学習通信031221
◎教育の争奪……「基礎学力の習得」という目標を奪い、結果として緊張感や集中力を失わせている
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教育現場に健全な競争原理の導入を
こうした人材を育成するためには何をすべきか。その答えの一つは、教育界に健全な競争原理を導入することであると私たちは考えます。
かつて知育偏重といわれてきた文部省(現・文部科学省)は、現在、「ゆとり教育」の名のもと、創造性豊かな人材の育成や生涯教育の推進にウエイトを移しています。その基盤となっている「子どもを受験戦争や詰め込み教育の重圧から解放させる」という考え方は、特に公立学校の子どもたちから「基礎学力の習得」という目標を奪い、結果として緊張感や集中力を失わせているのが現状です。
過度な「ゆとり教育」を進めることが、児童たちの基礎学力の低下をもたらしています。もはや塾や予備校の存在を前提にしなければ、教育が成立しないまでに状況は悪化しているのです。基礎学力を身につけることは、いかなる人にとっても生きていく上で必要不可欠なものです。それは、ある程度の競争なくしては身につかないでしょう。私たちが、学校教育に競争原理を導入すべきであると考えるのには、そのような理由もあります。(奥田 碩著「人間を幸福にする経済」PHP p60)
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義務教育修了後の教育は、現在の高校をも含めて一層の自由化と多様化と、そして相互競争にゆだねるべきであろう。最終的には、大学院、大学が、それぞれの理念と学風にしたがって個性化し、それが求める学生像を明確に表明することである。
高校教育は、それを半ば目指す形で、同時に実社会の多様化する目的に合わせて一層の複線化に努めるべきであろう。社会にそれだけの準備ができれば何を選択するかは、子どもとその親の自由な、しかし緊張ある選択に任せられることになる。
この多様化は一方で若者と、それを育てる社会全般に活力を与える。他方では生涯にわたって文化に親しみ、冒険心に富み、自己責任の観念に目覚めた気品ある人間をつくり出すであろう。
また、義務教育の時間的な削減は、子どもの集団への帰属感覚を変えるに違いない。どこで学ぶかを選択することは、決して自堕落な放任を認めることではない。
従来と違って生徒は自己の属する学習集団をより積極的に選択することになり、学校、民間の教育機関、市民運動の団体など、多様な集団に属することによって、自発的な参加、帰属の感覚を養うことができる。一方でまた若者は自分と異なる環境、年齢の他人と知り合うことにより、より豊かな精神的充実を得ることが期待される。
もう一つ付け加えるならば、今後の日本は国際化と文化的な多様化を求められるはずであるから、それを先取りし、促進するために、精選された義務教育の内容は、なるべく民族的、文化的に中立性の強いものが望ましい。もちろんそれは、公正で普遍的な人間性に基づく国家を愛することとは矛盾しない。
法と制度を厳正に維持し、社会の秩序と安全を保証し、世界化する市場に適切な補正を加える国家の重要性は自明であり、生徒に対してそれを敬愛することを教えるのは義務教育の範囲の中にある。しかし、たぶんこの教育は狭義の教室の中での説諭のみに期待できるものではなく、今後、我々の国家日本が、その振る舞いによって次代の若者に教育すべき事柄であろう。
本来、教育とは社会の全体が主体となり、社会の全体を対象として行うべき、終わりのない自己改善の過程である。学習は万人の生涯の仕事であり、その場所は社会のあらゆる機関に用意されているのが、あるべき姿である。この提案の本旨は、単に制度的な学校教育の量を制限しようということでなく、そのことを刺激剤として、社会全体の教育機能を活性化しょうということにある。
子どもの教育機関が多様化されることをきっかけとして、子どもと親、若者と年長者がより多くその選択をめぐって語りあうことが期待される。競争する教育機関はそれぞれ学ぶことの魅力、教育内容の意義についてより強く社会に訴えることが期待される。
芸術家、科学者、宗教人は本来の教育者としての一面をより鋭く意識し、積極的に社会に語りかける努力を増すべきである。特に望まれるのはジャーナリズムの参加であって、それ自体が独自の教育主体として、また教育の批評機関としてより有効な力を発揮するべきである。なかでも放送は自己の影響力の強さ、社会から与えられた特権的地位を忘れず、教育のために一層の寄与をしなければならない。
この際、注意を喚起したいのは、一般に規制の緩和、制度の自由化とは、さまざまな専門家にとって自己責任の増大を意味しているという事実である。個人としての教育者、教育機関、さらにはジャーナリズムは知的専門職業としての自覚を強め、自律的な相互批判のための機関を設けるべきであろう。
制度の自由化が市場メカニズムの導入だとすれば、次に求められるのは、市場への非市場的な評価機能の導入である。放送における視聴率、教育機関における入学者数、出版物における販売部数などだけが支配する社会には、およそ教育も文化も成立しない。
社会の知的能力と品格を維持するために、専門家の権威と信用の確立、それを援助する国家の努力はますます必須となる。そしてそれこそが逆に自由市場社会の死活を決め、「富国有徳」社会の成否を分けると考えられるのである。
(河合隼雄監修「日本のフロンティアは日本の中にある」講談社 p173-175)
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ところで、競争原理や能力主義が近代市場社会の原理であるとするならば、近代教育にたいする正確な評価は、近代市場社会にたいする基本的な評価と密接に関連しているということになるであろう。
この問題については従来、進歩的教育学者によって、以下のようなスタンスで論じられてきたように思う。血統や身分、財産によって社会的地位が決まっていた前近代社会に比べるならば、機会均等の原則を前提として、能力によって人材の配分が決まる社会の方が、はるかに進歩的と言える。しかし現代においては、競争をとおしての能力の格差づけは、新たな社会的差別の原理となっており、何らかの形で是正されねばならない。
このような問題のとらえ方は、現実には教育の機会均等の原則を評価しながら、同時に、行き過ぎた能力主義を正し、またそれと関連して、富の配分の民主的ルールを要求するという考え方につながるであろう。私自身はこのような立場に賛成である。
しかし、競争原理や能力主義、さらにはその前提となる近代個人主義にたいして、次のようなよりラディカルな、倫理主義的な批判も存在する。すなわち、競争原理は利己的個人主義を助長し、社会形成にとってもっとも大事な人間同士の連帯を分断した。
その意味では、それらは社会の存立自体をも脅かしかねない原理であり、われわれはこれにたいして集団性、協同の論理、同胞愛原理を対置しなければならない。教育において最も重視されねばならないのは、かかる原理なのである。
このような見解は、教育理論のみならず、社会主義的傾向を有するほとんどの思想、キリスト教をはじめ多くの宗教的イデオロギーが共有するものといってよい。
競争に偏った現在の教育を批判する論者の意識を規定しているのは、多くの場合このような発想である。教育の現状を変革する場合には、当然のことながら指導的理念が必要とされるのであり、そのようなものとしてならば、集団性、協同、同胞愛の原理は、もっともな理念ということもできるかもしれない。
しかし一般的な理念を掲げるだけでは、現実が変わらないことも事実であろう。有効な変革を企図する場合には、抽象的理念だけでなく、教育の世界を支配している複雑な論理を理解する、具体的知性が要求されるのである。
というのは、教育の現実も時代の進行とともに、ただひたすら反動化してゆくというものではないからである。そこでは、それ自体は非人間的な資本の要求に規定されて生じた要因が、現実の弁証法のなかで、人々の発達を促進する進歩的な要因に転化するということがしばしば起こるのである(多くは民衆の闘いに媒介されて)。
ところが一般的理念に固執する場合には、おうおうにして、そのような教育を規定する複雑な論理を見逃すことになりやすいのである。
(碓井敏正著「自由・平等・社会主義」文理閣 p152-154)
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◎「多くは民衆の闘いに媒介されて……現実の弁証法のなかで、人々の発達を促進する進歩的な要因に転化するということがしばしば起こる」と。
教育をめぐるあらたな争奪がはじまっているのです。