学習通信031111
◎幸福とは……「どんな立場になったって、何を手に入れたって、完璧な幸せや完全な満足は得られない」
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女性誌の幸せゲット法″の落とし穴
何をしても、満足は得られない。どんなものを手に入れても、もの足りなさ≠ヘ消え去らない。
世の中の女性たちがそんな状況に陥ってしまったのは、いったいいつからだろう〜 つい何年か前まで、ほとんどの人はそんなことを思ってはいなかったはずだ。現に今でも多くの女性誌は、「こうすればあなたは絶対、幸せになれる」という幸せゲット法≠説き続けている。
若い女性向けの雑誌であれば、「恋人ができれば毎日バラ色」とばかりに恋人獲得法やおしゃれ術などを読者にレクチャーすればよい。ワーキングウーマンのための雑誌は、キヤリアアップやパソコン習得のためのワザを毎号のように特集して、「仕事があなたを幸せにする」と繰り返す。主婦向けの雑誌になると、「幸せの秘訣」は家計の節約や上手な収納法にある。
内容はどんどん変わっていくが、要は「これさえ手に入れれば幸せになれる」というメッセージをその立場に合わせて送り続けるのが、女性誌というものであった。
バブル以降は「これさえ手に入れれば」 のこれ≠ェ、ブランドものや宝石から「良好な人間関係」「自信とプライド」「資格」「家事テクニック」など、より精神的なもの、技能的なものにシフトする傾向にはあったが、それでも「何かを手に入れれば、あなたは幸せになれる」というメッセージを流し続けていたことには変わりない。
あるいは、それぞれの立場に合った何かを手に入れるのではなくて、立場そのものを移動させるという「幸せのつかみ方」もある。
たとえば、一般職から専門職へ、独身OLから優雅な専業主婦へ、子どものいない主婦からかわいい子どもたちに囲まれた母親へ、家事に追われる母親から特殊な趣味を持つ主婦へ……。
その立場にいながら何かを手に入れる、立場ごと別のポジションに移動する。いずれにしても、「あなたに足りないのは、これなんです」と読者が完壁に幸せになれずにいる原因をはっきり指摘し、それをゲットするための具体的な方法を伝授するのが、女性誌というものの役割であったわけだ。
それなのに、『AERA』の見出しは私たちにこう教えようとしているように見える。──どんな立場になったって、何を手に入れたって、完璧な幸せや完全な満足は得られない。それどころか、ステップアップすればするほど、多くのものを手に入れれば入れるほど、あなたの悩みは深くなるのだ。
「どうして目標は達成できたのに、もの足りなさ″はなくならないの〜 いったい何を手にすれば、心の底から満たされるの? 」。
(香山リカ著「サヨナラ、あきらめない症候群」大和書房 p26-28)
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幸福について
武蔵野の逃げ水?
「しあわせは、みんなの願い」という。幸福とは、いったいなにか。
山のあなたの空遠く
「幸い」住むと人のいう
ああわれ人と尋(と)めゆきて
涙さしぐみ帰り来ぬ
山のあなたになお遠く
「幸い」住むと人のいう
そうカール・ブッセは歌ったが、人間にとって幸福とは、しよせんそんなふうなものなのか。
「幸福は武蔵野の逃げ水のようなものだ」という文章をどこかで読んだことがあるような気がする。「武蔵野の逃げ水」というのはシンキロウの一種で、「草原などで遠くに水があるようにみえ、近づくとまたその先に移ってみえる現象。古く武蔵野の名物とされた」と辞書にある。「幸福──古く人間社会の名物とされた」と辞書に書く未来人が、ひょっとしたら出てくるかもしれない。
いつも不幸でいるからこそ、人間はいつも幸福を問題にする──確かにそんな気もする。だとすれば、「幸福とは幸福を問題にしないときをいう」という芥川龍之介の皮肉なことばは、鋭い真理をいいあてていることにもなりそうだ。
でも私は、それはやっばりちがう、と思う。動物は幸福を問題にしないだろう。では、動物は幸福だろうか?
ブタも、モルモットも、金魚鉢の金魚も、幸福を問題にすること題ないだろう。そういう彼らの状態を私たちは幸福というのだろうか?
幸福の基準
「自分で自分をしあわせと感じれば、それがつまりしあわせということだ」という人がいる。つまり、なにをしあわせと感じるかは人によってちがうわけで、馬券買いに最高のしあわせを感じる人、麻薬に最高のしあわせを感じる人、みなその人の好きずきだというのだ。
「だって、そうじゃないか。本人がそれでしあわせなんだとすれば」とA君が私にいった。
「麻薬の場合でも?」
「変わりないと思うね」
「そりや、麻薬吸ってるあいだは天国でもさまよってるような気もちかもしれないけど、そうこうしてるうちに身も心もボロボロになっていくんだぜ。それでもかい?」
「本人がそれをしあわせというんなら、やっぱりそれでしあわせなんだろうよ」
「そうかなあ。自分の不幸を自覚することもできない、最高に不幸な人といったほうがいいと思うけどな」
「そりやりくつだよ」
「つまり、しあわせに客観的な基準なんてないというんだね?」
「そうだね」
A君との会話はここできれた。麻薬中毒患者を麻薬からひきはなせば、禁断症状をおこしてのたうちまわる。他人がそんなおせっかいをやくことは彼から幸福を奪うことだ──とA君はいうのだろうか? たぶん、そういうんだろうなあ。「人のめいわくにならないていどに麻薬をたのしむんだったらいいじゃないか」と、たぶん、そんなふうにいうんだろう。
でも、と私は考える。A君は、自分の子どもが麻薬に溺れだしても、やっぱりそんなふうにいうだろうか?
やっぱり「おせっかい」をやくことだろうな、と私は思う。ぶんなぐってでもやめさせようとするかもしれない。するとそれは、A君の考えとは矛盾してくるんだが……。
「もうそれは、りくつじゃないよ」とA君はたぶんいうだろう。すると、A君の考えのほうが、たんなる「りくつ」だったということになる。やっぱりしあわせにはなんらかの客観的基準がありそうだ。
しわよせになる話
「いいじゃないの、しあわせならば」ということばがある。私の好きな佐良直美の歌だけれど、あの文句はちょっといただけない。論理的につめていくと、それはどうしても、「ウソでもいいから……」というところにたどりつくからだ。
ここ十数年来、この「ウソでもいいから……」というのがはやりつづけてきた。しらべてみると、ちょうど高度成長の時代にぴったり重なりあっている。
六〇年代のなかば、園まりと緑川アコが歌った「夢は夜ひらく」のなかにまず出てきた。次にはいしだあゆみの歌で、「ウソでもいいから、こつちをむいて」というのだった。つぎには奥村チヨが「ウソでもいいから笑顔になって、たまには頭をなでなでしてョ」と歌った。そして、とどめをさすかのように、ちあきなおみ。「ウソでいいねとあなたがいった。いいわと私は抱かれて燃えた。それでおわった夜なのに、なんでいまさら悩んで泣くの……」
やっぱりウソではだめなのだ。「いいじゃないの」というわけにはいかないのだ。「ウソでいいね」といったという、その「あなた」の正体はなにものだろう。
カッパ・ブックスに『国語笑字典』というのがある。そのなかの「しあわせ」の項に、こう書いてある。
「しわよせのこと。一部の人のしあわせのために、他の大多数の人に不幸をしわよせすること」
ここに不幸の客観的な根源が、したがってまた幸福の客観的基準が、示されているように私は思う。
現在進行形の幸福
幸福とは、不幸とのたたかいのなかにあるものとしてとらえることが大事なのではないか、と私は思う。
動物は不幸を問題とすることがない。だからこそ幸福を問題とすることもないのではないか。
なにを不幸と感じるか、それが幸福の質をきめるということも、ここから生じる。
幸、不幸の人間的な内容、それが問題だ。
「人間、あんまりしあわせなときにできた作品なんて、たかが知れてるからね」宮本百合子が戦時中、あの暗黒の時代のさなかで友人に語ったということば。私はこの百合子のことばのなかに、大きな不幸をもかえって大きな幸福のための生産的な動力源に変えてつきすすんでいく変革者の姿勢を見る。
もちろん百合子のこのことばは、いい作品を生むためには不幸であることのほうがのぞましいなどということをいっているのではない。たえず現在に甘んじることなくすすんでいく、その過程のなかにこそ生きた幸福がある、ということだ。生きた幸福は現在完了形のものではない。永遠に到達できない幻みたいな「未来完了形」のものでもない。それは現在進行形のものなのだ。
焼鳥屋での幸福
寒い夜道を、腹をへらしながら歩いていて、夜鳴きそばの屋台を見つけ、熱いラーメンをすすりこむ。「しあわせ……」と感じる。真夏、のどをカラカラにしているとき、生ビールにありついて、大ジョッキをぐつと傾けるときもそうだ。心の底から「しあわせ……」と感じる。
そんな話をしていたら、「しあわせって、けっきょく自分だけの利己的なものだね」とB君がいった。
「利己的とはなんだ」
「だって、ラーメンは先生がすするんだろう。生ビールをやるんだってそうだろう。他人が生ビール飲んでるのを見てて、先生はしあわせかい?」
「阿呆。しあわせなもんか」
「だからさ……」
B君のいうことはわかった。でも、それはちがうんじゃないかな。もしそのそばにB君がいて、ツバをのみこみながらじっと見つめていたら、一人でジョッキをほしあげたって、私はちっともしあわせにはなれないだろう。第一、せっかくの味が台なしになる。
「じゃあ、くれるの?」
「しかたない。半分ずつ飲むさ」
「半分で、しあわせ?」
いいや、半分ではやっぱり不幸だなあ。だからさ、そのためにはB君たちの組合にも、もっとがんばってもらわなきや。
「それはそのつもりだけどさ。……で、今晩はとりあえずおごってくれる?」
「しかたないなあ」といいながら、つれだって焼鳥屋へいった。そしてたいへんしあわせになった。ふと気がつくと、店の奥にかかっているのれんに、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 宮沢賢治」と、紺地に白く染めだされていた。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p18-24)
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◎「大きな不幸をもかえって大きな幸福のための生産的な動力源に変えてつきすすんでいく変革者の姿勢」。あなたもやってますか。アンパンマン。