学習通信031202
◎学習と働きかけ……教育というものが与え得るもっともよいことは、そのひとが一生自分で……
 
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フランス人の型思考
 
 私がフランスで気づいた二つ目の知性の秘密は、フランス人のしゃべり方に関することだ。
 先ほども書いたとおり、私はフランス人の「君の質問は三つの誤解に基づいている。第一の誤解、それは──」といったしゃべり方に圧倒されていたのだが、フランスに行って、何度かおかしな場面に遭遇した。
 
 日本にいる間、私が出会うフランス人は、インテリたちだった。だから、「理由は三つあるといったら、そのあと、説得力のある理由が三つ示された。ところが、フランスに行ってみると、とりわけインテリでもない人でも、「理由は三つある。第一に──」といった話し方をする。ところが、「理由は三つある」と言いながら、理由が二つしかない場合や四つある場合に何度も出くわした。初めは、こちらのフランス語の聞き取り能力が欠けているために、相手の言葉を理解できずにいるのだろうと思っていたが、どうもそうではないらしい。
 
 「○○の面からすると賛成だが、△△の面からすると反対だ」と言いながら、○○の面も△△の面も賛成であることが少なくない。威勢よく、「歴史的観点からすると、それはノンだ」と言い出したものの、しどろもどろになって、歴史的観点について少しも言わないようなこともある。
 
 それで気がついた。
 どうやらフランスの人たちは、頭の中に自分の論ができあがってから、そのように口にしているわけではなさそうなのだ。言い換えれば、ほとんど「くせ」として、「理由は三つある」「○○の面からすると賛成だが、△△の面からすると反対だ」などと言っているにすぎないのだ。そして、そう言ったあとで、必死になって三つの理由や○○の面や△△の面の根拠を考えているのだ。
 
つまり、「理由は三つある」「○○の面からすると賛成だが、△△の面からすると反対だ」などの「型」があって、それにあてはめて話をしているにすぎないのだ。
 
 知識人たちも、このような「型」が頭に刷り込まれており、それを用いて思考しているのだろう。おそらく、知識人の用いる論理パターンというものが存在し、その「型」のなかで思考しているのだ。だから、無駄なく撤密に思考できるのだ。言われてみれば、リヴィエールの論理展開もサルトルの論理展開も似たところがある。そしてそれは、子どものころから数学の証明問題のように叩き込まれてきた論理形式なのだろう。
 
 おそらく、フランスの人々は学校でこのような口調を身につける訓練を受け、論理的に思考する「くせ」をつけているわけだ。だから、知的に見える。いや、見えるだけでなく、現に論理的に思考できているのだ。
 
型思考の意味
 
 型思考もまた、知的であるために大きな意味をもっている。
 気分によって、考えるべきことを考えなかったり、余計なことを考えたりするのでなく、きちんと手順を守り、遺漏なく考えるべきことを考え、妥当な結論を導き出すのが、論理的に思考するということだ。そのためには、「型」が有効だ。「型」という手順に沿って考えることによって、論理を守ることができる。
 
 もちろん、「型」を守りさえすれば論理的になるわけではない。論理矛盾や飛躍が生じることはある。だが、少なくとも、論理的に考えるための一つの要素を満たすことにはなる。その意味で、「型」を守ることは、論理的に思考するためには、きわめて有効だと言えるだろう。
 
 しかも、その形式を守って思考すれば、論理的に思考することができるだけでなく、自分らしく考えることができる。もっとはっきり言えば、「型」を守ってさえいれば、かなり個性的なことを考えても、客観性を保てるということだ。
 
 「型」を守ると、没個性になると思われがちだが、私はむしろ逆だと考える。個性的なことを考えると、どうしても論理を逸脱し、辻棲が合わなくなり、主観的になっていく。だが、「型」を守って手順を重視すると、そうしたことからまぬがれる。安心して個性的なことを織り込むことができる。その思考は客観性をもつことになる。
 
 モーツアルトは三五年の生涯に六二六曲を書いた。その中には三時間を超すオペラやレクイエムをはじめとする宗教曲などの大作、三〇分前後かかるオーケストラのための交響曲や協奏曲が多数含まれる。『ドン・ジョヴアンこ』序曲を一晩で、しかもビリヤードで遊びながら書いたという有名な逸話がある。
 
 いや、モーツァルトに限らない。ヴィヴァルディもバッハもハイドンも驚異的な数の曲を書いている。彼らが、これほど多数の曲を書けたのは、言うまでもなく、「型」があったからだ。この作曲家たちが、「型」を利用したからだ。「型」を利用して、破綻することなく、次々と名曲を作曲できた。聴衆も「型」があったから、安心して音楽を楽しめた。
 
 作曲家は、「型」──すなわち様式の中に自分の才能をはめ込もうとした。もし「型」がなかったら、モーツアルトは、悪魔から与えられたとしか思えないような驚くべき才能をもて余し、うまく表現できなかったのではあるまいか。おどろおどろしい個性、誰からも理解してもらえないような才能、そうしたものが、「型」を守ることによって、誰にも理解できるような音楽として提出されたのだ。
 
 ときには、その「型」からはみ出し、それを崩し、新しい「型」を作った。だがそうであっても、「型」を応用したことに違いはない。「型」がまったくなかったら、あるいは初めから「型」を無視していたら、「型」をはみ出すこともなかったのだ。「型」を崩し、それからはみ出すということも含めて、「型」を自分のものにするということなのだ。
 
 そもそも、能力のあるものが個性を発揮するのは、ある程度「型」を押しつけられて、それに反発するときではないだろうか。初めから自由にされたのでは、何も身につかない。アカデミックな考え方を知り、それを身につける。だが、だんだんとその形式では窮屈になってくる。そうして、新しい「型」、新しい個性が生まれる。
 
「型」を押しっけられてつぶれるような個性であれば、そんな個性はすぐにつぶされていくだろう。アカデミズムという壁にぶち当たり、それを乗り越えてこそ、強い個性が生まれてくる。ベートーヴェン以降の作曲家たちが独自の音楽を作り出していったのは、古典派の規範があり、それをときに応用し、ときに違反して、自分の個性を強靭なものにしていったからなのだ。
 
 いずれにせよ、「型」を応用することで、論理的に思考でき、しかも個性を鍛えることができるのだ。
(樋口裕一著「ホンモノの思考力」集英社新書 p23-27)
 
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黒沢明監督『乱』への出演
 
 『三番曳』を抜いたことによって、狂言師としての自分の技術に、少しは自信が持てるようになったこの時期に、故・黒澤明監督との出会いがありました。八五年に公開された映画、『乱』です。
 
 出演することになったのは、まったくの偶然でした。
『乱』はシェイクスピアの『リア王』に材を取り、舞台を日本の戦国時代に移したものですが、そのなかに出てくる道化の役が狂言師であるという設定だったので、父が狂言指導で関わっていました。そこで、最後に生き残る盲目の少年「鶴丸」役に、能の『弱法師(よろぼし)』をイメージしていた黒澤さんが、父に、十歳前後の能のシテ方の息子を使いたいという相談を持ちかけたのだそうです。
 
 能楽師の息子何人かの写真をそろえたそうですが、なかに、『三番曳』を披いたときの私の写真も入れてありました。それを入れたのは、大の映画好きである母だと、あとから聞かされました。父が承知していたのかどうか私は知りませんが、狂言のなかだけに浸ってほしくない、いろいろなことを体験させたいという母の思いの表れだったのでしょう。
 
 幸運にもそれが黒澤さんの目にとまって、年は大きいけれども、そのぶんきちんとした演技をしてもらおうということになったらしく、役にせりふもつきました。初めて狂言以外の世界で演じる機会を与えられたのです。
 
 何度も何度も、横浜にある「黒澤スタジオ」に行って、衣装をつけてのテストをしたり、稽古をしたりしました。そのときはそんなものかなと思っていましたが、そのこだわり方は黒澤さんならではのことだと、あとから知りました。役者本位の演技ではなく、黒澤さんのイメージこそが重要だからだと思います。
 
黒澤さんからの指導はせりふの細部にまでおよび、動きについても非常に細かく指導されました。そういう意味では、狂言の稽古に近いところがありました。「黒澤さんは厳しい、こだわる」とおっしゃる方は多いですが、もっと厳しい世界にいたので、黒薄さんの厳しさはあたりまえ。かえって自由だと感じられたくらいでした。
 
 黒澤さんがすれた演技を嫌うということは有名なことですが、私に対しても、狂言で培ってきたものだけを、素直に出してほしいという態度でした。だからこそ、私の出番となったわけです。写実的な表現ではなく、私の身に備わった、様式的な演技を求められました。そこではじめて、自分の身につけたことを人の要求に応じて引き出し、別の世界で表現するというおもしろさを感じました。それは、現在でも、私の活動スタイルの礎になっています。
 
また、型にはまって修業してきた狂言の技術が、新しい創造、表現のための手段になり得る、しかもその技術が自分にはしっかり身についている、ということに気づき、自信を持てるようにもなりました。狂言の技術を、自分を表現するための技術のひとつとして認識できたのです。
 
 ロケの最後は、映画の最後のシーン、夕焼けのなかにたったひとり生き残る鶴丸、というシーンでした。そこには血のように染まった夕焼けが必要でした。夏の九州でのロケで撮影するはずだったのですが、結局、掘りきれなくて、冬に静岡県の御殿場で撮影することになったのです。
 
 ロケは、ちょうど共通一次試験の直前でした。朝から待機して夕方を待ちました。夕焼けのなか、やっと「よーい」の声がかかりましたが、いつまでたってもカチンコが鳴りません。どうしたのかなと思ってしばらくしーんと黙って待っていると、黒澤さんは、「雲の形が悪い」といって、そのままお帰りになりました。スタッフ一同、翌日すべて仕切りなおしです。
 
 たくさんのスタッフがいて、しかも予算のなかでやらなくてはいけない。それでも妥協や我慢はいっさいしない。入試を控えていましたので、勘弁してくれという気もしないではなかったのですが、芸術家の鑑のようなこだわり方には、非常にショックを受けたものです。
 
 妥協しない精神というのを、あれだけ強く見せていただいたというのは、よい経験だったと思っています。いま、私自身がどれだけ妥協しないで活動できているかといわれると、正直いって、つらいところがあります。テレビなどですと、何かと妥協の連続になりがちですし、時間に追われる毎日に、狂言だってほんとうに満足がいくほどこだわって稽古できているか、満足できる舞台をつとめられているかといわれると、やほり考えさせられてしまいます。
 
 黒澤さんは、たいへん背の高い大柄な方ですが、映画監督としては極めて緻密で繊細な方でした。それ以後、いろいろな方と仕事をさせていただく機会を持ちましたが、あれほどスケールが大きく、存在感を感じさせてくださる方は、黒澤さんをおいてはほかに思い浮かびません。
 
世界の名優
 
 同じく高校三年のころ、加藤周一さんの「野村万蔵の藝─文化の普遍性について─」という文章を読んだことも、狂言師の道を選ぶ要因のひとつになりました。
 
 これは、もともと、一九六五年に『図書』(岩波書店)に掲載された文章ですが、受験勉強のためもあって、評論集などを読む機会が増えており、家の本棚にあった『加藤周一著作集』(平凡社)で出会ったものでした。一流の役者として、ジャン・ヴィラール、マリア・カザレス、ローレンス・オリヴィエ、ハンス・モーザーらをあげる一方で、「現在この日本国において、狂言を藝術にしているのは、野村万蔵の存在だということになる。
 
しかしそういう意味で、他のどういう芝居が、今東京で、ほんとうに藝術になっているだろうか。もしなっていないとすれば、野村万蔵の存在は、狂言のみならず、また一般に芝居なるものを、藝術にしているとさえいえるだろう」として、世界のそうそうたる芸術家に匹敵する「名人」として、祖父の名前があげられていたのです。
 
 世界的に有名な一流の表現者たちと、狂言師が並べられるということ自体、私には信じられませんでした。狂言を、創造的な表現、芸術だと思っていなかったからです。狂言も芸術的な評価をうけることができるんだ、表現のひとつなんだと、目からうろこが落ちる思いでした。
 
 子どものころから、確かに舞台には発散できるものがあったとはいうものの、表現として発散しているというよりも、型に押し込められ、抑え込まれている屈辱をはね返したいという思いで演じていました。狂言のなかからしか、狂言を見ていなかったわけです。
 
ところが、自由な表現の場だとも感じたことがなかった狂言が、世界的な芸術として評価されている。自分が思っているような狭い世界じゃないんだなあと発見したのです。加藤さんの文章を読んではじめて、「ああ、父たちはちゃんと表現のひとつとしてやっていたんだ」と、狂言の技術を、広い意味での表現の技術として認識できました。自分のなかで回路がつながった思いがしたのです。
 
 『三番曳』を抜くことによって技術が上がり、表現力も増したところで、狂言の技術を用いて表現する場が与えられ、かつ、狂言に対する認識も改まったというわけです。
 
「これが私が表現する場である。自分には表現することができる」という自信を与えられ、「自分のやっていた狂言は、表現のひとつなんだ」と認識する機会に恵まれて、開眼するといってもいいような、目の覚めるような思いがしました。『三番曳』『乱』、そして、加藤周一「野村万蔵の藝」の三つによって、私は狂言師として生きる道を選ぶことになったのです。
(野村萬斎著「萬斎でござる」朝日文庫 p43-49)
 
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 わたしの教育の精神は子どもにたくさんのことを教えることではなく、正確で明瞭な観念のほかにはなに一つかれの頭脳にはいりこませないことにある、ということをいつも忘れないでいただきたい。たとえかれがなに一つ知らなくても、わたしはかまわない。ただかれがまちがったことを覚えるようなことさえしなければそれでいい。
 
そしてわたしがかれの頭のなかに真理をおいてやるのは、ただ、実理のかわりに覚えこむかもしれない誤謬からかれをまもってやるためなのだ。理性、判断力はゆっくりと歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる。そういう偏見からかれをまもってやる必要があるのだ。
 
ところが、学問そのものを目的とするならば、あなたがたは底しれぬ、果てしない海、暗礁だらけの海にはいっていくことになり、そこから抜けだすことができなくなる。
 
知識への愛にとらえられ、その魅力に心をさそわれて、あれもこれもと追っかけまわしてとどまることを知らない人を見るとき、わたしは、海辺で貝殻を拾い集め、まずそれでポケットをいっぱいにし、ついで、また見つけた員殻に気持ちをそそられ、投げ捨ててはまた拾い、しまいには、あんまりたくさんあるのでやりきれなくなり、どれをとっておいたらいいかわからなくなって、とうとうみんな捨てて、手ぶらで家へ帰って行く、そんな子どもを見ているような気がする。
 
 最初の時期のあいだは、時間は長かった。時のもちいかたをあやまることを恐れて、わたしたちは時を失うことしか考えなかった。いまではまったくはんたいに、いずれ役にたつあらゆることをするために十分な時間がわたしたちにはあたえられていない。情念がまもなくやってくることを、そして、ひとたび情念が戸をたたくことになると、あなたがたの生徒はもうはかのものには注意をはらわなくなることを考えなければならない。
 
やすらかな知性の時期はひじょうに短く、たちまちに過ぎ去っていき、この時期にはほかにもいろいろとしなければならないことがあるのだから、子どもを物知りにすることができればそれで十分と考えるのは愚かなことだ。
 
子どもに学問を教えることが問題なのではなく、学問を愛する趣味をあたえ、この趣味がもっと発達したときに学問をまなぶための方法を教えることが問題なのだ。これこそたしかに、あらゆるよい教育の根本原則だ。
 
 一つのものに長いこと注意をむけるようすこしずつならしていかなければならない時期にもなっている。しかし、けっして強制ではなく、いつも楽しみと欲求とがそういう注意を生みだすのでなければならない。それがかれにはつらく思われ、ついにはやりきれなくなる、といったことにならないよう十分に気をつけなければならない。
 
だからたえず見はっていなければならない。そして、どんなことになっても、なんでもかれが退屈しないうちにやめることだ。なにか学ぶということはそれほど大切ではないので、心ならずもなにかするようなことはけっしてない、ということのほうが大切だからだ。
 
 かれのほうから質問してきたら、好奇心を十分にみたしてやるのではなく、それをはぐくむのに必要な程度の返事をしたらいい。ことに、なにか知ろうとして質問するのではなく、いきあたりばったりにくだらない質問をしてあなたがたを困らせようとしていることがわかったなら、返事するのをすぐにやめることだ。
 
そのばあいには、かれはもう事物には関心をもたないで、ただ自分の質問に答えさせようとしているにすぎないことはたしかだ。かれが発することばよりもむしろかれに話をさせる動機に気をつけなければならない。こういう注意は、これまではそれほど必要でなかったのだが、子どもが議論をするようになるとすぐに、このうえない重要性をもつものとなる。
 
 それによってすべての学問が共通の原理にむすびつき、あいついで展開されていく一般的な真理の鎖ともいうべきものがある。この鎖が哲学者たちの方法である。
 
ここで問題になるのはこの鎖ではない。それとはまったくちがった鎖があり、それによってそれぞれの個別的なものがほかのものを招きよせ、つねにそれにつづくものを示して見せてくれる。それらのものがすべて要求する注意を、たえまない好奇心によってはぐくんでいくこの順序は、大部分の人が従っているもので、とくに子どもに必要なものだ。
 
わたしたちは、地図をつくるために方向をきめるばあい、子午線を引かなければならなかった。朝と夕方とのひとしい影の二つの交点は十三歳の天文学者にとってはりっぱな子午線をあたえる。しかしこの子午線は消えてしまう。それを引くには時間がかかる。
 
それはいつも同じ場所で仕事をすることをやむなくさせる。いろいろな心づかい、いろいろな拘束が、やがてかれにやりきれない思いをさせるにちがいない。わたしたちにはそれがわかっていた。そこであらかじめその対策を考えることになる。
(ルソー著「エミール-上-」岩波文庫 p296-299)
 
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 その座談会で一人の少女が、学校のつまらなさ、について、軽蔑をふくんで発言したことを、学校当局は、教育そのものを否定している生徒はおけない、といって処分した。その処分をめぐるいきさつに、その少女の親であるひとの、すこし普通の暮らしの人たちとちがう態度も作用しているようだが。
 
そのように、一人の少女の発言をめぐつていきりたったおとなたちにかかわらず、その座談会について批評をよせている年わかいひとたちの判断は、平静であり、考えるべき点をとらえて考えている。学校がつまらないということ──旺盛な知識欲をみたすほんとの勉強が学校にはかけているということについて、こんにちの若いひとの苦痛は、共通である。
 
それは無理もない。学校教育というものが与え得るもっともよいことは、そのひとが一生自分で勉強をつづけてゆけるために必要な勉学というものの「方法」を身につけさせるという点になければならないのに、きょうでは先生たちさえも、まだそこに重点をおいていいのだという自信をもつていない。
 
 だけれども、ただの学校否定に意味ないことを、わかいひとびとの批判は、とりあげている。アナトール・フランスが風刺したように、空びんのように「行儀よく並んでつぎこまれる」のをおそわるのではなく、学びとる自立的な態度をもとめている。
 
同時に、十代のひとたちの大部分は、ジャーナリズムの場面に出席して語っているひとたちよりも、もつと日本のきょうの一般的な現実に即して生活しているし、自主的な未来の生活設計に腐心しているという事実をあげて、率直に自然にかかれていた。十代のひとびとの人生に、アルバイトがはいってきている。それは不思議でないことになった。
 
おとめは、夢のうちに生きず、現実に、人間の女性としての可能をためそうとしつつある。その態度にこそ、新鮮な十代のほこりと美とがある。おとな対十代のひとという古い関係で見ることはなくならなければならない。あなたも、そしてわたしたちも、ひろい人間としての関係の中に十代は自身を示していいのだと思う。
 
 十代のひとが醜(みにく)いと感じることは、おとなの世界でも多くの場合醜いことである。それが人間としての醜さとして社会生活の判断に適用するような社会、十代のひとたちが、よりよく生きようと熱望する、その熱望が、すべての人々の熱望に通じて行為されるような社会にしてゆくこと。
 
自分自身を偽(いつ)われず、新しい世代の何ものかであろうと欲する十代の美徳をわたしたちは、生涯のいつのときにも失ってはならないと思う。(宮本百合子著「若き知性に」新日本新書 p80-82)
 
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──「型」を守って手順を重視すると、そうしたことからまぬがれる。安心して個性的なことを織り込むことができる。その思考は客観性をもつことになる……
 
──狂言の技術を、広い意味での表現の技術として認識できました。自分のなかで回路がつながった思い……
 
──子どもに学問を教えることが問題なのではなく、学問を愛する趣味をあたえ、この趣味がもっと発達したときに学問をまなぶための方法を教えることが問題なのだ……
 
──教育というものが与え得るもっともよいことは、そのひとが一生自分で勉強をつづけてゆけるために必要な勉学というものの「方法」を身につけさせるという点になければならない……
 
◎あなたはどのような姿勢で学び仲間と対話しているのだろうか?