学習通信031127
◎平等≠ニは@……「戦後日本の思想基盤としての平等主義が、時代的要請と真っ向から衝突している」
 
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 戦後の思想基盤としての 「平等主義」
 
 戦後日本の基本的思想基盤は「平等主義」であった。それは端的に、戦後日本の平等な所得分配に現れている。欧米に比べれば、どのような指数で測っても、日本の所得分配が著しく平等的であることが確認できる。たとえば、所得の高いほうから上位二〇パーセントまでの人の所得総額と低いほうから二〇パーセントまでの人の所得総額の倍率は、日本では二・七四倍(一九九四年)であるのに対して、アメリカでは一三・一八倍、イギリスでは九・三三倍、韓国で四・八五倍(いずれも八九年)であった。
 
 このことは平社員と社長の所得差にも現れた。アメリカのCEOが天文学的な所得を得るのに比べると、日本の経営者の所得は、交際費などの社用支出分を含めても、著しく低く保たれてきた。会社のなかでは平等ということがもっとも重要な価値基準になった(同期入社はすべて同じ給与でなければならないし、その後も同期の間には少なくともある年齢に達するまでは、できるだけ差をつけないのが普通であった。いわゆる「遅い昇進」制度である。
 
 平等主義は、また、日本企業の共同体的性格を強めたと思われる。資本家が労働者を契約によって雇い、不景気のときには解雇するといった戦前型の労使関係ではなく、従業員が企業に一生を託し、企業と運命をともにする運命共同体の一員であるとすれば、そのような組織をモチベートする仕組みとしての平等主義、年功序列制度は特別の意味を持っていた。
 
日本企業独特の愛社精神やライバル企業に対する激しい競争心などは、日本企業の平等主義、その共同体的性格によるところが大きい。また、企業内組合からつくり出された良好な労使関係は、従業員の多能工化、ブルーカラーのホワイトカラー化、チームワークのよさを生み、それが日本企業の国際競争力のひとつの重要な要因になった(また、平等な所得分配は平均家庭の購買力を高め、モータリゼーションや家電製品の普及を速めることになった。
 
戦後の経済発展のなかで官僚の果たした役割のきわめて重要な部分は、実は具体的な産業政策ではなく、急速な経済発展によって生じる所得分配の不平等化の進展を抑えることにあったという見方さえある。
 
 細部に「平等主義」の痕跡
 
 たしかに、日本の税制や補助金政策などを子細にみていくと、ひとつひとつの政策に細かく弱者保護・平等主義の観点が貫かれていることがわかる。たとえば、所得税制では最低課税限度が外国に比べて著しく高く設定されているだけでなく、累進度がきわめて高いのが日本の著しい特徴である。最近でこそ、最高限界税率は地方住民税を含めて六五パーセントに下がっているが(それでも世界長高の水準だが)、かつては九六パーセントにものぼっていた。
 
節税対策や脱税を含めて、日本の所得税が本当に累進課税であったのかどうかは疑問が残るにしても、このような税制が存続するということは、いかに日本社会の平等指向が強いかを物語っていよう。
 
 あるいはもっと細かい制度のなかにも、必ずといっていいほど、低所得者、弱者保護の観点が入り込んでいる。たとえば、給与所得者の配偶者特別控除制度では、所得が一〇〇〇万円を超える場合は認められない。住宅ローンの残高に対する減税も所得の上限がある。あるいは、児童手当の支給については、所得上限を四一七万八〇〇〇円以下とする。
 
親の年収が九五〇万を超えると日本育英会の免利子奨学金がもらえない(自宅通学、四年生大学生の場合)。このような規定は日本中のほとんどあらゆる法律に入り込んでいるといってよいほどである。これが、日本の諸制度の著しい特徴である。
 
 もちろん、もっと大きな枠組みについても平等主義は貫かれている。たとえば、金融行政における「護送船団方式」は、破綻する金融機関を出さないことを前提にしてきた。これは明白な競争否定・平等主義の一例であるが、このような競争否定・平等主義思想が日本の規制体質を決定的なものにしている。
 
そのほかにも、食糧管理法、運輸分野での厳しい参入規制(たとえば、タクシーの参入規制)など、敗者を出さないための制度が無数に存在している。野口悠紀雄氏が指摘しているように、日本の厳しい規制体系は多くは平等主義の所産なのである。
 
 しかし、経済の国際化、自由化、成熟化が進展した現在、平等主義、競争否定を前提にした日本の制度はあちこちで破綻し始めた。戦後日本の思想基盤としての平等主義が、時代的要請と真っ向から衝突しているのである。それが制度改革への抵抗となって現れ、日本経済低迷の根本原因となっているのである。
 
こういった時代背景のなかで「護送船団方式」をかたくなに維持しようとした大蔵省の金融行政が、住専問題や大和銀行事件で大きくつまずいているのはある意味で当然であろう。様々な規制の体系を容易に改めることができず、それが日本経済の体質を弱体化していることも、平等主義思想が依然として根強く国民の間に浸透していることと密接な関係がある。
 
 このような、日本人に深くしみついた平等思想はどのような意味を持っていたのか。あるいは、それは今後どのように変質していくべきなのか。このきわめて重要な問題も、日本経済の発展段階が今日のような先進国の段階に到達したいま、改めて問い直されるべき時を迎えたのである。
 
 結論をいえば、第一に、平等主義そのものは、もしそれが維持可能なのであれば、当然維持すべきだということである。平等主義的思想はこれまで、日本経済の発展、日本社会の安定性の精神的支柱であった。
 
そして、平等主義自体は人間社会が長年の模索の結果として獲得した英知でもある。第二に、しかしながら戦後日本の平等主義は、「機会の平等」から「結果の平等」に重点が移り、多くの場合、行き過ぎた平等主義、あるいは、「悪平等」がはびこるようになった。努力したものが正当に報われず、努力しなくてもある程度の生活が保障されるようになると、国民のモラルに大きな影響がでてくる。
 
第三に、平等主義は日本という国の規制体質の温床にもなっている。弱者保護という目的で、日本の諸制度はきわめて細部にわたる例外規定が定められ、これが競争否定の源になっていることが多いのである。
 
 このような観点に考慮しっつ、戦後日本の平等主義思想を再検討する必要がある。ただし、本章でこの深遠な問題をすべて論じきることはとうていできないし、筆者の能力を超える。したがって以下では、教育の問題と、企業の問題を中心に考えるにとどめざるをえない。
(中谷巌著「日本経済の歴史的転換」東洋経済新報社 p241-245)
 
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第5章 何のための平等か
 
 「平等」とか「自由」とかいうが、アメリカの独立宣言にあるこれらの言葉は、いったい正確に何を意味するのか。これらの言葉が表現している理念を、生活の現実の場でわれわれは実現できるのか。自由と平等とは、相互に矛盾するところがないのか。それとも両者は相互に衝突する関係にあるのだろうか。
 
 アメリカの独立宣言がなされるずっと以前から、これらの問題こそがアメリカの歴史を形づくっていくうえで中心的な役割を果たしていた。これらの問題にこたえようとする人びとの努力こそが、アメリカの世論の知的風土を形成し、血を流した戦争へと人びとを導き、アメリカの政治的・経済的制度に主要な変化をもたらすこととなった。
 
このようなアメリカ人の努力は、今日もアメリカでの政治的論争を支配し続けてきている。このような努力が、アメリカの過去の歴史だけでなく、将来の歴史をも形づくっていくであろうことは間違いない。
 
 アメリカが建国された初期の何十年間かにおいては、平等とは「神の前における平等」を意味した。自由とは、人びとがそれぞれ自分自身の生活を形成していくにあたっての自由を意味していた。アメリカの独立宣言と奴隷制度との間の明白な相互の衝突は、アメリカの国論を二分した論争の中心となった。
 
その衝突は、ついに南北戦争によってしか解決することができなかった。その後、論争は異なった次元へと移っていった。平等とは、ますます「機会の平等」を意味するようになってきた。すなわち、すべての人は、目的を追求していくにあたって、自分自身の能力を使用するのに、どんな悠意(しい)的な障害によっても妨げられることがあってはならない、という意味での「機会の平等」だ。
 
今日でもこの意味での平等が、アメリカの大半の市民たちにとって、自由が何を意味するかに対する支配的な考えだ。
 
 「神の前における平等」にしろ「機会の平等」にしろ、どちらも人が自分の生活を形づくっていくにあたっての自由と衝突するところは何もない。それどころか、実情はそのまったく逆だ。平等と自由とは、同一基礎的な価値観、すなわちすべての個人は、それ自体として究極的な目的とみなされなくてはならない、というひとつの盾の両面だ。
 
 ところが、最近の何十年間かにおいて、アメリカでは以上とはきわめて異なった自由の意味、すなわち「結果の平等」という新しい意味が出現するようになってきた。いまやすべての人びとが、生活や所得で同一水準になければならないとか、競争の決勝点において同一線上に並ぶようにしなければならない、というのだ。
 
このような「結果の平等」は、明らかに自由と衝突する。この「結果の平等」を推進しようとする人びとの努力こそが、政府をいっそう巨大化させたり、政府にょる自由への制限を生み出す主要な源泉となったりしてきたのだ。
(M&R・フリードマン著「選択の自由」日本経済新聞社 p205-206)
 
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 さらに、もっとも痛ましいことは、人類のあらゆる進歩が原始状態から人間をたえず遠ざけるために、われわれが新しい知識を蓄積すればするほど、ますますわれわれはあらゆる知識のなかでもっとも重要なものを獲得する手段をみずから棄てるということであり、またわれわれが人間を識ることができなくなっているのは、ある意味においては人間をおおいに研究した結果だということである。
 
 人々を区別している差異の最初の起原は、人間の構造に次々に起ったあの変化のなかにこそ求められなければならない、ということを知るのはやさしい。人間は、だれもが認めるとおり、本来相互に平等である。それは、さまざまな物理的原因がある種の動物のなかに今日われわれの認めるような変種を導き入れるまでは、どの種の動物もみな平等であったのと同じである。
 
実際、これら最初の変化が、いかなる手段によって起ったにせよ、まったく同時にしかも同じやり方で種のすべての個体を変質させたとは、とても考えられない。しかし、ある個体は優良になり、あるいは劣悪になって、その本性に少しも固有のものでなかった種々の良い性質または悪い性質を獲得するのに、他の個体はもっと長いあいだその原初の状態に止まったのである。
 
そして、人間のあいだの不平等の第一の源泉とは、このようなものであったが、それをこのように一般的に論証することは、その真の原因を正確に指示するよりは容易である。
 
 それゆえ、読者は、私が見てとることの非常に困難に思えるものを見てとったとあえて自惚れているのだとは想わないでいただきたい。私は、問題を解くという希望からというよりは、むしろ問題を明らかにしてそれを真の状態に戻そうという意図から、いくらかの推理を始め、時にはいくらかの臆測をも辞さなかった。他の人々はこの同じ道をもっと遠くまで容易に行くかもしれない。
 
もっとも、終点に達することはだれにとっても容易なことではないのだが。なぜなら、人間の現在の性質のなかに、根源的なものと人為的なものとを識別し、さらに、もはや存在せず、恐らくは存在したことがなく、多分これからも存在しそうにもない一つの状態、しかもそれについての正しい観念をもつことが、われわれの現在の状態をよく判断するためには必要であるような状態を十分に認識するということは、そう手軽な仕事ではないからである。
 
それには、じつに、この主題についてしっかりした観察するためには、どんな用意をしなければならぬかを正確に決定しょうとする者にとっては、普通に考えられるよりも多くの等さえも必要であろう。そして次の課題に正しい解答を与えることが、現代のアリストテレスやプリニウスにふさわしくないとは私には思われない。
 
すなわち、「自然人を認識することに成功するためには、いかなる実験が必要であろうか、そしてそのような実験を社会の内部で行う手段とはいかなるものであろうか。」
(ルソー著「人間不平等起原論」岩波文庫 p26-27)
 
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 しかし、<平等>という観念についてのデューリング氏の浅薄で不器用な取り扱いにかたをつけたにしても、それだからといってこの観念そのものをかたづけてしまったことにはまだならない。この観念は、とりわけルソーを通して或る理論的役割を演じ、〔フランス〕大革命においてまたそれ以後には或る実践的=政治的役割を演じ、こんにちでもまだ、ほとんどすべての国の社会主義運動において、或る重要な扇動的役割を演じているのである。
 
この観念の科学的内実が確定されれば、プロレタリア的扇動にとってのこの観念の価値も規定されることになるであろう。
 
 <すべての人間は、人間として或る共通なものをもっており、そして、この共通なものが及ぶ限りで、平等でもある>という観念は、言うまでもなく、ごく古い。しかし、現代の平等の要求は、これとはまったく違ったものである。
 
この要求はむしろ、人間であるというあの共有の特性から、人間が人間として平等であるというあのことから、<すべての人間は、あるいは少なくとも一国家のすべての公民または一社会のすべての成員は、平等な政治的ないし社会的尊重を要求する権利をもっている>、という主張を導き出すところにある。
 
人間どうしの平等というあの原初の観念から、(国家と社会とにおける権利は平等である)という結論が引き出せるようになるまでには、それどころかこの結論がなにか自然なもの・自明なものと思われることができるようになるまでには、数千年の年月がたたなければならなかったし、また実際に数千年の年月がたったのである。
 
最古の自然のままの共同体では、せいぜい共同体の成員のあいだの平等な権利しか問題になりえなかった。女・奴隷・外来者は、おのずからこの平等から除外されていた。ギリシア人のあいだ・ローマ人のあいだでは、人間の不平等のほうがなにか或る平等よりもずっと幅をきかせていた。
 
ギリシア人と異民族とに、自由民と奴隷とに、公民と被保護民とに、ローマ市民とローマ服属民(包括的な表現を使えば)とに、平等な政治的尊重を要求する権利を与えようなどとしようものなら、古代人にはどうしても狂気の沙汰としか思われなかったであろう。
 
ローマ帝政下では、自由民と奴隷との区別を除いて、このような区別はすべてしだいに消滅した。こうして、少なくとも自由民にとっては、私人の平等が発生し、これを基礎としてローマ法──私的所有に立脚した法のうちで、われわれが識(し)っている最も完全な発達をとげたもの──が発展した。
 
しかし、自由民と奴隷との対立が存続していたあいだは、普遍的な人間的平等とういうことから法的な諸結論を引き出すことは、問題になりえなかった。これは、つい最近でも北アメリカ連邦〔アメリカ合州国〕の奴隷諸州に見られたところである。
 
 キリスト教は、すべての人間についてただ一つの平等しか、だれでも平等に原罪を負っているという平等しか、認めなかった。そして、この平等は、奴隷と抑圧された人との宗教であるというその性格にまったく見あっていたのである。
 
それ以外には、せいぜい、神に選ばれた人たちの平等を認めただけであるが、この平等は、ごくはじめのころ強調されたにすぎないのである。この新しい宗教の同じくはじめのころに見いだされる財産共有制の痕跡は、本当の平等観念に由来するものというよりは、むしろ、迫害された人たちの団結ということではるかによく説明できるものである。
 
すぐに司祭と平(ひら)信徒との対立が固定化された結果、キリスト教的平等のこういう萌芽もおしまいになった。──ゲルマン人が潮のように西ヨーロッパに押し寄せてきた結果、それまでにまだなかったような込み入った社会的および政治的位階制度がしだいに築きあげられていったために、平等観念は、その後何世紀にもわたっていっさいなくされた。
 
しかし、ゲルマン人の侵入によって同時に西ヨーロッパと中央ヨーロッパとが歴史的運動に引き入れられ、一つのまとまった文化地域がはじめてつくりだされ、そして、この地域に、互いに影響しあい互いに牽制しあうおもに民族的な諸国家の一体系がはじめてつくりだされた。
 
こうして、ゲルマン人の侵入のおかげで、のちの時代に人間の平等な尊重を、人権を、その上で問題にすることができるようになる、唯一の基盤が用意されたのである。
(エンゲルス著「反デューリング論-上-」新日本出版社 p148-150)
 
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◎人間であるというあの共有の特性から、人間が人間として平等であるという──ことから<すべての人間は、あるいは少なくとも一国家のすべての公民または一社会のすべての成員は、平等な政治的ないし社会的尊重を要求する権利をもっている>……。中谷氏は「平等主義が、時代的要請と真っ向から衝突している」というのだが。