学習通信031214
◎団結……組織と個人の自由とは、あいいれないものなんかでありはしない
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個人と集団の関係
それでは、同時的な観点から世界の現状を見てみましょう。いま非常に大きい問題となっているのは、個人と集団との関係だと思います。個人は、集団に属さなけれは、ひとりでは影響力を社会に与えることができません。たとえば、平和を望むならば、平和のためにある人たちが一緒に共同して動かなけれはなりません。行為や行動を効果的に行い、意見を社会に対して伝えていくためには集団に属する必要があります。
しかし、集団の連帯行動のために、あるいはその集団内部の調和のために個人が完全に吸収されてしまえば、その集団は脆弱なものになってしまうのです。
集団は、その目的に向かって、一致協力して行動をすることになりますが、そのときに集団のメンバーである個人が、その価値を、あるいは目標を内面化して自分のものにしていなければ、すなわち、個人が集団に吸収されてしまうのではなくて、積極的に同じ価値を共有する個人が集まるというのでなけれは、その集団は脆弱になってしまいます。
もうひとつの弱みは、集団に個人が吸収されてしまうと、集団が解散したのちも個人が同じ価値を保持し続けるということはむずかしくなります。多くの場合には、個人は別の価値を持つようになってしまうでしょう。
たしかに、組織やグループなど集団に個人が吸収されることは、みんなが一致して、ひとつの方向に向かっているときには、その集団の目標を達成するために有効です。ひとつの目標に向かって進んでいるときに、ああでもないこうでもないと内部で揉めていると、能率は確実に下がります。
しかし、集団の構成メンバーである個人のなかに、その集団と同じ価値をしっかりと保持しているのでなければ、困難にぶつかったときに、その集団は簡単に分解してしまいます。分解してしまえは跡形もなくなってしまいます。日本と欧米を比較したときに、日本ではこうした傾向が強いと思います。
このように個人と集団とは、緊張関係にあります。集団に個人が埋没しなければその集団の効率は悪くなります。そうなると集団が目的を達成することはできません。しかし、集団に埋没したときには、別の意味で集団が弱くなるのです。そこに緊張関係が生じてきます。これは、簡単には解決できない問題のひとつだと思います。
もうひとつ、集団の問題を取り上げましょう。すべての集団には内部構造があります。たいていは、完全に平等ではありません。集団が平等なのは、どちらかといえは、メンバーがだいたい同じようなレベルで、平等に並んでいるというときですね。これは「ヨコ社会」です。一方、中根千枝さんが言った「タテ社会」というのは、集団のなかの構造がタテ型になっているものを言います。
つまり階級的に偉い人からだんだん下へと構成され、上と下がはっきりしていて、上下に組織されているものです。社会にも、水平に組織されている社会と上下に組織されている社会があります。それぞれ一長一短があると私は思いますが、「民主主義」という立場からいうと、ヨコ型のほうが望ましいのです。
つまり、小さな集団でも大きな集団でも、ある集団の内部が上下に組織されていると、そこから出てきた人たちが、国家全体としても、社会としても、水平の関係を樹立することがむずかしくなります。上下関係に慣れた人が民主主義社会に入ったときに、こういう問題が生じるのです。その間題を解消するためには、小集団での訓練が必要であり、集団内部でのヨコ関係、ヨコ構造が必要だということになります。
日本の社会では比較的タテが強いということが言われていますし、「タテ社会」にはそれなりのよさ、メリットがありますが、そういう点では問題があるのです。自分の属している集団の内部が、比較的平等主義的であるか、上下関係が強調されるかということは、大きな問題です。簡単にどっちがいいとも言い切れません。しかし、民主主義を進めていくうえでは、あらゆる集団にヨコの関係が必要であると私は思います。
さらに言っておきたいことがあります。日本の社会では、「みんなで渡れは恐くない」ということがよく言われます。個人が集団に参加するときには、その集団の価値を自分のものとして参加するもので、そのためにはある程度の犠牲は払うものだと考えられているわけです。自分の意見よりも、みんなが言うことが正しいということですね。これは個人主義ではありません。それでは個人の自由がなくなってしまいます。
(加藤周一著「学ぶこと 思うこと」岩波ブックレット p46-49)
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カクレンボの条件
「私は自由でありたいから、組織にはいっさい属さない」という人がいる。組織に属すると個人の自由や主体性がおかされる、という考えは、ずいぶんひろくいきわたっているようだ。
が、しごくもっともなようなこの考え、考えてみると、しごくおかしい。
たとえば、ここにカクレンボしたいと思っている子どもがいるとしよう。カクレンボは一人ではできない。そこで子どもは、どうするか。「カクレンボするもの、この指とまれ」とこういって、仲間を組織するのだ。
もちろん、カクレンボにはカクレンボのルールがある。そんなルールにしばられたら、個人の自由がなくなる、なんていう子がいるだろうか。カクレンボのルールにしたがってこそ、自由にカクレンボの主人公になることができる。子どもだって、そんなことは知っている。
マージャンだって、そうだろう。一人ではマージャンはできない。じつは私はマージャンを知らないのだけれど、その私だってそれくらいは知っている。「おい、つきあえよ」といって、仲間を組織しなけりやならない。そして、おたがいにマージャンのルールにしたがう。
「ルールにしたがう」というけれども、いいかえればそれは、主人公として自由にルールをつかいこなす、ということだ。
日本アルプスへ冬山登山、ということにもなれば、このことはいっそうハッキリしてくる。チームをくんで、しつかりしたチーム・ワークのもとに登るのだ。いろんな身仕度も必要になる。そんなチーム・ワークや身仕度なんて自由のさまたげ、おれはゲタばき、ユカタがけで、一人で登る自由がほしい、という人があるだろうか。
そう考えるのはその人の「自由」かもしれないが、そんな「自由」の結果はといえば、遭難死という現実の不自由そのものであることは、あきらかだ。
とすれば、組織と個人の自由とは、あいいれないものなんかでありはしない。反対に、それは私たちの現実の自由を保障するものであるだろう。
「いや、自分は一番打者をつとめたいのに、チーム・に入ればタマひろいからやらされるんだから」という人があるだろうか。そういう人には野球など、永久にやれっこないのはたしかだ。
「馬の脚なら自分にもできようとは、よくしろうと衆の言わるるところにして、ちょっと見れば誰にでもできそうなれど、馬の脚が満足にできるようになれば、まず一人前の役者なり」と、九代目市川団十郎のことばにもある。
ヨロイが重くなるとき
もちろん、組織といってもいろいろある。個々人の自由をしばることを目的とした組織だってあるわけだ。そんな組織の誓、それが個人の自由とあいいれないのは、あたりまえだ。私がいっている組織とは、そんな組織のことではなくて、個々人の人間的な要求に根ざし、その実現昌的として組織された組織のことだ。
「たとえば、さっきいったカクレンポだって、マージャンだって、山登りだって、どれも人間的な要求だよね。それから、いろんな民主的なサークル、労働組合、それから…」
「その労働組合なんだけどね」とA君がひきとった。「本気でやりだすと、じつにたいへんなんだよね。だから、最近は青年婦人部の役員なんて、なかなかなり手がいないんだ。自由な時間がなくなっちゃうからって……」
それは、身にこたえてよくわかる。しかし、そこでぼくたちは、その労働組合なら労働組合が、そもそもなんのためになぜつくられてきたのかを、あらためて考えなくてはならないのではないかと思う。
一言でいえば、それは、労働者がバラバラなままでは、どこどこまでも自由をうばわれていく──自由な時間なんてそれこそクスリにしたくもなくなってしまう、といった状態のなかから、そうしたことをくいとめ、自由をまもり、拡大していくためにつくられてきたわけだろう。
いってみれば、それは、労働者が、自分たちの人間的な要求を、自由を、まもり育て実現するためにきたえあげてきたヨロイ、カブト、鉄砲みたいなもの。そのヨロイ、カブト、鉄砲が、たたかいのなかで重たく感じられてきて、こんなもの、すててしまえばどんなに自由になるだろうと、つい思ってしまうわけだけれど、そこで武装解除してしまったら、当座はらくかもしれないが……
「たちまち矢玉にやられて、現実の不自由この上もないことになるってわけだね」
そう、そのとおり。いまあるせめてもの自由さえ、たちまちうばわれてしまうにちがいないのだ。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p98-101
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当時、私の働いていた職場には二〇〇人くらいの労働者がいた。私は、毎日、朝と正午の休憩時間を利用して職場をかけまわって、一人ひとりの仲間に、組合再建の必要をといてまわった。皆が、新しい制度の下で、労働強化や貸金の引下げのくるのをおそれていた。だが労働組合の再建のことになると、あんなだらしのない組合は有害無益だ。二〇銭の会費がおしいという人が多かった。
だが、組合なしで目の前にせまっている労働条件の改悪をどうふせぐというのか? たしかにいままでの組合はだらしのない組合だった。だが組合はわれわれが自分でつくるのだから、みんなの望むような強い組合に再建すればいいのではないか? いままでの単独組合、職場連合組合ではなく、民主的な統一された組合にして、全国的な組織に加盟するような方向で再建しょう、と熱心にといてまわった。
二ヵ月かかって、だいたい、職場の一人残らずの人びとが、そういう組合をつくるならば賛成するというところまでこぎつけた。私はこれで組合は再建されたと早合点した。そして、今月から組合費を出してもらいたいと切りだした。ところが、だれのところへいっても「みんなが出せばおれも出す」という返事だった。結局、だれも出さないのだ。これには閉口してしまった。どうしてここを突破するか?
私は、ここではじめて、労働者のもつ重要な特質の一つを学んだ。労働者は一人ひとりでは弱い。だから自分だけとびぬけて、同僚より先になにかの行動にでることをためらう。
これは労働者が自分を守る本能である。同時にこれは集団的に組織された労働生活によって身につけた連帯精神のあらわれでもある。「おれ一人ではいやだ。みんなといっしょならやる」という労働者の気持のなかに、じつは、労働組合に団結する精神的な土台があるのである。
そこで、正午に、みんなが集まって食事をしているところへいって、みんながそろって組合費を出すことを承諾してもらおうと考えた。それにしても私は十八歳の青年で勤続一年にしかならない。
この点に不安がある。私は、各組で、組長候補ぐらいの立場の人で、わりあいにものわかりのよい人びとのところへいって、私の考えを話して、昼食のときに私がいって、みなが同時に組合費をだすように提案するから、そのときひとこと「よかろう」と口を切ってくれるようにたのんだ。これはみごとに成功した。組合費はみんなが納めるようになった。
組合費の問題が解決したので、今後は組合員一〇名に一名の割合で職場幹事を選挙して組合の組織を確立する仕事にとりかかった。ここでも思いがけない困難にぶつかった。
当時は労働組合法もなく、労働組合にたいする資本家と政府の弾圧もひどかった。組合役員はまったく自腹を切って組合活動をしなければならなかった。だから、職場幹事の選挙でも、労働者は、なかなか皮肉なことをやって、ふだん会社におべっかをつかってみなから憎まれている男を最高点で当選させてしまうようなことがあった。
選ばれた男は「みんながおれを憎んで選挙したのだからいやだ」といっていくら説得しても承知しない。ここで、選挙のやりなおしをすれば、てんやわんやになってしまうおそれがある。
私はいろいろ考えたすえ、「選挙された者が辞退するようでは、せっかく、再建された組合がなりたたなくなる。組合の役員になれば、だれでも会社からにらまれるにきまっている。だれだって会社から特別ににらまれたくはないはずだ。だから、これまでは役員の任期は半年だったが、今後から一カ月にしよう。
一カ月たったら全部改選する。そのときは一度役員になった者は選挙されないことにする。そうすれば、一〇カ月たてば、職場の全員が職場幹事をしたことになるから会社としてもにらみようがないだろう」と提案した。この提案はよろこんで可決された。
職場幹事の仕事は組合費の徴収や機関親の配布、請負の単価の評定その他毎日職場でおこるこまごまとした問題の処理などで特別な知識や能力を必要としない性質のものが多い。それに月当番であっても一〇人に一人ずつ選ばれた二〇人の委員は、、大体において職場の健全な良識を代表する人びとが多数をしめるので万事さしつかえなくやってゆけた。
とくにみんなが交替で職場幹事をやるので、組合員の一人ひとりが自分の組合だという自覚が強くなって、全員が組合活動に積極的に参加するようになって組合を強化するうえで重要な役割をはたした。
以上しめくくつてみると、労働組合をつくるためには、第一に、さきに自覚した人びとが、少数であっても団結して、労働者階級全体の利益の立場に立って、献身的に組織活動を推進することが必要である。
戦前の労働組合運動は、資本家と政府の弾圧が強かったので、新しく組合をつくる場合には、まず、自覚した少数の人びとが外部の労働組合の指導のもとに、ひそかに団結して、労働組合についての学習をしたり、職場の状態をくわしく分析して共通の要求をさぐりだしたりして、これにもとづいて潜行的に組織活動をすすめ、全従業員の六、七割を組織して、資本家の妨害や首切りにたいしても十分に反撃できる力をつくった上で、公然と組合の結成大会をおこなって、共同の要求をきめて、この要求で全従業員を組合に組織しながら、資本家と闘争をはじめるのが普通のやりかたであった。
こんにちでも新しく労働組合をつくる場合には、資本家の側からさまざまな妨害がおこなわれている。組合結成の中心人物を解雇するようなことすらおこなわれているから、戦前の経験からも十分にまなぶ必要があると思う。
だがこんにちでは労働組合法があり、組合運動に資本家が干渉することは違法行為とされているし、労働組合の力も大きくなっているから、資本家側の妨害があったとしても先に自覚した人びとが団結してことにあたるならば比較的容易に組合をつくることができるであろう。いかなる大衆運動にも運動全体のことを考える中核的な人びとの団結が必要であることは、実際の経験が教えている。
第二に、こうして結集された先覚者(組合活動家)たちが労働者の共通の不満と要求をさぐりだして、共通の要求を実現するために労働者を組織することである。この場合「みんながやれば、おれもやる」という労働者の気持を十分に尊重して、これを積極的に発展させることが大切である。労働組合をつくるということは、労働者の「みんながやればおれもやる」という連帯精神を共通の利益のために組織することにほかならない。
(春日正一著「労働運動入門」新日本出版社 p28-32)
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◎「みんながやれば、おれもやる」……これをどのようにわたしたちが見るのか、「自分のことやんか〜」にとどまっていれば多数のまとまりはできないということです。