学習通信031125
◎道徳…… 自然に子どもたちの柔らかい頭にすり込まれ──
 
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何でも許す寛容な神だけでは道徳は守れない  稲盛
 
 そして、いまの時代にうってつけの道徳をあらためて打ち出したら、次はそれを頑(かたく)なに守ろうとすることが大切です。たとえ守りきれなくても、守るためにはどのような補強″を心に施せばいいのか、それを考えることも重要だと思います。
 
 先ほどの遠藤周作さんの話でも出ましたが、従来、われわれの心を規制していたのは、キリストの教え、お釈迦様の教え、マホメッドの教えなど、いろいろな宗教でした。しかし、いまやその人々の心を規制していたはずの神が、非常に寛容になっています。
 
 もし、神が道徳や戒律を守らなくても許してくれるとすれば、どんな道徳を提示されたところで、それを守ろうとする力は弱くなるはずです。たとえば、信心深いカトリックの信者にとっては、踏み絵は命を懸けてでも踏んではならないものです。こうした融通の効かない頑なな神であるからこそ、思想は守られるのです。
 
 教えに背くことがあっても、時と場合によっては許してくれる、優しく寛容な神ではなく、少しでも逸脱したら怒りをもって制する。そんな厳しい神がいなければ、どんな立派な道徳を教えても、最後は自分の身を守るため、自分の一族を守るため、自分の立身出世のために、道徳を守らない人が出てきます。たとえ道徳より利己を選んでも、神は許してくれるというわけです。
 
 たとえば「教授になるためには、自分のなかの信念や道徳にもとることをしなければならない」というとき、「生きるための方便として、少しぐらい不正をしてもいいだろう。お釈迦様も、方便は大事だと説いておられる」などといって、許してしまうのです。それでは、未来の社会は暗澹たるものになってしまうでしょう。
 
「サムシング・グレート」という表現があります。ノーベル賞をもらった、ある科学者が言い出したことだそうですが、日本では筑波大学の村上和雄名誉教授が使っておられます。これは、一般にいわれている特定の神とはニュアンスが違い、「何ものかはわからないけれども、偉大なる存在」という意味で、宇宙をつくった創造主だとも考えるわけです。
 
 ところが、われわれ現代人は、自分たちの心をコントロールする、その「サムシング・グレート」を、非常に寛容で慈悲深いものだと解釈して、都合よく変えてしまいました。そのため守らなければならないはずの道徳や哲学も、守らなくても許されると思うようになってしまっているのです。この「サムシング・グレート」をかつてのような厳しいものと捉え直し、われわれの頭上に据える必要があると思います。
(梅原。稲盛著「新しい哲学を語る」PHP p72-74)
 
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 千二百万部の「大ベストセラー」──。文部科学省が全国の小中学生に配布した国定の道徳教材=w心のノート』です。同省は、通達も出して学校現場で活用させようと躍起ですが…。 坂本健吾記者
 
 『心のノート』は、八十〜百二十八nの全部がカラー。イラストや写真がふんだんに使われています。心理学者の河合隼雄・文化庁長官が中心になってつくりました。
 小学一年生が手にする『ノート』を開いてみました。最初は「このノートになまえをつけてね」。その後、書き込み欄がひんぱんに登場します。どの『ノート』も同じパターンです。
 
 「『心のノート』のすごさは、空白の書き込みです」。こう指摘するのは、心理学者の横湯園子・中央大学教授です。
 「最初に自分だけの名前をつけることで、『ノート』は日記のような性格を帯びます。日記は自分の中の自分と会話することで自分を育てます。『ノート』にはこうしましょうねという呼びかけがいたるところにあります。それによって自然に子どもたちの柔らかい頭にすり込まれていく、それが怖い」
 
 『ノート』は、「むねをはっていこう」「思いやる心」「生命をいとおしむ」「我が国を愛しその発展を願う」などの内容を展開しています。
 前出の横湯さんはいいます。「子どもの『荒れ』のもとで、いいものが出たという人は多いと思います。しかし、価値観やモラルは、試行錯誤して身につけるもの。聞達ったらやり直す余裕や子どもへの温かいまなざしが必要です。『ノート』は、この一番大切なことを認めていません」
 
 学校現場で活用が徹底されたらどうなるか。
 「子どもは自分の中にさまざまな逃げ場所をつくろうとするでしょう。不登校は増えるのでは」。こう話すのは、東京・大田区でフリースペースを開いている森光男さん(四六)です。「『心のノート』の善悪二元論の価値観を前提に、子どもに本音をといってもだめです。相手の気持ちをまず受け止めることこそ必要です」
 
 『ノート』には、基本的人権、主権者という、民主主義社会のルールの土台となる概念が出てこないのも特徴です。
 
 日本弁護士連合会は、『ノート』について、「まず、ルールありき」であり、「基本的人権を否定的に解させる」「ルールとは自分たちで作るもの(参加)という視点も、少数者の権利(多文化共生も含め)という視点も、また批判する権利という視点も皆無」と指摘。「使用を直ちに中止すべきである」と主張しています。(六月に出した、子どもの権利条約に基づく第二回日本政府報告にかんする報告書)
 
※『心のノート』
 文部科学省一発行の道徳教材。小学校億・中・高学年用と中学生用の4種類あります。2002年度、全小中学生を対象に配布。同省は、配布・活用状況を調査し、教育現場に圧力をかけています。『ノート』作成の中心人物である河合革雄氏は「21世紀日本の構想」懇談会(小渕元首相の私的諮問機関)の座長も務めました。その最終報告書(00年1月)は、「国家にとって教育とはーつの統治行為」と断じています。国民の権利として、でなく、統治する手段としての教育という考え方です。
(しんぶん赤旗・日曜版 031123)
 
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 原題のPeple Of The Lie≠ナも邦題でも「うそ」というテーマが強調されているが、著者のこだわりは徹底して「邪悪」という問題の方にあるようだ。著者は、「本書がその命題のひとつとしていることは、邪悪性を精神病の一形態として規定できないか、これをすくなくともほかの精神病に向けられていると同程度の科学的研究の対象にすべきではないか、ということである」とか「『邪悪』という名称はわれわれ精神科医の用語に明確な位置を占めるべきである」などと、繰り返し主張する。
 それじたいはひとつの考え方であるから、あえて反論しょうという気はない。この本が世に出たのと同じ年の春、河合隼雄氏の『子どもと悪』(岩波書店)という本が出版されたが、その中で河合氏はこう述べている。
 「『悪の心理学』という著書は今までのところ、著者は寡聞にして知らない。これは意外のようだが、心理学の伝統のなかで考えるとむしろ当然のことである。心理学は近代になって、近代科学の方法論によって学問体系をつくつてきたので、善悪などという価値判断はむしろ研究の対象から除外しており、悪などということは最初から問題にならなかった」。
 
 洋の東西で偶然にも、ふたりの臨床家が「悪の心理学の必要性」を説く。これはなかなか興味深い構図である。ユングならこれを「シンクロニシティ(意味ある偶然)」と呼ぶかもしれない。おそらく、世界のあちこちで悪の心理学の必要性について気づく気運のようなものが高まっているのだろう。
 こう言うと読者は、「では、平気でうそをつく人たち』こそが悪の心理学について論じた最初の本なのではないか」と期待してしまうかもしれない。ある面ではたしかにそうなのかもしれないが、それにしては著者の考え方はあまりに一面的で偏っている。
(香山リカ著「イターネットマザー」河出文庫 p36-37)
 
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 真理と誤謬とにかんしてさえあまりはかばかしくいかなかったが、善と悪とについてはもっとずっと具合いが悪い。この対立は、もっぱら道徳の領域で、つまり、人類史に属する一領域で、運動している。そして、この領域では、(究極の決定的真理)はそれこそいちばんまばらなのである。民族から民族へ、時代から時代へ、善と悪という観念は、はなはだしく移り変わってきて、よく真っ向から矛盾しあったものである。
 
──しかし、<善はそれでも悪ではなく、悪は善ではない。もし善と悪とが一緒くたにされるなら、道徳性はすべてなくなって、だれでも自分の好き勝手なことをしてよいことになってしまう>、とだれか非難する人がいるであろう。──これがまた、その託宣めいた衣をすべて剥いでしまえば、デューリング氏の意見でもあるのである。
 
しかし、この問題は、やはりそう簡単にはかたづかない。もしそれほど簡単にいくものなら、むろん、善と悪とについて争いなど起こるはずもなく、善とはなにで悪とはなにかは、だれでも知っているであろうに。しかし、こんにちの状況はどうか? こんにちわれわれに説教されているのは、どういう道徳か? そこにはまず、以前の信仰ぶかい時代から伝えられてきたキリスト教的=封建的道徳がある。
 
これはまた、大きく見て、カトリック的道徳とプロテスタント的道徳とに分かれ、それがさらに、イエズス会的=カトリック的道徳と正統派的=プロテスタント的道徳とから、ゆるやかな啓蒙主義的道徳にいたるまで、小分けされている。それと並んで、現代的=ブルジョア的道徳があり、さらに、これと並んで、プロレタリア的将来道徳がある。
 
こうして、ユーロッパの最も進歩した国ぐにだけをとってみても、過去と現在と将来とが、同時に並んで通用している道徳理論の三つの大きなグループを提供しているのである。それでは、本当の道徳はどれか? 絶対的な決定的妥当性という意味では、どれ一つとしてそういうものはない。
 
しかし、現在にあって現在の変革を、すなわち、将来を、代表している道徳が、つまり、プロレタリア的道徳が、確かに、長続きする見込みのある要素をいちばん多くもっているであろう。
 
 ところで、しかし、現代社会の三つの階級──封建貴族階級・ブルジョアジー・プロレタリアート──がそれぞれ別個の道徳をもっていることがわかれば、われわれにはただ、<人間は、意識しているにせよ意識していないにせよ、自分の道徳的見解を、結局のところ、みずからの階級的位置の基礎になっている実践的諸関係から──そのなかで生産し交換している経済的諸関係から、汲みとってくるのだ>、という結論しかそこから引き出すことができない。
 
 しかし、そうは言っても、右の三つの道徳理論には、その三者のすべてに共通なものがいくつかある。──これが、少なくとも最後的に確立された道徳の一片ではないのか?──あの〔三つの〕道徳理論は、同じ歴史発展の三つの異なった段階を代表しており、したがって、一つの共通な歴史的背景をもっているのであって、もうそれだけの理由からでも、どうしてもたくさん共通なものをもっていないわけがない。
 
そればかりではない。等しい・あるいはだいたい等しい経済的発展段階では、道徳理論は、どうしても多かれ少なかれ一致しないわけにいかない。動産の私的所有が発生したその瞬間から、このような私的所有が行なわれていたすべての社会にとって、<なんじ盗むなかれ>という道徳のおきてが共通なものとならなければならなかった。
 
このことによって、このおきては、永遠の道徳のおきてになるのか? けっしてそうではない。盗みをする動機がなくなっていて、したがって、いずれはせいぜい精神病者でもない限り盗みを働く人などありえなくなる、そういう社会では、<なんじ盗むなかれ>という<永遠の真理>をおごそかに宣言しようと思う道徳説教師がもしかりにいたとしたら、どんなに笑い物にされることであろう!
 
 それだから、われわれは、なにか或る道徳教義学を──道徳にも歴史と民族的差異とを超えた永続的な諸原理がある、という口実で──永遠の・決定的な・今後変わることのない道徳律だと言ってわれわれに押しつけようとする、不当な要求をすべてはねつける。反対に、<これまでのすべての道徳理論は、結局のところ、そのときどきの社会の経済的状況の所産である>、と主張する。
 
そして、社会がこれまで階級対立のなかを運動してきたように、道徳はいつも階級道徳であった。支配階級の支配と利益とを正当化するか、それとも、抑圧された階級が十分に強力になったそのときから、この支配にたいする反抗と抑圧された人たちの将来の利益とを代表するか、そのどちらかであった。
 
そのさい、人間による認識の他のすべての部門と同じく道徳にかんしてもだいたいにおいて或る進歩が実現した、ということ、これは疑いを容れない。
 
しかし、われわれはまだ階級道徳を乗りこえてはいない。階級対立を超え階級対立の思い出を超えた真に人間的な道徳は、階級対立を克服したばかりかそれを生活の実践にかんしても忘れてしまった、そういう社会段階においてはじめて可能になるのである。
 
さて、そこで、古い階級社会のまっただなかにいながら、そこから、一つの社会革命の前夜に、時代と実在的な諸変化とにかかわらない永遠の道徳を将来の無階級社会に押しつけるという、そういう権利を主張しているデューリング氏の思いあがりがどれほどのものか、判断してほしい! たとえ、氏が──これはいままでのところまだわかっていないが──この将来社会の構造を少なくともその大綱において理解している、と前提してさえも、である。
 
 最後に、もう一つ、「根本的に独自な」しかしそれにもかかわらず「根底にまで達する」暴露がある。
 
こうである、──悪の起原について言えば、
「ネコの類型がそれにそなわった表裏のある性質とともに一つの動物形態のうちに存在している、という事実は、われわれにとって、似かよった性格形成が人間のうちにも見いだされるという事情と同列のものである。……悪は、だから、──ネコまたは総じて肉食獣が存在しているということのうちにもなにか神秘的なものを嗅ぎ出そう、などと思わなければ──なにもふしぎなものではない」。
 
悪とは──ネコである! してみると、悪魔は、角とウマの足とをもっているのではなくて、爪とみどり色の目とをもっていることになる。そして、ゲーテが〔『ファウスト』第一部、「市門の前」の場および「書斎」の場で〕メフィストーフェレスを黒ネコとしてではなく黒イヌとして登場させているのは、許せない誤りをおかしたものである。
 
悪はネコである! これは、すべての世界にあてはまるだけでなくまた──ネコにもあてはまる〔=なんの役にも立たぬ〕道徳である!
(エンゲルス著「反デューリング論-上-」新日本出版社 p134-137)
 
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◎<人間は、意識しているにせよ意識していないにせよ、自分の道徳的見解を、結局のところ、みずからの階級的位置の基礎になっている実践的諸関係から──そのなかで生産し交換している経済的諸関係から、汲みとってくるのだ>と。
 
◎悪≠フ話し繰り返し読んで解きほぐして下さい。福田和也著の悪<Vリーズが書店にならんでいます。
 
◎「階級対立を超え階級対立の思い出を超えた真に人間的な道徳は、階級対立を克服したばかりかそれを生活の実践にかんしても忘れてしまった、そういう社会段階においてはじめて可能になるのである。」……注目すべき箇所です。