学習通信031119
◎真理をもとめて……「わかる」は、「わからない」を解明するためのヒントである。
 
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 まず、思想の持つこわさを知っておけということです。特定の思想はしばしば特定の人に、恐るべき吸引力を発揮します。そういう相手と早いうちに出会ってしまうと、他のものが何も見えなくなってしまいます。ブラックホールに引き入れられた星と同じで、生涯そこから抜け出せなくなります。いわゆるハマった状態になってしまうわけです。
 
特定の宗教思想に深入りした人はみんなそうです。オウムとか統一教会のような新興宗教だけでなく、キリスト教のようなトラディショナルな正統宗教だってみんなそうです。ハマると、自分の信じているものだけが真理であり、正義であり、他はみんな邪教で、虚偽と悪のかたまりだということになるんです。
 
ぼくらが学生の頃は、マルクス主義がほとんど宗教と同じような、というより宗教以上に強烈な吸引力を発揮していた時代で、それにハマった人が少なくありません。
 
 そういうトラップに落ち込まないようにするためには、「絶対の真理なんてものはない」ということを知っておくことです。といっても、「絶対の真理はあるかもしれない。ないといいきってしまうのは、それ自体ドグマではないか」という考え方もなり立ちます。その通りです。これは最終的にはそう信じるしかないというたぐいのことです。
 
 少なくとも、過去において、「これが絶対の真理」と僧称する思想はいろいろあったが、そのどれ一つとして、それが絶対であることを客観的に証明したものはなかった。証明と称するものがなされたことはあったが、それをはじめから信じている者以外の人たちを納得させることはできなかった。これからも多分ないだろう。──以上の経験と予測をもとに、そう思うとしかいえないということです。
 
 こういうと、絶対の真理を信じている立場の人たちから、それを信じれば、あなたは永遠の生命が得られるのに、それを信じないとそれを失うことになる、といわれることがあります。最近は永遠の真理があるなんてことをいう人は、だいたい宗教思想か疑似宗教思想によって立つ人で、そういう人たちはたいてい最後はこういういい方で、信じない者をおどしにかかるわけです。
 
 それに対しては、「永遠の生命なんてもらっても迷惑ですから、ほしくありません」とはっきりいえばそれですむことです。逆に永遠の生命がほしいなんて思いこむと、簡単に宗教のワナにハマってしまいます。たいていの宗教が永遠の生命を約束していますから、片端からその手の宗教に入っていくと永遠の生命が山のように手に入ることになりますが、宗教にハマっていると、そのおかしさに気がつかないんですね。
 
 永遠の生命なんてありません。生命というのは死と裏表なんです。死を受け入れることにおいて生命は成り立っているんです。
「永遠の生命なんてない」「絶対の真理なんてものはない」ということを信仰箇条の第一に置けば、それから、多くのことが導けます。
 
 まず、いかなる思想にものめりこまず、ハマらず、必要以上に尊敬したりせず、軽い気持で接触することが大切だということがわかります。思想においては、花から花へ飛びまわる蝶のように、浮気したほうがいいんです。あがめたてまつってはいけません。思想なんてものは、特定のものに溺れてしまった人がその思想を語るように、ご大層なものじゃないんです。宗教に溺れた人がいうように、いかなるものにも、絶対不可侵の神聖な起源なんて何もないんです。
 
要するに、宗教とか思想というものは、ある時代の誰かが頭の中でこしらえて、頭の中からひねり出した一連の命題です。どんな大思想(といわれているもの)にも、笑ってしまう他ない珍妙な部分があります。そういう部分でちゃんと笑えることが、精神的に健康であることの証しなんです。しかし、若いうちから何かにのめりこんでしまうと、そういう健康さを失ってしまいます。
 
 精神的健康さを養うために、若いうちは、できるだけ沢山の思想的浮気をするべきなんです。異性体験に関して、「できるだけ沢山の浮気をしなさい」なんていったら物議をかもしかねませんが、思想に関しては、そうすべきであるとはっきりいいます。浮気が足りない人は、簡単に狂うんです。簡単に溺れて、自分が溺れているということにすら気がつかないことになるんです。人間の頭は狂いやすいようにできてるんです。
 
認知科学や精神医学を学んでみると、人間の頭がどれほど狂いやすくできているかがわかります。どれほど真実でないものを真実と思いこみやすくできているかがわかります。ぼくは、認知科学や精神医学の初歩は義務教育の中である程度教えるべきだと思っています。現実には、どちらもまだ大学の教養課程でも必修になっていないので、各自今のうちに学んでおいてください。
 
 いろんな思想を味わってみるという経験をある程度積まないと、新しい思想に出会ったときに、それを正しく評価することができません。経験なしには、思想を評価する座標軸ができないからです。思想の世界の幅と奥行きがわからないと、正しい定位づけができないんです。
(立花隆著「脳を鍛える」新潮社 p28-30)
 
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 私には、「わからない」と思うことがいくらでもある。そういうことを一つ一つつぶして行くのが人生だと思っているから、やることはいくらでもある。つまりは、人生とは「わからないの迷路」である。だから、そのさまざまに存在する「わからない」を、まず整理しなければならない。「木を見て森を見ず」と望一口うが、「わからないの迷路」に圧倒されているだけの人間は、その道の、「森を見て木を見ず」なのである。
 
 巨大なる「わからないの森」は、その実、「わかりうる一本の木」の集大成なのである。だからとりあえず、「わかりうるもの」を探す。手をつけるべきは、「こんなくだらないものの答が全体像の解明につながるはずはない」と思えるようなところである。
 
「くだらない」──だから「どうでもいい」と思って放り投げてしまうのは、それを「わかりきっている」と思うからである。つまりそれは、「わかる」のである。「わかる」は、「わからない」を解明するためのヒントである。つまりは、「くだらない」とか「どうでもいい」と思われるものには、「わかる」へ至るためのヒントが隠されているということである。
 
 とりあえず「わかる」──どうでもいいようなことでも、とりあえず「わかる」と思えるようなことを確保する。それであなたは、「わかっている」のである。なにかが「わかる」になれば、「わかる≠ニはどのようなことか」という理解が訪れる。それがつまりは、「方向の発見」である。
 
「わからない」をスタート地点とすれば、「わかった」はゴールである。スタート地点とゴール地点を結ぶと、「道筋」が見える。「わかる」とは、実のところ、「わからない」と「わかった」の間を結ぶ道筋を、地図に書くことなのである。「わかる」ばかりを性急に求める人は、地図を見ない人である。常にガイドを求めて、「ゴールまで連れて行け」と命令する人である。
 
その人の目的は、ただゴールにたどり着くことだけだから、いくらゴールにたどり着いても、途中の道筋がまったくわからない──だから、人に地図を書いて、自分の通った道筋を教えることができない。「わかった」の数ばかり集めて、しかしその実「なんにもわからない」のままでいるのは、このような人である。
 
「わからない」は、スタート地点である。これをゴールにすると、「行き止まり」になってしまう。「わからない」がスタート地点で、「わかった」がゴール。「わかる」は、その間をつなぐ道筋である。しかし人は、往々にして、「わかる」をスタート地点にしようとする。「わかった」がゴールなのだから、「わかる」をスタート地点にしても、どこへも行けない。
 
「わかる」をスタート地点とした時、その先の道筋はすべて「わからない」になり、その道の先は、やはり「わからない」の行き止まりである。そういうものであるにもかかわらず、人は多く、「わかる」をスタート地点に設定しようとする。
 
「わかる」をスタート地点にしようとする人は、一度「わかった」のゴールへたどり着いて、そしてそのまま、新たなるレースへ出ようとはしない人なのである。「自分は一度わかった≠フゴールにたどり着いた。そんな自分には、いまさらわからない≠フスタート地点に立って、めんどくさいレースを始める理由などない」と思っているから、「わからない」という前提に立たない。「自分は一度勝者になった」と思うから、面倒なレースを拒否して、平気でガイドを求める。常にガイドを求めて、自分からはなにもしない。つまり、「わかる」をスタート地点にするということと、「倣慢なる恥知らずを省みない」とは、一つなのである。
 
「わからない」は、思索のスタート地点である。そこから始めればこそ、「わからない」は思索の「方法」となる。「わからないからやーめた」であきらめれば、そこは挫折のゴールである。「わからない」が「方法」になるかどうかは、それを「方法」として採用するかどうかの、決断にかかっているのである。
 
 私には、「わからない」と思うことがいくらでもある。そういうことを一つ一つつぶして行くのが人生だと思っているから、やることはいくらでもある。そのいくらでもある「わからないこと」を、どれから片づけて行くかは、その時その時の優先順位によるものである。その優先順位とはつまり、「その時になにが一番わかりやすそう≠ノ見えたか」である。「どれから手をつけるか?」は、その時その時によって違うけれども、「なぜやるのか?」の理由だけは動かない──「わからないから」である。
(橋本治著「「わからない」という方法」集英社新書 p11-13)
 
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 われわれはこれまで、究極の決定的真理や思考の至上性や認識の絶対的確実性などなどについてのデューリング氏のこういう仰々しい発言を、すべて黙って聞き流してきた。それは、なんといっても、問題が、われわれがいま到着した地点まできてはじめて決着をつけることのできるものであったからである。
 
これまでは、現実哲学の個々の主張がどの程度まで「至上の妥当性」と「真理であると主張する無条件の権利」とをもっているかを、調べさえすればよかった。ここでは、われわれは、(そもそも人間の認識行為の産物は、はたして至上の妥当性と真理であると主張する無条件の権利とをもつことができるのか、そういうものをもつことができるのは、人間の認識行為のどのような産物か)、という問いに直面しているのである。
 
私が<人間の認識行為>と言うのは、自分がお目にかかったことのない他の諸天体の住民を侮辱するつもりで言っているのではけっしてなく、動物も認識するがそれはけっして至上の認識ではないからにすぎない。犬は自分の主人を自分の神と認識するが、それでもこの主人はひどいごろつきであるかもしれないのである。
 
 人間の思考は至上のものか? そうであるとかそうではないとかと答える前に、まずわれわれは、人間の思考とはなにかを研究しなければならない。それは或る個人の思考か? そうではない。しかし、それは、過去・現在・将来の幾十億の人間の個別的思考としてしか存在しないのである。
 
さて、私が、(自分の観念のなかで私が一つにまとめた・将来の人間をも含めてのこうしたすべての人間のこの思考が至上であり、この思考には──人類が十分に長く存続しさえすれば、また、認識器官と認識対象とにおいてこの認識行為に限界が設けられていない限り──現存している世界を認識することができる)、と言えば、かなり月並みでそのうえかなり実りのないことを言っている。
 
と言うのも、ここから出てくる最も価値ある成果というのが、われわれにこんにちの認識にたいして極度の不信をいだかせることぐらいであろうからである。なぜこのような不信かと言ば、それは、実際われわれが十中八九はまだ人類の歴史のかなりはじめのほうにいるのであって将来われわれを訂正することになる世代の数のほうが、われわれが──終始かなり軽蔑しながら──その認識を訂正することのできる世代の数よりも、確かにずっと多いであろう、と思われるからである。
 
 意識が、したがってまた思考と認識とも、個々の人間の系列のなかでしか現われることができないということは、デューリング氏自身、どうにもしようのない事実だと言明している。この諸個人の一人一人の思考に至上性を認めることができるのは、この個人が健康で目がさめた状態にあるときに、なにか或る思想をむりやりこの人に押しつけることのできる力など一つもない、ただその限りにおいてのことでしかない。
 
しかし、各個人の個別的思考による諸認識の至上性についてはどうかと言うと、われわれがみな知っているとおり、そんなことはまったく問題になりえないのであって、こうした認識には、これまでのすべての経験に照らしてみて、例外なくいつでも、改善の余地のあるもののほうが、改善の余地のないものつまり正しいものよりもずっと多く含まれているのである。
 
 言いかえれば、思考の至上性というものは、きわめて非至上的に思考する人間たちの系列のなかで実現され、真理であると主張する無条件の権利をもっている認識は、相対的誤謬の系列のなかで実現されるのである。このどちらも、人類の生命の無限の持続を通じてでなければ、完全には実現されえない。
 
 ここには、またしても、すでに前のほう〔本訳書、五五/五六ページ〕で見たのと同じ矛盾がある。すなわち、人間の思考のどうしても絶対的なものと思い描かれてしまう性格と、ただただ制限された仕方でしか思考しない個々人におけるこの思考の現実とのあいだの矛盾がある。これは、一つの無限の過程においてしか、われわれにとっては少なくとも実際上終わりのない人間世代の連続のなかでしか、解決できない矛盾である。
 
この意味で人間の思考は、至上的であるとともに至上的でなく、その認識能力は、制限されていないとともに制限されている。素質・使命・可能性・歴史上の終局目標から見れば、至上的で無制限であり、個々の実施とそのつどの現実とから見れば、至上的でなく制限されているのである。
 
 もろもろの永遠の真理についても、事情は同じである。もしいつか人類が永遠の真理ばかりを、至上の妥当性と真理であると主張する無条件の権利とをもっている思考結果ばかりを、取り扱うようになったとしたら、人類は、あの地点に、すなわち、知的世界の無限性が現実においても可能性からいっても汲みつくされてしまい、したがって、無限が数えつくされたというあの大評判の奇跡がなしとげられた地点に、いきついたことになろう。
 
 それにしても、しかし、それを少しでも疑うのは狂気に等しいと思われるほど確実な真理が、やはりあるのでは? 二×二は四であり、三角形の内角の和は二直角に等しく、パリはフランスにあり、人間は食べ物をとらなければ餓死する、などなどというような真理が? そうとすれば、もろもろの永遠の真理が、(究極の決定的真理)が、やはりあるのでは?
 
 なるほど。われわれは、認識の全領域を古来周知の仕方に従って三つの大きな部門に分けることができる。第一の部門は、生命のない自然を取り扱い多かれ少なかれ数学的に処理することのできる、すべての科学を包括する。数学・天文学・力学・物理学・化学がそれである。非常に単純な事柄に大げさなことばをあてはめることがだれかさんをたのしませるなら、(こうした科学の或る種の結論は、永遠の真理であり、究極の決定的真理である)、と言ってもよろしい。だからこそ、この諸科学は、精密科学とも名づけられてきたのである。
 
しかし、まだけっしてすべての結論がそうではない。変量が導入され、そして、その可変性の範囲が無限小と無限大とにまで拡張されるとともに、かつてあれほど道徳堅固であった数学は、堕罪を犯してしまった。数学は知恵のリンゴを味わった。このリンゴは、数学にこの上なく巨大な成功の生涯を開いたが、また誤謬の生涯をも開いたのである。すべて数学的なものの絶対的妥当性・くつがえすことのできない証明された確実性という処女状態は、永遠に失われた。論争の国が出現した。
 
こうして、われわれは、たいていの人たちが微分積分をしているところまでやってきたが、この人たちは、自分のしていることを理解しているからそうしているのではなく、これまでいつも正しい答えが得られたからというまったくの信仰にもとづいてそうしている、というありさまである。天文学と力学とについては事情はもっと悪いし、物理学と化学とでは、みな、まるでミツバチの群れのまんなかにいるように、仮説にとりまかれている。これはまたまったくやむをえないことでもあるのである。
 
物理学では分子の運動を、化学では原子からの分子の形成を、それぞれ取り扱う。そして、もし光波の干渉ということがつくり話でなければ、われわれがいつかこうした興味ある事柄を自分の目で見るという見込みは、絶対にないのである。(究極の決定的真理)は、この分野では、時とともにいちじるしくまれになっていく。
 
 地質学では、事情はもっと悪い。地質学は、本性上、おもに、われわればかりかおよそ人間というものがだれも現場にいあわせたことのない出来事を取り扱うのである。だから、ここでは、(究極的な決定的真理)を掘り出すのには非常に大きな骨折りが必要であり、しかも獲物はきわめて乏しいのである。
 
 科学の第二の部類は、生物の研究を包括する部類である。この領域では、非常に多様な交互関係と因果関係とが発展しているので、一つの問題が解決されるごとに無数の新しい問題が投げかけられるばかりでなく、個々のどの問題も、たいていはただ少しずつ、よく数世紀を要求することがある一連の研究を通じてしか、解決できないありさまである。
 
その場合さらに、もろもろの連関を体系的に把握する必要があるために、(究極の決定的真理)のまわりにもろもろの仮説のうっそうとした茂みを植え込んでいくことを、絶えず新しく余儀なくされる。哺乳動物における血液の循環というごく簡単な事柄を正しく確認するのに、ガレノスからマルピーギまで、どれほど多数の中間段階が必要であったことか! 血球の発生についてわれわれはどれほどわずかしか知らないことか! たとえば或る病気の症候をその諸原因と合理的に関連させるのに、こんにちなおわれわれにはどれほど多数の中間項が欠けていることか! 
 
そのうえ、細胞の発見のような、生物学の領域でそれまで確定されていたすべての<究極の決定的真理)を全面的に修正して、それのかなりの部分を永久にほうむりさるよう、われわれに強いる、そのような発見が何度も何度も現われる。だから、この領域で本物の変わることのない真理を打ち立てようと思う人は、だれでも、<人間はみな死ななければならない>、<哺乳動物の雌はみな乳腺をもっている>、などなどといった月並みな言い回しでがまんしなければならないであろう。
 
<高等動物は、胃と腸管とで消化するのであって、頭でではない>、とさえ言えないであろう。と言うのも、頭部に中枢化されている神経活動が消化には欠かせないからである。
 
 しかし、科学の第三のグループすなわち歴史科学では、(永遠の真理)はもっとひどい状態にある。このグループは、人間の生活条件、社会関係、法形態・国家形態とその観念的上部構造である哲学・宗教・芸術などなどとを、それの歴史的継起と現在の結果とについて研究するのである。
 
生物界では、われわれは、とにかく、少なくとも、われわれのじかの観察が問題になる限りでは、非常に広い限界の内部でかなり規則正しくくりかえされる一連の経過とかかわりあう。生物の種は、アリストテレス以来、だいたいのところ昔のままである。
 
これにたいして、社会の歴史では、われわれが人間の原始状態であるいわゆる石器時代を抜け出したとたん、諸状態のくりかえしは例外であって通例でない。また、そのようなくりかえしが現われる場合でも、けっして正確に同じ事情のもとで起こることはない。
 
たとえば、すべての文化民族において土地の原初的な共同所有が現われることについても、それが解体していく形態についても、そう言える。だから、人類史の領域では、われわれの科学は、生物学の領域でよりもずっと遅れている。
 
そればかりではない。或る時代のもろもろの社会的および政治的生活形態の内的連関がいつか例外的に認識されることがあってもそういうことは、通例、そうした形態がすでになかば寿命をすぎて崩壊に向かっているときに起こるのである。
 
この認識は、ここでは、──ただ一定の時代に或る諸民族にとってしか存立しない・本性上一時的な・或る種の社会形態また国家形態の連関と必然的諸結果とを洞察することに限られているのだから──本質的に相対的である。
 
だから、この領域で<究極の決定的真理>を、本物のけっして変わることのない真理を、追い求める人は、だれでも、たとえば、<人間は一般に働かなければ生活できない>、<人間はこれまではたいてい〔初版では「いつも」〕支配する人と支配される人とに分かれてきた>、<ナポレオンは一八二一年五月五日に死んだ>、などなどといった、まったくくだらない平凡陳腐な事柄のほかには、ほとんどなにも獲物を得られないであろう。
 
 ところで、ふしぎなことに、ほかならぬこの領域においてこそ、われわれは、いわゆる<永遠の真理>・<究極の決定的真理>などなどに最もひんぱんに出会うのである。<二×二は四である>とか<鳥にはくちばしがある)とか、そういう種類のことを<永遠の真理>だと宣言するのは、とにもかくにも<永遠の真理>があるということから、(人類史の領域にも、数学上の認識と応用とに似かよった妥当性と有効範囲とをもっていると主張できる、永遠の真理・永遠の道徳・永遠の正義などなどがある>、という結論を引き出そうという下心をいだいている人、ただそういう人だけであろう。
 
そして、その場合に確実に当てにしてよいのは、この同じ博愛家が機会さえあればわれわれに向かってつぎのように宣言するであろう、ということである、
 
──<永遠の真理のこれまでの製造者たちは、みな多かれ少なかれ馬鹿でいかさま師であり、みな誤謬にとらわれており間違っていた。しかし、彼らが誤謬にとらわれていたという事実・彼らが間違いをやりえたという事実は、自然法則にかなったことであって、私のところに真理と適切さとがあることを証明している。そして、いま新しく生まれた予言者である私は、究極の決定的真理・永遠の道徳・永遠の正義をすっかり用意して袋に入れてもっている>、と。
 
すべてこうしたことは、もう一〇〇回も一〇〇〇回もあったことなので、他人についてならいざ知らずほかならぬ自分自身についてこういうことを信じるほど軽信的な人間がまだいるとしたら、ただただ驚くほかないのである。それでも、現にここに、そのような予言者が少なくとももう一人いるのである。
 
そして、この予言者は、だれか一個人が(究極の決定的真理)を提供できる立場にある、ということを他の人びとが否認しようものなら、実際また例によって例のとおり高潔な怒りを爆発させるのである。そのような否認は、いやそれどころか、それを疑うだけでも、衰弱状態であり、支離滅裂な混乱であり、無に近いことであり、ただの虚無主義よりも悪い・空洞化を進める懐疑であり、ごたごたした混沌であり、その他このようなすてきな代物、などなどなのである。
 
すべて予言者というものはそうであるが、物事を批判的・科学的に研究し評価するのではなく、いきなり、道徳的に叱りつけるのである。
 
 前のところで、なおつけ加えて、人間の思考の諸法則を研究する学問に、つまり、論理学と弁証法とに、言及してもよかったかもしれない。しかし、ここでも<永遠の真理>がもっとよい事情にあるとは見えない。本来の弁証法をデューリング氏はまったくの背理だと宣言しているし、論理学についてこれまでに多数の書が書かれ、また〔いまも〕書かれている、ということは、この領域でも<究極の決定的真理>が何人かの人たちが信じているよりもずっとまばらにしかないことを、十分に証明している。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p123-130)
 
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◎エンゲルスは、科学の三つの領域で真理について明らかにしています。「わからない」は、思索のスタート地点≠ネのですから……。