学習通信031218
◎農夫のように働き、哲学者のように考えなければならない……。
 
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 これまでにわたしが言ったことをわかってもらえたとしたら、体の鍛練と手の労働の習慣とともに、わたしが知らず知らずのうちに生徒に反省と瞑想にたいする好みをあたえて、人々の判断にたいする無関心と情念の無風状態とから生じることになる心の怠惰の埋め合わせをしていることが理解されるはずだ。かれは農夫のように働き、哲学者のように考えなければならない。そして未開人のようなのらくら者になってはいけない。教育の大きな秘訣は体の訓練と精神の訓練とがいつもたがいに疲れをいやすものとなるようにすることだ。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p364)
 
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 工場法の教育条項は、全体として貧弱に見えるとはいえ、初等教育を労働の強制的条件として宣言している。その成果はまず、教育および体育を筋肉労働と結合することの可能性、したがってまた、筋肉労働を教育および体育と結合することの可能性を証明した。工場監督官たちは、やがて、学校教師の証人尋問から、工場の児童が正規の昼間の生徒に比べて半分しか授業を受けていなくても、それと同じか、あるいはしばしばもっと多く学んでいるということを発見した。
 
「ことは簡単である。ただ半日しか学校にいない生徒たちは、つねに新鮮であり、ほとんどいつでも授業を受け入れる力があるし、またその気もある。半労半学の制度は、二つの仕事のそれぞれ一方を他方の休養と気晴らしにするものであり、したがって児童にとっては、二つのうちの一つを絶え間なく続けるよりもはるかに適切である。朝早くから学校に出ている少年は、とくに暑い天候のときには、自分の仕事を終えて元気溌剌として来る少年とは、とうてい競争できない」。
 
 さらに詳しい例証は、一八六三年のエディンバラにおける社会科学大会で、シーニアがおこなった講演のなかに見いだされる。ここで彼はとりわけ、上流階級および中流階級の児童の一面的な不生産的で長い授業時間が、教師の労働をいたずらに増加させるということ、「他方、このような授業時間が、児童の時間や健康やエネルギーを、ただむだにするだけでなく、まったく有害に浪費させる」ということを示している。
 
ロバート・オウエンを詳しく研究すればわかるように、工場制度から未来の教育の萌芽が芽ばえたのであり、この未来の教育は、社会的生産を増大させるための一方法としてだけでなく、全面的に発達した人間をつくるための唯一の方法として、一定の年齢以上のすべての児童にたいして、生産的労働を知育および体育と結びつけるであろう。
 
 すでに見たように、大工業は、一人の人間全体を生涯にわたって一つの細部作業に結びつけるマニュファクチュア的分業を技術的に廃除するが、同時に、大工業の資本主義的形態は、この分業をいっそう奇怪なかたちで再生産する。この再生産は、本来の工場では、労働者を一つの部分機械の自己意識をもった付属物に転化することによって行なわれ、それ以外のどこでも、一部は機械と機械労働との散在的使用によって、一部は分業の新しい基礎として婦人労働、児童労働、および不熟練労働を採用することによって行なわれる。
 
マニュファクチュア的分業と大工業の本質との矛盾は、暴力的に自己を貫徹する。その矛盾は、とりわけ、近代的工場およびマニュファクチュアに就業している児童の大部分が、ほんの幼少のころからもっとも単純な操作にかたく縛りつけられ、長年にわたって搾取されていながら、しかも、のちに彼らがせめて同じマニュファクチュアか工場で使えるようななんらかの労働をも習得できない、という恐るべき事実のなかに現われている。
 
たとえば、イギリスの書籍印刷業では、以前は、古いマニュファクチュアや手工業の制度に照応して、徒弟たちが比較的やさしい労働から内容のある労働に移行するということが行なわれていた。彼らは、ある修業課程を経て一人前の印刷工になった。読み書きができることは、彼らすべてにとって手工業上の一要件であった。印刷機の出現とともにあらゆることが変化した。印刷機には二種類の労働者が使用され、一人は成年労働者で機械の見張工であり、その他はだいたい十一歳から十七歳までの機械少年工たちである。
 
これらの少年工の仕事は、もっぱら、印刷用紙を機械に差し込んだり、印刷された紙を機械から取り出したりすることである。彼らは、とくにロンドンでは、一週のうち何日かは、一四時間か一五時聞か一六時間、中断なしでこの苦役を行ない、しかも、食事と睡眠とのためにわずか二時間の休みがあるだけで、三六時間もぶっ続けで行なうこともしばしばである! 彼らの大部分は字が読めず、そして、通常、まったく粗野な、常軌を失った人たちである。
 
 「彼らをその仕事ができるようにするためには、どんな種類の知的訓練も必要ではない。彼らは熟練を要する機会をほとんどもたず、また判断を要する機会はなおさら少ない。彼らの貸銀は、少年としてはいくらか高いが、彼ら自身が成長するのに比例して増加するわけではなく、そして大多数は、機械見張工という、収入もより多く責任もより重い地位に昇進する見込みもない──なぜなら、機械一台にたいして、見張工はわずか一人で、少年工はしばしば四人もいるからである」。
 
 彼らは、年をとりすぎて子供向きの労働に適しなくなると、すなわち少なくとも一七歳になると、ただちに印刷所から解雇される。彼らは犯罪の新兵となる。ほかのどこかで彼らに仕事を世話しようとする試みもいくらか行なわれるが、彼らの無知、粗暴、肉体的および精神的な退廃のためにうまくいかなかった。
 
 作業場の内部におけるマニュファクチュア的分業についてあてはまることは、社会の内部における分業についてもあてはまる。手工業とマニュファクチュアが社会的生産の一般的基礎をなしている限り、排他的な一生産部門への生産者の包摂、生産者の仕事がもつ本来の多様性の破壊は、必然的な発展契機である。
 
この基礎の上に、それぞれの特殊な生産部門は、みずからに照応する技術的姿態を経験的に見いだし、それをゆっくりと完成させ、一定の成熟度に達するやいなや、急速に結晶させる。あちこちで変化を呼び起こすものは、商業が供給する新しい労働材料のほかに、労働用具の漸次的な変化である。経験的に適応した形態がひとたび得られると、労働用具も骨化するのであって、そのことは、しばしば千年にもわたってある世代の手から他の世代の手へと伝えられていくことが証明している。
 
一八世紀までは特殊な生業が秘伝技≠ニ呼ばれ、その神秘の世界には、経験的かつ職業的に秘伝を伝授された者のみがはいることができたということは、特徴的であった。人間にたいして彼ら自身の社会的生産過程をおおい隠し、種々の自然発生的に分化された生産諸部門を互いに謎にし、また各部門の精通者にとってさえ謎にしていたヴェールを、大工業は引き裂いた。
 
各生産過程を、それ自体として、さしあたりは人間の手をなんら考慮することなく、その構成諸要素に分解するという大エ業の原理は、技術学というまったく近代的な科学をつくり出した。社会的生産過程の多様な、外見上連関のない、骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、そしてめざす有用効果に従って系統的に特殊化された応用に分解された。
 
技術学は、使用される道具がどれほど多様であろうとも、人間の身体のあらゆる生産行為が必然的にそのなかで行なわれる少数の大きな基本的運動諸形態を発見したのであるが、それはちょうど、機械学が、機械がどんなに複雑であっても単純な機械的力能の絶え間ない反復であることを見誤らないのと同じである。
 
近代的工業は、ある生産過程の現存の形態を決して最終的なものとはみなさないし、またそのように取り扱わない。それゆえ、近代的工業の技術的基盤は、革命的である──これまでの生産様式の技術的基盤はすべて本質的に保守的であったが。
 
近代的工業は、機械設備、化学的工程、その他の方法によって、生産の技術的基礎とともに、労働者の諸機能および労働過程の社会的諸結合を絶えず変革する。
 
近代的工業は、それとともに社会の内部における分業も絶えず変革し、大量の資本および大量の労働者をある生産部門から他の生産部門へ間断なく投げ入れる。それゆえ大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を条件づける。
 
他方、大工業は、その資本主義的形態においては、古い分業をその骨化した分立性とともに再生産する。すでに見たように、この絶対的矛盾が、労働者の生活状態のいっさいの平穏、堅固、および安全をなくしてしまい、労働者の手から労働手段とともに絶えず生活手段をたたき落とそうとしており、そして、労働者の部分機能とともに彼自身を過剰なものにしようとしている。
 
さらに、この矛盾は、労働者階級の絶え間ない犠牲の祭典、諸労働力の際限のない浪費、および社会的無政府性の荒廃状態のなかで、暴れ回る。これは、否定的側面である。
 
しかし、労働の転換がいまや、ただ圧倒的な自然法則として、また、いたるところで障害に突きあたる自然法則の盲目的に破壊的な作用をともないながら、実現されるならば、大工業は、労働の転換、それゆえ労働者の可能な限りの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、そしてこの法則の正常な実現に諸関係を適合させることを自己の破局そのものを通じて、死活の問題とする。
 
大工業は、資本の変転する搾取欲求のために予備として保有され自由に使用されうる窮乏した労働者人口という奇怪事の代わりに、変転する労働需要のための人間の絶対的な使用可能性をもってくることを──すなわち、一つの社会的な細部機能の単なる担い手にすぎない部分個人の代わりに、さまざまな社会的機能をかわるがわる行なうような活動様式をもった、全体的に発達した個人をもってくることを、死活の問題とする。
 
大工業を基礎として自然発生的に発展した一契機は、総合技術および農学の学校であり、もう一つの契機は、労働者の子供たちが技術学とさまざまな生産用具の実際的な取り扱いとについてある程度の授業を受ける「職業学校=vである。
 
工場立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、初等教育を工場労働と結びつけるにすぎないとすれば、労働者階級による政治権力の不可避的な獲得が、理論的および実践的な技術学的教育のためにも、労働者学校においてその占めるべき席を獲得するであろうことは、疑う余地がない。
 
また、生産の資本主義的形態とそれに照応する経済的な労働者の諸関係とが、そのような変革の酵素とも、また古い分業の止揚というその目的とも真正面から矛盾することは、同じように疑う余地がない。しかし、一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新たな形成との唯一の歴史的な道である。
 
「靴匠は靴型以上に出るなかれ=v! という手工業的英知のこの 究極≠ヘ、時計工ワットが蒸気機関を、理髪師アークライトが経糸織機を、宝石細工職人フルトンが汽船を、発明した瞬間から、恐るべき愚かさとなった。
(マルクス著「資本論」新日本新書B p831-839)
 
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 生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。
(日本共産党綱領改定案)
 
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 この文章で注意してほしいのは、一般的な生活の保障、向上の問題とあわせて、人間の全面的な発達を保障することを、未来社会の非常に大事な特徴としていることです。
 
社会を物質的にささえる生産活動では、人間は分業の体制で何らかの限られた分野の仕事に従事することになります。しかし、労働以外の時間は、各人が自由に使える時間ですから、時間短縮でその時間が十分に保障されるならば、そこを活用して、自分のもっているあらゆる分野の能力を発達させ、人間として生きがいある生活を送ることができます。
 
この人間の全面的発達ということは、社会主義・共産主義の理念の重要な柱をなす問題でした。労働時間の短縮にも、こういう意義づけが与えられてきたのですが、人間の発展のこういう大道が開かれる、というのが、大事な点です。
(日本共産党綱領改定案報告 不破議長)
 
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──教育の大きな秘訣は体の訓練と精神の訓練とがいつもたがいに疲れをいやすものとなるようにすることだ。
 
──半労半学の制度は、二つの仕事のそれぞれ一方を他方の休養と気晴らしにするもの……
 
──この未来の教育は、社会的生産を増大させるための一方法としてだけでなく、全面的に発達した人間をつくるための唯一の方法として……
 
──労働者階級による政治権力の不可避的な獲得が、理論的および実践的な技術学的教育のためにも、労働者学校においてその占めるべき席を獲得するであろうことは、疑う余地がない。
 
◎働きながら学ぶことの意味の大きさを実感してください。
私たち一人ひとりの個人の問題としての学習にとどまらず、人類社会発展の必然性に規定されているのです。
労働学校のもつ歴史必然性……実感してください。