学習通信031205
◎学習と働きかけ……生きてゆくうえで、もっとも楽しいことのひとつは、ものを学ぶこと
 
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  なんで勉強するの?
 
 人間は生れつき好奇心がもっとも旺盛な動物である。子猫や子犬も好奇心にあふれた動物で、家の中を隅々まで探検したり、床にころがる紙くずに半日も飽きずにたわむれたり、人間の何気ない所作に特別の興味を示したりすることもあるが、人間の子供には及ばない。
 
子猫や子犬のばあい、ある程度まで成長すると、人間がいろいろ工夫をこらして興味を惹こうとしても、泰然自若として人間を無視するようになる。
 
 好奇心は目でものを見たり、手でものに触れたりするところからはじまるが、これにものを考える能力が加わると、好奇心は飛躍的に拡大する。子供を育てた経験から言うと、子供の好奇心が一挙に拡大するのは、ひとつの文章のかたちでことばを喋ることができるようになる頃である。
 
人によって多少の違いはあるが、だいたい二、三歳の頃であろうか。その頃、私は子供から毎日いろいろなことをめぐって質問ぜめにあい、それに誠実に答えるためにずいぶん頭をひねったことをおぼえている。
 
 たとえば、「雨はどうして降るの?」と子供は質問する。子供が知っている少ない語彙のなかでこれに答えるのはむずかしい。そもそも、どうして雨が降るのか、たしかなことはこちらにもよくわかっていないことに気づく。そこでこんなふうに答える。
 
「それは、空にある雲が重くなって、下に落ちてくるからだよ」
 子供はこの答で納得したようで、それ以上、この件については質問しなかった。
 
 こうして子供は大きくなり、小学校にはいる頃になってつきつけられたのが、次のような重大な質問である。
 
「なんで勉強をしなくてはいけないの?」
 
 この質問にどう答えることができるかが、親にとっても、そして学校の先生にとっても正念場である。子供といえども、それなりにものごとを、そして、自分の人生というものを真剣に考えているものである。わけもわからないままに、命令されることに従うという心の習慣だけはつけさせたくないと考えて、子供の質問に真正面から答えようと努めたが、なかなかうまい答がみつからない。
 
 小学校へはいったら、みんな勉強することになっているのだから、と言っても答にはならない。大人になって社会ではたらくときのために学校の勉強が必要になる、と説明しても、子供には大人や社会がどんなものなのか見当もつかないだろう。
 
そんなもののために、一日の大半の時間を教室に閉じこめられて過ごさねばならないのは、子供にとって拷問のようなものであろう。それは、わけのわからないことのために現在を犠牲にすることに等しく、現在を犠牲にすることは空しい人生を送ることにほかならない。
 
 私は、こうして、人生のどの段階にあっても空しい生き方をしないことが肝心と考え、こんな意味のことを子供に答えた──花の名前ひとつおぼえても人生はゆたかになる、これから君が生きてゆくうえで、もっとも楽しいことのひとつは、ものを学ぶことであって、その楽しさを知るために学校での勉強が役に立つんだ、と。
 
 いま大学生になった息子はものを学ぶことの楽しさにだいぶ目覚めているように見うけられ、私のことばが生きているのではないかと親馬鹿の気分に浸っているが、くりかえし述べてきたように、ものを学ぶことの楽しさを体得することは、人間の幸福と大いに関わりがあるというのが私の一貫した考えである。
 
肝心なのは、その楽しさにいつ目覚めるかということである。そして、子を育てる親や、生徒を教える教師にとって最大の難関は、いつどのようにしてものを学ぶ楽しさを子や生徒に実感させることができるかということである。一度ものを学ぶ楽しさを実感した人間は、あとは放っておいても、持ち前の好奇心に先導されて勉強し続けるものである。
(木原武一著「天才の勉強術」新潮社 p131-132)
 
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 自然法則の探求においては、いつも、もっともありふれた、そしてもっともはっきりした現象からはじめるがいい。そして、そういう現象を、理論としてではなく、事実としてとらえるように生徒をならすがいい。わたしは一つの石をとりあげる。それを宙におこうとするようなふりをする。わたしは手をひらく。石は落ちる。わたしがすることに注意していたエミールの顔を見て、わたしはきく。なぜその石は落ちたのですか?
 
 この質問に答えられない子どもがどこにいるか。どこにもいない。エミールでさえ、わたしが骨を折ってそれに答えられないようにしておかなかったなら、答えられるだろう。みんな、石は重いから落ちる、と言うだろう。では、重いものとはなにか。それは落ちるものだ。それでは、石は落ちるから落ちるのか。
 
ここでわたしの幼い哲学者はだまって考えこむ。これが理論物理学の最初の授業だ。そしてこれは、そういうたぐいのことでかれのためになるにしてもならないにしても、とにかく良識を養う授業となるだろう。
 
 子どもの知性が発達するにつれて、ほかに重要な考慮から、子どもの勉強することをもっと選択してやらなければならなくなる。
 
自分というものを十分によく知るようになり、自分にとってよい生活とはどういうものかわかってくると、かなりひろい範囲の関連をとらえることができるようになり、自分に適したものと適しないものとが判断できるようになってくると、子どもにはもう、仕事と遊びとのちがいが感じられ、遊びは仕事の骨休みとしか考えられないようになる。
 
そこで、現実に役にたつことが子どもの勉強にとりいれられることになり、たんなる遊びに示していたよりいっそう持続的な熱意をそれにむけさせることになる。たえず新しく生まれてくる必然の掟は、もっと不愉快な悪をまぬがれるためには不愉快なことでもしなければならないことをはやくから人間に教える。
 
これが先見の明ということの効用であり、この先見の明をよくもちいるか悪くもちいるかによって、人間のあらゆる知恵とあらゆる不幸が生まれてくる。
 
 人はみな幸福でありたいと思っている。しかし、幸福になれるには、幸福とはどういうことであるかをまず知らなければなるまい。自然人の幸福はその生活と同様に単純だ。それは苦しまないことにある。それは健康、自由、必要なものから成りたっている。倫理的な人間の幸福は別物だ。
 
しかしここで問題になるのはそういう幸福ではない。子ども、とくに、虚栄心を呼びさまされていない子ども、まだ臆見という毒物によって腐敗させられていない子どもの興味をそそることができるのは、純粋に肉体に属するものだけだということを、わたしはなんどでもくりかえして言わずにはいられない。
 
 子どもが、必要を感じるまえにそれを予見するならば、かれらの知性はすでにひじょうに進んでいるのであり、時間というものの値うちを知りはじめているのだ。そうなったら、有用なことに時間をもちいさせるようにしなければならない。しかし、それは、その年齢にも感じられる有用性、子どもの知識で十分にわかる程度の有用性をもったことでなければならない。
 
道徳的秩序に属すること、社会的な効用に属することはすべて、そんなにはやくから子どもに示すべきではない。子どもにはそういうことは理解できないからだ。漠然と、ためになるからと言ったところで、子どもにはなんのためかわからないのに、そして、大きくなってから得をするだろうからと保証したところで、さしあたって子どもにはその得がどういうことかわかりもせず、それになんの興味も感じないのに、いろんなことをさせようとするのは能のないやりかただ。
 
 子どもは、そう言われたからといってなにかするようではいけない。子どもにとっては、自分でよいと思っていることのほかにはよいことはない。いつも子どもの知識よりも先ばしったことをさせようとするあなたがたは、先見の明をもちいていると思っているが、あなたがたにはそれが欠けているのだ。
 
おそらく子どもがけっしてつかう機会のないなにかつまらない道具をあたえようとして、あなたがたは、人間がもっている万能の道具を、つまり良識を、子どもからとりあげるのだ。あなたがたは子どもを、いつも人の意のままに動かされ、他人の手で動かされる器械のような急にしかなれないようにしつけているのだ。あなたがたは、子どもが小さいときは従順であることを望んでいる。それは、大きくなって、信じやすく、だまされやすい人間になることを望んでいることになる。
 
あなたがたはたえず子どもにむかって言う。「わたしがあなたにもとめていることは、みんなあなたの利益になることなのですよ。ただ、あなたにはまだそれがわからない。わたしには、わたしがもとめていることをあなたがしようとしまいと、なんのかかわりがあるでしょう。
 
あなたが勉強するのは、ただ、あなた自身のためなのです。」こういうすばらしいことば、子どもをすなおにしようと思って、現在あなたがたが言ってきかせるこういうことばは、将来、幻想家、錬金術師、薮医者、詐欺師が、あらゆる種類の気ちがいが、おとし穴に誘いこむために、自分の気ちがい沙汰を信じこませるために、かれに語ることばを首尾よくうけいれさせることになる。
 
 大人は、子どもがその有用性を理解できない多くのことを知っていなければならない。しかし、大人が知っていなければならないことをすべて子どもが学ぶ必要があるのだろうか、また、学ぶことができるのだろうか。子どもにはその時期に有益なすべてのことを教えるようにするがいい。それだけで、かれの一日の時間は十二分に利用されていることがわかるだろう。
 
なぜ、こんにちかれにふさわしい勉強をやめさせて、かれが到達できるかどうかまったくおぼつかない時期の勉強をさせるのか。しかし、とあなたがたは言うだろう、実践する時になって知っていなければならないことを学ぶのは時機をえたことだろうか。わたしにはわからない。
 
ただ、わたしにわかっていることは、もっとはやく学ぶことはできない、ということだ。わたしたちのほんとうの教師は経験と感情なのであり、けっして人間は人間にふさわしいことをかれがおかれている関連の外で十分によく感じることはないからだ。子どもは自分が人間になるように生まれついていることを知っているし、人間の状態についてかれがもつことのできるあらゆる観念はかれの知識をひろめる機会となる。
 
しかし、人間の状態についての、かれの能力をこえた観念にたいしては完全に無知でいなければならない。わたしの書物ぜんたいはこの教育原則をたえず評明しているにすぎない。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p309-313)
 
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◎「けっして人間は人間にふさわしいことをかれがおかれている関連の外で十分によく感じることはない」……と。
 
労働者が学ぶということ、私たちが働きかけるということ、「おかれている関連の外」では成功しないのです。
 
事実としていま日本が戦争に巻き込まれつつあることを仲間は感じ取っているのではないか。そこから私たちは何を提起しなければならないのだろうか。