学習通信031220
◎正しくない理由で満足することのほうがわたしたちにはよっぽど恥ずかしく感じられる……
 
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 どんなふうに観念が形づくられるかは人間の精神にどういう性格があたえられるかということだ。現実の関連にもとづいてのみ観念を形づくる精神は堅実な精神だ。表面的な関連に満足する精神は浅薄な精神だ。さまざまな関連をあるがままに見る精神は正しい精神だ。
 
それらを見そこなう精神は正しくない精神だ。現実性も外見ももたない架空の関連をつくりだす者は気ちがいだ。比較をしない者は愚か者だ。観念を比較し、関連をみいだす能力の多少は人々の才気の多少を決定するものとなる、等々。
 
 単純な観念とは比較された感覚にすぎない。単純な感覚のうちにも、わたしが観念と呼ぶ複合感覚におけると同じように判断はある。感覚においては判断は純粋に受動的で、それは人が感じているものを感じていることを確認する。
 
知覚あるいは観念においては、判断は能動的である。それは近づけ、比較し、感官によって決定されない関連を決定する。これが両者のちがいのすべてだが、このちがいは大きい。自然はけっしてわたしたちをだますことはない。わたしたちをだますのはいつもわたしたちなのだ。
 
──略──
 
 よく判断することを学ぶいちばんいいやりかたは、わたしたちの経験をできるだけ単純化すること、さらに、誤りにおちいることなしに経験せずにすませられるようにすることだ。そこでながいあいだ、感官が感じさせることをたがいに別の感官によって検証したあとで、さらにそれぞれの感官が感じさせることを、ほかの感官の助けをかりずに、その感官によって検証することか学ばなければならない。
 
そうすれば、それぞれの感覚はわたしたちにとって一つの観念となり、この観念はいつも真実と一致したものとなるだろう。こういう種類のことをわたしは人生のこの第三の時期を通じて接待させようとしてきたのだ。
 
 こういうやりかたはわずかな教師しかもつことのできない忍耐心と慎重な心がまえを必要とするのであって、それなしにはけっして弟子は判断することを学べないだろう。たとえば、弟子が棒の折れて見えるのにだまされると、その誤りを教えるためにあなたがたはすぐに棒を水からひきあげる。あなたがたはたぶんかれの誤りを正してやることになるだろう。
 
しかし、あなたがたはかれになにを教えることになるのか。それはまもなくかれが自分で学んでしまうことにすぎない。まったく、教えなければならないのはそんなことではないのだ。ある真実を教えることよりも、いつも真実をみいだすにはどうしなければならないかを教えることが問題なのだ。もっとよく教えるためにはそんなにはやく誤りを正してやってはいけない。エミールとわたしを例にとろう。
 
 まず、まえに想定した二つの問題の二番目の問題に、ふつうに教育された子どもならかならず肯定をもって答えるだろう。その手は言うだろう、この棒はたしかに折れている、と。エミールが同じように答えることはひじょうに疑わしいと思う。学者になる必要も、そう見せかける必要も感じていないかれは、けっしてすぐに判断しょうとはしない。
 
かれはことが明白にならなけれは判断をくださない。そしてこのばあいには、ことは明白とはとてもかれには考えられない。たんに遠近ということだけが問題であるばあいにも、見かけにもとづいたわたしたちの判断がいかに錯覚におちいりやすいかをかれはよく知っているのだ。
 
 それに、まったく子どもじみたわたしの質問にもいつもはじめは気づかれないなにかの目的があることを経験によって知っているから、それにうかつに答えるような習慣をかれは身につけていない。はんたいに、かれは警戒し、注意をはらい、答えるまえに念を入れてしらべてみる。その答えに自分で満足しなければかれはけっしてわたしに答えない。しかもかれはなかなか満足しない。
 
さらに、わたしたちは、かれもわたしも、事物について真実を知っていることを自慢するようなことはしないで、ただ誤りにおちいらないことを誇りとしている。ぜんぜん理由がみあたらないことよりも、正しくない理由で満足することのほうがわたしたちにはよっぽど恥ずかしく感じられるだろう。
 
「わたしにはわからない。」これがわたしたち二人にぴったりすることばであって、わたしたちはしばしはこのことばをくりかえしているから、そう言うのはかれにもわたしにもすこしもつらく感じられなくなっている。しかし、思わずかれがうかつな答えをしたとしても、あるいはわたしたちにとって便利な「わたしにはわからない」でそれをまぬがれたとしても、それにたいするわたしのことばは同じだ。「ではしらべてみょう。」
 
 水のなかに半分つかっているその棒は鉛直な位置に固定されている。そう見えるように、それが折れているかどうかを知るためには、それを水中からひきあげるまえに、あるいはそれにさわってみるまえに、どれほど多くのことをしてみる必要があることだろう。
 
 一、まずわたしたちはその棒のまわりをひとまわりして、わたしたちがまわるにつれて折れかたがちがってくることを知る。だから、それを変えるのはわたしたちの目だけだということになるのだが、視線が物体を動かすということはない。
 
 二、わたしたちは棒の水のそとにある端からまっすぐに見つめてみる。すると、棒はもう折れ曲がっていないで、わたしたちの目にちかい端は正確に別の一端を隠して見えなくする。わたしたちの目が棒をまっすぐにしたのだろうか。
 
 三、わたしたちは水面をかきまわす。わたしたちには棒がいくつにも折れて見え、ジグザグに動き、水の波動につれて揺れるのが見える。わたしたちがこの水にあたえている運動だけで、そんなふうに棒を折ったり、柔らかくしたり、溶かしたりできるのだろうか。
 
 四、水を流すと、水がへってくるにつれて、すこしずつ棒がまっすぐになってくるのが見られる。事実を明らかにし、屈折現象をみいだすにはこれでもう十分すぎるのではなかろうか。だから視覚がわたしたちをだますというのは正しくない、わたしたちが視覚のせいにしている誤りを正すには視覚のほかには必要としないのだから。
 
 子どもが頭がわるくてこういう実験結果をみとめることができないとしよう。そのばあいには触覚をもちいて視覚を助けなけれはならない。棒を水からひきあげないで、そのままの状態におき、子どもに一端から他の一端まで手でさわらせるがいい。かれには角度が感じられないだろう。棒はだから折れてはいないのだ。
 
 そこには判断だけではなく、ちゃんとした推論がある、とあなたがたは言うだろう。そのとおりだ。しかし、精神が観念にまで到達すれは、判断はすべて推論になるということをあなたがたは知らないのだろうか。あらゆる感覚の意識は一つの命題であり、判断である。だから、ある感覚をほかの感覚にくらべてみることになれば、推論を行なっていることになる。判断の術と推論の術とは正確に同じものだ。
 
 エミールはけっして光学を知らないだろう。知るなら、わたしはこの棒をめぐってかれにそれを学ばせることにしたい。かれは昆虫を解剖するようなことはしなかったろう。太陽の黒点を数えることもしなかったろう。顕微鏡とか望遠鏡とかいうものはどういうものかも知らないだろう。あなたがたの博識な生徒はかれの無知をあざわらうだろう。それもむりないことだろう。そういう道具をつかうまえに、わたしはかれにそれをつくらせるつもりでいるのだが、あなたがたも十分お察しのとおり、そういうことはそうはやくはできないだろうから。
 
 これがこの編におけるわたしの方法のすべてをつらぬく精神だ。子どもが小さな玉を一つ交叉した二本の指のあいだにころばせて、玉が二つあると思ったら、玉が一つしかないことを子どもがなっとくしたうえでなければ、わたしはそれを見ることを許さないだろう。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p366-373)
 
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 感覚は感覚器官に対する物質(事物あるいは現象)の作用によって生まれるものであり、これらの事物または現象の個々の性質を反映する意識の働きである。
 
周知のように感覚には視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のいわゆる五感があり、眼・耳・鼻・舌・皮膚という感覚器官をとおして形・大きさ・色・音の高低・音色・芳香・悪臭・甘さ・からさ・熱さ・冷たさ・固さ・やわらかさ等々が反映される。
 
さらにまた身体そのものの状態や運動を反映する感覚、すなわち平衡感覚や運動感覚がある。感覚の特徴は要素的な性質の反映であることにある。
 
 これに対して、これらの感覚を基礎にしながら、もろもろの感覚を相互に孤立したものとしてではなく統合されたものとして、一つの事物または現象の諸性質として、すなわち一つの像として反映するのが知覚である。知覚の特徴は対象をまとまった一つの像として、つまり一つの全体的なものとして反映することであって、この点で個々の性質だけの、つまり要素的なものの反映である感覚と区別される。
 
すなわち、たとえばある物体の形・大きさ・色などのある組み合わせが眼という感覚器官をとおして反映され、それらの感覚がまとまった一つの像をつくるときに、われわれはそれらの物体を「本」とか「机」とかとして知覚するのであり、またある物体の形・大きさ・色などの組み合わせが眼をとおして反映されると同時に、その物体のにおいが鼻という感覚器官をとおして反映され、それらの感覚がまとまった一つの像をつくるときに、われわれはその物体を「バラの花」とか「イワシの干物」とかとして知覚するのである。
 
 感覚と知覚とはこのように区別される。しかしまた両者を区別せず、両者を一括して「感覚」とよぶ場合もある。本書の第一章と第二章ではこのようなことば使いをしてきた。
 
たとえば第一信号系と第二信号系との区別を述べるにあたって感覚が第一信号系であるといった場合の「感覚」はここで区別した意味での感覚と知覚の両者を含むものであったし、また意識の第二の基本的特徴を述べるにあたって「心理過程の所産である感覚的な像がことばのなかに客観化され、持続性をもつようになる」と述べた場合の「感覚的な像」はここで区別した意味では「知覚像」というべきであった。
 
このようなことば使いも必ずしもまちがいとはいえないのであるが、これからのちの叙述では議論をより正確にするために「感覚」と「知覚」ということばをさきに区別した意味で使いわけることにする。
 
 さて、われわれ人間の感覚能力は、正常な状態のもとでは、対象の諸性質を同時に反映するために共同して働くように習慣づけられているので、感覚してではなく知覚として働いている。たとえばわれわれは山や家をみる場合に、その形や色をはらばらに感覚しているのではなく、さまざまの感覚的要素の統合されたものとして、一つの山・一つの家を知覚ているのであり、さらにまた山や家や樹木からなりたっている一つの風景を知覚しているのである。
 
個々の感覚的要素を反映してからそれらを統合して一つの知覚像を構成するのではなく、われわれはむしろ知覚内容を分析することによってはじめて個々の感覚的要素に到達するのである。それだから感覚よりも知覚を直接的に与えられているものとみなすことができる。感覚と知覚を対立的なものとみなすことはもとより正しくない。発生的にみれば感覚のほうが先であるが、現実に機能している場合には知覚として機能しているのである。
 
 人間の感覚能力が共同して働くように習慣づけられていることを示すものとして、つぎのような事実があることが明らかにされている。メーデーの会場のような広い場所にいくつものスピーカーがあちこちに備えつけられていて、多数の人が集まっているところへあとから入っていった人は、人ごみで演壇をみることができないあいだは演説している人の声がいちばん近くにあるスピーカーから聞こえてくるように感じる。
 
この場合にはもっばら耳が感覚器官として働いているのである。ところが前にいる人たちがしゃがむかなにかして壇上で話をしている人の姿がその人の眼にみえるようになると、多くの場合に、その人は近くのスピーカーからではなく壇上で話をしている人のほうから声が聞こえてくるように感じるようになる。
 
この場合には眼と耳とが感覚器官として共同して働いているのであり、しかも人間の声というものは、話をしている人に結びつけてとらえられるように習慣づけられているので、視覚像(限でみた人の姿)と聴覚像(耳で聞いた人の声)とが統一されて一つの全体的な知覚像をつくるのである。
 
刺激としては、眼に対する刺激は演壇の方向から、耳に対する刺激はスピーカーの方向からくるのであるが、知覚はまとまった一つの像をつくる働きであるから、刺激のくる方向の不統一に修正を加えて、統一された全体的な知覚像をつくることができるのである。このように知覚の段階ですでに人間の意識は個々の感覚内容にある程度の修正を加えて対象を反映することができる。これは興味のある事実である。
(寺沢恒信著「意識論」大月書店 p79-82)
 
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「わからないけどやる」は度胸である
 
 「わからないけどやる」は、度胸のいることである。なぜかと言えば、失敗の可能性が非常に高いからである。その挫折を思いわずらえばこそ、「わからない」は、「から」という順接によって、「やらない」へと続く。これが普通である。やらなければ恥をかかない。そもそもが「恥の文化」である日本社会は、そこに二十世紀病を定着させた結果、「わからない」と「恥」とをいとも強固に接続してしまった。
 
 「わからない=恥」──誰もがこの日本人的な美意識に従ってしまうとどうなるか? 「ぐずぐずしているだけでなにも始まらない」という、いたって日本人的な膠着状態が出現する。しかも、日本人はずるいから、そのぐずぐずしているだけの自分達のていたらくを肯定するために、生け贅さえをも選び出す。みんなが「わからないからやらない」という「恥」の美意識の中でぐずぐずしていると、ここに時として、「じゃ、俺がやる」というおっちょこちょいが飛び出したりもする。これが生け贅である。
 
 「わからないからやらない」派は、自分達の保守的な美意識が正しいことを示さんがために、「やめておけ」などという消極的な制止の声を出すが、「わからないけどやる」のおっちょこちょいは、その声を聞かない。聞かぬまま、果たして失敗をしてしまうのである。その結果に対して、保守派の断定するところが、「ほーら、言ったじゃないか」とか「そーれ見ろ」であるのはもちろんである。
 
 かくして、「わからない=恥」を前提とする、「わからないからやらない」という日本人的な美意識は確固としてしまうのだが、この予定調和的な「なんにもしない状況」は、どのようにすれば打破できるのか? 結局のところ、「バカと言われることを顧みない度胸」だけが、二十世紀病に冒された日本社会の膠着を突破するのである。
 
 なぜいろんなことをやるのか
 
「わからない」を「方法」にするために必要なものは、覚悟である。つまり、「わからない≠方法≠ノする方法」とは、「わからない≠方法≠ノする方法」なのである。
 
 私はいろんなことをやる。だから、「なぜそんなにいろんなことがやれるのか?」ということも、人から聞かれる。しかし、「いろんなことがやれる」というのは結果論なのであって、私がはじめっからいろんなことがやれたわけではない。「いろんなことをやれる方法」を持っているわけでもない。
 
そんなんだったら、「わからない≠ニいう方法」などというわけのわからないことを言い出さない。第一私は、「なぜそんなにいろんなことがやれるのか?」と問われると、「なぜそんなにいろんなことをやらなければならないのか?」と、その理由を問われているような気になってしまう人間なのである。
 
 なぜ私はいろんなことをするのか? なぜいろんなことをやらなければならないのか? その理由は、そうしないとどうにもならないからである。つまり、私は壁にぶつかってばかりいるということである。壁にぶつかっているから、年柄年中、その壁を「ぶち壊さなければならない」と思って、いろんなことをやらざるをえないのである。
(橋本治著「「わからいない」という方法」集英社新書 p26-28)
 
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 わたしたちは、実践を基礎としつつどのようにして認識を発展させていくでしょうか。
 認識はまず、実践のなかでわれわれの感覚器官が自然や社会からさまざまな印象を受けとろことからはじまります。これが認識の第一歩です。どのような抽象的な理論や科学も、もとをただせば、こうした感覚的な認識を基礎にし、そこから出発したものにほかなりません。
 
 この段階での認識の特徴は、現実の姿を生きいきととらえているということです。この目で見、手で触れたものはなににもまして生きいきとした印象をわれわれにあたえてくれます。感覚的なものがわれわれをひきつける魅力はこの「生きいきした」具体性にあります。
 
 しかし半面、感覚的認識は、事物や現象の個々の側面、表面的な姿、断片的なバラバラな知識、それらのあいだのごく外面的な結びつきなどをとらえるにすぎないという制限、限界をもっています。ですからこれは認識の低い段階であり、認識はこのような感覚的認識にとどまっているわけにはいきません。
 
 いろいろの現象に共通する一般的性質、事物や現象の奥にひそむ本質的なもの、それらの間の内的つながり(連関)といったものは感覚ではとらえられません。そこでどうしても抽象的な思考が必要になります。それは、概念をつくり概念を用いて判断したり推理したりする意識の働きです。
(足立正恒著「唯物論と弁証法」新日本新書 p81-82)
 
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 科学の成立と発展の原因(原動力)を人間が本性的にもっている知的好奇心だとする考え方があります。しかしこれまで考えてきた筋道からいって、この考えは正しいとはいえないと思います。人間が生きていくうえで必要不可欠であった生産労働が科学や技術を発展せしめた原動力だといわねばならぬと思われます。
 
 一面で確かに人間は知的好奇心をもっており、子どもでも「なぜ」「どうして」とか、「これは何」とかいいます。知的好奇心がなければ学習もすすまず、科学や技術も成り立たないのは当然です。しかし大事なことは、この人間の知的好奇心をつくり上げた根本の原因は何かということではないでしょうか。そのような根本原因は、人間の生産活動(労働)以外には考えられないということです。
 
 逆に知的好奇心が根本原因で人間の生産活動や科学・技術が生み出されたとはとても考えられません。つまり一部の猿が原因は不明だがあるとき知的好奇心をもつようになり、目的意識が生まれ、科学技術の第一歩をふみ出し、生産労働をするようになったというのでは、話が逆立ちしています。
 
やはり一部の猿が食糧に困り、止むにやまれず、樹から降りて直立二足歩行をし、各種の労働をするようになったが、そのことが知的能力と科学技術を生み出す根本原因であるという説明の方が合理的で理解し易いし、またさまざまな歴史的事実とも合致します。
 
 人間は自然も社会もふくめた世界のなかで具体的に生きており、単なる主観的な意思や意欲あるいは感情や気分のままに生きていくことはできません。人間のもっている知識や科学技術のようなものも、単に人間の内的な能力の発揮なのではなく、人間が自分を取りまく世界のしくみやその本性を正確に反映し把握したときに彼の内的能力は十分に発揮されるのだという、この面を見落さないようにすることが重要でしょう。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p34-35)
 
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──みんなが「わからないからやらない」という「恥」の美意識の中でぐずぐずしている……。
 
──食糧に困り、止むにやまれず、樹から降りて直立二足歩行をし、各種の労働をするようになった……。
 
──表面的な関連に満足する精神は浅薄な精神だ。さまざまな関連をあるがままに見る精神は……。
 
◎日本と世界の岐路に生きる私たちが、人として生きることと世界を知ることをひとつのものにする努力を怠るわけにはいきません。