学習通信031122
◎学ぶということ……「自分への「疑いの心」と「前進」とは表裏一体のもの」
 
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体験に無駄なし
 
 学問は「なぜ、どうして、どうすれば」と疑う心が出発点である。
 物ごとを深く掘り下げて研究、解明、実証し、知識の体系を築き、人や社会に役立てていく。学問というものをそう考えると、科学や医学の世界だけではなく、スポーツの世界、野球の世界もまた学問のひとつではないかと思う。
 
 高いレベル、より高度な目標をめざして努力し、工夫し、研究していく。常に新しい建設と創造を繰り返し、試行錯誤を積み重ねて、技術の幅を広げ、技術の完成度を追い求めていく点では、野球もまた学問に変わりがない。バッティング技術ひとつとつてもそうだ。
 
 基本的な学習をしっかりやって、バットを立てたり寝かせたりしながら「フォーム」「タイミング」「選球眼」を研究、試行錯誤を繰り返していくうえに、なかなか限界というものはない。その途中では、無駄な努力をたくさんする。
 
 しかし、無駄だったと思うのはあとになってからのことだ。その時、その時点では「無駄だ」と思ってやったものはなにひとつないはずで、すべてその時、その時点では「ベストだ」と信じてやったことばかりだろう。
 
 あとになって振り返ってみて、あるいは今度は人に教える立場になってみると、だから「あれは無駄だったな」というようなことはなにひとつないのだ、というのがわたしの経験である。
 
 人の踏み跡もない山に入り、苦労して谷をよじ登り、尾根に取りつき、ようやく項上にたどり着いて下を見たら、楽に登れた別のルートがあったとしよう。同じ項上を極めるにもドロまみれになって険しい谷を越えてきたのは無駄だったかもしれないが、テクニックや不屈の闘志も培ったぷん、プラスだと思えるのではないか。
 
 その技術や経験は他日、別の山登りで生かされもし、人に教えることもできるのである。
 選手がどういうところで悩み、技術的になにを求めて苦しんでいるのか。そのための方策、解決策、適切な手を打つことも、こうした無駄とも見えるたくさんの経験があってこそできるのであるく
 
 いったん決めたことでも不都合な面があれば、すぐに方策を練り直す。むしろはじめから「これしかない」というような形でやっていくと、失敗した時の痛手は大きいものだ。前進のためならば、朝令暮改は大いに結構といえるのは豊富な経験者ならではのことだ。
 
 進歩の途中で選手が固まったままでいることがある。自分の現在の技術や方法を「ベストだ」と思い込んで、それが間違っているのに担当コーチの助言も開かず、執着し、意地になっている時などに、ほかの部署の担当コーチや先輩、同僚の何人かに「ああやれば、こう打てたよねえ」「いい時はいつもこうだったのに、ああだったのに」とさりげなく、同じ助言をしてもらうことがある。
 
 すると本人も「やっぱりそうなのかなあ」「みんなも同じことをいっているしなあ」と、自分の思い込みやこだわりに疑念を抱きはじめて、素直に担当コーチの助言を聞くようになったりする。
 
 自分への「疑いの心」と「前進」とは表裏一体のものである。この選手にしてもまた将来、人を教える立場に就いた時にも、いろいろな無駄をしたればこそ急所を知り、急所を押えることも容易になるのではないか。
 勉学や向上のための道すがらの努力や昔労には、なにひとつ無駄はないのだという考え方を、わたしは大事にしてほしいと思う。
(川上哲治著「遺言」文春文庫 p112-115)
 
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 「学ぶ」とは「真似る」である
 
 結論を先に言ってしまえば、我が妹は、自分の母親の生き方を踏襲したくなかったのである。それが、私の推察する結論である。
 
 「習う」は「倣(なら)う」であって、その根本は「真似る」である。「学ぶ」も、その元は「まねぶ」で、「真似る」である。学習の根本にあるものは、「教師となる人のあり方を真似すること」なのである。今では、手っ取り早く「ノウハウだけを学ぶ」ですまそうとするが、そういうことは、その昔にありえなかった。「学ぶ」とはすなわち、「先生に従う」で、それはモラルではなく、一つの実際的な学習法だったのである。
 
 教える側の教師には、その教師個人のクセがある。その人にはその人なりのやり方があって、それがつまりは、個性でありクセである。「特性」を抜きにした「一般」は、人の場合ありえない。だから昔の生徒達は、教師なる人のクセぐるみ、教師のやり方を学んだ──真似たのである。
 
 教師の体質が、教えられる生徒の体質と合致するかどうかはわからない。教える側の教師が、教えるに際して、自分のクセやら体質やらをあらかじめ排除しておいてくれればいいが、すべての人にその人なりの体質や特性がある以上、「個性を離れたノウハウ」というものはない。
 
だから、学ぶ側の生徒は、その初めにおいて、自分とは関係ない「教師のクセ」を、なんらかの形で共有しなければならなくなる。つまり、物事を「マスターする」ということは、一旦「自分のあり方」をどっかに置いておいて、先生となった人のあり方をそのまま自分の上に宿らせることなのである。それが「真似る=学ぶ」である。
 
 初めにマスターするのは、「自分のやり方」ではなく、教師という「他人のやり方」なのである。それが「基本のマスター」であって、学ぶ側の人間は、その後で、自分の身に備わった「他人のやり方」を、自分の特性に見合ったものとして変えて行かなければならない。
 
このプロセスを、「一般的なものから、自分オリジナルの個性的なものへの変化」と思っている人も多いが、しかし本当は、「自分とは違う他人のやり方から、自分に見合った個性的なものへの転換」なのである。
 
 いかにその教師がすぐれていても、教師なる人と生徒なる自分とは、一人としてのあり方」が違う。違う以上、変更は必須になって、それをしない限り、本当の「マスターした」は起こらない。いずれはそれをするべきなのだが、学習のその初めは、しかたがない、「教師のやり方をそのまま真似る」にしかならない。「教師のやり方」とは、すなわち「教師のあり方」で、それはそのまま「教師となった人の生き方をなぞる」になるのである。
 
 「学ぶ」とは、「師」となった他人の人生と、自分の生き方とを一致させることであり、「わかる」とは、その一致からはずれるような形で存在している「自分自身のあり方」を理解することなのである。自分と他人の違いは、そのようにある。それは「ある」のが当たり前だから、「学ぶことのうっとうしさ」も、そこから生まれる。
 
 「私が学びたいのはあなたの持つノウハウだけです」と言っても、先生となる人は、そんな手前勝手なことを許してくれないからだ。「学ぶ」ということは「生き方を学ぶ」であって、だからこそ、「お行儀」は学習の第一になる。それは、「学ぶ」ということが、「師となった人の生き方を学ぶ」とイコールになっているからである。
(橋本治著「「わからない」という方法」集英社新書 p120-122)
 
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何のために学ぶのか、ということ
 
 目的や意義といったものが別のところにある、それが「勉強」というものの特徴らしい、と先にいいましたが、一口に「目的」といっても、いろいろです。たとえば、次の詩をよんでください。
 
勉強してどうなるのか
役にたつ、それだけのことだ
勉強しないのはげんざいについていけない
いい中学、いい高校、いい大学、いい東大
そしていい会社
これをとおっていってどうなるか
ロボット化している
こんなのをとおっていって、いい人生というものを手でつかめるか
 
 「先生のバカ」と書き残して、団地の十三階から飛び降りて自殺した少年の作品です。
 
「目的」「意義」がこのようなところに定められているとき、勉強がたのしみに転化するということは、たぶん、ほとんどありえないでしょう。
 
重い重い荷物、みんなもっている
重い重い荷物、休みたい
重い重い荷物、おろしたい
重い重い荷物、おろせない
 
 やはり同じ少年の作品です。勉強がもっぱらこのようなものに変質させられてしまっているとは──なんという非人間的な社会でしょう!
 「変質」ということばを使いましたが、それは、「学ぶ」ということは本来そんなものではない、と思うからです。
 
 「学ぶ」ということは、本来、自分を人間としてゆたかに発達させたいという、人間の基本的な要求に根ざすものだと思います。
 
 人間は社会的な存在です。過去の人間仲間のいとなみの成果は「文化」という形で社会的にたくわえられています。個々人はそれをうけとり、身につけることによって、人間として生きるのです。このような文化を身につけるということ──それが本来の意味での「学ぶ」ということだ、と思うのです。
 
 自分を人間としてゆたかに発達させたいという要求は、幼児の頃には自覚されていません。存在しないのではなく、自覚されていないのです。なぜかといえば、肉体的な欲求という形でそれが存在するからです。
 
 そこで、幼児においては、生きることと、遊ぶことと、学ぶこととの区別がありません。全生活が遊びであり、そしてその遊びが同時に学びそのものでもあるのです。タッチ、アンヨも、ことばの習得も、ケンケン、スキッブも、遊びであると同時に学びであり、学びであると同時に遊びであり、そしてそれが幼児の生活そのもの──生活欲求の発露としての生活そのものであるのです。
 
 余談になりますが、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に次のような歌があります。
 
遊びをせんとや生まれけん
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声きけば
我が身さえこそ動がるれ
 
 ここで「遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん」と歌われている、その表にあらわれていない主語は、もちろん「遊ぶ子ども」だ──と私は思っていました。というより、それ以外のとり方がありうるとは、思ってもみませんでした。ところが、有力な説としてそれがあるらしいのです。最近それを知りました。「我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」と歌っている、その当の「私」が前半の主語でもある、というのです。
 
「遊ぶ子どもの声をきくと、私は体まで自然にゆれてくる。よくよくの私は遊び好き、遊び・たわむれは私のもってうまれた性であるらしい」といった感じでしょうか。この場合、「遊び」には「遊び女」などという場合の「遊び」というニュアンスがひびかされている、ということになります。
 しかし私は、やはり「遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん」というのは、子どものことをいっているのだ、ととりたいと思います。この歌が遊女の感慨だというのは、私もたぶんそのとおりだろうと思いますが、遊びが生活の目的そのものであるような子どもの姿を活写したものとしてあの箇所をうけとってこそ、「我が身さえこそ動がるれ」というその感慨が、ひとしお身にしみてくるように思えるのです。
 
遊びと学びの本来の関係
 
 学ぶことと遊ぶことの区別、いいかえれば学びと遊びへの生活の分化は、自分を人間として発達させたいという要求が自覚されるようになるところに生じるのだ、と思います。そういう要求の自覚にもとづいてなされる目的意識的ないとなみを「学ぶ」といい、同じ要求にもとづきながら、そのことを目的としては意識しない場合、これを「遊ぶ」というのではないか──というのが、私のさしあたっての仮説です。
 
 これが「学ぶ」と「遊ぶ」の本来の区別であるのではないか──このような「学び」、このような「遊び」であってこそ、「ともにたのしい」ということになるのではないか、と思うのです。
 
 いまいったことは、そのような学びの場合、「無理してがんばる」という要素はいっさいなくなる、ということではありません。遊びの場合でさえ「無理してがんばる」という要素はつきまといます。スキーをたのしむためには、やはり練習・訓練が不可欠です。
 
一度や二度、足をくじくことも出てくるかもしれません。しかし、そういうこともいい「勉強」になって──これが先に引いた『新明解国語辞典』にいう「勉強」の(二)の用法です──心のままにスキーをたのしめるようになるのです。
 
 遊びの場合でさえそうなのですから、学びの場合にはなおさらです。学ぶということは、自分を人間としてもっと高めるための意識的な活動なのですから。もっと高くのぼるためには、エネルギーがいります。なにしろ、重力にさからうわけですから。
 
だから「無理」することはさけられません。ここに「無理」というのは、重力にさからってエネルギーを支出するということの心理的な表現です。でも、そういう「無理」をあえてしようということが、自分の人間的要求に根ざすものとしてごく自然に出てくる──無理なく出てくるのです。
 
 たのしく「無理」に挑戦しましょう!
 
 一つだけ、つけたさせてください。
 
 「学ぶ」ということは目的意識的ないとなみですから、「無駄なく効果的に」ということがスタイルとして一般的な要求となってくるのは、それなりに自然です。職場や学校に行くとか、友人の家をたずねるとかいった目的ある行動の場合、私たちがどうするかを考えてみればわかることです。これにたいして「遊ぶ」のほうは、行先定めぬそぞろ歩きのようなものです。
 
ここでは「無駄」がむしろ本質的なものとなります。というより、「無駄」という観念がそもそも存在しえないのです。
 
 私は、この「行先定めぬそぞろ歩き」が、それ自体として人間的な価値である、ということをまず強調したいと思いせす。それは、「学ぶ」ことが意識的に追求する人間的な目標そのものの現実の存在形態でもあるのだ、と。そのことを強調したうえで、このそぞろ歩きの「無駄」がじつはけっして無駄でない、ということをつけ加えたい、と思うのです。
 
 読書を例にとってみましょう。読書にも目的意識的な学びの読書と、そぞろ歩きの読書、遊びとしての読書があります。「学びの読書」的観点からすれば、「遊びの読書」は無駄とも見えるでしょう。しかし、そうではないのです。「遊びの読書」の広い裾野があってこそ、目的意識的な「学びの読書」も、真に効果的にいとなまれうるのではないでしょうか。
 
 読書にかぎらず、「行方定めぬそぞろ歩き」としての遊びは、ゆたかな人間体験の裾野を形づくるもので、そのうえにこそ人生の高い山が築かれるのだ、と思います。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p49-56)
 
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◎「無駄」がじつはけっして無駄でない……。この学習通信≠フ内容もあっちいったりこっちいったりと無駄の連続のようにみえるかもしれません。しかし、それらが総合されだしてきたとき飛躍が起こるやもしれません。学ばない者にそうした飛躍は起こらないことは確かですから……。
 
◎マルクスやエンゲルスの科学的社会主義の古典≠1冊ももっていなくても、読んだこともなくても、聞いたこともなくても……学習通信≠読んでいるだけでもその古典≠読んでみたくなりません? それ! 成長ですよね。