学習通信031213
◎市場主義A……「明らかに、金持ち優遇税制が必要な時期なのです」
 
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競争力をつける王道は「競争すること」。
競争を促進するには「機会の平等」が不可欠
 
 では、私たちは未来に向かって、具体的に何をすればよいのでしょうか。
 まず、ここまで何度も出てきた「稼ぐ力」を高めること、つまり生産性を高めるにはどうしたらよいかを考えてみましょう。
 
 この問題は、そう簡単に答えが出る問題ではありません。世界中どの国も、生産効率をよくして競争力を高め、もっと経済発展したいと考えています。しかし残念なことに、そのための万能薬は存在しません。そんな薬があったら、誰も苦労などしないでしょう。ただ経験的に一つ確かなことがあります。それは、競争力をつけるための王道は「競争すること」だということです。
 
これはみなさんの経験からも実感できるのではないでしょうか。人生のなかで自分が進歩した、成長したという時期は、やはり厳しい競争に巻き込まれて努力していたときのはずです。その時期は、間違いなくつらいと思います。しかし、そのつらさのなかにある前向きなプレッシャーによって、私たちは前進してきたのです。
 
 日本の産業を見ても、これは明らかです。競争力のある自動車や電機・電子といった産業は、規制による保護などはないか極めて少ない産業です。常に、世界の最先端のマーケットで競争しています。
 
 逆に、これまで生産性がなかなか伸びないといわれていた産業はどういうところでしょうか。典型的なのは銀行と一部の農業です。これらの産業が、がっちりと政府に保護されてきた分野であることはいうまでもありません。こうした現実からもわかるように、競争力をつけるには「競争すること」が重要なのです。
 
 ということは、政府が行うべきことの第一は「競争を促進すること」になりますが、実は政府が「競争しろ」などといちいちいわなくても、私たちは本来的に、自分や家族の生活、あるいは自分の会社をよくしようと競争し、頑張るものです。したがって、政府が「自由にしていいです」といえば、競争はおのずと促進されることになります。
 
 ただし、そのときに重要になるのは、それに挑戦するチャンスは多くの人に平等に与えられていなければならないということです。いくら自由にやればよいといっても、自由にできる人が一人しかいなかったら競争になりません。チャレンジできる人がたくさんいることが、競争を促進し、競争力を高めることにつながるのです。
 
 そこで重要になってくるのが、誰でもチャレンジする機会がある、という「機会の平等」という考え方です。
 
 競争によって競争力をつけるという「競争のメカニズム」を利用することは、先に述べた一九九〇年代以降のグローバリゼーションの時代において、圧倒的に重要になってきています。世界のマーケットにおける競争の激しさ、競争のあり方は、それ以前とは根本的に変わりました。
 
そのなかで、日本の経済は従来の「追いつき、追い越せ」というキャッチアップ型のやり方から、今度は自分たちで先を切りひらいていくフロンティア型に変わっていかなければなりません。そのためには、先を走っていこうという人たちがたくさん出てくるような環境をつくる必要があります。こうして道をひらきながら、国内だけでなく海外でも競争していくことが重要になります。
 
リターンとリスクは表裏一体の関係。
リスクに対するセーフティ一ネットが重要になる
 
 すべての人がチャレンジできる機会が平等に与えられているということは、チャレンジした成果、つまりリターンを得るチャンスが平等に与えられていることでもあります。ただし、リターンはリスクがあるからこそ期待できるものであって、リスクをとらなければリターンもないという事実を受け入れなければなりません。つまり、機会の平等とは、みんなが「リスクをとる」機会の平等でもあります。
 
 リスクをとってチャレンジした結果は、事前には誰にもわかりません。チャレンジした結果、成功してリターンを得る人もいれば、失敗する人もいます。そこで大事になるのが、まず第一にリターンを得た人が、その果実をきちんと得ることができる仕組みです。頑張って成功しても、そのリターンが自分に返ってこないというのでは、誰もリスクをとってチャレンジしようなどとは考えなくなってしまいます。
 
 と同時に、リスクに対するセーフティーネット(安全網)も必要です。結果がどうなるかわからないことにチャレンジするというのに、一回失敗したらそれでおしまい、というのでは、誰もリスクをとれなくなってしまうからです。
 
 先に述べたように、みんながチャレンジできる社会というのは、みんながリスクと正面から向き合わなければならない社会ということでもあります。しかし、個人というのは非常に弱い存在ですから、個人一人にそのリスクすべてを負わせるようなことは決してあってはなりません。ですから、機会の平等が進んだ社会では、リスクに対して社会として備えを持つこと、つまりリスクに対するセーフティーネットが必要になります。
 
 「新しいビジネスを立ち上げる」というのは、リスクをとってチャレンジすることですが、不本意にも倒産してしまう人はある確率で出てきます。会社に勤めている人でも、ある確率で失業する人が出ます。これは全体として覚悟しなくてはなりません。最も問題になるのは、失敗する人が出ることを単に恐れるのではなく、失敗した人たちが再度チャレンジできる仕組みをどのように整備するか、ということです。
 
 残念なことに、いままでの日本の制度は、キャッチアップによって社会全体が高い成長率を上げてきた時代のものであるため、「失敗しないこと」が前提になっている面があります。そのため、セーフティーネットのシステムは不十分といわざるを得ません。
 
 セーフティーネットとは、表的には、失敗したときにその人を社会が助けてくれる制度です。たとえば、失業したときには次の職を探すまでの期腎保険によって前職の一定割合の収入を支給するという失業保険制度は、わかりやすいセーフティーネットです。しかし、日本の失業保険は、海外と比較すると不十分ではないかという議論もあります。不十分だというのは、単に失業保険の給付期間や給付額だけではなく、失業に対する幅広いセーフティーネットそのものの内容です。
(竹中平蔵著「あしたの経済学」幻冬舎 p52-56)
 
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金持ちを優遇しろ
 
 経済活動の自由を強調した改革≠謳う人々は、その一方で、権力を持たない人々の多様な価値観、もっと言えば発言する権利さえ認めようともしない。何のことはない、彼らの態度は、彼ら自身が表向き攻撃してきた日本社会の旧弊そのものである。
 
 かくて推進されていく改革≠ヘ、大義名分とは裏腹に、強者を野放しにし、弱者の側にハンデを強要していくだけの結果をもたらす。殊に問題なのは、中谷教授のような経済学者の存在だ。財界人の立場は誰の目にも明白だが、学者の言説は、素人目には客観的・普遍的に映りやすく、独善を正当化する機能として働いてしまう。
 
 「日本経済がここまで悪化してくると、従来とはまったくコンセプトの異なる政策が求められてきます。殊に当面の景気対策と構造改革の推進という、ともすれば矛盾する二つの大きな課題解決のためには、レーガン流のサプライサイド減税しかありません。経済を支える企業や起業家をエンカレッジするため、法人税減税の一層の強化に加え、所得税の最高税率を下げてやる。明らかに、金持ち優遇税制が必要な時期なのです」
 
 竹中平蔵・慶応大学教授(四十八歳)の持論である。一方、同じ慶応で教鞭を執り、九七年まで政府の行政改革委員会規制緩和小委員会(委員長・宮崎勇大和総研理事長)の中枢メンバーとして活躍した中条潮教授(四十九歳)は、こう語った。
 
 「規制緩和で先行したアメリカでは企業の倒産も増え、たとえばスチュワーデスとして高給を取っていた女性が失業して可哀相にレジの売り子で暮らしているケースもあるという。改革を妨げようとする人々はすぐにこの種の話を持ち出してくる。しかし私はこう思うのです。それは本来あるべき姿に戻っただけではないか。彼女の生活が、本人以外の誰かの負担によって引き上げられていた頃の方が余程おかしかったのではないか、と」
 
 雇用を産み出してくれる金持ちを大事にしよう。貧乏人は身の程を知れ。富裕層に迷惑をかけるな──。
 
 ここ数年の審議会答申や財界提言の数々が、手を変え品を変えて日本人に刷り込んできた思考パターンだ。『日経ビジネス』の二〇〇〇年七月十日号は、ズバリ「金持ちはニッポンを救えるか」の特集を組んでいる。経済戦略会議の有力委員だった竹中教授は、ここでも容認派≠フ右代表として、次のようなコメントを寄せていた。
 
 <「経済格差を認めるか認めないか、現実の問題としてはもう我々に選択肢はないのだと思っています。みんなで平等に宜しくなるか、頑張れる人に引っ張ってもらって少しでも底上げを狙うか、道は後者しかないのです。
 
 米国では、一部の成功者が全体を引っ張ることによって、全体がかさ上げされて、人々は満足しているわけです。実質賃金はあまり伸びないけれども、それなりに満足しているのです」>
 
 竹中教授は、それでも学者だから、この程度の表現にとどめた。彼らに励まされるようにして、財界内部では、よりストレートな主張が罷り通るようになっている。
 
「貧富の差を広げたらどうでしょうか」
 
 経団連が九七年二月に開いた「企業人政治フォーラム」で、前田又兵衛・前田建設工業会長が講師の鷲尾悦也・連合事務局長(当時、現・会長)に向かってこう質したという。同年八月の財界セミナーでも、福岡道生・日経連専務理事が同様の発言をしている(『週刊文春』九七年十月二十三日号)。
 
 趣旨は竹中教授と大差ないようだが、ここまでくると、経済がどうこうという前に、自らは他者の上位にある階級なのだという支配者意識、差別意識が剥き出しになってくる。同様の心理から発せられたと思われる財界人の暴言を二つほど挙げておく(いずれも『朝日新聞』記事による)。
「能力のない学生はブルーカラーになってもらうしかない」
 
 と述べたのは、関西経営者協会の向山平八郎・社会保障基金制度専門委員長(クラボウ常務)だ。九九年十二月、大阪府豊中市内で開かれた年金制度改正関連法案の地方公聴会で、若者の雇用不安を問われての回答だった。
 
 日本土木工業協会の金山良治副会長(西松建設社長)は二〇〇〇年二月、徳島県の吉野川可動堰の建設に対する反対運動について触れ、「時代が変わるとバカばっかり出てきた。感情だけで反対している」などと発言した。金山副会長の母体である西松建設は、ダムをはじめとする大型官庁工事が中心で、売上高の過半を土木工事が占めている。
 
 強者がおごり高ぶる空気を、知性の府であるべきアカデミズムがむしろ醸成しているとすれば、彼らの責任は重大だ。一橋大学の阿部謹也学長(西洋史)は語った。
 
 「現代において、経済学への期待は実に大きいのです。環境、教育、福祉……と、現代社会が抱えるあらゆる問題に、経済学は無関係ではあり得なくなっている。だからこそ経済学者の方々には、他の分野も視野に入れ、ただしよく勉強してもらいたいと思う。
 
 問題だと思うのは、にもかかわらず、最近の経済学が、人間の生き方や歴史を顧みようとしていないことです。今の経済学に必要なのは、研究者それぞれが自らの学問の形成史を書くことではないでしょうか」
 
 私もまた、象牙の塔の中だけでなく、人々の生活に直結してくるに及んだ経済学者たちのバックグラウンドは、より多く開示されなければならないと考える。改革派の第一人者としてメディアにもしばしば登場し、抜群の影響力を持つ前記・中谷、竹中の両教授、そして慶応大学の中条教授らの人物ルポを試みた。
(斉藤貴男著「機会不平等」文藝春秋 p204-207)
 
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 市場経済信仰から所得の再分配へ
 
 ガルブレイスは「すべての社会的弊害は、生産の増大によって解決する」と考えていた経済の自由主義者たちに対しても、また「すべての経済社会問題は、生産と雇用が十分であれば解決する」と考えたケインズ派の政策に対しても、反対した。
 
 富が増大し、失業がなくなったとしても、なお豊かな社会は実現できない、とガルブレイスは考えたのである。
 
 豊かさとは、欲望が十分に充たされることである、と考える人びとに対しても、ガルブレイスは、欲望の内容を二つに区別することによって、市場における需要そのものを批判した。
 
 人びとの欲望には、衣食住や医療のように、飢えや寒さや病気の苦しみによって生じる、物理的根拠にもとづく欲望と、セールスマンのお世辞やコマーシャルから仕込まれた、いわゆる依存効果による欲望とがある。
 
 生産の増大は、ある点を越えれば、欲望を育成するようになり、生産が急速に増加するのに比例して、需要も急速に増加する。だから、生産の拡大を、経済の進歩や社会の進歩のモノサシにすることは、正しくない。
 
 自由競争にもとづく市場経済は、最も効率的な方法で資源(資本と労働)を配分する。しかし、自由競争による効率的な富の生産は、その代償として、敗れる者がいて当然である、と認めることを社会に要求した。敗者が出ることよりも、繁栄する者がいることの方が、富の増大にとっては重要であった。
 
 アダム・スミスの『諸国民の富の性質と原因にかんする研究』(日本語訳『国富論』)という書名が示すように、国富とは、全体としての富であり、それがどう分配されるか、という問題とは、まったく無関係であった。
 
 社会保障や、環境や、労働組合の要求を顧慮することは、経済の発展を妨害することにほかならなかった。資本主義を修正しようとすれば、この制度の持つすぐれた効率性を消し去ることになり、しかも資本主義に代る制度によって、富を効率的に増やすことができない以上、自由競争による市場経済も、弱者の淘汰も認められなければならなかった。
 
つまり市場経済と社会進化論は同じ立場に立っていたのである(「適者生存」という言葉をはじめて使ったのは十九世紀イギリスのハーバート・スペンサーである)。
 
 そして、その結果、公教育、公共住宅、衛生改善、水、空気、環境改善のための公共サービスは軽視され、社会的に深刻な病理現象が、あちこちに起った。その結果は、夜道の危険、伝染病、水や空気の汚れが、金持ちの個人にもおそいかかり、個人の自由を圧迫した。
 
 公共サービスが十分な、北欧の国々や西ドイツにみられる、よい学校、よい給与を受けた教員、豊富で魅力的な住宅、清潔な道路、よく訓練された十分な警官、多くの広い公園、監督のいきとどいた子どもの遊び場やプール。それらの社会福祉水準の向上は、いまヤ生産が増大すれば、必ずもたらされるものではないことがあきらかになった。
 
 生産の増大は、よき社会をもたらす最終的な基準でもなく、社会悪や貧困を解決するものでもない。高度に専門化された技術と、巨大な資本の組織は、環境にたいしては、むしろ危険でさえあった。
 
 公共サービスによって、自由な市場経済に国家が介入することを極度に嫌う資本は、しかし、自らの独占力によって市場の法則を大きく歪めた。また資本家に都合のよい補助金や関税については、大いによいことだとして、これを歓迎した。強者は、自由競争から免かれて独占力の上にあぐらをかくことも許されるが、弱者は競争のきびしさにかりたてられねばならなかった。
 
 一般の市民にとって、競争は不安の種であり、人びとを自己防衛に走らせる。弱い人びとを排除する経済法別の冷酷さを嫌がる人びとに、どんな正当な理由づけをしてみても、人間から同情心を失くしてしまうことはできない。自己防衛と不安の中では、人間の気持を満足させることはできないであろう。
 
 競争だけではなく機械化された産業技術の過度の普及は、文化的な悪影響を与える。人びとは視野のせまい機械的な思考方法を要求され、それ以外のものは不必要とされてしまう。昼も夜もない情報化社会は、人間の生活の自然のリズムを無視して職業の不夜城を作り出す。金銭中心の文化は、人間の文明を亡ぼす。
 
 競争社会の時代通念に最も大きな打撃を与えたのは、マルクスの理論である。
 
 マルクスは、少数者の手に独占された巨額の富は、労働者を搾取した結果であり、そのために大衆は貧困化したのだということを、体系的に論証した。このような搾取は道徳的に批判されるだけでなく、資本主義経済の内部から、経済の危機を悪化させ、資本主義経済を崩壊させる、とマルクスは言う。
 
 このようなマルクスの予言を実証するかのように、労働者のストライキや失業、倒産などの社会不安が頻発し、飢えや病気や教育を受けない者が社会不安を増大した。
 
 いまや、経済学は、それらの不平等をさけて通ることはできなくなった。かつては豊かさの敵、とみなされた所得の再分配が、租税制度や国家の役割とともに、経済の大きな課題となった。
 
 そこでは、生産の増大が金持ちにも貧乏人にも利益となると考えられたので、「生産性の向上」が、至上の課題となった。
(暉峻淑子著「豊かさとは何か」岩波新書 p85-88)
 
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◎「資本主義経済の内部から、経済の危機を悪化させ、資本主義経済を崩壊させる」と。