学習通信031207
◎うそ ……ウソをつかない力、ウソをつかないで生きる能力
 
■━━━━━
 
 私たちが嘘をつく理由は二つある。何らかの利益を得るため、あるいは痛みを避けるためだ。ただ幸いなことに、ふつう人は嘘をつくと罪悪感を覚え、後悔し、落ちつかなくなる。真実を隠しつづけておくことはなかなかできない。だからこそ、相手は真実を言ったのか、それとも嘘をついたのか確かめることができるのだ。少し練習すれば、相手のしぐさを読みとって判断することも可能になる。……
 
嘘には種類がある
 
 嘘は基本的に四種類に分けることができる。たわいのない嘘、相手のための嘘、悪意のある嘘、欺くための嘘だ。
 
 たわいのない嘘は、身も蓋もない事実でおたがいを傷つけたり、侮辱することなく社会生活を送るために、なくてはならないものだ。相手のための嘘とは、他者を助けることを目的につく嘘を指す。たとえば戦争中、ユダヤ人をかくまった農民が、ナチに詰問されても嘘をつきとおしたという逸話がある。
 
また自動車事故でからくも救出された子どもに、お父さんもお母さんもだいじょうぶだよととりあえず嘘をつくのも、子どもの心の傷が深まるのを防ぐためだ。治る見込みのない患者を元気づけようとして医者がつく嘘も、この嘘に分類される。薬効はないものの、治ると信じている患者に与える偽薬もその一種だろう。……
 
 悪意のある嘘は、自分の利益のために相手を傷つけたり、不利な立場に追いやるときにつく嘘だ。……欺くための嘘には、隠蔽と虚偽という二つの形がある。隠蔽とは、嘘をつくというより真実をわざと告げない行為だ。
 
……悪意のある嘘は、自分が得をするため、または復讐のためにつくことが多い。俳優や政治家、大富豪といった有名人が対象になることもある。また競争相手の評判を落とし、決定的な打撃を与えるための武器にも使われる。企業でも、ライバル企業の財務状況が悪いという噂を流すことがある。悪意のある嘘は、その内容がどんなに突拍子もないものでも、一度出たらなかなか消えない。……
 
嘘つきにも種類がある
 
「生まれついての嘘つき」は、相手を欺く能力に自信があって、子どものときから他人をだましてばかりいた人だ。ほんとうのことを言ったらお目玉を食らうので、親に嘘をついてごまかすことを覚えた場合が多い。大きくなったらその能力を活かして、セールスマンや役者、政治家、スパイになったりする。
 
 「嘘がつけない人」もいる。子どものとき、嘘はぜったいに通用しないと教えこまれ、実際に嘘をつくたびにおとなに見抜かれてきたような人だ。「自分は嘘がつけない人間」と言いはって、誰かれかまわず真実を言いまくつて、周囲を怒らせ、トラブルを引きおこす。
(アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ著「嘘つき男と泣き虫女」主婦の友社 p253-257)
 
■━━━━━
 
ウソをつかない力
 
 
 ウソをつかない人。家族からでも、友達からでも、そのように認められたなら、大きい価値です。なにより大きい価値といっていいかも知れません。そこでウソをつかない、といえる人を実地に見ると、そのような性格だ、と感じられることがあります。また、あの人はそのように決意して、ウソをつかない人間になったのだ、とわかる場合があります。
 
 育ってくるなかで、自然にウソをつかない性格が作られた人は幸せだと思うし、人生のある段階でそのように決意して、守ってきた人には、尊敬の心を持ってきました。……
 
 
 さて私は、若い時に、むしろ自分のウソということを考えていて、ウソをつかない性格、ウソをつかない決意とはまた別に、ウソをつかない人の条件がもうひとつある、と気が付きました。
 
 それが、ウソをつかない力、ウソをつかないで生きる能力、ということです。そして、この力──能力──は、自分のなかできたえてゆくことのできるものだとも思います。
 
 それは、ウソをつかない勇気に似ているところがあります。しかし、むりに勇気をだして、というのじゃなく──むりにでも、勇気をだすことが必要な時はありますが──自然な生き方として、私が文章のなかで幾度か使ってきた言葉でなら「生きる習慣」として、それが身についている人の場合、私はウソをつかない力がある、とみなすのです。
 
 皆さんは、これまでに出会ってきた人たち、またいま教室ほかで一緒になる人たちについて、あの人は強い人、そしてあの人は弱い人という印象を持つことがあるのじゃないでしょうか?
 
 それも、具体的な例を思い浮かべればわかることですが、強い人または弱い人がはっきり固定しているのではなくて、思いがけない時に、強い人が弱い人になるし、その道もある、ということを経験していられるでしょう。そしてそれでも、ああ、あの人は強い人だ、と思う人があり、弱い人だと感じる人がいるでしょう。あるグループのなかのこととして考えれば、そこではたいていこういう区別ができているものです。
 
 そして、強い人でウソをつく人が、いちばん困る相手です。こういう人は心のなかに意地悪なところを持っていて、それを押し通す。むりにでも押し通そうとして、ウソをつく。このタイプの人に、私は子僕の時──大人になってからでも──幾人か出会いました。子供の時は子供なりに、大人になってはより複雑に、辛い思いをしたことを忘れないでいます。
 
 一方、弱い人であるために、必要のないウソをつく人も見てきました。村のいろんな場所にあった小学校の分校から、ひとつの中学校にまとめられ、新しく多くの同級生ができたなかに、そういう男の子がいました。いま新開やテレヴィで報道されるものほどあくどいイジメではなかったのですが、かれはその対象になりました。イジメの圧力をいくらかでもかわそうとして新しいウソをつき、さらにイジメられる、というようでもあったのです。
 
 私は、そのイジメには加わりませんでした。しかし、その子の側に立って、イジメから自由になれるよう一緒にがんばる、ということはしなかったのです。そして心のなかで、自分はあの弱くてウソをつく少年がイヤなのだ、と口実を作っていました。子供だった私自身について、それこそイヤな気がする記憶です。……
 
 
 さて、ウソをつかない力について話を続けます。皆さんもテレヴイの国会中継やニュースで見られたはずの、政治家が国会の証人としてウソをついた、また記者会見でウソをついていたとわかった、しばらく前の一連の出来事をとりあげることにしましょう。
 
 まず、強い人でウソをつく人が、そのウソをあかるみに出されました。テレヴイニュースが、何度も同じヴィデオテープを映し出すのを見られたと思います。皆さんは、それらの国会議員たちが、ウソをいっていたと見破られながら、目の前にいる同僚の議員たちや、テレヴイを見ている数多くの国民に対して、恥ずかしいと感じている様子がないことに驚かれたでしょう。
 
 ウソをつかない力のひとつに、自分が自分に持っている「誇り」があります。皆さんが自分のなかに目を向けて、そこに「誇り」のかたまりがあるとあらためて確かめる機会は、あまりないかも知れません。しかし、自分の「誇り」を、両親や兄や姉、また先生にさえも無視されたと感じる。そうした仕方で、自分の「誇り」に面と向かう、それはよくあることです。私は子供のころの自分を思い出していうのです。
 
 ここでひとつウソをついても、誰にもわからない。それでもウソをつくまい、と思う。それは、ウソをつくことで、自分の「誇り」が傷つく、と感じるからです。
 
 私は子供の時の記憶と、大人になった自分の家庭で、障害のある子供と健常な子供たちを育てた経験から、子供には確かな「誇り」のかたまりが、心のなかにあると知っています。
 
 そして、いまの年齢になって、私は、子供のころにはありながら、大人になると失われる人間の性質のなかで、「誇り」こそ、いちばん大切なものじゃないか、と考えるのです。「誇り」をなくした大人がウソをつき始めると、とめどがありません。この場合、ウソをつくまい、と自分でがんばることはしないのですから、周りの人がそのウソをつきとめて、取り消させるほかありません。
 
 他の人が、とくに強い人のつくウソを見ぬき、はつきりさせて、それが良くないことだと思い知らせるためには、国会議員の例に戻るなら、次の選挙で当選させないのが最良です。民主主義のルールのなかでも、なにより根本的で、かつ有効な方法です。
 
 皆さんは、大人になって選挙権を持ったなら、ウソをつく強い人に投票しない、と今から原則を作っておいてください。
 
 
 ウソをついたことを──この場合、過去に不正をしていながら、そういうことはなかった、と記者会見でいったのを──見ぬかれて、国会議員をやめた人のなかにも、この人は、強い人のように見えていたけれど弱い人だった、この人のウソは弱い人のつくウソだったのだ、とわかる女性がいました。
 
 この人が、弱いためにウソをついたと私が考えるのは、初めて国会議員になった時──議員として同じ権利を持っているのに、若かったり、女性だったりというようなことで、弱い立場におかれているのです──、同じ党の先輩議員や、秘書として永年仕事をしてきた人たちのいうことを、不正だと知っていながら断ることができなかった人だからです。
 
 その上で、周りにも同じことをする人たちがいて、自分の不正もとがめられないとなると、これでいいんだ、と思う。あれはやはりよくなかった、と自分でやりなおすことができなかった人だから、私は弱い人だと考えるのです。
 
 こういう人には、ウソをつかない力がない、と私はいうのです。
 いや、あの女性は弱い立場でやってしまった不正を認めたなら、自分の不正に協力した人たちを困らせることになるから、ウソをつきとおしたんだ、むしろ自分を犠牲にしたのだ、という人がいるかも知れません。
 
 しかし、そう考えても、やはりあの女性には、ウソをつかない力がなかったのだ、と私は思います。もしその力があれば、自分より他の人の不正を──それがはっきり不正であるとわかっている人に対しても、ぼんやりとしかそのことを知らないで協力した人に対しても──少しずつでも正しい方向に戻して行って、最後に、自分の責任をとれたはずだと思うからです。
 
 
 子供には、子供としての社会があります。そのなかで人を傷つけず、自分も傷つけられないで生きてゆく。そのためには、大人が社会で働かせる知恵にあたるものを、子供の社会でも発揮しなければなりません。
 
 そこで私は、ウソをつかないでは周囲との関係がうまくゆかないような場面におちいっても、なんとかウソをつかないでやってゆく工夫をしてもらいたい、と思います。
 
 この人と仲良くやっていると、ウソをつかなくてはならなくなる、という心配があれば、その人とは、距離をおくことにすればいい。それで相手が反省してくれればけっこうなことです。その反対に、やがてウソをつかなければならなくなると不安だったのは、自分の弱さに原因があったと気がつけば、勇気をだしてあやまればいいのです。
 
 もひとつ、自分にウソをつかない力をつけるために、私が子供の時に考え、いまも使っている方法があります。
 
 信仰を持っている人たちなら、心のなかにある神さま、仏さまを裏切りたくない、と思われるでしょう。はっきり信仰を持っていなくても、やはり自分のなかに、そのように大切なあるものを持っている人は多いはず。もっと一般的に──私はそのひとりですが──これまで会った先生や家族や、先輩、友人のなかに、あの人に対して恥ずかしいことはできない、と思う人があるはずです。
 
 小さいことであれ、自分がウソをつきそうになる時、ほんの短い間でいい、口をつぐんだままでいるのです。そして、あの人がいま自分を見つめているとして、このウソをついていいか、と考えてみることです。
 
 私の場合、そういう人たちとして、大学でフランス文学を教わった先生や、優れた音楽家だった友人や、またこの人は外国人ですが、白血病と闘いながら文学や世界の問題に確実な考え方を示している学者の友人があります。
 
 そういう人たちを具体的にしっかり持っているのも、ウソをつかない力をたくわえることです。
 
 こういう人たちのことを思いながら確かめると、自分のなかの「誇り」ははつきりしてきます。人生の終わりに、心から、ありがとう、さよなら、と私がいいたいのは、これらの人たちに向けてです。
(大江健三郎著「「新しい人」の方へ」朝日新聞社 p88-98)
 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「強い人でウソをつく人……恥ずかしいと感じている様子がないことに驚かれたでしょう。」と。小泉首相は今ウソをついているのでしょうか? イラクで外交官が殺されました。その責任者……小泉首相が殺したも同然じゃないでしょうか。日本でいま一番の嘘つきとは。