学習通信031117
◎人が育つということB……若者を論ずるというのは虚しい……放置だか容認だか甘やかしてきた大人たちに対しても怒りが生じてしまうから……。
 
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 自分の体験ばかりを確信犯的に真ん中へ据えて、あえて偏向に満ちた若者論を展開し、そして若者を論じる「論」についても悪態をついてみる試みは、なかなか「しんどい」ものであった。とにかく中年となっても自分自身の問題は一向に解決がついておらず、あるいは形は変わっていても根源的な部分において何ら救いがもたらされていないことに、心底うんざりしてしまったのである。「馬齢を重ねる」といった言葉があるが、まさにわたしはそれに該当するなあと痛感する。
 
 それにしても、若者を論ずるというのは虚しいものである。結局のところ、彼らを育て(実際にはきちんと育っていないから問題なのであるが)、彼らを放置だか容認だか甘やかしてきた大人たちに対しても怒りが生じてしまうからである。いったい誰が悪いのかが分からない。ならば連帯責任ということでどうかと問われれば、少なくともわたしは拒否したい。自分のガキも満足に躾けられないような連中と一緒にされる覚えはないから。
 
 偉そうに子育てについて語ったり、若者の心が分かるような発言をしている人たちを見るにつけ、こういった人々の子供はさぞや立派なのだろうなあと思う。ファッションについて自信たっぷりに語る当人がセンスのない服装をしている筈がないのと同じ理屈である。
 
 となると、お前の子供はどうなのかと問い詰めたくなる読者もいることだろう。その質問に対する返答は簡単である。「わたしには子供なんかいません」。
 
 子供が欲しかったのに授からなかった、といった話ではない。もし男の子が生まれたら、と仮定して名前まで考えたことがある(現実味はゼロだったので、ちっとも真剣ではなかったけれど)。妻と名前について喋っていたのがたまたま神戸のポートライナーの中で、そのときふと振り返ったら、わたしが寄り掛かっていた壁には「扉に注意」と書いてあったので、名前は「扉」にしようと思ったのである。若い頃のわたしは熱心なドアーズ (ロスアンゼルスのロックバンド)のファンだったこともあり、ちょうどいいのではないかと思った。
 
 で、わたしの子供に対する思い入れはせいぜいその程度の軽薄なものでしかないのである。親子でお揃いの服を着たいとか、息子にバンドをやらせて自分はボーカルを担当したいとか、そんな下らないことしか思いつかない。教育のこと、躾けのこと、病気のこと、そういった厄介なことは考えてみる気にもならない。
 
愛があればどうの、といった話ではあるまい。他人の子供にはあれこれ言えても、自分の子供については躊躇するに違いないことは目に見えている。早い話が、自分のことすら満足に対処しきれないわたしには、子供を持つ資格などないのである。当面、猫でも飼ってみたいのだが責任をもってそれを全うすることすら覚束ないので、子供を持つなんて大それたことは問題外でしかない。
 
 わたしにはわたしなりの「けじめ」があり、考えがある。だから子孫を残すことは義務であるとか、子供を作ってやっと一人前などとステレオタイプなことを「したり顔」で言う奴には、うんざりする。自宅の近くに子役の劇団があって、散歩をしていると、小賢しげなガキと、着飾った親とが一緒になってうろうろしている。
 
おそらく、ああいったキッチュ(ドイツ語で、「まがいもの」「まやかしもの」「俗悪」といった意味で、通俗的で低俗、ごてごてした悪趣味なモノの総称)な存在のほうがわたしよりも社会的義務を果たしている立派な人たちということなのだろう。
 
 ただもう子供が好き、家族は賑やかなほうがいいと信ずる人ならば、きちんと子育てをすることを条件として、勝手にすればよかろう。ところが世の中には、たとえば、可愛いからと購入したシベリアンハスキーが、何かの理由で「持て余す」からと平気で捨ててしまうような輩が少なからず存在するのである。恥知らずな連中はいくらでもいる。現実は醜くおぞましい。そんな世間に我が分身である子供を送り出すことは、想像するだけでもぞっとする。
 
 わたしの発想が非常に偏っていることは十分に承知している。ただし、「まっとう」な発想がもたらしたものが、まさに現在のこの有り様なのである。子供とキャッチボールをしたからといって、それで心が通じたと思っているような人は、そんなことが将来に対して何の保証にも担保にもならないことをまず知るべきだろう。関係者にとっても部外者にとっても、ヒトの心は不可解なものである。
 
誰が試みても若者は常に違和感に満ち、その心性を窺い知ることは困難である。そもそもそのようなアプローチを拒否するところにこそ、若者が若者である理由が存在していることを忘れるべきではあるまい。あなたはそうではなかったのか?
(春日武彦著「17歳という病」文藝春秋・新書 p180-183)
 
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消費文化のなかにある子どもたちの苦しさ
 
 では、消費文化のなかで子どもたちの内面の世界がどう変わったのでしょうか。
 
《社会から引き離される子どもたち》
 
 まず、日本社会で、青少年の社会的な帰属感の問題があります。「この社会の一員なんだ」という気持ちがきわめて低くなっているのは、歴然たる事実です。国家のために、日本の社会のために何か貢献しょうと思うかという問いへの肯定的回答は、他の国の調査と比較するとたいへん低い。
 
これにたいして、一部の政治家や社会勢力から、その点をしっかり鍛えなければいけないとか、愛国心をもたせろとかいう話が出される。しかし、根本の問題は、子どもたちが、現在の日本で、社会の一員としてしっかり認められていないことにあるのです。
 
 子どもたちが「自分勝手だ」と大人は言いますが、そもそも、社会の一員としてきちんと受けとめられ、尊重され、認められていず、したがってこの社会に一緒に生きているという気持ちを持てないでいる。そこのところを変えずに、子どもにたいしてあれこれと言ってみてもしかたがありません。ただ鍛えろというばかりの大人たちは、子どもたちがこの社会の中で、社会の一員としてしっかり認められるようなしくみをつくることの必要性には気づいていない。
 
 一方で、消費文化の最先端を生きている子どもたちは、ぜいたくで、豊かであるように見えます。しかし、その子どもたちの生き方全体をみたとき、社会の中できちんと認められていないことは、生きるうえで非常に厳しく、困難な状態を生みます。この両方を見ていかないといけない。そこには大きなギャップがあるわけです。遊べるところではいくらでも遊んでいるのだが、しかし、社会の一員だとみられていない……。
 
 このことを、明らかにしたのが九〇年代後半から顕在化してきた就職難です。高校卒業の段階で就職できないことがますます社会の一員として位置づけられていないことを実感させます。権利として子どもたちが考えていることを真剣に受けとめるしくみがないうえに、社会に出ようと思っても簡単に出られない状況のなかで生きなければいけない。子どもたちは、高校生、いやもうすでに中学生くらいの段階でそれに気づき始めているのが現状なのだと思います。
 
《「オンリーワン」という強迫》
 
 大人から見ると、たとえば子どもが就職がないというと、これは大変だということはわかります。文化的な点では、大人たちが経験しなかったさまざまな消費できる環境があり、きれいな格好をしようと思えばできる。これを豊かだとかぜいたくだという言い方でとらえられますが、しかしその「豊かな世界」で生きるのは、実は相当苦しいのです。
 
 学校の世界では、たとえば時間の使い方等々、学校の制度が支配しています。これにたいして消費文化の世界では、簡単に言えば、どんなことだってできるし、どういう友だちと付き合うのかも、自由です。ところが、この場合「自由」であるということは、そこで自分が個性的であり、その文化世界の中で認められないと意味がないということをふくんでいます。
 
自分がどんな人間なのかを、これから自覚し確かめていく入り口の段階でもう、ファッションが個性的であることを要求されたり、自分がそれなりに認められるような状態で生きていかなければいけない。これは「きつい話」です。
 
 村岡清子さんという方が、講談社から『僕たちは絶望の中にいる』という、子どもたちをインタビューした本を書いています。そこで彼女は、「ナンバーワンよりオンリーワンを」という強迫観念について、「今、お題目として掲げられる『オンリーワン』という言葉は、『人と違うことができる』、『個性が強く独自の主張がある』という意味合いで語られる。
 
そしてそれをプレッシャーとして感じる子が増えている」と書いています。励ましの言葉として最近使われる「オンリーワン」という言葉が、他人に認められるような個性がなくちゃ見捨てられるというプレッシャーを与える、そういう努力を不断にやっていかないといけないしんどさが子どもたちのなかにはあるのです。
 
 だから、友だち同士でいるにしても、最低限、私がここにいる≠ニ認めてもらうための努力をしなければいけない。「キャラ(キャラクター)が立つ」という状態になっていなければいけない。彼らにとっては、内面や人格が、「キャラ」という言葉に言い換えられ、一人ひとり、自分のキャラが立っていないといけない。
 
たとえば「天然ボケ」という言葉があります。子どもたちのあいだで「天然ボケ」というキャラは、まあ許される存在です。しかし、この「天然ボケ」も、その状態を、ある意味で努力してつくらなければならない部分があるわけです。努力もなしに、ただボーつといるだけではもちろん「天然ボケ」じゃない。人間として認められないのです。大変きびしい世界です。
 
 今の子どもたちは、このように成長のきわめて早い時期から、人間関係の中で自分の位置を獲得しなければいけない状態におかれています。授業の時間に、ただ座っていればいいのなら楽なのですが、「自由な」消費文化の世界では、誰からも見捨てられる「自由」がいっぱいある。そのなかで「私がいる」ことを認めてもらわなければならない。
 
 こういう状況の新しさは、「いじめ」についても言えます。今の「いじめ」に腕力は必ずしも必要ありません。無視をする──そこにいても、いるかいないかわからないという状況においてしまえば、それが「いじめ」になる。消費文化のなかで、子どもたちの人間関係のあり方が小学校からむずかしくなっている。
 
ある子どもたちは小学校の段階から、その昔しさ、難しさに気がついています。そこから何とか逃れようという気持ちをもっている人もいます。親には完ぺきな子育てのプレッシャーがありますが、子どものほうは、そういう子どもの世界の中で、子どもとして何とかしていかなければいけないというプレッシャーがあります。
 
《恋愛や友人関係も変わる?〉
 
 たとえば「カレシ」「カノジョ」という若い人特有のイントネーションの言葉があります。「カレシ」「カノジョ」は、──全員がもちろんそうではないはずですが──いるのが当たり前というプレッシャーもあります。いないという状態では困る──「カレシ」「カノジョ」が常にいないといけない。それを前提にお互いの関係をつくるのですから、その関係も相当違ってきています。
 
恋愛感情が高校生ぐらいになると出てくるのは当たり前だし、中学生でも不思議はありません。しかし、そこで私たちが考えている恋愛や男女交際の感覚と、「カレシ」「カノジョ」という場合の感覚は明らかにずれてしまっています。
 
 友だちというのも同じです。友だちづきあいの感覚もずいぶん違ってきています。たとえば、メールがきたときに、三日くらいあとに返事を出すのでは、おそらく友だち関係がもたない。「友だち」という、言葉は同じなのだけれども、友だち関係の中身が変わってきています。
 
「メールがきたら即返事」というやりとりの風景は大人からみると、ケータイ依存症に映りますが、子どもたちは付き合いの中でそれが不可欠だと感じ、そう振る舞っている。体も心も彼らの文化的な世界が要求する有形無形の「ルール」に合わせて使っていかなければならないのです。
 
 こうした「しんどさ」のなかでなるべく何も考えないようにするためには、何かをし続ける子もいます。たとえばバイトです。もちろんお金を欲しい子はたくさんいるのですが、ただお金が欲しいからだけではなくて、ひたすらバイトをする子。
 
バイトにかぎらず時間にちょっとでも空白が空いてしまうと気になってしょうがないという、まるでワーカーホリックのサラリーマンのような状況が子どもたちの世界にも存在するようになっています。
 
 私たちは、競争で勉強に追われている子どもたちに目をうばわれがちです。しかし、ほとんど勉強もしない子たちだって、遊んでいるように見えても、実は同じょうに別の世界で何かに追われるようにして毎日を過ごしている子がたくさんいるのです。
 
《安心できる世界をつくりたい》
 
 そのなかで、自分たちだけの安心できる世界をつくりたいという願いもひろがります。たとえば、インターネットの世界にバーチャルな空間をつくるというのもその一つです。いまや最大の大衆集会と言ってもよい、数十万の若者たちが集まるコミックマーケット(コミケ=自分たちのコミックをもちよる展示会)などもそうです。
 
同じ気持ち、同じような趣味をもった若者たちが集まり、自分たちだけで通じあえる世界みたいなものを発見すると、少なくともそこでは安心していられる。安心できるというのは子どもたちの成長にとって欠かせない重要な条件です。自分が生きるよりどころになる。そういう世界を自分たちの文化のなかでいわば「自前」で見つけることは決して悪いことではありません。
 
そのなかで生きるしかない文化のなかから子どもたちが自分たちの生きる支えを発見していく過程に私たちはもっともっと注意を払うべきです。消費文化についても、外面的に「これはダメ」というような片づけ方ではその機能や影響をきちんとつかんだことにはなりません。
 
 このいわば「自分たちだけの世界」をたいていの大人は理解できず、また、そのなかには入っていけません。しかし、難しいのは、そこへ入りこんでくる大人もいるわけで、それが商売、儲けを目的にしたものであったり、場合によっては犯罪につながるようなケースも生まれます。
 
 そして、大人と子どもの関係の断絶だけではなく、こういう同世代の関係の中ではとても生きられないと感じ、かなり早くから関係を断ち切っていく、大きくいうと社会から退場したいという気持ちをもつ子どもたちもいます。友だち関係を大過なくやってゆけているようでも神経は疲れる。「うまくやってゆく」こと、その「振り」をすることに耐えられない。ある場合には「引きこもる」ようなことも出てくる。
 
大人が子どもをどう受けとめるか
 
だからこそ、子どもたちが今の新しい文化環境の中で抱えている難しさや困難を大人の社会が受けとめながら、子どもたちと一緒にどうやって生きるか、そのためにどんな社会をつくっていくか、それを考えることが重要になっているのだと思います。
 
《ともに生きる社会の一員として位置づける》
 
 しかし、逆にいま、「危険な子ども、若者」というまなざしが強まっています。「子どもには何をしでかすかわからないヤツもいる」というまなざしがどんどん強くなり、そういう「危険な子ども」を統制し、危険性を取り除いていく方向に、日本社会が大きく移っていこうとしています。これは政治的な面で強く出ているように感じます。保護すべき対象なのだけれども、環境が変わってきている。
 
その中で子どもたちの世界に起きている変化を踏ま、え、どうやってともに生きられるようなモデルをつくっていくかを考えるべきでしょう。統制しなければいけないという人たちは、さきほどいったように子どもたちを社会の一員として正当に位置づけ、社会的責任を自覚的に担っていけるような存在に発展させていかなければいけないという視点が欠けています。
 
 ともに生きる新しい関係というとき、私たちが、一方では、「子どもはこうなんだ」と判断しながら、自分たち大人のほうは、変化しない、固定した存在として顧みない状態を変える必要があります。
 
 子どもがこう変わったという話は、子どもと大人の関係がどう変わるかという話のはずです。大人が子どもを見ていく立場やポジション、位置は変わらないと考えてしまうことはまずいのではないか。子どもとの関係で大人たちがどういうふうに子どもとの関係を変えていくのか、そういうことを含んでやっぱり大人と子どもの関係を築いていかなければいけない。見方としても、個々の子どもと向き合ってという点でも、そのことが大事ではないか。
 
 社会全体の課題でいえば、子どもが社会に出て、安心して生きていける状況をつくることは、大人社会の義務です。さきほどいったように社会の一員として認められていないと、ますますその社会に出て行くのがむずかしい、こういう状態を放置して、それでちゃんと成長しろと要求するのは無茶で、それは大人の責任の放棄、社会の責任の放棄、ここをまずきちんと基本に据えなければいけない。
 
《社会に生きるリアリティを》
 
 この点をはっきりさせたうえで、文化の問題では、「子どもたちが、お互いの関係をつくることがむずかしい」「社会に出ていくことがむずかしい」「子どもが社会をつくつていくことが難しい──社会をつくるとは他の人と、ケンカもし、いろいろな関係がありながら、いっしょに生きていくようなリアリティある関係をつくるということです──」という子どもの困難に向きあわなければなりません。
 
これは子どもたち個々の性格の問題というよりは、社会的・文化的な環境の変化が大きいと思います。そこで子どもたちが孤立をしていってしまう状態を克服しなければいけない。
 
 子どもたちが、社会をつくり、そこで生きていくんだというところにリアリティを感じるようにする、しかも子どもの生活の中でそういうリアリティがもてるような状況をつくることが必要です。学校には、外部社会の影響を濾過して子どもを保護する側面があります。
 
しかし、子どもたちも社会の中の一員だという原則に立って、子ども自身がつくる社会を学校を手がかりにして考えていかなければいけないのだと思います。そのためのカリキュラムや教科、子どもへの働きかけとか、やることはたくさんあると思います。
 
《「暴力の文化」を克服する》
 
 それともう一つ、社会のリアリティといった場合、前提として考えるべきことは、暴力の文化、人間関係を暴力的に処理したり支配していくようなあり方を徹底して放棄すること。安心して生きるためのこれは不可欠な条件です。しかしそれが十分確立していません。子どもの犯罪が話題になりますが、子どもたちが被害者になる危険性のほうがむしろはるかに大きいのです。暴力の文化のいちばんの犠牲者は子どもたちだと言っていいでしょう。
 
 かつ、「暴力の文化」とわざわざ言ったのは、暴力的な力によって子どもの環境を処理していくことに無感覚で無頓着な大人社会のあり方がきわだっているからです。とくに政治家の発言を見ているとそう思わざるを得ない。「やられて当然だ」などというのは、立場の如何とか、主張の如何にかかわらず、暴力の文化にほかなりません。
 
いちばん問題なのは暴力的なものの支配を文化的に正当化してしまうこと、そうしているんだということにこの社会が無自覚なことです。これがあるかぎり、人間環境を豊かにといってもできるわけがない。安心していられないのだから、できるはずがない。「暴力の文化」が容認されているかぎり、他の人とぶつかって、傷つくことも恐れずにいろいろなところで人がつながっていくような、そういう社会を築けるはずがないのです。
 
 直接に腕力をふるうということももちろん問題なのですが、それ以上に、暴力を、ある場面では「それもしょうがない」とか、「やられて当然」「それぐらい元気があったほうがいい」という言い方で許す状況が存在しているのは大きな問題です。
 
《家庭にたいする見方を変える》
 
 親子関係について言うと、親はいつも、子どもから見ると動かない理想の観であるというモデルをつくつて、そこに近づこうと努力をするやり方で、子どもとの関係を築いてゆくのはむずかしいと思います。現実にはどこの家庭も、親が完ぺきなんてことはない。むしろ不完全で、あるところは子どものほうがいろいろなことを知っていたり、というほうが豊かな可能性がある。
 
いつでも強くて、子どもが聞けばきちっと答えてくれるという状態で生きているよりも、子どもに聞いたら子どもはこう考えていた、そういうことなんだと気づいていく「弱さ」とか、あるいは欠けているところがあって、そういう人たちが一緒に集まっていることのほうが、ずつと自然だというふうに親子関係の受けとめ方を変えていかないといけない。
 
 親子のなかだけで、親子関係の転換はできません。社会が家庭を見ていくときも、そういう見方をしないといけない。にもかかわらず、「そんなことは許さないぞ、しつかり育てろ」という社会のまなざししかないと、家庭はどんどん苦しくなってしまいます。
 
社会がもっと懐を深くして、現代の家庭が抱えているさまざまな難しさを受けとめ、サポートしていけるようなしくみをつくっていく必要があると思います。子どもたちの困難を、より希望のある方向に打開させていくために、新しい課題や責任がいま大人には課せられてきているのではないのでしょうか。
(「前衛」12月号 中西新太郎「まず子どもを知ることからはじめよう」p42-48)
 
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「幸福な子ども時代」とは
 
 長崎市の幼稚園児誘拐・殺害事件の報道のなかに注目したい記事がありました。「(凶悪な事件をおこす少年たちは)自分自身、もうダメなんだと思っている──(六年前の神戸連続児童殺傷事件のA君の)鑑定書にも彼の殺人は自殺であると書いています。殺人で自分を殺している」と(「しんぶん赤旗」 日曜版、七月二〇日付)。
 
凶悪事件をおこした少年は自殺者と同じ精神状態だと注意を喚起しているわけです。生きていくための自信を失い、社会的無用感、絶望にとらわれた精神状態ほど恐ろしいものはありません。この精神状態から少年たちを救う手立てはあるのでしょうか。
 
 神戸の大震災のとき、たくさんの青年が全国から自発的に神戸に集まり、救援活動に参加、大活躍したことを思い起こしたいと思います。人間ならだれでも持っている、人々の役にたちたいという気持ち、精神がみごとに発揮され、私たちは感動しました。この気持ち、精神をゆたかにのばす以外に、少年たちを恐ろしい精神状態から救うことはできないのではないか。
 
 「幸福な子ども時代」とは、子どもなりに自分が社会から必要とされている存在であると感じることができ、大人になったら人々のために役にたつ人間になれるようにがんばる、こういう子どもの時代だといえると思います。生きいきした人間社会に、日本を改革するおとなの課題は本当に重大です。(木)
(「経済」03年12月号 p5)
 
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◎春日氏の新書のあとがき=@子どもを育てることから退場して日本の将来はあるのでしょうか。とことん正面からつきあうことが、いま大人に求められているのですから。
 
◎オンリーワンの強迫観念……まさに「科学の目」 その獲得が私たち労働学校にたずさわっている者に必要です。