいどんな感覚と説明したらよいだろう。よく、「いま見ているのが黒だよ」とか、「いま見ているのは闘っていうのよ」などと敢えてくださる方がいるが、どうもこれは、必ずしも正しいとは言えないらしい。
 
盲学校の高等部にいたころ、片目が見えなくなった友だちが、「見えないっていうのは、見る感覚が全部なくなることなんだね。最初のころは左目が暗いとか思ってたけど、そのうち何の感じもしなくなったわ」と言っていたことがあるからだ。私もきっと、見えなくなってすぐのころは、暗いとか黒いとか思っていたかもしれない。
 
でも物心ついたときには、私には人に見えているものが見えないという事実は分かったけれど、見えていたころのような暗闇を絶えず見ているとは思わなかった。見えないということは、目をつぶるというのとは違う。再び目を開けばまた見えるという希望は永遠にない。
 
それは、見えることと比べて「見ていない」のではなく、見えるという感覚そのものが消え去ることなのである。景色が目の前から消える。暗闇というものでさえ見えなくなってしまう。それは、景色を失うこと、sceneless=i全盲)になることであった。
 
 さて、記憶の話ついでに、私が覚えている数少ない景色を、少しだけ思い出してみることにしよう。いまだに忘れられないのは朝、目覚めたとたんに見ていた曙光(しょこう)の美しさである。それは、日の出直後の太陽がベッドの側の窓に届ける、乳白色の光だった気がする。あの不思議な白さは、いまでもときどき脳裏に蘇(よみがえ)ることがある。
 
 このほかに思い出すことができるのは、赤、青、黄色のような単純な原色と遠くに茫漠(ぼうばく)と見える山の輪郭、それから空の色と、太陽や月、星といった天体、それに虹の色。ヒヨコの黄色とかウサギの白、緑の金網や青い屋根やじゅうたんの赤といった、いくつかの物のこともぼんやりと覚えている。
 
 不思議なことに、物や色の記憶はあるのに、なぜか人間の顔がどうしても思い出せない。だからもちろん、両親の顔も知らない。よく、常識に欠ける人に対して「親の顔が見たい」と軽口がいわれることがあるけれど、私は冗談抜きで、自分の親の顔が見てみたい。愛され、育まれ、ときには言い合いなどをしながらも、長いこと一緒に暮らしているのに、その人たちの顔を知らないというのは、いまだに残念で、また奇異なものである。
 
 見えなくなってしばらく、私はよく母に、「トマトは赤でしょう」とか、「キュウリは緑?」などと、しきりに物の色を確かめていたそうだ。子供心に、突然始まった第二の記憶のなかですべてを整理しようとしていたのだろうか。ともかく人生が動き出すという年頃に、奇妙な記憶の始まりを経験してしまった私は、それでもこれらの数少ない記憶を宝物にしながら、光のない世界にそっと一歩を踏み出したのであった。
(三宮麻由子著「目を閉じて心開いて」岩波ジュニア新書 p3-5)
 
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 触覚がそのはたらきを人間の周囲に集中させるのと同じ程度に、視覚はそのはたらきを人間の外へひろげる。そのため視覚は人をだましやすいものとなる。人間はひと目で地平線にあるものの半分を見渡すことができる。同時に感じられるその無数の感覚、それが呼び起こす無数の判断において、どうしてその一つについてさえ思いちがいをしないでいられよう。
 
そこで視覚はわたしたちのすべての感官のなかでいちばん過ちやすいものとなる。それはもっとも遠くまでひろがっており、ほかのすべての感官の遠く先に立って進み、そのはたらきはあまりにも敏速で、範囲がひろく、ほかの感官によって補正することができないからにほかならない。
 
さらにいえば、空間を認識し、そのいろいろな部分を比較できるためには、遠近による錯覚そのものがわたしたちには必要なのだ。まちがった印象をともなうことなしには、わたしたちは遠くにあるものをなに一つ見ることはできまい。段階的な大きさと光りがなければ、わたしたちは距離というものを推定することはできまい。
 
というより、わたしたちにとって距離というものはなくなるだろう。同じ大きさの二つの木のうち、わたしたちから百歩はなれたところにあるものが、十歩はなれたところにあるものと同じ大きさに見え、同じようにはっきりと見えるなら、わたしたちは二つをならべてしまうことになる。
 
わたしたちが物体のすべての寸法をそのほんとうの尺度においてみとめるなら、わたしたちにはいかなる空間も見えず、すべてがわたしたちの目のうえにあらわれることになる。
 
 視覚は物体の大きさとその距離を判断するにあたって、同一の尺度、つまりそれらの物体がわたしたちの目に生じさせる角度しかもたない。そしてこの角度は合成された原因の一つの単純な結果なのであるから、それがわたしたちのうちにひきおこす判断は個々の原因を不確定なものにしているか、それとも必然的にまちがったものとなる。
 
ある物体をほかの物体よりもわたしに小さく見せる角度は、その最初の物体がじっさいにいっそう小さいためにそうなるのか、それともいっそう遠いところにあるためにそうなるのか、ただ見ただけではどうしてそれを判定することができよう。
 
 だからここでは触覚のばあいとは逆の方法が必要だ。感覚を単純化しないで、二重にし、たえずほかの感覚によってそれを検査し、視覚の器官を触覚の器官に従属させ、いわば性急な視覚を鈍重な触覚の制限された歩みにあわせて抑制する必要がある。こういうやりかたをしないと、わたしたちの目測はきわめて不正確になる。
 
ひと目みただけでは、高さ、長さ、深さ、距離を判断するとき、けっして正確なことはわからない。そしてそれは、感官の過ちであるよりは、むしろそのもちいかたがまちがっているためであるということの証拠には、技師や測量師や建築家、大工、画家などは、一般に、わたしたちよりもはるかに的確な一瞥(いちべつ)でものを見ているし、空間にあるものの大きさをいっそう正確に評価する。
 
かれらの職業がその点についてわたしたちが獲得するのを怠っている経験をあたえ、角度にともなう見かけ、これはその角度の二つの原因の関係をかれらの目にとってはもっと正確に決定するものとなるのだが、この見かけによって角度のあいまいさをかれらは除きさることができるからだ。
 
──略──
 
 視覚はすべての感覚のなかで精神の判断ともっとも切りはなせないものだから、見ることを学ぶには長い時がかかる。長いあいだ視覚を触覚とくらべてみたあとでなければ、形と距離をわたしたちに忠実につたえさせるようにそれら二つの感覚の最初のものをならすことはできない。触覚がなければ、漸進的な運動がなければ、どんなに鋭い目でもわたしたちに空間の観念をあたえることはできない。
 
牡蠣(かき)のようなものにとっては宇宙ぜんたいは一つの点にすぎないことになる。人間の魂がその牡蠣のうちに宿っているとしても、宇宙はそれ以上のなにものとも見えないだろう。歩いたり、さわったり、かぞえたり、はかったりすることによってのみ、大きさを評価することを学べるのだ。
 
しかしまた、いつもはかってばかりいては、感官はすべてを道具にまかせて、けっして正確さを獲得することはあるまい。子どもが一足とびに測定から推定に移るのもまたいけない。はじめは、いっぺんにくらべてみることができないものを部分的にくらべてみることをつづけ、正確な部分を推定による部分でおきかえるようにすること、そして、いつも手ではからないで目だけではかるようにならすことが必要だ。
 
しかしわたしは、はじめのころ子どもがやってみたことを現実の尺度によって検証してやって、子どもにその誤りを正させるように、また、感覚のうちになにかいつわりの印象が残っているなら、もっと正しい判断によってそれを補正することを教えるようにしたい。わたしたちはあらゆるところではほぼ同一の自然の尺度をもっている。
 
人の歩幅、腕の長さ、背の高さ、などがそれだ。子どもが家の高さを推定するはあい、教師はその尺度になることができる。鐘楼の高さを推定しょうとするなら、家を尺度にしてはかればいい。道のりを知ろうとするなら、歩く時間をはかればいい。そして、なによりも、そういうことをどんなことでもけっして子どもにかわってしてやってはいけない。子どもが自分でしなければいけない。
 
 空間と物体の大きさを正しく判断することを学ぶには、どうしても物体の形を知り、さらにそれらを模写することを学ばなければならない。結局のところ、この模写は完全に遠近法によるものにほかならない。そして遠近法をいくらかでも知っていなければ、空間をその見かけによって推定することはできない。子どもというものは偉大な模倣着で、あらゆるもののデッサンをとろうとする。
 
わたしはわたしの生徒にこの技術を修めさせたいと思っているが、それは技術そのもののためにではなく、目を正確にし、手をしなやかにするためだ。そして、一般的にいえば、かれがあれこれのことに上達するのは大して重要なことではない。ただ、その練習のおかげで明敏な感官と体のよい習慣が獲得されればいい。
 
だからわたしは、かれにデッサンの教師をつけるようなことはしないつもりだ。デッサンの教師は模写したものを模写させるだけ、デッサンをデッサンさせるだけだろう。わたしはかれに自然のほかには教師を、物体のほかにはモデルをあたえないようにしたい。
 
目のまえに物そのものをおき、それが描いてある紙きれをおかないように、家を見て家を描き、木を見て木を描き、人間を見て人間を描き、物体とその外観を正しく観察することになれさせ、ありきたりのまちがった模写をほんとうの模写と思わせないようにしたい。
 
たびたびの観察によって物の正確な形が想像のうちにはっきりときざまれるまでは、物がないところで、記憶によってなにか描かせるというようなこともやらせないつもりだ。そんなことをすれば、ほんもののかわりに奇怪な形を描き、プロポーションについての知識と自然の美にたいする趣味を失うおそれがあるからだ。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p232-251)
 
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◎「触覚がそのはたらきを人間の周囲に集中させるのと同じ程度に、視覚はそのはたらきを人間の外へひろげる。そのため視覚は人をだましやすいものとなる」……と。