学習通信031115
◎人が育つということ。……「生活要因と成長要因の歪みが相互に複雑にからみあっで、いまの問題状況を作り出している」
 
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連載・ルポ・最終回 こどもたちのライフハザード
<対談>育ちを奪われたこどもたち 瀧井宏臣・中村和彦
 
取材を終えて
 
瀧井 就学前の乳幼児について取材を始めたのが二〇〇〇年の一月ですから、足かけ三年九ヵ月にわたって取材してきたわけですが、本当にショッキングなことの連続でしたね。
 今日は、連載中もいろいろ相談にのっていただいた中村和彦先生とディスカッションすることで、何が問題なのか、もう一度明らかにしてみたいと思います。
 
 そもそも取材の発端は、自分のこどもが重度のアトピーだったという非常に個人的な理由からでした。唯一の父親として公園デビューして地域のこどもたちに接してみると、アトピーの子が驚くほど多かっただけでなく、無表情だったり、ボーっとして不活発だったり、キレたり落ち着かなかったりする子がみられました。私自身のこどものイメージと全くかけ離れていたことに大変驚いたのです。
 
 こどもの生活そのものが壊れているのではないか。それもただの生活破壊ではない気がして、新しい意味合いを込めて「ライフハザード」という造語──「モラルハザード」をもじったものですが──で表現してみました。定義はあいまいですが、危機的状況にあることを何とか伝えたかったのです。
 
 乳幼児に絞ったのは、学校や社会の影響、思春期特有の心身の状態などを考慮に入れずに済むと思ったからです。乳幼児の体、心、生活に起きている異変の正体が見えてくると、その後のさまざまな問題行動を見る新しい視点も得られるのではないかと考えました。まず、今回の取材から見えてきたことを、自分なりにまとめてみたいと思います。
 
 現象面の大きな異変としては、体力の低下、自律神経系の異常(保育園児の三割に体温の異常が認められる)、免疫系の異常(いまの大学生の一〇人に九人がすでにアレルギー体質になっている)、生活習慣病(一〇人に三人がのちの生活習慣病につながる異常を持っている)、脳の発育不全などです。
 
 これらについては、さまざまな要因が密接にからんでそれぞれの現象として出ていると考えられますが、要因を大雑把に整理すると、二つの流れがあります。
 
 ひとつは、遊び、睡眠、食といった生活そのもの(生活要因)です。もうひとつは、母親(やそれに類する保護者)との関係、家族との関係、兄弟や近所のこどもたちとの遊び関係、地域のコミュニティといった人間関係の重層構造(成長要因)で、こうした関係がことごとく崩壊している実態を知って大変ショックでした。この生活要因と成長要因の歪みが相互に複雑にからみあっで、いまの問題状況を作り出しているのではないか、というのが取材の結論です。
 
中村 我々研究者の間でも、こどもの生活実態について、なんとなく見えてはいるが、はっきりとはつかめない状態でしたから、今回の瀧井さんの取材は意味があると思います。
 
 思春期の問題の背景が乳幼児期にあるとはよく言われますが、なかなかその関連ははっきりしません。ただ、乳幼児の状況を解明することによって先を見ていくのは大事な視点です。一般には思春期の問題が主で、乳幼児期の問題にまで手が入っていないのが現状です。
 
 問題現象の背景を見ていくと、結果的に結びついてくるのは運動・睡眠・食・遊びというライフスタイルの問題で、二〇年も前から日本体育大学の正木健雄先生が中心になって指摘されてきたことですが、その乱れが修正されずにきて結果的にいま異変として現れている。このままではさらに深刻化するでしょう。いままで乳幼児にとって当たり前だった生活が崩れ、その崩壊の原因を作ったのは大人である、というところに行き着くのではないでしょうか。
 
遊びの消失
 
瀧井 いちばんショックだったのが、最初に中村先生を山梨大学に訪ねたときに、こどもが遊んでいない実態をデータとしてはっきり示されたことです。甲府から東京に戻る特急あずさの車内で呆然と佇んでいたのをよく覚えています。
 
中村 遊びの研究を始めたのは一〇年ほど前ですが、私の地元甲府で昔自分が遊んでいたところにこどもがいないことに気付いたのがきっかけでした。当時は「遊びなんて、そんなもの研究のテーマになるのか」と周りから言われたものです。
 
 いまのこどもはもう遊んでいないので、遊びの衰退あるいは変容を客観的データで実証することはできない。そこで、こどもと親、祖父母の三世代のアンケート調査をしました。これを年代別に見ていくと、「三つの間」(遊ぶ時間、遊ぶ空間、遊ぶ仲間)の消失が明らかになってきました。
 
瀧井 遊びの伝承が、今の三〇代の大人でぷっつり切れた感じですね。
中村 いまの三〇代後半から四〇代の大人たちは、ある意味でいちばん遊べていたかもしれません。ところが、その世代のこどもたちがもう遊べていないのです。結局、親・大人が遊びの重要性をどのくらい感じているのかに行きつく。そこを解決しない限り、遊びの衰退は食い止められません。
 
 最近調査に行ったポルトガルの場合、大きな都市では駄目なのですが、ナザレなどの田舎町ではこどもたちがこどもらしい顔をしてこどもらしい生活を送っていました。日が暮れるギリギリまでとことん遊び、遊び疲れて家に戻って食事をして、すぐ寝てしまう。テレビは見ない。海岸で遊んでいてあぶなくなったら大人が呼びにくるし、こどものなかにも階層ができていて、年上のこどもたちがやっていることを見てまねをする。昔のこどもの典型的な伝承遊びです。
 
 いま低学年の「総合的な学習の時間」で遊びを教えています。先ほどの「三つの間」ではないが、二〇分ごとに小刻みに時間を区切っていますから十分には遊べないし、仲間も作れない、自分で場所も選べない。「こま回しをした?」とたずねられれば「はい」と答えるでしょうが、これでは遊びのおもしろさもわからないままでしょう。大人の側に遊びを伝えなければならない、学ばせなければならないという意識が強すぎます。ポルトガルの田舎町とは対照的です。
 
瀧井 かつては遊びの意義など誰も問わなくとも、こどもたちは遊べていた。遊びが失われて初めてその意義がわかり、ようやく論議の対象として浮上してきました月中村 大人の遊びとこどもの遊びはまったく違うものです。こどもの遊びは生活そのものです。遊べない、ということはまさにこども本来の生活を送っていないに等しい。
 
 遊びのなかで培う能力、それはいまの親が最も気にする知的な能力だけではなく、運動能力や体力、人とのかかわりによって生まれる情緒・社会性といったものです。かつては自然に培われてきたのが、遊びの消失、変容のためにそのような育ちができる状況でなくなっているのです。遊びの変容といっても、遊びの種類の変化が問題なのではなく、まさにそこで、人とかかわれるとか相手の気持ちがわかるといった遊びの持つ大切さがきちんと伝わっているかが問題なのです。
 
瀧井 中村先生は一〇年間一貫してそのことを主張されてきましたが、学会や行政サイドで反響は広がっているのですか。
 
中村 遊びをテーマにシンポジウムや学会発表をするようになったのは、ここ二、三年です。私の所属する日本体育学会の発育発達分科会でも初めて、こどもの遊びをきちんとテーマとして取り上げようという状況です。
 酒鬼薔薇事件や黒磯ナイフ事件などがあって、文部省(当時)が危機感を募らせていた一九九八(平成一〇)年六月三〇日の中教審の答申では、地域や家庭での遊びの重要性を訴えているのですが、あくまで言葉だけで、どのような処方箋を施すかには至っていない。昨年九月に出た体力低下に関する中教審の答申にしても、遊びを大きな要素と捉え「三つの間」にも言及してはいますが、具体策は非常に甘い。教育界全体では、遊びはまだ大きな軸になっていないのが実情です。
 
睡眠・食・メディア
 
瀧井 遊びともかかわる生活面の崩壊について私が着目したのが、睡眠、食、それと遊びと裏腹の関係になっているテレビ・ビデオ漬けの問題です。
 睡眠については、私のこども時代には夜一〇時以降に寝るなどということはありえなかったのですが、今では二、三歳児の半数を超え、睡眠時間も短くなっています。
 
中村 二、三歳というのはようやく睡眠が安定してくる時期です。それまでは赤ちゃんだから短時間ずつ小刻みで、すこしずつ長くなり、夜寝ることを覚え、きちんとリズムにはまっていく。この時期にすでに夜更かしする子が多いということは、育ちを根底から覆されるような事態です。その子はきちんとした睡眠を生涯送れない危険性があります。
 
瀧井 睡眠について警鐘を鳴らす数少ない研究者のひとりが東京医科歯科大学の神山潤先生です。「これはもう人体実験だ」とかなり激しい言葉で警告していらっしゃいます。
 夜更かしすると朝起きられない。不快で朝食を抜く。その結果、保育園や幼稚園で午前中をうまく過ごせないという悪循環が典型的なパターンです。
 
中村 親の側に危機感がなさすぎます。自分が深夜番組を見るのに子どもをひきずりこんでいる。大きな社会環境の変化との関係で見ると、二四時間営業のファミレスやコンビニに、夜中に赤ちゃんを抱き幼稚園くらいの子の手を引いてやってくる親がたくさんいます。便利だとか都合がいいとか言われていた文化が、逆に私たちの生活を崩壊させ、生活パターンの乱れが生体リズムを崩しています。
 
瀧井 私がこどもの時代は、親の生活とこどもの生活を峻別して、「早く寝なさい」「テレビを消しなさい」というような、こどもを尊重する文化があったと思います。それがどうしてこんなに壊れてしまったのでしょうか。
 
中村 勉強して成績が上がればゲームを買ってあげるとか、試験が終わったから今日は遅くまでテレビを見ていいよというように、大人の「知的学力」への偏向がこどもの生活を乱しています。背景には、受験戦争や大きな社会環境の変化があるのではないでしょうか。
 
瀧井 食については、その惨憺たる状況に改めて驚きました。ある小児科医は現状を「ニワトリ症候群」(コケッココ=個食、欠食、孤食、固食)と名づけました。栄養面の偏りだけでなく、幼児の五人に一人がこどもだけで食事をとっているというのですから、食卓を囲んで会話しながら楽しんで食べること自体が成り立たない時代になってきました。
 
中村 山梨で食の調査をしたことがあるのですが、同じような結果でした。なぜ家族が一緒に食べなくなったのか。
 
瀧井 それについては今回の取材でもわからなかったのです。ただ、女子栄養大学の足立己幸先生が絵を描かせたのは小学校高学年の子たちですが、描かれた絵にはこどもたちの孤独な心理状態が投影されていました。専門家の分析では、孤児院のこどもたちの絵に近いという。今のこどもたちの食卓は、ある意味のネグレクト状態にあるのではないでしょうか。
 
中村 夜の場合、塾や習い事が多くなるとこどもの時間と大人の時間がずれてくる。父親は夕食の時間になかなか帰れない。ただ母親も一緒に食べないのはなぜか。食事というのは、一緒に食事をとること、食事しながらコミュニケーションをとることの意味が大きい。テレビを見ながらの食事はあまり感心しませんが、それでも、テレビのことを話題にできるからまだいい。人が揃わない状況になっているのは問題です。
 
瀧井 テレビ漬けについては、現役のNHK幹部である清川輝基さんが警鐘を鳴らしていること自体が重大です。メディアの接触時間が長すぎる(六時間を超える子が半数以上)から、早急に実態を解明し対策を立てるべきだと提言しています。小学校の授業時間が年間一一〇〇時間前後なのに、接触時間がその倍というのは恐るべき数字です。乳幼児の場合でも、ベネッセの調査ですでに三歳児の一〇人に一人が一日五時間以上。この子たちはかなり危ういという印象を持ちました。学童期以降ではテレビゲームの影響も顕著です。
 
中村 幼児用のソフトもかなり出ていますよ。こわいのは、ITに対する親たちの憧れからか、小さな頃からコンピュータやメディアに向かわせて慣れさせるのがいいことだという意識があることです。テレビもビデオも、テレビゲームにしても、一方通行の情報です。自分から意図して介入することはない。テレビゲームは自分で考えているように見えるが、あくまでも仕組まれたプログラムの範囲内であり、結果的にはコミュニケーションに至っていない。この状況では、自分の気持ちや感情を表現する機会がますます少なくなります。
 
瀧井 睡眠、食、メディア、どれもが深刻で、それらが複合的にからみあってこどもたちを襲っている。これでは、こどもたちがいきいきと生きられるわけがないですよ。
 「学力低下」が問題になっていますが、学力以前の問題です。メディア漬けで、よく眠ってもおらず、朝食を抜いたぼんやりした頭で授業を受けているわけですから。
 
中村 そもそも「学力」を狭い範囲で捉えすぎています。人間の能力は、三つに分類できます。体の力、認知的な能力、そして情緒や社会性です。これらをトータルに学習していく力を「学力」と捉えて、人間の最も基礎的な能力をきちんと身に着けることを考えるべきです。
 
人間の成長のなかで早く到達点に達するような運動能力や、認知的な能力のなかでも成績に表れるいわゆる流動性の知能にばかり目が行って、一生かけて経験しながら身に着けていく結晶性の知能(知恵)や情緒、・社会性を重視しない。しかし、本来はこの結晶性の知能は非常に大切です。それを獲得するには、こどもの時期の遊びや、人とのかかわりが大切になってくるのです。
 
人とのかかわりの消滅
 
瀧井 生活要因とともに、成長要因での重要な部分が消失ないし欠落しています。核家族化、地域の崩壊による人間関係の変容が、こどもの育ちにこれほどドラスティックな影響を与えているとは、取材するまで気がつきませんでした。
 
 大阪の先生方のグループが、小学一年生の学級崩壊の問題を「小一プロブレム」として本格的に調査研究していますが、それによると、高学年の学級崩壊とは違った「学級未形成」、つまり育ちそびれたこどもたちが甘えていろいろな問題行動を起こしているのが実態だそうです。育ちそびれの背景にあるのは、やはり家族や地域の問題です。
 
親子をはじめ家族、近所、友だちといった人間関係の重層構造が本来こどもを育てるゆりかごであったが、それがことごとく崩壊したために必然的に育ちもゆがんでしまった、というのがこのグループの結論でした。それを聞いて、非常に納得できたわけです。
 
 乳児期に母親とかかわり、兄弟や友だちと遊び、その後大人社会にかかわることによってこどもは発達するというのが「サル学」の常識であり、ヒトでも当たり前だったわけですが、それがいつのまにか忘れ去られ、軽視されている。乳幼児期から始まる人間関係の学習不足が、学童期以降、思春期のさまざまな問題行動──キレる、いじめ、ひきこもりといった異変の引き金になっているのではないかという疑いを、今回の取材で強く持ったわけです。
 
中村 人間関係の学習は、遊びや生活のなかで自然に生まれてくるものです。それは最初からうまくいくわけではなく、怒られたりけんかしたりして失敗を繰り返すなかで、自分の主張と相手の主張をお互いに自分の心の中で整理しながら少しずつ関係を作っていくのです。ですからプラスの方向でのみ考えるのではなく、マイナスの関係もあっていいし、マイナスの関係を経験するなかで覚えていくのが知意の部分です。遊びが崩れ、生活が崩れるなかで、マイナス経験をする機会も失われていったのです。
 
瀧井 自分でも子育てをしていて、非常に苦しいのです。最初は親としての力量が低いからだと思ったのですが、それだけではなく、こどもを育てるゆりかごが消失し、いつも親子が一対一でこどもと向き合わざるを得ないからではないのか。その結果、こどもをしばり、かつこどもにしばられています。実際に子育てをしてみて、教育評論家の尾木直樹さんが言われた「母子カプセル」の意味がわかったのです。
 
中村 ゆりかごがなくなって、虫かごになった。虫かごはいつも覗けるわけです。中の虫は、どうやって気に入られるかにばかり気を使って、かごの外の世界に出られない。それがいまのこどもたちです。
 
 大人のなかでも関係が崩れています。かつては近所づきあいもあったが、いまはほとんどありません。親のなかで崩れているものがこどもに築けるわけがない。こどもは自分の親がどのように周りの人とかかわっているかを見ています。家にお客さんが来て覚えることも結構あります。あとで「ちゃんとあいさつをしなさい」「履物をそろえなさい」と怒られたり、という経験もいまの子にはほとんどない。
 
瀧井 昔は「親はなくても子は育つ」だったのが、いまは「親はあっても子が育たず」という状況に追い込まれている。
 
中村 このままいくと、こどもたちは自分で何かに関心をもって学ぼうとか、自分で生活を変えようとか、自分で何かを求めていこうという力がなくなってしまう。その力の根源は、乳幼児期の遊びや生活を通した人とのかかわりです。
 
 影響は小学校高学年や中学生、思春期になって出てきます。私が調査した結果では、小学校高学年や思春期の時期に、乳幼児期にかかわる人がたくさんいたという気持ちで生きているこどもは心の健康度が高い。その逆の気持ちで生きているこどもは心の健康度が低い。
 
興味深いのは、乳幼児期のかかわり体験の多寡と、思春期のかかわり体験の多寡がほぼ一致することです。乳幼児期にきちんとかかわれていないこどもは、思春期にもきちんとかかわれないのです。
 
 心の問題というと、いじめ、学級崩壊、不登校、保健室登校、暴力など、問題行動として現れる部分だけに私たちも目が行くし、文科省もそのように捉えています。しかし、氷山にたとえると、波間の上に見える現象を表面化しているこどもたちだけではなく、波間の下にいる大きな氷山全体のこどもが心の問題を抱えているという見方をしたほうがいい。
 
 学級崩壊にしても、高学年と低学年のそれを同じ学級崩壊という言葉の中に放り込んで、当てはまる現象として見えるこどもたちだけが問題である、と捉えるのは非常に危険です。むしろ、そういった現象を起こさないこどものなかに、心が不安定で不健康な子がたくさんいる。
 
その根底はかかわりにあるのです。かかわりは急にできるわけではなく、乳幼児期からのいろいろな、マイナス経験も含めた経験によって得ることができるし、乳幼児期のときにかかわれなかったこどもも思春期に失敗して、それが経験になっていく。
 
 いまいちぼん恐ろしいのは、乳幼児期にも思春期にもかかわれず、それで通ってしまう子がいることです。一生涯、死に至るまで、人間らしいかかわりを経験しない人も生まれてくる。その予備軍がいまの乳幼児たちではないでしょうか。
 
瀧井 ひきこもりという現象は、失敗の一つの例として捉えた方がいいのでしょうか。あるいは、ひきこもりはまさに失敗してこなかったために行き着いてしまったことなのか……。
 
中村 その時点の現象としてみれば、失敗でしょう。けれど、ひきこもっていた子が、ひきこもらないような気持ちになれるとか、少しずつ心を開いていくところに本当の人間関係が生まれてくると思います。
 
 なかなかかかわりをもてないこどもたちが、学校で養護教論を求めて保健室に行く。ところが困ったことに、学校にカウンセラーが配置されようとしています。もちろんいい面もあるのですが、専門家が入ったからといって、こどもたちのかかわりが急に好転するわけではありません。
 
こどもたちが求める人間がいて、その人間がどう接してくれるかによってだんだん心を開いていくのです。養護教諭が「明日カウンセラーの先生が来るから、明日いらっしゃいよ」と言ってしまうと、養護教諭のところにも来なくなる。学校全体の構造が型にはまっていて、一見カウンセリングをしていていいように見えるが、内実はこどもの心の本質に逆行しているのです。
 
 養護教諭の専門性とは、一般的にケガの応急処置や病気の看護ができることと見なされています。しかし、こどもにとっての養護教諭の専門性とは、学校のほかの先生とほ違って同じ日の高さで見てくれる、そしてその子の全体を見てくれるということです。養護教諭も自身の専門性をそのように捉えないと、こどもが心を開かなくなります。
(月刊:世界03年11月号 p209-216)
 
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子どもに希望の明日を
 牧 柾名
 
 「子どもの人権」を考える場合、自由とか平等という、私たちがもっていた、いままでの人権についての考え方が子どもにも拡がったのだと考えるのか、そうではなくて、子どもが一人前の人権の主体、権利行使の主体として登場してきたと考えるかで、捉え方が異なるわけだと思うが、後者は、実は従来の人権のカテゴリー、人権についての考え方そのものの再考を迫っているという意義があるのではないかと考える。
 
要するに、人権の基本原理は変わっていなくて、その適用対象範囲が拡大したのだ、というだけでは十分ではないと思う。
 
 なぜかというと、子どもや老人は、他の成人で健常(?)である男性・女性と比べれば、ある異なった性質を持っている(生れ育つ、様々な能力を喪失しつつ死に至る、など)わけだから、人権そのものを考える基本的視点を見直さなければならないのではないかと捉えたいのである。さらに拡大していえば、動物や植物の「いのち」を含めて人権を位置づける方途を探らねばならない、とも思うのである。
 
いわば私たちが構築していく社会構成原理そのものの再考が課題となっているのである。
 
 そこまで問題を拡大する余裕は今はないので、子どもの人権そのものについて限定的に論ずる他はない。そこで問われるのは、この国の子どもたちの実態であり、子どもをそのような状態に追い込んだ歴史であり、子どもの生活を支えている社会的仕組みである。
 
 いわゆる自己決定権を、自己自身に関することについては、自ら選択・決定し、これを実行して、その結果について自ら責任を負う権利であるとすれば、子どもは、完全な意味では自己決定権の行使主体であるとはいえない。もちろん、子どもといっても誕生から一八歳未満までと年齢の幅があるから、子どもをひとくくりにして、完全な意味では自己決定権の主体ではない、というだけでは不十分なことはいうまでもない。
 
 要するに、子どもは徐々におとなになっていくということである。自己の意思を表明し、それが他者の意思と堅張した関係をもちながらも、他者に認められていく体験を積み重ねて育っていくことによって、自己決定の主体となるわけである。この過程を充実させていくことが、子ども自身にとっても、社会にとっても重要なことになる。何がこの過程を豊かなものとしていくか、それが問われている。
 
 子どもが親の所有物でないことも、国家の操作対象物でないことも自明である。ところで、企業社会の論理が貫徹する中で、日本の子どもは、自分の、自分たちの、時間・空間・仲間と文化、そして希望を奪われてきた。子どもからこうしたものを奪ってきたのは、他ならぬわたしたちおとな、おとなが作ってきた社会なのだが、それは棚上げして、子どものことを心配(?)して、あれこれ、もっともらしい提言をするのもまた、おとなであったり、政府であったりする。
 
 子どもは誰でも、明日を信じて、人の優しさを期待して、仲間と共に胸を張って生きたいと願っている。自己存在を丸ごと認めてほしいと心から叫んでいる。だが、いつもおとなの発想はどこかちがう。どうしたら家庭内暴力をなくせるか、どうしたらいじめ・不登校・少年犯罪をなくせるか、公共心をどう育てるか、そう考える。
 
 私は、この発想を拒否したい。中教審はすでに、教育基本法の改正についての答申をしている。日本の政府は、教育基本法・憲法改正の方向に一歩踏み出しているのだ。
 
 子どものものは子どもに返せ、子どもが育つ豊かな過程を取り戻せ、といいたい。国家は教育における「公共性」を自己が代表していると借称している。教育の実際において国家的公共性なるものは存在しない。矛盾・緊張を含みながらも、子どもたちの重ね合わさった心の叫びが公共性の芯である。
 
学校に限らないが、おとなとの関係で子どもが感じている不信感に目をつぶり、社会の中で子どもが抱いている不安感と共感することを避け、自らの仮面に、更に醜い化粧をしたところで何になるというのだ。親や市民が、子どもを支える市民的公共性を成熟させ、子どもを閉塞状況に追い込んだ社会的枠組みを打破していきたい。(教育学・元東京大学教授)
(月刊:経済 03年12月号 p6-7)
 
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◎「子どものものは子どもに返せ、子どもが育つ豊かな過程を取り戻せ、といいたい。」……同感です。エミールを学ぶとつくづく思います。
 
毎日奮闘する保育士さん。労働学校に沢山参加をしてきています。話題は専門的で現場の話しばかりです。労働学校で学ぶ「科学の目」で子どもをみるとどんな風にみえるのでしょうか。