学習通信031219
◎失敗しないこと……
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しかし失敗学は、べつに失敗を奨励しているわけではない。避けられる失敗は避けるに越したことはない。人命にかかわる失敗など、ないほうがよいに決まっている。だからといって、失敗のマイナス面だけを見るべきではない、といっているのだ。
なぜ、そんなことをいうのかは、失敗がどんなときに起こるかを考えてみれば、すぐわかる。なにもしないでじっとしていれば、まず、失敗はしない。なんの問題意識も目的ももたない人、つまり行動しない人・できない人は、失敗すらできないのだ。
また、失敗を避けることに集中していたのでは、目先の小さな成功にめぐりあうことはあっても、大きな成功は不可能である。減点法で人間を評価しがちな日本の社会は、この点を見て見ぬ振りしてすませているような気がしてならない。
失敗に遭遇するのは、なんらかの新しい仮説を検証しようとして、あるいは、成し遂げるべき目標をもって、行動しているときである。考えても調べてもわからない新しいことに挑戦すれば、予測していなかった出来事がついてまわるのは当然だ。
このようなときに起こる失敗まで否定していたら、進歩というものの生じる余地がなくなってしまう。だから、失敗は必然的に起こることと観念して、勘定に入れて動いたほうがよい。それに、こうして行動し、失敗体験を重ねて養われた体感や実感は、ものを考える作業にはたいへん役に立つのだ。
とはいえ、失敗は本来、新しいものをつくりだす過程にあるのだから、失敗のさきには、「成功」が期待されている。成功してはじめて、失敗は「生かされた」といえるのだ。もちろん、失敗体験に学んである成果を挙げ、そこに安住せずにさらに挑戦をつづければ、べつの種類の失敗をする羽目になるのだが、失敗と成功を繰り返すうちに、設定される課題の内容は、いやがうえにも探まり、高まっていくのである。私はこのような過程を「失敗と成功の螺旋(らせん)」と名づけている。
いうまでもなく、「失敗を繰り返しながらまったく新しいものをつくりだす」ための決まった方法論などあるわけがない。しかし、「ある一定の成果を挙げるまでの失敗と成功の螺旋」を分析すれば、創造の過程で、だれもが共通してやっていること、暗黙の原理があることが、見えてくるはずだ。失敗のケーススタディから、失敗の体系化が可能であったのと同じように。
さまざまな着想をむすびつけ、もともとバラバラに漂っていた着想どうしの脈絡をつけ、全体を一つの概念にまとめる、という思考の過程は、設計や技術開発の分野だけのものではない。自分の頭で考えてものをつくる、つまり「創造力」を必要とされるどの分野にも、共通するものである。
つまり本書は、「創造力の正体」を知識化する試みでもある。
(畑村洋太郎監修「成功にはわけがある」朝日新聞 p5-8)
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人間は知れば知るほど誤りをおかすことになるのだから、誤りをさけるただ一つの方法はなにも知らないでいることだ。判断をくださなければ、あなたがたはけっして誤ることはないだろう。それが自然の教えることであり、理性の教えることでもある。
事物がわたしたちにたいしてもっているごく少数のひじょうにはっきりした直接的な関連の外に出れば、そのほかのすべてのものにたいしてはわたしたちにはもともと深い無関心があるだけだ。
未開人はどんなすばらしい機械のはたらきを見に行くためにも、電気のあらゆる不可思議を見に行くためにもでかけていきはしないだろう。「わたしになんの関係がある」、これは無知な者がいつも言うことばだが、賢者にとってもいちばんふさわしいことばだ。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p368-369)
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──このような決議ははなはだあぶなげがなく、誤りをおかすおそれがまったくないことを、認めてやらなければならない。それはちょうど、なにも語らないためにものを言う人間には、誤りをおかすおそれがないようなものである。そして、このような決議をつくるためには、ただ一つのことしか必要でない。運動の後尾にくっついてゆくことができれはよいのである。
(レーニン著「なにをなすべきか?」国民文庫 p80-81)
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五 失敗をおそれず、困難を避けず
ー嵐は幹部・活動家をきたえる
「嵐はつよい樹をつくる」というように、困難は活動家をきたえる。失敗をおそれず、困難にまけないこと、困難、ピンチのときこそ、幹部・活動家の真価が問われるときである。
失敗しないものは、なにもしないものだけである。「失敗することが悲しいのではなく、失敗の原因がわからないことが悲しい」のである。二度とおなじあやまちをおかさないこと、決定的に重大なあやまりをおかさないこと、このことを自らも、またお互いのあいだでも、つねに戒めあうことである。
また、困難は、避けることに.よって解決することはできない。困難はのりこえるべきものであり、また、のりこえることができるものである。なぜなら、われわれの要求とたたかいは正当であり、敵の行動や攻撃は不当であり、腐敗のなかからうまれた反動的、反民族的なものであって、そのゴマカシと邪悪なネライを大衆にバクロされることを、つねにおそれながら加えてくる攻撃であるからだ。
困難ななかに、敵の弱点と矛盾をみつけだし、味方を結集して、はじめて、情勢をきりひらいて、不利を有利に変えることができる。
敗北主義におちいったときには、敵の力がバカに大きくみえるものである。また、油断をし、なんとかなるだろうと楽天的にかまえて、なにもしなければ、手おくれになる。
幹部・活動家は、目先きのことに目をうばわれて一喜一憂することなく、つねに、全局面に目をくばって、敵の弱点と矛盾をつく能力、困難にぶつかって動揺しない冷静さと不屈の精神を実戦のなかできたえなければならない。
(月刊:全自運 1972.7 NO.92 p41-42)
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◎「なんの問題意識も目的ももたない人、つまり行動しない人・できない人は、失敗すらできないのだ。」と。