学習通信031118
◎人が育つということC……この時期はかれがそういう状態におかれる人生の唯一の時期
 
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子どもたちのストレスと大人の責任
 
《抑うつの広がりの背景にある忙しさ》
 
 読売新聞にも書いたことですが、いまの子どもたちの状況のいちばん大きな特徴は、ストレスをためていることだと思います(九月二二日付「論点 子供のストレスを減らそう」)。もちろん、ストレスの問題は、子どもたちだけではなく、大人たちの問題としても重要なのですが、この子どものストレスの問題については、文部科学省も注目をしていて、九月に五〇〇〇人という大規模の調査をおこなっています。
 
抑うつ傾向の広がりや深さを調べ、その背景は何なのか、治療の対策をどうすればいいのかにつなげていくことをめざすと言います。私は、文科省が子どもの抑うつの調査に入ったこと自体注目すべきことだと思います。それだけ問題になっているから、調査に入ったわけですから。
 
 熊本県立大の田中宏尚教授が、同県郡部の中学二年生約一五〇〇人を対象におこなった調査(〇一年)でも、三割が抑うつ傾向が高いという結果だったそうです(朝日新聞〇三年七月三一日「子どものうつ病を見逃さないで」)。大人の一五人に一人がうつ病というデータもあります。いわば、日本社会全体がうつ状況になってしまっています。そのなかで子どもたちには、ものすごいストレスがかかっている。とくに女子の抑うつ感はすごいものがあります。まず、この間題をどうするかを見ていかなければなりません。
 
 私は、精神科医ではありませんので、この問題を専門的な立場からあれこれお話しすることはできません。しかし、学校や子どもにかかわるいろんな人たちとお話ししていて、昨年六月くらいから、街の小児科のお医者さんが「おかしい」と言いはじめたことが気になっていました。「子どもたちが疲れ切って受診にくるようになった」と言い「学校が忙しく、大変で、不登校が増えてしまうのではないかと心配している」との声が上がったくらいです。
 
 そのいちばんの背景は、学校五日制の導入と学力低下批判がなされるなかで、学校現場が逆に忙しくなっていることです。そのしわ寄せが子どもたちにいっている。先生たちは、まだしも組合などで意見も言え、認識を深めることができます。しかし、子どもたちは表現できないわけですから、まともにしんどい思いをしています。
 
 さらに、小学校高学年になると習熟度別の授業が導入されています。こうしたなかで、先日お金いした新潟のある校長先生の話では、高学年になればなるほど、「どうせ、おれってできないんだ」という受けとめが広がり、矛盾が激化しているのです。
 
 日本PTA全国協議会の調査では、子どもたちの八割が、習熟度別だとよくわかりやすいと言っています。たしかに、分けて教えてくれるのですから、わかりやすいのは間違いないのでしょう。しかし、そのことと、勉強が楽しいということとは別なことなのです。自分が大事にされているとか、友だちといっしょに笑っていられるような楽しさとは別な、できるけれども楽しくもなんともないというものになっているのではないでしょうか。
 
 高校生など一〇代後半になると、「展望が持てない。希望が持てない」「何のために勉強をすればいいのだろうか」「自分はこれからどう生きていけばいいのだろうか。将来、仕事をして自立していくことのイメージがもてない」などの不安や思いが広がっています。その根底には、「日本の国はどうなっていくのだろう」というような、国に対する信頼感の揺らぎがあります。
 
 たとえば若年労働者の失業率一二%です。就職も困難というもとでも、私たち大人が努力し、自分たちと手をつないで一生懸命に打開しようとしてくれているというように、自分たちが尊重されているという思いがあれば、そういう気分にはなりません。子どもたちのあいだにストレスがたまったり、自己肯定心情が傷ついていくようなことは防げます。希望をもち、挑戦しょうと前向きでいられるはずなのに、そこが見えなくされ、個々バラバラにされている。子どもたちには今いちばんきつい教育状況だと思います。
 
 しかも、子どもたちをとりまく社会は、すべてが「競争」づけです。成果主義にもとづく競争原理が教育界を完全に覆いつくしています。いま「教育改革」の名前で行われているのは、市場原理にもとづく競争主義なのです。しかし、競争原理では教育は成り立ちません。
 
私は、最近、『競争より「共創」の教育改革を』(学陽書房)という本を出したのですが、そこで私は、教育はコラボレーション=「共創」でなければダメだと主張しました。もちろんコラボレーションのための競争はあり得ます。しかし、自分だけで、他人を出し抜くための競争は教育的には書こそあれ、意味があるとは思えません。結果だけが重視され、プロセスにおける意味が吹き飛ぶからです。しかも、すべての子どもに自己肯定感が育たないのです。
 
《大人社会の責任と自覚が薄れている》
 
 子どもをとりまく状況の問題でもう一つ考えなければいけないと感じているのが、大人と子どもの関係においての不全状況≠ナす。これは、岩波新書の『子どもの危機をどう見るか』(二〇〇〇年)のなかでも書いたのですが、そもそも、子どもと大人の関係は、原則的に言えば、「大人は子どもを発達、成長させなければいけない」「子どもの矛盾・問題は、大人の責任、社会の問題だ」というスタンスが基本だと思います。
 
 これにたいし鴻池祥肇大臣(当時)が、九月に「少年非行対策のための提案」を発表していますが、それを見ると、「子どもの犯罪から社会をどう守るか」という発想が貫かれています。たしかに、長崎の二一歳の少年の事件は、重大で深刻な問題です。被害者側の心情もよくわかります。
 
しかし、私たちはその感情のレベルにとどまっているのではなく、同時に、一歩突き破って、少年にあのようなことをさせてしまったのはなぜなのか、何が欠けていたのかということにまで踏み込まなければいけないのではないでしょうか。私は、一部の政治家による「少年犯罪から社会を守る」という発想からは、大人社会が、次代の青少年の健全な育成に責任を持つという自覚と責任感が急速に薄らいでいることを感じざるをえません。
 
 しかも、それは政治家だけではなく、社会全体に広がっています。先日、都立高校の定時制の教師がフィリピンでわいせつ画像を金を出して撮影し日本に持ち込もうとして逮捕され、自宅から九〇〇本ものビデオが押収されたという事件がありましたが、子どもを守る先頭に立つべき教師にまで大人と子どもの関係不全がひろがっている。
 
先の赤坂のマンションでの少女監禁事件についても、渋谷の町並み自体に、そういう社会的な傾向が強く出ています。この事件は、少女たちの性を、平気でターゲットにする大人の問題にほかなりません。大人社会のあり方が問われている。
 
 企業モラルの問題でも同じことが言えます。私は、子どもたちを相手にもうけてはいけないとは思いません。しかし、放送の電波にしろ、商品にしろ、子どもを相手にする場合には、おのずと、一定のルール、モラルが求められるべきなのです。
 
大人社会は、子どもたちの発達にかかわっている、今後、社会を担っていく主権者の育成にかかわっているという責任を負っている──この土台ともいえる考えに立脚して、企業活動もおこなわれるべきだと思います。そう考えれば、小学生向けコスメティック(化粧品)が競って開発され売られている現実はしっかり考えていかないといけない。
 
 大人と子どもの関係性、さらに踏み込んで言えば、「子どもたちの『子ども期』を保障するのは社会の責任」という問題をしっかり自覚することが私たちには求められています。子どもの時期は、群れて遊んだり、じやれ合ったりしながら、子どもの集団のなかでたくましく育っていく。地域のなか、遊びのなか、そして冒険のなかで育つという原理原則があるはずです。
 
 子どもたちがそれぞれの少年期を豊かに過ごし、思春期をくぐり抜け、青年期の苦難を乗り越え自立していくプロセスに必要な環境や条件を十分に準備するのが大人社会の責任であるにもかかわらず、そのことへと思い至る発想というものが、政治も含め、今の日本の大人社会にはあまりにも欠落している。もうけ主義や悪意のなすがままに子どもたちが破壊されていっているとも言えるのではないでしょうか。そのような大人と社会をどうして子どもたちが信頼するでしょうか。
 
《大人と子どもの文化のボーダレス化》
 
 そのとき、考えなければならないのが、大人と子どもの文化が完全にボーダレスになっているということです。たとえばケータイです。ケータイも、デジタル化され、メール機能が進歩し、またインターネットなどいろいろなサイトにアクセスができます。そこには大人と子どもの境は何もありません。
 
私たち社会や大人が、メディアも企業も、子どもの成長のために、たとえばケータイも子どもたち用にはどういう設定がいいのか、それは規制ではなく、大人社会の当然の責任として議論したり、商品開発をすすめたりしなければいけない。子ども用にはこういう機能をつけて家庭で管理するようにしようかとか、そこまでできなければ商品なんて売るべきではないと思います。
 
 子どもの権利条約は、子どもの権利として「口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む」としています。
 
しかし、この条約自身が、「児童の発達しつつある能力に適合する方法で適当な指示及び指導を与える責任、権利及び義務を尊重する」といっているように、大人社会が何もしてはならないということではありません。子どもの発達という視点を極めて重視しています。そこから考えて、このボーダレスを放置していていいということでは決してない。
(尾木直樹「子どもを守る社会の自己規律をつくる」月刊:前衛03年12月号 p49-53)
 
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 青年期に達するまでの人生の期間ぜんたいは無力の時期だが、この最初の時期のあいだに、力の発達が欲望の発達を追い越して、まだ完全に無力ではあるが、成長しつつある生物が相対的に強くなる時期がある。かれの欲望はまだすべてが発達していないので、現実の力はかれが感じる欲望をみたしてなおあまりあるものとなる。
 
人間としてはかれはきわめて弱い存在だが、子どもとしてはきわめて強い存在となる。
 
 人間の弱さはどこから生じるか。その力と欲望とのあいだにみられる不平等から生じるのだ。わたしたちを弱いものにするのはわたしたちの情念なのだ。それを満足させるには自然がわたしたちにあたえている以上の力が必要となるからだ。
 
だから欲望をへらせばいい。そうすれば力がふえたのと同じことになる。望むことよりも多くのことができる者は余分の力をもつことになる。その人はたしかにきわめて強い存在だ。これが子ども時代の第三の状態であり、わたしはこれからそれについて語らなければならない。
 
わたしはひきつづいてこの時期も子ども時代と呼ぶことにするが、それはこの時期を言いあらわす適当なことばがないからだ。つまりこの時期は青年期に近づいているのだが、まだ思春期に達していないのだ。
 
 十二歳ないし十三歳になると、子どもの力はその欲望にくらべてはるかに急速にのびていく。もっとも激しい、恐ろしい欲望はまだかれのうちには感じられない。その器官もまだ未完成の状態にあって、そこから抜けだすために、意志によって強制されるのを待っているかのようにみえる。
 
苛烈な大気と季節にもほとんど無感覚なかれは、平気な顔でそれに耐え、高まってくる熱は衣服に代わるものとなる。食欲は調味料に代わるものとなる。体の養いとなるものはすべて、かれの年齢にあってはうまいものだ。ねむくなれば大地に身を横たえてねむる。どこへ行ってもかれは自分の必要とするいっさいのものが身のまわりにあることを知る。
 
かれは想像がら生まれ計欲望に苦しめられることはない。人々の意見はかれにたいしてなにごともなしえない。かれの欲望はかれの手より先のところに及ぶことはない。自分のことは自分でできるばかりでなく、かれは自分に必要な力よりもっと多くの力をもつ。この時期はかれがそういう状態におかれる人生の唯一の時期だ。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p283-284)
 
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「自分自身の発展」とは、自分の成長のことですね。人間の成長は大きくわけて二つの面に分けられますね。
 
 一つは身体の面の成長です。体重が増え身長が伸びるのが成長です。これは誰から見ても、自分自身でもわかる成長です。
 
 体がただ大きくなっただけで、発展とか成長とかいえるのか、量が増大しただけで、質的な発展はないではないか、というご意見もあるかもしれませんが、子どもの体が大きくなることによって、歩く、走るなど身体能力が大きく伸びるわけで、立派な成長・発展です。
 
 二つ目は精神面での成長です。これは外面的には見えにくいのですが、子どもが言葉を話せるようになる、字が読めるようになる。文学作品を理解できるようになる。数が数えられるようになる。足し算・引き算ができるようになる。掛け算・割り算ができるようになる。これまた立派な成長です。
 
これまで出来なかったことが、今日から出来るようになる。単純なことしかできなかったのが、複雑で高度なことが出来るようになる。はっきりと成長・発展が確認できるわけです。
 
 さらに子どもの成長が続き、彼(彼女)が大人になる(青年になる)と、彼の社会とのかかわりが増えて、社会的な・思想的な面での成長が見られるようになります。自分を取りまく社会の中で、自分がどういう位置にいるかがわかるようになります。
 
それまでは単純・素朴にしか理解していなかった社会の構造や動きが、詳細に理解できるようになるならば、これは明確に精神的・思想的成長です。
 
 社会の構造や動きだけでなく、その社会の歴史がわかるようになるとさらに成長がすすんだと言えるのではないでしょうか。
 
現在の社会がどのようにして出来た社会か、この社会は今後どのように変化・発展しようとしているのか、そして、もしかすると、どのような矛盾をかかえていて、どのように行きづまり、没落していくのか、そのような歴史的な動きを知ることは、さらに大事なことがあり、これが理解できたら大きな成長だといえると思います。
 
 このような意味での成長・発展を可能にするには一定の目的意識性が必要です。身体的成長は自然にすすみます。バランスのとれた食事をして健康に気を配れば自然に成長はすすみます。しかし人間の精神の社会性とか歴史性とかにかかわる成長は、本人が自覚的に社会や歴史の現実にたち向かう目的意識性が必要となると思います。
 
難しい言いかたになりましたが、言いかえれば自覚的学習だろうということです。みんなで集団的に学習する学習運動の意義はそこにあります。
 
 そして学習して自分がどれだけ成長・発展したかは、それぞれの段階において、自分で喜びをもってわかると思います。
 
(月刊:京都学習新聞 01年12月号の「哲学Q&A」鰺坂真先生の回答です)
 
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◎子どもが育つということ℃рスち青年がどういう状況にあるのかを客観的にとらえることができたでしょうか。ルソーはどうのように子どもとらえているのか。成長≠ニはどういうことか……