学習新聞031210
◎自衛隊がイラクへ……。
 
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余録
 
イラク南東部のムサンナ県に自衛隊を派遣することになった。日本では「派遣」と言っているが、小泉純一郎首相が言うように「日本の自衛隊を、世界は軍隊とみている」。外国から見れば「派兵」「出兵」に違いない。
 
 派遣と言えば、まるで遣唐使でも出すような穏やかな感じがするが、そんな言葉のあやは日本人以外には通用しない。日本はイラク派兵を決断した、というのが世界の常識だろう。だからこそ米国は喜ぶだろうが、アルカイダのような反米勢力からは憎しみを買う。
 
 「戦闘地域」と「非戦闘地域」に分けるというのも言葉のあやだ。イラクにそんな区分がないことはみんな承知している。そもそも自衛隊派遣の大義である「人道復興支援」だって、すぐに再建のツチ音が響きそうな気がするが、持って行くのは個人携帯対戦車弾だの装輪装甲車だ。
 
 首相は基本計画を閣議決定した後、記者会見した。決断は重かったのだろう。表情に余裕がない。「万が一、自衛隊員に犠牲が出たら政治責任を取るか」というそのものズバリの質問が出たが、「その時点で判断する」とかわした。
 
 「自衛隊は人道復興支援に行く。戦争に行くのではない」と首相は力説するが、武力行使はありえないとは言えないから「正当防衛はする」となる。どんな支援かというと「イラク国民から歓迎される活動」と、漠然としている。
 
 ちょうど62年前の今月8日、真珠湾攻撃を知った俳優、古川ロッパ氏は「ラヂオ屋の前は人だかりだ。切っぱつまっていたのが、開戦と聞いてホッとしたかたちだ」(「古川ロッパ昭和日記・戦中編」)と、高ぶった気分を記した。だが、その結果はさんざんだった。それに懲りた日本人が武力行使に特別に敏感であっても不思議はない。
(毎日新聞031210)
 
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 しかし、「みんなで渡れは恐い」ことだってあるのです。たとえば、第二次世界大戦に参加した日本、中国侵略を始めた日本がそうです。それで最後には原爆を投下されて、無条件降伏に至るわけです。あれは「みんなで渡った」結果です。「みんなで渡ったから恐かった」のです。当時、国内に反対する批判者がいなかったために、ああいう結果になってしまいました。
 
一つの集団のなかに、少数グループがあり、あるいは個人の少数意見が生かされたりしていないと、その集団は方向転換することができなくなってしまいます。
 
なぜなら、集団の方向転換は、集団内部の少数意見が、ある日多数意見になったときに起こるからです。けれども、少数意見がもともと内部にないならば、変わりようがない。ただ一つの方角しかないのだから、集団は破滅するまでまっしぐらに進んでいくことになります。ナチスドイツもそうでした。第二次世界大戦前の日本もそうだったのです。
 
一九四一年の一二月に、日本軍は真珠湾攻撃で大勝利をおさめましたけれども、その大勝利によって日本の海軍が西太平洋の海上権と制空権を持っていたのは、四二年六月のミッドゥェー海戦までのわずかに半年、一年に満たない期間でした。
 
太平洋戦争の初期のころから戦況はずいぶん悪かったのです。方向転換の必要性が、一年もたたないうちに、出てきていました。そのあとも、もっと悪くなって、何度も方向転換の必要性があきらかになりました。しかし、結局、方向転換はできませんでした。これは、じつに驚くべきことです。
 
 戦争末期、四五年になって、ポツダム宣言が出ても、まだそれを受け入れない。四五年一月段階の日本には、戦争に勝つことはもとより、連合国に抵抗する能力すら、もう完全になくなっていたのです。それでも、戦争を終結させる方向にかじをきることはできませんでした。
 
 集団がこれはまずいと思ったときに方角を変えるためには、その前から少数意見をその中に保持していなければいけません。そうでなけれは方角を変えられなくなってしまいます。破滅的な戦争をやめることができず、ほんとうに破滅するまで続けるほかないのです。だから少数意見は大事なのです。
 
 少数意見が多数意見となって社会を大きく動かした例があります。六八年の米国です。六〇年代の半ばまでベトナム戦争に対して反対する声は少数意見でした。米国内にはそうした反戦の声はほとんどなかったと言ってよいと思います。それがだんだん大きくなっていきます。
 
いちばん最初は、大学のなかから反戦の声があがりました。始まりは、カリフォルニア大学バークレー校です。それが別の大学にも拡がり、やがて、キリスト教団体など、大学の外にも拡がっていき、最後にメディアにも拡がりました。
 
テレビの全米ネットワークで、当時いちばん有名で影響力があるとされていたアンカーマン、ウォルター・クロンカイトがベトナム戦争批判を展開し、それが政府にも大きな影響を与えました。
 
 こうした声も、初めは本当に少数の意見だったのです。バークレー校の学生の一部の声でした。だから、あなた方も同じなのです。少しの学生から始まっても、それが次第に大きくなって他の学生も支持するようになれは、またさらに大きくなっていくことでしょう。少数意見も、ある程度以上まで拡がると、社会も無視することはできなくなります。必ずそういうときがくると思います。
 
 全会一致型でみんなが同じことをすることが正しくて、「みんなで渡れは恐くない」というのは真っ赤なウソです。そんなばかなことはありません。ほんとうに恐い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。
 
平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。さきほど述べたように、日本の民主主義は平等主義的民主主義だけれど、少数意見尊重の個人主義的な自由主義ではない。それがいま、いちはん大きな問題です。
 
──略──
 
 いまの日本の社会のあり方に対して、あなた方はいつまでも黙っていてはいけないでしょう。それは私たちの世代が若かった時におかした過ちです。自分で考えてください。あなた方が自分の頭で判断を下す必要が出てきている、いまの社会は、そういう状況になっています。
 
そのためには、まず「思うこと」です。そして、もっと「学ぶこと」が必要です。たしかに日本国は改革を必要としていると思います。もし、私がこれまで言ってきたような改革や革命が実現することがあるとすれは、それはきっとあなた方がやることだと、私は思っています。
(加藤周一著「学ぶこと 思うこと」岩波ブックレット p49-54)
 
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 これまでも戦争は、いやというほど論じられてきた。かつては戦争に向かってナショナリズムをかきたてる議論がなされた時期さえあった。本格的な理論書としては一九世紀のはじめ、国民国家どうしが戦争をはじめた頃、プロシャの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツによって書かれた『戦争論』がある。そのなかにはいくつかの重要な主題がある。
 
ひとつは戦争が暴力行為であるということだ。彼は言う、戦争はわれわれの意志に従わせるように敵対者を強制する暴力行為である、と。
 
 クラウゼヴィッツもそうだが、暴力一般のなかに、戦争の暴力をも含めて考えるのが普通である。しかし、この自明のように見える暴力についての考え方は、決して自明ではない。
 
ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論は、反対に、戦争をあらゆる暴力の根底におく。彼は暴力にも歴史性があり、国民国家が戦争をする時代には、国家の法と暴力が緊密に結びついて、戦争暴力が暴力の根源に達すると考えたのであった。歴史の導入がベンヤミンの明察である。そのように考えたからこそ、「暴力の歴史の哲学」という、暴力ないしは戦争にたいする決定的な否定を引きだす思考の次元をベンヤミンは設定しえたのだ。このことは、自明に見えることを鵜呑みにしないひとつの例である。
 
 同じように、クラウゼゲィッツのもっとも有名な主題である「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」も、疑問に付してよい。クラウゼヴィッツは戦争を政治の道具だと考えていた。だが戦争と政治をかくも容易に結びつけてよいものか?
 
 この理論の影響あるいは呪縛はきわめて大きかった。時代によって戦争のやり方は変わったが、いまでも戦争は政治的駆け引きの道具と考えられている。だが、戦争を政治の道具と見なすことは間違っているのではないか? 国民国家が始まろうとする時代の戦争の理論家として、クラウゼヴィッツは政治と戦争を同列においた。冷戦時のいかがわしい核抑止論は、クラウゼヴィッツ理論の残滓(ざんし)だと言えよう。
 
今のユーゴスラグィアとNATOの戦争の場合でも、戦争をやむをえない政治の道具だと考えているのではないか? だが、政治と戦争をこのように単純化して結びつけるのではなく、世界という、もっと複雑な要素の関係のなかに、戦争が発生する位相を見さだめようとしないかぎり、今日の戦争を正確に認識することはできない。
 
 かつて、戦争の原因が人間の本性に求められたことがあった。人間にはほんらい破壊的な衝動があり攻撃性があるのだという、いわば生得論からの説明である。かりにそんな性質が人間にあったとしても、それはただちに戦争に直結するものではない。
 
だが本能論はまったく無意味な仮説ではなかった。暴力を飼い馴らすことをスポーツにもとめるというノルベルト・ユリアスの議論は、この生得の衝動を克服するのが人間の文明だ、というものである(『文明化の過程』ほか)。
 
しかし、ユリアスの議論は半分しか正しくない。社会の文明化、したがって民主化は、戦争技術の進歩と並行し、逆説的にも戦争がよりいっそう残酷になり、非戦闘員を巻きこむことにも結びついていたのだ。このことは悲しいことに、世界が戦争を含んで成り立っていることを示すのだろうか?
 
 本書は、二〇世紀を戦争というひとつの変数によって眺めてみようとしている。戦争だけで二〇世紀は語れないことを承知のうえで、戦争する世界という横断面をつくってみようとしているのだ。そうすると戦争も、単純な戦闘行為ではないはかりか、たんに政治と結びつけて考えられるものではなくなって、世界の多様な領域とかかわりをもっていることが明らかになる。
 
クラウゼヴィッツによる政治と戦争の連結を切り離し、戦争をもっと多元的な世界に開かねはならないことが明らかになる。戦争とは、政治、経済、文化等々がからみあっている歴史的な文明の構図のどこかが崩壊したことではないのか?
 
 クラウゼヴィッツの「政治の継続」なる主張も、戦争を始めるときには妥当に見えるが、戦争が進行すると、戦争の異常な暴力性によってたちまち無意味になってしまう経験を、われわれはしてきたではないか?それは、ほんとうは世界の破壊である戦争を、政治の延長、政治の道具であるかのように世界に組みこんでしまっただけではないのか?
 
 戦争は二〇世紀になってから、ますます非人格化している。そのことをどう捉えるか?戦争の破壊力が超越的なまでに大きくなったことも、その理由のひとつである。そのように恐ろしい力になった戦争が、どうして世界中でいまなお行われているのか? こうした戦争の謎を、一挙に解決できるなどとは思ってもいない。しかし分かる範囲で、この謎を考える方法を提示してみること、本書で戦争を考えようとした理由はそこにある。
 
 われわれは二〇世紀のいくつかの戦争にたいして、ステレオタイプ化した戦争と平和の論じ方におちいらないようにしながら、そこでなにが起こっていたかを問うことにしよう。そして、過去の戦争の記憶が確実に稀薄化していく一方で、戦争の闇がいつの間にかまわりに立ちこめているという現在の状況を認識する方法を見いだしてみよう。
(多木浩二著「戦争論」岩波新書 p2-6)
 
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◎「自分で考えてください。あなた方が自分の頭で判断を下す必要が出てきている」と。イラク派兵に賛成する人の意見を聞こう。なぜ賛成するのか、何に納得しているのか、はじめて対話がなりたつのです。
 
◎「この謎を考える方法を提示」「現在の状況を認識する方法を見いだし」と多木氏が「方法」と。学習通信031202と重ねて学ぼう。