学習通信031107
◎感覚についてB……私には風そのものが変わったような気が……。
 
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 耳
 
  私の耳は貝の殻
  海の響きをなつかしむ
    (コクトー『耳』 堀口大学訳)
 
 人間の五官のなかで、この世に生まれ出る前から活動しているのは耳である。コクトーの耳がなつかしんでいる海の響きとは、胎内の羊水にたゆたいながら聞いていた母の心臓の絶え間ない鼓動の音にちがいない。そしてまた命の終わりに死の世界に落下していく時の風の音を聞くのも耳である。
 
 人が死ぬ時、
<光の中から、存在本来の姿そのものが起こす轟音が大きな雷音となり、ごろごろと響きわたるであろう>
 (『チベットの死者の書』 川崎信定訳)
 
 つまり耳は人間の五官のなかで一番最初に活動を始め、一番最後に活動をやめる器官なのである。
 ピンときた、という言葉があるが、ピンと何かを感じるのは耳である。映画『スターウオーズ』に出てくる仙人ヨーダの耳の先が異様に伸びているのは霊感の強さを表しているのであって、理にかなっている。
 
 耳は今現在生きている世界とは違う、もうひとつの神秘な世界と交信するレーダーである。神が与えるインスピレーションを受け止める触覚である。第六感はたぶん耳から脳や心や身体に発せられる信号であろうと思う。
 
 女の首から上で化粧も着色も、ほとんど整形もされずに、素肌のまま人目にさらされているところといったら耳しかない。あんなにべたべたとお白粉を塗る舞妓さんでさえ耳だけは伝続的に何も塗らない。阿弥陀寺の和尚さんが(耳なし)芳一の耳には何故か般若心経を書き忘れてしまったのも、耳を汚してはいけないという思いが心のどこかにあったからにちがいない。
 
耳に何かを塗ると耳の機能が損なわれると僕は勝手に信じている。で、結局、隠そうと思いつつも隠しきれないところ、その人の全人生、全人格、全能力、そればかりかその人が交信しているかもしれない別世界までを見せてしまうもの、それが耳である。
 
 耳のつく文字は実に的確に耳の性格を言い当てている。
「恥」=恥ずかしいと耳があかくなる。人の心は意外や耳に出てしまう。
「聞」=門をたたいて教えを聞く。
「聡」=すべてのことに通じている。一度に沢山のものを聞きわける。
「聴」=聴くということは徳をつむことである。人徳者は人の話をよく聴く。
「耽」「聖」「聾」「職」……ほかにもまだまだ沢山あるが、どうやら耳には人間の知恵と人格が宿っているらしい。
 
 芥川龍之介は女性の耳に特別の関心を持っていたようだ。
<辰子は僅(わずか)に肩を落として、そっと窓の外をふり返った。その時彼女の小さな耳朶(みみたぶ)が、斜にさして来る日の光を受けて、灰(ほの)かに赤く透いて見えた。俊助はそれを美しいとおもった>
   (『路上』)
 
 高校の時にこの文章を読んで、はっとして以来、注意して女の耳を見ているが、逆光で見る女の耳朶は本当に薄紅色に透けて見えるものだ。それは素朴な美しさに満ちている。何もイヤリングやピアスなどしなくてもいいのにと思うが、そのことについても芥川龍之介は言っている。
 
<支那の女の耳は、いつも春風に吹かれて来たばかりか、御丁寧にも宝石を嵌(は)めた耳環(みみわ)なぞさへぶらさげている。その為に日本の女の耳は、今日のように堕落したが、支那のは自然と手入れの届いた、美しい耳になったらしい>
  (『上海遊記』)
 
 芥川がこれを書いた一九二二年(大正十一年)の頃の日本の女の耳はまだ油をぬった鬢(びん)のうしろに隠されていた。その時代に耳飾りを褒めちぎっているところを見ると、着物を来て髷(まげ)を結ってイヤリングをつけても、芥川なら決して怒ったりしなかったのではないかと思う。でもピアスはどうだろう。
 
 耳たぶというものは、動物界で人間にしかないものだという。人間だけに与えられた美しい部分に傷をつけるのが、もったいないような気がしてならない。
 
 「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。敢(あ)へて毀傷(きんしょう)せざるは孝の始めなり」なんていう『孝経(こうきょう)』の言葉を持ち出して、オジサンぶるわけではないけれど、僕個人の趣味で言うと、イヤリングはいいけれどピアスはあまり好きじやない。僕は時代遅れなのだろうか。和服を着てピシッと決まった女の耳にピアスの孔があいているなんてのは、まさに玉に蝦(きず)だな。
 
<耳は生命のささやきと情欲のささめごとに向かってそばだって>
  (グールモン『かの女には肉体がある』 堀口大學訳)
 
 『ひまわり』(ビットリオ・デ・シーカ監督)という映画は、浜辺でいちゃついていて、男がうっかり女のイヤリングを飲み込んでしまうところから始まる。描写はしていなくても今まで耳にキスをしていたんだということが分かる。
 
<わたしたち女性は耳で愛します。あなたがた男性が眼で愛するように>
 (ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』 福田訳)
(なかにし礼著「恋愛 100の法則」新潮文庫 p451-455)
 
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 自分ばかりか、自分の立っている世界もポワン、いま歩いている道もポワン。屋根も地下街もそこにあることは知っていても、私にはなんの関係もない。野も山も、点が集まった直線にすぎなかった。大人になっても、それはあまり変わらなかったように思う。
 
 それに、下手な人生観などをもつと、さらにいけない。「私には景色を楽しむのは無理だし……」などと悲しい悟りを開き、いま、手に触れられるものからだけ、じつにささやかな楽しみをもらっていた。だから、景色の話題はやや気詰まりだった。
 
 ところが、数年前に北海道を訪れたとき、突然、水の音を聞いて山の景色を感じてしまった。
 
 最初の経験は、知床のオシンコシンの滝を上から見たときだ。
 急斜面の天辺で車の窓を開くと、目の前からはるか下方に、堂々たる水流が落ち込んでいた。眼前の水音はほぼ直角に落下し、想像もつかない深みで消える。目で見れば、さながら地平線を見るような距離を感じさせる音だった。
 
 海や滝壷からでは、この音の動きは聞けない。下からでは、ただザアザアと轟音(ごうおん)が続くばかりで、距離も深さも分からないのである。森深い山から知床の海に落ちる滝、このとき私は、その深さを音で感じ取ったのだった。
 
 それまでただ漠然と思い描いていた景色の大きさが、滝の音を聞いたとたんにズズズイイーツと頭の芯に伝わってきたのだ。さながら、ジャングルをさまよっていて突然、野っぱらに飛び出したように、頭のなかの視界がグワワワワァンと広がった気がした。
 
 水の音を聞いていると、周りを取り囲む山河を目で見なくても、斜面の高さや谷の深さが、手にとるように伝わってくることが分かったのだ。海を見ても「フン」、山を見ても「フン」だった頭の反応が、このときを境に「オッ、オオー!」に変わった。
 
 そして数年後、野鳥の聞き分けや植物の揺れる音を覚えると、今度はそれが驚きの域を超え、「ホオーッ」という静かに噛みしめるような感動になった。
 
 水の音から「景色を聞く」ことを覚えるまでは、風が冷たいとか空気がおいしいとか、海の水が塩辛いとか温泉が温かいとか、とにかく自分の五感に直接触れるものでしか自然を楽しんでいなかった。それが北海道での事件以来、自分には絶対に手の届かない景色からも自然を満喫するようになったのである。
 
 けれど、それからしばらく、私は野鳥の声の聞き分けに夢中になり、一時、水への興味が薄れていた。
 
 野鳥を聞き分ける面白さは、ただ鳥の種類や彼らの生活を聞き取ることだけではない。烏の種類はもちろん、声の聞こえる位置や距離によって、その森の樹種や深さ、河原の様子や紅葉の進み具合などが分かるのだ。
 
 そうやって植物層が分かると、たとえば笹原が風のとおりになびいて音が動くことを発見する。すると、いままではただ「吹いて来る」だけにしか思えなかった風が、「笹原を渡る」風に変わった。もちろん私の聞き方が変わっただけなのだが、私には風そのものが変わったような気がしたのである。
 
 秋にカラマツ林に入っても、以前ならただ、そぞろ歩きばかりだったのが、耳を澄まして木の実の音を探すようになった。シメなどの鳥がパチッと実をつぶしたり、松ぼっくりがストン、と腐葉土に落ちるといった音だ。私はそういうことが面白くて、バードリスニングと同時に、シーンリスニングのようなことも楽しんでいた。
 
 一、二年経つと、私は野鳥を通して山野や森の景色をかなり理解してきた。景色が分かると自然が好きになる。すると、どうだろう。それまで一瞬忘れかけていた水の音が、いままでとは違う方向から聞こえだしたではないか。
 
 それは新潟県津南町で雪解け水を聞いたときだった。季節は五月、折しも雪解け真っ盛りの時期で、斜面という斜面の至るところから水がほとばしり、地面という地面にあふれ出ていた。
 
 山はもちろん、通りにも隧道(すいどう)にも、側溝からも、あふれた水があり余って流れてくる。隧道の天井からは滴りがかぎりなく落ち、その上の斜面を流れる水音が轟々と響いてくる。隧道のなかから聞くと、まるで地鳴りのようだった。
 
 農道に立って耳を澄ませば、宇宙全体から水が迫ってくるような音をたて、水流がたたみかけるようにこちらのほうへ下りてくる。自分の立っている場所が流されないのが不思議なくらい、そこには見渡すかぎり水があった。
 
 雪に閉ざされて眠っていた山は、春を告げて呼吸を始める。その呼吸は大いなる水を放出する。噴き出された水の音は、措鉢の底に立つ私を包むように、あらゆる方向からこだまし、大地を呑み込む勢いで動いていた。
 
 もはや、それは水などという無機質なものではない。それは大地から生まれる生命の泉、すべての生命の元を育むエネルギーそのものだ。その直中(ただなか)に立っていると、さながら聖書で言う天地創造に立ち会っているようだった。そこで聞いた水の音は景色を彩る、などという生易しいものではなく、それはまさに大地の音、山の鼓動だった。
 
 いまでは、雄大な景色を知らなかったことが嘘のように、私は自然のなかに入って行きたいと思うようになった。言葉の説明が要らないとまではいかないが、それでもかなり正確に景色を感じ取っているらしい。
 
 おかげで私は、自分の力で自然を満喫できるだけでなく、景色へのコンプレックスを感じることがずいぶん少なくなった。
 
 鳥の声なら晴眼者より早く聞き分けられることも多いし、「あの辺の渓谷は深いね」などと、いっぱしのやりとりもできるようになった。そしてなにより、情報不足の私にも自然が、水音や、烏の声を通して語りかけてくれることが嬉しい。それが分かって、私の心がどんなに解き放たれ、どんなに自信を取り戻したことか。
 
 病室のベッドから自然界への長い道のりの視界が、いまやっと一つ開けたような心持ちである。
(三宮麻由子著「鳥が教えてくれた空」NHK出版 p139-144)
 
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 いちばん連続的に使用され、また、いちばん大切な用途をもつ、二つの感官について述べたことは、そのほかの感官を訓練する方法の範例とすることができる。視覚と触覚は、静止している物体にも、運動している物体にも、同じようにもちいられる。
 
しかし、聴覚を刺激することができるのは空気の振動だけだから、運動する物体だけが響き、あるいは音を生じさせる。だから、もし、すべてが静止しているなら、わたしたちはけっしてなにも聞かないだろう。
 
そこで、夜は、わたしたち自身は気のむいたときに動くだけだから、動く物体だけを恐れることになり、耳を敏感にはたらかせ、わたしたちを刺激する感覚によって、それをひきおこす物体が大きいか小さいか、遠いところにあるか近いところにあるか、その振動が激しいか弱いかを判断できるようにする必要がある。
 
振動した空気はそれを反射する反響を呼び、こだまをつたえ、感覚をくりかえして、響く物体、あるいは音を発する物体を、それがあるところとは別のところにあるように聞こえさせる。野原や谷間で耳を地面につけてみると、立ったままでいるときよりもはるかに遠いところから人の声や馬の足音を聞くことができる。
 
 わたしたちは視覚を触覚とくらべてみたが、同じように視覚を聴覚とくらべてみて、同時に同じ物体から生じる二つの印象のどちらがいっそうはやくその器官に到達するかを知るのは有益なことだ。大砲の火を見たときには、まだ打撃をさけることができる。
 
しかし、音を聞いたときにはもうまにあわず、弾丸はそこにきている。どのくらい離れたところで雷が起こったかは、稲妻と雷鳴とのあいだに経過する時間でわかる。子どもがすべてこういう経験を知るようにするがいい。経験できることは経験させるように、そのほかのことは帰納によって発見させるようにするがいい。しかし、あなたがたがそういうことを言ってやらなければならないなら、むしろ子どもは知らないでいたほうがはるかに好ましいと思う。
 
 わたしたちは聴覚に対応する一つの器官をもっている。つまり発声器官だ。しかし視覚に対応する器官をもたないし、音は発するが色は出さない。そこで、能動的な器官と受動的な器官をたがいに訓練させることによって、聴覚を鋭敏にするさらに一つの方法があることになる。
 
 人間は三種類の声を出す。それは、話す声つまり音節のある声、歌う声つまり旋律のある声、それから感動的な声つまり強調の声だが、この最後の声は情念の語ることばで、これはまた歌や話を活気づける。子どもは大人と同じようにこの三種類の声を出すが、大人のようにそれらを混ぜあわせることはしない。
 
子どもはわたしたちと同じように笑い、泣き、嘆き、叫び、うなるが、その抑揚をほかの二つの声に混じえることはしない。完璧な音楽はこれら三つの声をもっともよく結びあわせたものだ。子どもにはそういう音楽の能力はなく、かれらの歌にはまったく魂がない。
 
同じように、話す声においても、かれらの言語には抑揚がない。かれらは叫んでも抑揚をつけない。そして、かれらの話にほとんど抑揚がないように、声にもほとんど力づよいものがない。わたしたちの生徒はいっそう単調な、さらにいっそう単純な話しかたをするだろう。かれの情念はまだ目ざめていないので、その言語をかれの言語に混じえないからだ。
 
だから、悲劇や喜劇の人物のせりふを暗誦(あんしょう)させようとしたり、いわゆる朗誦(ろうしょう)を学ばせようとしたりしてはいけない。かれには十二分にセンスがあるから、自分の理解できないことに調子をだしたり、いちども経験したことのない感情に表現をあたえたりすることはできまい。
 
 なめらかに、明瞭に話すこと、音節をはっきりさせること、正確にそして気どらないで発音すること、文法的な抑揚と正昔法を知ってそれに従うこと、いつも十分に開きとれるように声を出すこと、しかし、けっして必要以上に声を出さないこと、こういうことをかれに教えるがいい。必要以上に声を出すのは、学校で教育をうけた子どもに一般に見られる欠点だ。どんなことでもよけいなことはしないことだ。
 
 同じょうに、歌うときも、声を正しく、むらがなく、しなやかに、よく響くようにさせるがいい。かれの耳は拍子と語調には敏感だが、それ以上には出ない。模倣的な音楽、演劇的な音楽はかれの年齢にはふさわしくない。歌詞を歌うことさえ好ましいことではないと思う。歌いたいというなら、その年ごろの子どもにとって興味のある、単純な、かれの観念と同じように単純な歌を、特別につくってやることにしょう。
 
 それほどいそいで文字を読むことを学ばせようとしないわたしが、音楽を読むこともいそいで学ばせようとしないことは、よくわかるだろう。子どもの精神にあまり骨の折れることに注意をはらわせるのはいっさいやめることにしょう。そして約束ごとの記号に精神を集中させるようなことはいそいでしないことにしょう。
 
これには、たしかに、難点があるようにみえる。音符についての知識は、最初には、話せるようになるために文字についての知識が必要である以上に、歌をうたえるようになるために必要ではないように思われるが、それにしても、話すときにはわたしたちは自分の観念を述べているのだが、歌をうたうときには他人の観念のほかにはほとんど表現していないというちがいがある。ところで、他人の観念を表現するには、それを読みとらなければならない。
 
 しかし、第一に、それを読まなくても聴くことができるし、歌というものは目よりも耳にいっそう忠実につたえられるものだ。そのうえ、音楽をよく知るにはそれを表現するだけではたりない。つくらなければならない。そして表現することはつくることと一緒に学ばなければならない。そうしなければけっして十分に音楽を知ることはできない。
 
あなたがたの幼い音楽家にまず十分に規則的な、調子のいい楽句をつくる練習をさせるがいい。つぎにごく単純な転調によってそれらの楽句を結びつけること、さらにそれらのさまざまな関連を正確な句読によって示すことを練習させるがいい。
 
それは終止と休止をうまく選ぶことによってなされる。とくに奇妙な歌はいけない。悲壮なもの、表情に富むものもいけない。いつも歌われる単純なメロディー、いつも調の基本的な和音から出てくるメロディー、そしていつも低音をはっきりと示して、子どもが容易にそれを聞きとり、伴奏できるようなメロディー。
 
というのは、声と耳を完全にするにはいつもクラヴサンの伴奏で歌うようにしなければならないからだ。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p251-254)
 
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◎聴覚……耳を澄ましてみれば何が聞こえてくるのだろうか。客観的実在をありのままにとらえること。その3……。